真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)
文化系女子が選ぶ職業とはなんだろう。出版、音楽、装飾、無添加を謳った飲食関係……まさにそういう仕事に就いている女性も多いだろうが、不況な現在では、派遣やバイトでいろんな職種に携わっている人がいるだろう。わたし自身、派遣社員で働いていたとき、編集業務でも映画とはまったく無関係な経済雑誌や、小学生用の教科書や道路地図を作ったりしていた。また、会社勤めではなく、自営業や親の仕事を継いでいる人も少なくないだろう。趣味と仕事を切り離して考えていて、まったく別種の職業をあえて選択している人もいるだろうし、好きな仕事を選んでも理想の部署に配属されるとはかぎらないから、意に添わない仕事に専念している方も多そうだ。
『プラダを着た悪魔』(2006年、デヴィッド・フランケル監督)は、ジャーナリストを目指すアンドレア(アン・ハサウェイ)が、一流ファッション誌「RUNWAY」で、アシスタントとして働くことになる物語だ。しかし編集長のミランダ(メリル・ストリープ)こそ、まさにプラダを着た悪魔で、鬼のように身勝手な人物。だが社会的なコラムを書くことが目標のアンドレアにとって、ミランダのわがままによって長続きしないといわれる「RUNWAY」で1年辛抱すれば、どこの編集部でも通用する経歴になるため、ファッションになんの関心もないまま飛び込んでいく。
この映画でハッとする瞬間は、ドレスに合う小物を選んでいたとき、バックルの形以外何も違わないように見える2つのベルトで悩んでいるスタイリストに対し、思わずアンドレアが噴き出してしまう場面だ。一瞬シンと静まり返ったあと、ミランダは、死ぬほどダサい青のセーターを着たアンドレアを振り返る。そして突然、「そのセーターはブルーじゃない」と言う。「その色はセルリアン。2002年にコレクションで発表されて話題となった。それが流行となって、大衆が真似をするようになり、安価で大量生産されるようになったのを、あなたはセールで買ったのよ」
アンドレアが着ていた服のルーツの頂点には、それをセレクトしたミランダがいて、彼女はどのブランドが何年に、どこのコレクションで、どんな色や形のコンセプトを発表したかが全部頭に叩き込まれている。ここで、ミランダがファッション界で想像を超えたプロフェッショナルであることが、アンドレアにもわかるのだ。生半可に、たかが戯れのオシャレとなめてかかっていたアンドレアにとって、それは深遠で歴史ある世界であり、大金がかかったゴージャスさのなかに繊細なセンスを絞り込んでいく厳しさに目が覚める。ミランダはただわがままな悪魔ではなく、代わりになる人間がいない、自分しかいないずば抜けた頭脳で忙殺されるゆえに、即戦力として動く部下を必要としていることが、観客にもわかるのだ。
でも本作ほど、働く文化系女子を否定した、裏切りの映画もまたないと思う。アンドレアは職場で認められるために、ジミーチュウのパンプスや、シャネルのジャケットやカルバン・クラインのワンピースを身にまとう。自分の身を挺して、自分が飛び込んだ世界のルールに体でなじんでいこうとする。そしてステキなファッションを身にまとうことは、やっぱり女性にとってワクワクする喜びだ。しかし彼女の昔なじみの友人たちや同棲中のボーイフレンドは、彼女が「昔と変わってしまった。あなたが昔着ていた服のほうが好きだった」と猛烈に批判する。親友の展覧会に赴いたアンドレアは、憧れのジャーナリストのクリスチャン・トンプソン(サイモン・ベイカー)から粉をかけられる。一方的に軽く頬にキスされただけだが、それを見かけた親友は、「ファッション業界にうつつを抜かして、セクシーな男と火遊びをする女になりはてた」と罵倒する。
この友人は、あまりに自分の尺度でものを言いすぎではないだろうか? そしてこの映画の演出も、アンドレアに事情の釈明もさせずに、友人の発言が常識であるかのように宣言させる。まるで、アンドレアの軸が本当にブレてしまっているかのように。
