真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)
セックスは快楽に満ちていて楽しい。恋人や伴侶や、極端な話、たまたま意気投合したその日出会った人でも、相性が良ければ喜びに満ちた行為になる。でも、平均的な性的嗜好の場合には、情のあるセックスが安心だろうし、安全さは素直な快楽につながっていくものだ。一方的に満足を求めれば当然ギスギスしたり、相手の尊厳を踏みにじるような態度をとれば、肉体の行為であっても、不安を与えたり精神を傷つけたりする。
セックスは当然、感情や心の動きも伴う。肉体だけが動いているのでなくて、その状況に至るまでは心が誘導するのだし、手の動きにもその人の精神のあり方や気持ちがこもる。ただ、遊び慣れてる人と、うぶで情念的な人では、触れることについても解釈で誤解が生まれたりもするけれど……。〈精神のあり方〉と〈気持ち〉を分けざるをえないのは、慣れていると技巧として「優しくおこなうのが快楽につながる」のを知っていて、気持ちとは別にそういった振る舞いをする人もいるからで、本気の情が宿っているかは関係がない場合がある。もちろん好ましいゆえ肉体関係を結ぶとはいえ、深い愛情はなくてもセックスはできる。二人でする行為でも、お互いが同じ比重の感情を求めているかは、常に微妙だ。
セックスがしたくて関わり合いになることもあれば、愛しているからその証しとしてセックスをしてほしいと思う人もいる。そこでは肉体関係に望んでいるものが違う。相手が自分にセックスしか求めていないのではと悩む場合もあるし、逆に以前ほどセックスしたがらないのは愛情が薄らいだからではと不安になったりするのは、同じように精神的な愛にまつわる不安でありながら、逆方向でセックスの意味がはたらいている。
藤田敏八監督の『ダイアモンドは傷つかない』(1982年)は、女子大生が父親ほども年が離れた男性と不倫をする物語だが、見ていて本当に生々しく、痛い。弓子(田中美佐子)は予備校時代の教師三村(山崎努)に憧れており、まだキスの経験もない状態から、いきなり彼の愛人になる。三村には正妻のほかに、10年以上の付き合いになる愛人の和子(加賀まり子)がいて、それを承知で弓子は3号になるが、やはり彼を独占できないことから、激しい嫉妬と孤独の苦しみに堕ちていく。
弓子が何度も和子がオーナーをしている帽子屋を訪ね、もう1人の愛人の様子をうかがい、開き直った態度で接するシーンの情念も怖いし、正妻のもとへ愛人という身分を隠してあいさつをしにいく場面も、若い女性の抑制のきかなさが絶妙に描かれていて、正直見返すのは気が重かった。三村に初めて居酒屋に誘われたときに、彼が弁舌を振るう無頼派的な男女関係の講義と、大人の恋愛に期待を込めて彼を見つめる、この時期の田中美佐子の不安定な重さは、できれば実生活では素通りしたいキャラの2人だ。
弓子は2人の逢瀬の場所として一軒家をもたせてもらい、三村は寝るのは自宅ではあるものの、早朝に弓子の家に来て朝食を一緒にとる。そして連れ立って家を出て、弓子は大学で講義を受けたあと、愛人という立場を隠して(周囲は気づいているものの)、三村が勤める予備校で彼の助手としてバイトをしている。そして夜は電車がなくなるまで、三村は弓子との愛の巣で過ごす。
なんともマメで、弓子は愛人としてはこれ以上ないくらい時間を割いてもらっている。だが愛は貪欲なもので、彼女は和子と切れない三村にイヤミを言い、職場でも微妙に漂わせる愛人臭に同僚たちが辟易して、予備校のバイトも鞍替えさせられることになる。一緒に働けなくなった時間のロスは寂しさとなって募り、そんなさなかに、三村と和子が楽しげに食事をとっている現場に出くわしてしまい、激情に駆られた弓子は「わたしと別れてください!」と修羅場を演じる。その夜、再度三村と落ち合った弓子は、深夜どうしようもないように激しく泣きだし、三村は彼女を激しく抱く。
