真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)
悩んだり落ち込んだりして涙をこぼしていても、顔を覆った手の隙間から見える世界は美しい。悲劇も喜劇も、「悲しみ」という膜を通して残酷さを見据えるか、日常の輝きを見いだすか、その立脚点をどちらに置くかで映画の雰囲気が異なるだけだといえる。
だからガールズ・コメディー・ムービーも、主人公は悩む。必ず壁にぶち当たる。コメディーはとても純粋に「起承転結」――物語をつむぐ人々が何千年も続けて磨きをかけてきた、心を喜ばすお話の構成にのっとって展開する。喜劇でも女の子たちは必ず恋愛の苦しみ、家族や友人との軋轢、この世の生きづらさを体験するが、そのなかで決意をして、明るい未来に向かって地面を蹴って舞い上がり、自力で喜びを手に入れる姿が描かれる。
人を笑わせて、明るい気分にさせるのは難しい。ゆえに、成功したコメディーは貴重だ。この世の暗い部分にひたりたくなる心情を捨てて、映画を作る人々は基調を明るさに据え、笑いをちりばめた陽気さのなかにヒロインたちを置いて愛情をもって描く。笑わせればいいんだろうと、上滑りしたコメディーは絶対見抜かれて、観客は愛着を抱かない。やはり「報われること」の苦労と意義がきっちり描かれた喜劇こそが、見る者の作品への敬意を呼ぶ。
『ローラーガールズ・ダイアリー』(2009年、ドリュー・バリモア監督)は、そんな喜劇の醍醐味をすべてクリアした、ステキな作品だ。
17歳のブリス(エレン・ペイジ)は、母親の若い頃に叶わなかった願望を押し付けられ、美人コンテストに出場しているが、彼女自身は空々しいミスコンにはウンザリしている。そして、偶然知った女性だけのローラーゲームに引かれて、しつけが厳しい母の目を盗み、試合を見に行き「これこそが自分のやりたいことだ!」と気付く。ブリスは年齢を偽ってローラーチームに入団し、すぐさま天性の能力を発揮して、低迷していたチーム「ハール・スカウツ」は次第に勝利を上げ始める。そして、同じ頃に始まるバンドマンのオリバーとの初恋。決勝ではとうとう最強チーム「ホーリー・ローラーズ」と対決することになり、生き甲斐と恋愛が充実した最高の時期を迎えるが、母親にローラーゲームに参加していたことや、チームにも参加不可の本当の年齢が知られてしまう……。
ブリスが、洋品店でチラシを置きにきたローラーガールたちに出くわしたときの、目に映る光景がスローモーションになるのが印象的だ。それはまったく一目惚れそのもので、直感的にブリスの求めていたものすべてが、そこにあるのを彼女は悟る。ローラーガールたちは刺青が入っているし、化粧もハデで決して上品ではないけれど、何より自由で、戦闘的で、そしてブリスが自分でも気付いていなかった、彼女の秘めた“ワイルドなスピード”が開花するのを予感するのだ。
オリンピックで、珍しい競技で天才的能力を発揮している人を見かけると、「どうしてこの人はこの種目に、自分の才能があるとわかったんだろう」と不思議に思うけれど、ブリスがローラーガールに出会った瞬間の表情を見れば、人は天性の職業に引き合わされるものなのだと問答無用に理解できる。最初はまともにローラースケートで走れもしなかったブリスが、あっという間に試合場の円錐状な傾斜を、猛スピードで駆け抜けるようになる。ブリスを演じるエレン・ペイジのかわいくて、心の戸惑いが素直にあふれ、けれど芯の強さをもった顔と、彼女の試合上のニックネームが「ベイブ・ルースレス(非情)」というのもいとおしい。監督のドリュー・バリモアは出演もしているが、三枚目の役どころに徹しており、ベイブ・ルースレスのライバルとなるアダ花「アイアン・メイビン」に、女優でキワモノ的なロック歌手として、異色の経歴を突き進むジュリエット・ルイスに出演を依頼するのも、さすがの目の付けどころだと思う。
そして、ブリスが母親との軋轢を跳ね返していく勇気も、現実では実はグダグダになりやすい部分だけに、この力強さは映画がもつ夢の力ならではのものだ。学校に通う17歳の少女は経済的にも自立が難しく、ミスコンにこだわる母親から見れば、チームメートが刺青だらけで、格闘技のためけがも多く、試合中の衣装もふしだらに見えるローラーゲームに娘が参加するなんて、卒倒しそうなほど不安に決まっている。現実を振り返れば、もし我が身なら母の反対を振り切って欲求を押し通せるだろうか。でも映画は、強い説得力をもってブリスのキャラを作り上げる。荒んだ世界でもあるローラーゲームで、ニックネームに「ベイブ」と入っているように、ブリスはただスピードと闘いを求める無垢で純粋な戦士だ。彼女には刺青や過剰なメイクは必要ない。でも、ブリスが一線を引いているモラルも、両親にはすぐには理解できない。
