第7回 それで、そのとき文化系男子は何しているの?

真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)

「~系女子」という表現のブームに便乗して、この連載も女子の諸事情について映画を通じて書いているけれど、正直なところ、文化系女子と文化系男子であまり大差はないんじゃないかと思っている。肉食系の女性なら裕福な男性を狙い撃ちして結婚でアガリとか、マッチョは男らしい社内でのあり方を貫いて管理職競争で生き残るなど、性を有効利用し、性の役割を疑わないことで生き方の道が変わったりするから、性別は重要ではあるものの、何か違ったところに焦点を当てている、文化系男子/女子は、趣味に没頭したり、考えすぎなタチが招く恋愛の苦しみや、孤独や、現在が生きづらいことの感覚はあまり大差はないと思う。「文化系男子でも風俗に行く人は行く」くらいしか、女性にはない施設だから、決定的な違いはないような気がする。

 そして、女子同士の腹の探り合いが本当に繊細で、相手の癇にさわらないようにしゃべる工夫が必要なように、男性同士も、一見仲良くしていても実は内心互いにイラッときてたりというのは、けっこうあるよなあ……と遠目に眺めて感じている。特に知識勝負のナード(オタク系)社会では、そのひけらかし方や仕事の仕方が気に入らなくて、陰でケンケン悪口を言っているのが小耳に入ってきたりとか……。

 文化系男子のなかでもあり方は異なって、フェミニンで文化系女子のなかに自然と溶け込んでいる男性もいれば、ガッチリと男子でスクラムを組むようなホモソーシャルな友人関係を築く人もいる。それは最初、非モテのナードがモテない理由や、女性への恐怖の要塞として、自然か意識的にか、女性排他のために作り出したものだろう。でも、男女とも精神的に成熟して、お互いを受容できる状態になっても、まだ要塞のなかに立てこもったままの人もいるし、普通に暮らしていても、その要塞がずっとアイデンティティという人もいる。

 彼女がほしい、人並みに結婚がしたいという欲求があって、おそるおそる社会に踏み出して恋愛に成功しても、いまだホモソーシャルな要塞は勝手に機能していて、「女としゃべるのは退屈だから」と帰巣する場所になっているし、文化における「男子の文化を女子が嗜好するはずがない」という思い込みや壁を作り出している。

『桐島、部活やめるってよ』(2012年、吉田大八監督)の映画部には、女子部員がいない。

 この映画はスクールカーストを明瞭に描いていて、体育会系の軒並み長身なジョックスと、縦巻きロールのパーマがツヤツヤし、学校でもリップグロスを欠かさないような美少女集団クイーンビーたちが、自信満々な様子で闊歩している。だがジョックスの代表である桐島というバレー部のエースが突如、誰にも理由を知らせず退部届を出し、学校も欠席したことから、スクールカーストの上位の彼らに動揺が走る。

 本作で文化系男子なのは、映画部の前田涼也(神木隆之介)と武文(前野朋哉)だ。どちらかというと、神木君の早口でつんのめるようなしゃべり方の演技は、キモオタ風でもあるのだが、まだ未分化な詰襟学生服状態だから、彼らがサブカルに目覚めたらそれなりの映画系オシャレ男子にもなるかもしれない。

 この映画で、体育会系の子たちは桐島の消息を話し合う以外は「今日どこで待ち合わせる?」「おい、早く早く」「先に行ってるね」といった、からっぽな会話しかしない。見ていて、会話のその先に何があるのか不安なほどだったし、まったくジャンルが異なる人の生態観察(特にジョックス)という気分で見ていたけれど、神木君と前野君が出てくると、急にわたしが普段している会話になって、ものすごく居心地が良くなる。「昨日、『スクリーム3』最後まで見ちゃったよ。でもやっぱ『2』のほうが好きだな」という前野君のセリフは、いまだに自分も飲み屋で、アラフォーの友人と「やっぱ『エクソシスト』は『3』だよね」「は? 『2』は傑作だろ」といった会話をしているので、全然違和感がない。映画部の、シナリオに口を出す顧問の先生から「宇宙ゾンビにリアリティがあるか?」と問われた前野君より、観客席にいたわたしのほうが先に「はい」と心のなかで答えていた。