でもアンドレアはいま、人生始まって以来の大勝負に出ていて、ファッション業界でもっとも恐れられているミランダという女性に、その才能を認められるという、誰にでもあるわけではないすさまじいときを生き抜いているのだ。毎日が生まれ変わるほどに視界が開ける新たな経験をし、またそういう人生の波乱に富んだ時期というのは、なんだか不思議とモテたりして、忙しいのに近づいてくる男性の対応もしなければいけなかったりする。そして、アンドレアのボーイフレンドといえば、冴えないコックでステップアップも特にせず、現状を憂いでただ拗ねてばかりいる。自分の彼女が一流雑誌のアシスタントとして成功を目前にした大一番の日に、彼女がかろうじてケーキを用意したにもかかわらず、「俺の誕生日パーティーに遅刻してきた」とふて寝をしてしまう。これが男女逆だったらどうだろう。伴侶が仕事でイキイキと輝いていることに嫉妬し、足を引っ張ろうとする恋人は重荷ではないだろうか。
だが、この映画はミランダが清濁併せ呑んだ世界で生きており、もし彼女を目指すのならば、友人を裏切るようなひどいこともときにしなければいけない「悪い強さ」が必要で、このままではいられないことを見せ、正義感の強いアンドレアに「RUNWAY」の仕事を捨てさせる。そして、本来のジャーナリストの道に進むように収め、この冴えないカレシがボストンの新しいお店に勤務が決まってメデタシで終わる。
ミランダは確かにモンスターだ。他の誰にも追随ができないモンスターだが、みんなが畏怖しながらも、ファッション界のまばゆさに憧れ名声に追従していくのに対し、アンドレアはミランダの理解者になっていく。この映画のよさは、明晰で純粋なアンドレアが、モンスターのなかに尊敬に値する発想力や意外な女性性を見いだして、目から鼻に抜けるような知性でミランダをアシストして見事に立ち回り、立身出世していく楽しさにある。アンドレアの友人や恋人が気付いていない彼女の類稀な優秀さを、唯一理解してくれるのもミランダなのだ。
最初はいけすかなかったファッション業界の人々のなかにも、親身になってくれる人が現れ、最初はバカバカしい派手さだけだった世界が、優美なあでやかさで広がる。だが、この映画はそこで純粋な女性が生き抜くことは選ばない。ミランダとは違ったやり方で、アンドレアがファッション雑誌の世界で生き抜く方法を考えるのではなく、ファッション業界と袂を分かち、女は一歩引いて自分を立ててほしいコックのカレシと元鞘に収まってよかったというオチになってしまう。それは確かに順当かもしれないが、女性が「自分なりの仕事のやり方で成功する夢」はいまだ許されないのかと幻滅してしまう。
こうやって恋人のもとに戻らないかぎり、女が成功して終わる映画というのは、たいていは昔の男を踏みつけにして、女がかりそめの虚栄の世界に踏み出すことになる。増村保造監督の下町っ子がタレントになっていく『巨人と玩具』(1958年)や、愛人を殺した容疑で服役していた娘が歌手としてデビューするフランソワ・トリュフォー監督の『私のように美しい娘』(1972年)なども、見いだしてくれた男性を裏切ってどん底に落とす、女の酷薄さが浮き彫りにされる。
最近のアメリカンコメディーを見ていると、主人公の男性より、その恋人や伴侶の女性のほうが、社会的地位が高い場合が多いが、ひさびさに生々しい、「女こどもの仕事」といわれるようなことをして、将来どうなるかわからない女性の姿を描いていたのが、デヴィッド・ウェイン監督の『ふたりのパラダイス』(2012年)だ。このヒロインのジェニファー・アニストンは、「精巣癌のペンギンのドキュメンタリー番組」を作るが、暗いという理由で放送局のHBOに断られる。彼女の仕事はいつもこんな調子で、ほとんどまともな収入はなく、夫の給料に頼って暮らしているのだが、夫の会社が突然の摘発で一斉解雇となったことから、2人は車で路頭に迷うことになり、果てはカルトコミューンで暮らすハメになってしまう。