こういったもどかしさは、思春期にたどることが多いものだろう。本当のところ、自分の人生なのだから、刺青を入れてアイアン・メイビンのような激しい生き方を選ぶのだって、親は他人なのだし自由だ。この映画は他の女性選手たちの苛烈な生き方も否定しない。網タイツのセクシーな衣装も、気性の激しい女たちが一斉に食べ物を投げ合ってケンカになるのも、「女の肉弾戦は魅力的だ」と認めている愉快なシーンだ。でもこの映画の爽やかさは、17歳のブリスがただローラーゲームを天性の職業として愛していて、たとえキャットファイトをしたり網タイツをはいても、泥から咲く蓮の花のように穢れを知らず、ひたすら闘いに邁進する姿勢の清澄さにある。
起承転結の「転」も、試合の親バレのほかに、恋人と連絡が取れなくなったり、エリート大学への進学を望む親友が、ブリスの試合を見に来た際に補導されて友情にヒビが入るなど、ガタガタと身辺が揺れ始める。でも恋人との関係も、ブリスは泣きはらしても最後はきっちり整理するし、友人も自分の考えをもつ人間として、進路を選択する顛末が描かれ、物語は意志をもって進む。決してコメディー路線だから自然と明るく解決するのではなく、それぞれのキャラの決意が展開をもたらすのだ。
本作はそうやって、些細なところでも「選択」が描かれる。監督のドリュー・バリモア自身がおいしいところをもっていくのだが、荒っぽいローラーゲームにおいて「反則の暴力を振るわれた際に、どう対応するか」という点などで、自分が信じる正しさを貫く姿勢が描かれる。それゆえに短絡的な物語に堕することなく、この映画が明確なメッセージをもって存在する意義となっている。
『お買いもの中毒な私!』(2009年、P・J・ホーガン監督)は、タイトルどおり買い物依存症で、カード破産寸前の女性の映画だ。買い物への依存理由として、ヒロインのレベッカは「このグリーンのスカーフをつければ印象がよくなって面接に受かる」「パーティーをうまくこなすにはドレスが必要、そしてそれに合ったバッグが要る」と、買い物をするために次々と理由付けを口にする。コミカルにされているが、これは実はリアルだ。依存体質でない人にはバカバカしく見えるかもしれないが、実際に買い物依存症は、新たに買うための動機付けが重要なのだ。恋人ができれば「彼を引き付けるためのかわいいワンピースが必要!」と本気で思うけれど、その奥には彼への愛よりもっと深く、買い物への断ちがたい欲求があり、恋愛すら買い物をする理由に利用されている。
レベッカ(アイラ・フィッシャー)は洋服を買うのが何より好きで、憧れのファッション誌「アレット」へ転職しようと思うがタイミングが悪く叶わない。しかしカード返済も迫って背に腹は変えられず、「フィンランド語ができます」などのでっち上げの履歴を述べて、アレットと同じ系列内のビジネス誌ライターとなる。彼女のもくろみとしては、いずれアレットに移るつもりだったが、金融の知識もないまま場当たり的に書いた原稿が、ビジネス誌の若き編集長ルーク(ヒュー・ダンシー)の深読みによって目に留まり、レベッカは匿名ライター“グリーン・スカーフの女の子”として名を馳せることになる。
本作も起承転結がはっきりしていて、ビジネス誌で思いがけず寵児となったレベッカは、実は親が名士で御曹司の身でありながら、それを隠して自力でビジネス誌を切り盛りしているルークと恋に落ちる。貴種流離譚的な王子様との恋愛は、まさに女の子向け恋愛映画の王道だろう。だが仕事も恋も順調になったとたん、当たり前ではあるが、いままででたらめを言って逃げてきたカード会社の回収担当者につかまり、みんなの前でローン滞納者という正体が暴露される。そして彼女をずっと守って家にも住まわせてくれた親友の、ブライズメイド用のドレスまで失うことになり、友情も損なってしまう。
この映画が優しいのは、独りで立ち直ることだけでなく、周りの救いの手も必要で、それを受け入れ差し伸べられた手にすがって、自分の足で立つ準備をすればいいことを描いている点だ。レベッカが借金を返すために、不要な洋服を売ってお金が作れるよう、周りもバックアップする。レベッカ自身も、ファッション業界の金銭感覚がマヒした裏側を知って、ただの憧れから目覚め、自分に嘘をつかないで生きるための自覚が生まれる。依存症はこうやって喜劇として楽しくも見られるけれど、実際には多寡はあれども同様の問題を抱えている人も多いだろう。笑いながら、そしてコメディー特有の恵まれたラストに安堵しながら、自分のトラブルも解決しようと思えれば、この世に生まれた映画にとっても本望なことだと思う。