 そして、クイーンビーな女子たちがいるところで、迂闊にも「おっまた~」とマヌケな表現をしたのを聞かれてしまい、嘲笑されるシーンも、わざわざこの文章を読むような人は、みんな前野君の立場に同化して見たことだろうと思う。そのあと彼は「くっそー、俺が監督になっても、あいつらは使ってやらない」などと憎まれ口を叩くのだが、こうやって高校時代から住む世界の断絶は如実に隔たっていく。

 でも将来的にはやはりジョックスに魅力を理解されなかったナードな女子が、サブカル文化系女子として脱皮し、ナードな男子の理解者となって現れるのだろうから、「いまは童貞でも気にすんな!」と思う。

 結論的に、彼らの卑屈な気分は、ナードの通過儀礼でもあるし、負であっても、それはなにかの折に大きく豊かな情感となって戻ってきて蓄えられる。負の感情を知っていれば、愛情や、理解や、共鳴を異性に感じたときの喜悦はさらに大きいのだ。そしてもっと年を重ねて恋愛の楽しみを知り、過去の感情もためつ眇めつするうち消化できて、気がつけば洗練された表現者としてネット界隈でもてはやされたりすることもある。

 わたしが『桐島、部活やめるってよ』を愛しているのは、そんな骨の髄から文化系の男子/女子に、菊池(東出昌大)という野球部を中途退部したジョックの、自身が生半可であることに打ちのめされ苦しむ姿を見せてくれたことだ。東出君は神木君にカメラを向けながら、「将来の夢は映画監督ですか?」と気軽に尋ねるが、「たとえ映画監督になれなくても、過去の映画と通じ合えるから映画を撮り続ける」と神木君は答える。そんな小柄な彼をファインダー越しに見ながら思わず手が震える、野球を中途で投げ出してしまった男子の動揺。屋上で、8ミリカメラ越しに互いの言葉を聞く神木君と、東出君の場面はあまりに美しい。文化系男子/女子は、映画監督という大それた夢までいかなくても、いくらでも表現の欲望を満たすことができる。わたしたちにこれ以上落ちる底辺はない。でも、ジョックの子にはそんな悲しみがあることを、この映画は教えてくれた。

 また、バトミントン部の美少女かすみ(橋本愛)に神木君は恋していて、映画館で『鉄男』(1989年、塚本晋也監督)を偶然同じ回で見ている場面がある。彼女が若干映画好きだった共通項にときめく少年。「『鉄男』を独りで見に来る女子なんて、いるわけない」と思ってしまいそうだが、でも、意外にそんな女性も存在する。性的志向を隠すことをクローゼットと呼ぶが、サブカル趣味をクローゼットにしている人々もいて、実は土日に会う友人とだけ趣味を共有しているなんて場合もある。わたしの周りの文化系女子たちは男性の内面や、それが滲み出る雰囲気を重視していて(あさましかったり、自己主張が強かったり、薄気味悪かったりはダメだけど)、ファッションにも気配りがあれば、容姿の美醜を問う習慣はあまりなかったりする。だから、まだモテ期がこないことを気にしている、大人になった〈元〉前野君たちは、まずは怨念を捨てるリラックスと、薄気味悪さからの表面的な脱皮が必要だと思う。表面を変えると、内面もかなり影響は受けるものだ。