ここでは結局、行き着く愛の表現方法はセックスしかない。時間やお金をかけたり、言葉でどれだけなだめても20歳の情緒不安定な娘に効果はなく、別れるか諦観を身につけるまでの三角関係は、感情の爆発とセックスの繰り返しになってしまう。実はこの映画は、セックスシーンは何度もあるけれど、彼女が性的なつながりにどれだけ拘泥しているかの描出は、慎重に避けられている。ただ、同年代の青年にはまったく興味が引かれず、弓子よりも年上の娘がいるような三村に執着してしまうのは、彼女が男性の色気をその年代を対象としてしか感じないからだろう。セックスは精神的な安堵も生むので、もし2人の間からセックスを取り上げたら、弓子は愛と意地で愛人関係は続けるかもしれないが、発狂度はさらに増すと思う。
しかし同時に、彼が女性を2人囲っているかぎり、セックスも愛と同様に分かち合うことを納得しなければならない。弓子は心身ともに囚われながら、10年以上愛人を続ける女性も、いまだ正妻に対して生霊のように嫉妬で荒れ狂うのを見る。どれだけ辛抱して待っても、報われる未来などない。映画は三村との関係を絶とうと煩悶し、家を出る準備をしながらも、まだ曖昧さを残したまま、どしゃ降りの暗がりを歩き続ける弓子の姿で終わる。弓子が、ライバルである和子に泣きながら「彼が別れてくれない」と訴える、他力ではないと離れられない執着は、愛に依存してしまう情念の深い女性にはつらく響く言葉だ。
逆に、夫とは不感症のためセックスレスでありながら、被虐的な妄想を思い浮かべることに快楽を感じ、夫に秘密で昼間だけ娼館で働き始める若い人妻の物語が『昼顔』(ルイス・ブニュエル監督、1967年)だ。
セブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は夫のピエール(ジャン・ソレル)を愛しながらも、性的な快感をまったく覚えないため彼の要求に応えられずにいる。しかしピエールの遊び人な友人アンリ(ミシェル・ピッコリ)から娼館の話を聞かされると、彼女はその場所に異様なほど引かれてしまう。そして言い知れない欲望に突き動かされて、夫が仕事に出ている間だけ「昼顔」という名の娼婦として働くことにする。そして予感していたとおり、初対面の男と関係をもったとき、初めて強烈な快楽に満たされる。
だが常に、医者である夫の立場や愛情への後ろめたさが彼女を脅かしており、それがよけいに素性を明かさないミステリアスな雰囲気と、もともと育ちがいい気品とあいまって、娼館の客を魅了していく。そして人殺しもいとわないヤクザ者のマルセル(ピエール・クレマンティ)から熱烈に愛されるようになり、彼の粗暴な嫉妬心が、夫のピエールに重度の後遺症が残るほどの傷害事件に発展していく。
セブリーヌの妄想はもともとマゾヒズムに満ちていて、娼婦という職業や、見ず知らずの男とのセックスで快感を得るのをアバズレと蔑まれることさえ、彼女の欲情する幻想として描かれる。映画内現実では、娼婦であることは絶対夫に知られてはいけない秘密だが、彼女はたびたび、ピエールやアンリから「売女」と罵られ、泥を全身に投げつけられ汚される妄想に浸る。
彼女の例は極端だけれど、愛とセックスが共存できない場合は少なくない。恋人や伴侶の人柄を愛していても、彼/彼女が自分を性的に満足させてくれないことは、珍しくはないと思う。大体は仕方ないと諦めて現状を受け入れるものだろうし、そうやって受容するのも愛だろう。
でも、何がその人の個性を構成する成分であるか、比率というのはそれぞれ異なるものであって、性的に満足していなくても貞淑でいるのがいちばんラクな女性もいるし、セブリーヌのように愛よりも妄想の現実化に引かれ、それがどうしようもなく必要な人もいる。誰もが同じ性的倫理で生きられるわけではないのだ。でも、愛する人に理解があるならばいいけれど、愛やセックスに求めるものがお互い異なると、どちらかが苦痛を忍ぶはめになる。もし身近で『昼顔』のような出来事があれば、セブリーヌが不感症のままピエールとのセックスを受け入れるよう努力したほうが、道徳的にはコトが荒立たなくていいと思うかもしれない。でも、その場合は一生、彼女は強烈な欲望を満たせないまま、妄想だけを友人として生きることになってしまう。