そして、最後に『アメリ』(2001年、ジャン=ピエール・ジュネ監督)について書きたい。本作は文化系女子の内面を、現実の世知辛さから解放された、映画らしい演出とカメラワークでファンタジックに描いた傑作だと、いまになってより強く思う。
孤独な幼少時代を過ごしたため、空想癖をもつアメリ(オドレイ・トトゥ)。映画は彼女が脳裡に描いた夢想が、どんなとっぴなものでも、そのまま映像で表現される。ある日、他人にちょっとした幸福を与えることに喜びを見いだした彼女が、風変わりな行動に出るのも、地面から数センチ足が浮いたような楽しい滑り方で、映像はアメリの飛躍した活躍を描く。
映画内のリアリティーはもはや、この際関係ない。アメリが空想する事柄は、まさに誰もがぽわぽわと考えごとをしているときの、言葉にしたらくだらないようなことを、映画は手抜かりのない贅沢な映像に作り上げて、奔流のように表しては消える。それこそ夢想がとりとめなく流れて、あっという間に次の事柄に気をとられてしまうように。
アメリは他人の恋のキューピッドになりながら、彼女自身も片思いをし始める。それが、駅のインスタント写真機で破棄された誰かの証明写真を収集するのが趣味なニノ(マチュー・カソヴィッツ)だ。彼はポルノショップと遊園地のお化け屋敷で働く、浮世離れした、まさにアメリと相似形な文化系男子である。彼の大事な証明写真コレクションを偶然拾ったアメリは、正体を隠したまま、ニノを翻弄する奇抜な手段でそれを彼の手元に返す。もちろん、その返却への仕掛けの数々が、男性の夢想家にとってもチャーミングでいたずら心に満ちた魅惑的なものだから、ニノも顔を知らないアメリに恋心を抱く。
ネット発のジャーゴンかもしれないが、「好き避け」という言葉がある。屈折した人が好きな人の前だとテンパッてしまって、目が合いそうになると慌ててそらしたり、話しかけられても緊張のあまりつっけんどんになったりと、愛情と裏腹な態度でしか振る舞えない状態をさしている。アメリは自分が働くカフェへニノを呼び出すことに成功するが、いざとなるとこの「好き避け」になって、せっかく彼が「アレは、君だよね?」と話しかけてくれても、ロクに返事もせず、きびすを返して逃げてしまう。そして、勇気を出せなかったことにすぐさま猛烈に後悔する。
『アメリ』は映画として不定形の不可思議な映画のようだが、恋愛の過程はまさに起承転結があって、特に「好き避け」はもどかしいため、とてもドラマティックになる。アメリは人との深い交わりを避けて、空想を友達として育ってきた娘だから、本当に恋した生身の相手と間近で言葉を交わすのが怖い。空想は思いどおりになるけれど、現実の人間はどんなひょんなことで理想を裏切るかわからない。けれど、アメリにも恋の引力がはたらいて、映画は麗しく落ち着くところに落ち着く。ほんとに些細な表現ながら、この恋のラストは現実でも確かに起こりうる、輝かしい奇跡だと思う。
『アメリ』で好きなのは、盲人が車の往来に戸惑って道を渡れないでいるのをアメリが手を引きながら、彼のために視界に入るものを怒涛のごとく言葉で表現するシーンだ。盲人が音や匂いでしか識別できないものを、アメリが野菜の値段を読み上げ、「少年が犬を見て、その犬は店頭の吊るされた魚を見てる」といったように早口で一瞬一瞬を語り、カメラはクルクルと方向転換して、アメリと一緒に路上にあるものすべてを伝えようとする。
映画は映像と音、空間、アメリたちの振る舞いで様々なものを観客に瞬時に伝達する。でも、わたしはこうやって、映画で見たことを言葉でしか伝えることができない。アメリが盲人へ切迫した口調で語り聞かせたように。この場面のアメリの尽力こそ、書く人々の行為そのものだ。映画という包括的な存在を息せき切るように文字で再現して、さらにカットが編集によってつながったとき、そこから立ち現れる意味に肉迫しようとする。それが、映画をめぐり、言葉を綴るわたし自身の役目だ。
[お知らせ]
本連載をまとめた書籍を8月頃に刊行予定です。
どうぞ楽しみにお待ちください。(青弓社編集部)
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