 そして、2009年に手痛い失恋経験のある文化系男子の心をえぐったのが、『(500)日のサマー』(マーク・ウェブ)だろう。

 建築家への夢を断念して、グリーティングカードの会社で働くトム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、アシスタントとして入社したサマー(ズーイー・デシャネル)に一目惚れし、運命の出会いだと思う。そしてエレベーターで乗り合わせた際、彼のヘッドフォンから漏れる音楽を聴いて、「ザ・スミスね、わたしも大好き」と言われ、かわいいうえに趣味も合う!と一気にのぼせてしまう。そしてトムの友人から「こいつは君にベタ惚れだ」と聞いたサマーが、「友達になりましょう」と言いつつ、大胆なアプローチをしてきたことから、トムのなかで2人は恋人になるものだという意識が高まる。しかしサマーはセックスをしても「恋人はいらない。真剣なお付き合いをする気はない」と言い、トムも本心を偽って「フレンドリーな関係でいよう」とクールを気取るが、次第に2人はぶつかり合うようになっていく。

 文化系男子にとって、自分と同じ音楽や映画が趣味の、とびっきりかわいくてセンスのいいオシャレをしている女の子がいたら、それは思わず目で追ってしまう存在になるのも当然だ。でもサマーは両親の離婚を契機に、「永遠の愛などない」と理解し、「自慢の黒髪もザックリ切る」ような諦めの度胸を身につけ、欲望に対し率直に動く人間となっている。トムは普通に、両思いになったらそれは恋人であり、愛し合って幸せになれるものだと思っていたのに、サマーはセックスしても「友達として好き」と言うだけで、自分たちを〈恋人〉と定義されるのを避ける。

 サマーが思いどおりに動かないように感じるが、彼女は嘘を一切ついていないし、ずっと真実だけを語っている。最初にちゃんと「恋人はいらない」と断言していて、フレンドリーなままキスしたければキスをして、セックスの欲求も満たす。でもそれを〈恋人〉という、彼女にとっては強い絆や感情の伴う窮屈なレッテルに押し込められ、自分を定義されるのがイヤなのだ。逆にここではトムのほうが偽りの態度を取っていて、彼は2人の関係をレッテルで確認したいと思いながら、彼女との交際を長引かせるため確認を先延ばしにし、不満を隠して付き合う。短絡的な言動を行うマッチョだったら、簡単に彼女を問いただして関係は破綻してしまうだろう。でも、自尊心も強い文化系男子は、文化系女子と同様に自分を理解者に見せたがるし、ひねって考えすぎてドツボにはまってしまう。

 ゆえに、2人はぶつかり合うようになっていく。個人的にはサマーの言うとおり、〈恋人〉にくくらなくても、〈セックスもする仲の良い友人〉として、つかず離れず一緒にいて楽しければいいじゃないかと思うけれど、トムは彼女から〈恋人〉の称号を与えられて、愛されている証明がほしい。そもそも愛を信じていない女性から、そんなものが引き出せるはずはないのに。

 そして、サマーもずいぶん妥協してトムに付き合っていると思うのだ。バーでマッチョなサラリーマンが、トムを無視してサマーに酒を無理に奢ろうとする場面がある。トムはサラリーマンに華奢なことを揶揄されてケンカになったあと、「君のために殴った」と言う。でも、おそらくサマーならその程度の男の対処は自分でできるので、頼んでないのに殴りあいをする、トムの完全な自己満足と騎士道精神のアピールにウンザリしてケンカ別れとなる。だがその後、雨降る深夜にサマーのほうからトムの家を訪れ、「さっきは自分が言いすぎた」と詫びて和解する。

 でも、ここでサマーがこのように動くのは「愛」に基づいてではない。愛ならば激情に駆られて行動を取るけれど、彼女の行為は彼の思いを酌んだ「配慮」だと思う。愛してくれる人、自分にとっては大事な友達を傷つけてしまった償い。たまにはせっかく自分を思ってくれる、彼の恋心にも応えてあげるべきだという「配慮」。

 サマーとトムが求めるものは、動機が異なる。2人の関係が破綻して別れたあと、友達の結婚式へ向かう列車で偶然再会し、結婚披露パーティーでサマーはトムをダンスに誘う。そのことで、俄然ヨリが戻るのではと期待してしまうトムだが、次にサマーに招待されたパーティーで、彼女の左手の薬指に指輪があることに気がついてしまう。