性的な理想が一致しない場合、どちらかが心か欲望を犠牲にして、愛する人に寄り添うことになる。一方が放縦であれば恋人は嫉妬に心が病むし、欲望を殺せば満たされない飢餓感にさいなまれることになる。
今年(2014年)の2月15日から公開になるフランソワ・オゾン監督の『17歳』は、性的な好奇心と欲望の強い、より歯止めがきかないティーンエイジャーな「昼顔」が登場する。
イザベル(マリーヌ・ヴァクト)は夏の海辺でのバカンス中、17歳になった。彼女はそこで出会った年の近い男の子と初体験を済ませるが、すぐさま彼への興味を失う。そしてパリに戻ってからは抑制がはじけとんだように、ネットを利用した高級娼婦の仕事にのめりこんでいく。彼女はセブリーヌと違い、娼婦としての魅力を低く見られたり、職業を蔑まれると怒りや不快感を抱く。しかしとある事件が起こって親バレした後、母親の監視下に置かれる状況となり、同じ高校に通うボーイフレンドを作って平穏な学生生活を送り始める。だが、イザベルは若くて単調なセックスに退屈し、再びSNSで男性たちと出会いたい欲望が湧き起こる。高校のクラスで、生徒たちが次々に朗読する「17歳にもなれば、真面目一筋ではいられない」の言葉で始まるアルチュール・ランボーの詩。フランスの高校生たちが、授業で本当にそんな頽廃にふれているのであれば、それは年齢と成熟の度合いも釣り合わないだろうと思える、魅力的なシーンだ。
でも、イザベルのようにセックスの倫理観が、大小はあれ通常の範囲からはみ出した人々は少なからずいる。もちろん男女問わずだ。本人たちも最初に踏み切るのは勇気がいるだろうし、少女ならよけい危険にさらされる不安が伴う。そして、そういう人々に恋した者たちは、その本質に出くわしたら衝撃を受けるし、節度のなさに激しく傷つけられる。『ダイアモンドは傷つかない』の三村も、正妻を含む3人の女性との関係を保ち続けようとして、女性はみんな、精神が崩壊していく。『昼顔』も映画では幻想のなかではかない幸福をみるが、原作ではセブリーヌは貞淑な妻となり、重い障害を背負ったうえ彼女の裏の顔を知ったことから一生彼女を許さない夫に、生涯仕えて償い続ける姿で終わる。
セブリーヌのような悲劇は稀でも、セックスの倫理観の違いで傷つくのは、恋愛をするかぎり起こりうる。浮気をされた場合、とがめてやめさせても、裏切られた記憶にずっとさいなまれたりするし、『ダイアモンドは傷つかない』の弓子のように、愛に囚われて相手の身勝手さを受け入れ、自分の心にどんどんと生傷を刻んでいくことになったりする。
同じものを望むなど、他人であるかぎりできないのだから、基本的には妥協し合うしかない。でも、どちらかが押し付けて、こういった齟齬が現実化してしまった関係は、愛や自由をめぐって戦い続けるか、諦めて受け入れるか(そして自分にも逃げ道を設けるか)、関係が破綻するか……、なんらかの展開を図らないと精神が落ち着くことはないだろう。
ただ、自分を苦しめ続けるような人に、愛して執着するほど価値があるか?と考えるのは意味があると思う。自分を幸福にするどころか、逆に傷つける彼/彼女は本当に愛情をそそぐに値するだろうか。それでも、どうしようもなく好きならばしようがないけれど、自分を大事にしなければ、その自分の心がすり減ってしまう。胸をさいなむ嫉妬や煩悶は生きるうえで常に伴わなければいけないものでは決してないし、それならばいっそ、あなたやわたしを苦しめるような相手からは、解放されてしまえばいいのに。
セブリーヌは夫のピエールを愛していた。だから許されないにしても、彼を傷つけてしまったあと、残りの一生を彼の介護へ捧げることを選んだ。彼女は自己のなかで愛と欲望は相反するもので、両立しえないと苦しんでいたけれど、悲劇と引き換えにして、ようやく強い決心でその宿命を選択する。苦しむのは、苦しみの先にしか選択肢は生まれてこないから仕方ない。でも迷って追い詰められ、考え抜いた果てに選択した道を進み始めるとき、心はふっと軽くなる。みずからが選び取ったという自覚は自信を与え、心を救ってくれるのだ。
次回は「文化系女子、独身も結婚も……」です。
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