また、この「映画系女子がゆく!」の連載当初から、どこに押し込むか本当に悩んでいる作品に『ヤング≒アダルト』(2011年)がある。ヒロインのシャーリーズ・セロンは37歳、バツイチ、自称作家のゴーストライターで新作はボツ、自己評価が高いわりに実質が伴わず、確かに昔は美人だったがそれを上回るほど性格に難アリで、昔の恋人にほとんどストーカー状態という女の姿は、あまりにイタイ。彼女の執筆仕事は現在成立していないし、今後どうなっていくのか、まったく見通しが立たないまま終わるのも恐ろしい。こういう保証がない仕事をしているという意味で、筆者も同様なので正視するのがつらい映画だ。いずれ、なんらかの形で本作は真正面から取り上げなければいけないだろうけれど……。
日本映画にも働く女性を描いたものは昔から当然ある。『その場所に女ありて』(1962年)がキャリアウーマンに焦点を当てた究極の映画だったが、バブル期にも浮かれるOL像が描き込まれた映画はたくさんあった。
最近の邦画では、女性観客層をあてこんだ、女が働く問題や恋愛をメインにした生き方を描く「女性映画」というべきジャンルがある。でも、これらの映画はなんとも居心地が悪い。なぜこうも、これらの映画はなまぬるい作品ばかりなんだろうか。働くオンナノコへの応援歌だから、女性が見るには甘ったるいオチがいい? 女性の視座は、そんなになめられているんだろうか。本当に、見ていて心が荒んでくる。
たとえば『ガール』(2012年、深川栄洋監督)や、『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』(2013年、御法川修監督)は凡作だし、『グッモーエビアン!』(2012年、山本透監督)の麻生久美子もしんどかった。彼女はパンクバンドをやっていた高校時代に未婚のまま出産し、いまは派遣で中3の娘と、居候で無職の元バンドマンな友人(大泉洋)を養っている。この娘は勉強ができるのに、母親の負担を減らすため中卒で就労すると進路決定をする。さすがに担当教師(小池栄子)が家まで諭しにくるのだが、麻生は「あーあ、高学歴はそんなに偉いんですか!」とまくしたてる。
この映画を見たとき、本当に日本は終わり始めているなと思った。女性の派遣の給料で、中学生の子どもと成人男性を養うのは現実的に難しい。娘もせっかく成績が優秀なのだから、奨学金で頑張ってもっと上の学校も目指せるし、それならば就職口も多くなり初任給からかなり違ってくるはずだ。でも、個性が強くて学校がキライだった文化系女子には、いま現在自営業だったり、正社員でも管理職まで登りつめる人は少ない気がするので、この映画は他人事ではない気もする。
アメリカンコメディーで『26世紀青年』(2006年、マイク・ジャッジ監督)というひどい邦題を付けられた作品がある。原題は『Idiocracy(イディオクラシー)』というのだが、これは極秘実験によって500年後に目覚めた青年が、アメリカ人がものすごくバカになっていて驚くという映画だったが、『グッモーエビアン!』の大泉洋も、猛烈に頭が悪い。たまたま事故に遭ったため入った保険金で海外旅行に出かけ、金を使い果たした帰国後は麻生の家に転がり込んで、働かないかわりにひたすら面白くない冗談を言って麻生を喜ばせている。娘は笑い転げる2人をあきれて見ているが、いずれ彼女も頭は悪いが愛や熱意だけはある、大泉と同じようなヒモ男につかまって、母と同様の道筋をたどっていく気がする。『グッモーエビアン!』には日本のイディオクラシー化が期せずして現れている、そんな予兆を感じたのだった。
次回は「それで、そのとき文化系男子は何しているの?」です。
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