 トムが確定した失恋にとことん落ち込んだあと、やっと這い上がるように、本来の夢である建築家として転職活動に励み始めてから、たまたま寄った思い出の場所で再会したサマーは人妻となっているわけだが、このシーンは映画的に興味深い。サマーの背後に広がる空は、曇天なのだ。彼女が晴れ晴れとした幸福な結婚生活を送っており、過去の関係をすでに思い出に変えていまを楽しく生きているなら、映画は彼女の心情を反映するように、必ず青空のなかで屈託のない笑みを浮かべるサマーを捉えるだろう。だが、このシーンのサマーの笑みはどこか心もとなく、とにかくその背中に広がる空の灰色な、不安定な暗さが気にかかる。

 これはもしかしたら、サマーの結婚生活がうまくいかないことを暗示しているのかもしれない。いままで信じていなかった「運命の人」と思い込んで、短期間の交際でいきなり結婚に踏み切った彼女に、再びの転調が訪れてもなんの不思議もない。かといってトムが運命の人だったという後悔でもなく、彼女は前に進むしかない人間だ。愛は長続きしないものなのだから、彼女が惰性を受け入れないかぎり、それは別れに向かっていくしかない。だけど、人間が惰性を受け入れないかぎり、そんな日々斬新な感覚ばかり追求するのも、必ず無理がつのるはずだ。

 サマーは真実だけを語っていると上述したけれど、しかしそれは決して人として「完全な態度」ではない。真実は善ではないし、正しいともかぎらない。「なぜ、再会した結婚パーティーで僕をダンスに誘ったの?」と尋ねるトムに、サマーは「踊りたかったから」と答える。この、オウム返しの返答というのは、相手の言論を無為にする実は狡猾な手段だ。トムの本音では「新しい恋人がいて、婚約も間近だったのにそれを言わずに、なぜまた僕に期待を抱かせるようなことをしたのか?」が聞きたかったのだし、サマーの回答も「恋人はいたけど、トムともその場のノリで楽しくしたかった」という、短絡的な欲望に基づいた感情しかないだろう。彼女がトムはまだ未練いっぱいで、彼女への執着があることに気付いていないなら鈍感だし、わかっていてやってるのなら、非常に残酷なことだ。たとえ自由で欲望に率直な人であっても、どこかで自分の行為にストップをかけなければいけない。ギリギリのところで思いやりと配慮を失ってはいけないのだ。

 トムがサマーに、そしてサマーがトムにできなかったことは、どう償えばいいのだろうか。もう、別れた当人に改めて何かをしてあげることはできない。だとしたら、そこで負った心傷で成長し、次の恋人にそれを補った配慮ある愛し方をするしかない。傷つけてしまった当人には何もできず、次の恋人を幸せにするのは妙なようだけれど、愛の流れというのは誰もがそうやって、次へ次へと渡していくしかない。そして次の恋愛では、前と同じ過ちを犯さないようにすればいい。

 トムは「サマーのような女の子には二度と出会えない」と絶望するが、最後に明るい次の恋の訪れが暗示される。ジョン・カサヴェテスの映画『ラヴ・ストリームス』(1983年)で、離婚によって家族の愛を失ったジーナ・ローランズは、不安で神経を病みながらも、医師へ「愛は流れです。絶えず流れ、止まることはない」と語り、別れた夫にも「愛は絶えない流れでしょ」と訴える。彼女は途絶えてしまった愛にしがみつこうとするのだけれど……。でも愛の流れは一縷のものではない。波は同じ現象が絶え間なく続いても、そこには常に新しいものが現れる。誰もが誰かを傷つけ、誰かに傷つけられ、そしてその傷を癒して、いずれ不意に現れた次の人を、いままでよりいくらかうまく愛そうとする流転。ひとつの恋が終わって打ちひしがれても、愛の流れはずっと続いていて、いずれ心をうち震わせる。新しい愛の訪れという、繰り返しながらも、いつだって新鮮な喜びで。

 

 次回のテーマは、「ガールズムービー」か「文化系女子とセックス」で迷ってます!

 

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