真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)
いま、アラサー、アラフォーの女性たちに「恋愛したいですか?」と単刀直入に聞いて、間髪を入れず「したいです!」と答える人はどのくらいいるだろう。意外と、一瞬グッと言葉につまってしまうことが多いんじゃないだろうか。たぶん、恋人が欲しい人たちでも大意として「まともな人ならいいけど……」という断りを入れる気がする。まあそのまともには、性格は当然ながら、文化系女子なら趣味が似ているとか、容姿やしぐさが自分の好みという意味も含まれるだろう。そしてそれなりに恋愛経験があると、大なり小なり地雷のような異性に出くわして、手痛い思いをしているから、警戒心も強くなってしまう。
十代なら、向こう見ずに恋愛に進むかもしれない。けれどいまとなっては、相手が変わり者じゃなくても、思い切って飛び込んだのにいきなり裏切られたり、付き合い始めても相手の心理が読めない不安や、終わりを迎えるときの喪失感や、諸々の面倒くささをサーッと幻視してしまって、よほどのことがないと踏み出せない。
「恋人は欲しいけどめんどくさい」。言葉にするとずぼらな感じがするが、ここには心が血を流す痛ましい真理があって、様々な感情を踏まえたうえで、この一言に集約できる気がする。他人が与えてくれる幸福な愛を知ったうえで、また独りきりになり、より激しい孤独感に叩き込まれるよりは、「平穏な孤独」という現状維持がマシ。裏切られて、これ以上尊厳を傷つけられたらもう生きていくのもつらい。アラフォーで切羽詰まってくれば、そんな瀬戸際な感情も湧いてくる。
その、まさに最悪な恋愛の終末から始まるのが『ブルーバレンタイン』(2010年、デレク・シアンフランス監督)だ。このヒロインは文化系女子じゃないけれど、典型的な恋愛の始まりから終わりまでを見据えた映画である。
シンディ(ミシェル・ウィリアムズ)は朝からビールを飲んでいる夫ディーン(ライアン・ゴズリング)にイライラしている。2人には幼い娘のフランキーがいて、ディーンは子煩悩な点では良い父親だが、まともに働く気がない。シンディは看護婦で、条件がいい勤務地への転勤話をもちかけられているが、そのためにはいまの家を離れる必要がある。ディーンも昔は、髪を撫で付けてから部屋に入ってくるような色男のはずだったのに、現在ではうすらハゲになりつつあって、ペンキ塗りで糊口をしのいでいる。疲れきり、破綻寸前の夫婦関係を取り戻そうと、ディーンはラブホテルを予約するが、もはやそんな小細工で再び結び付くには遅すぎる……。
この映画は過去と現在が説明なく交錯するが、ライアン・ゴズリングのハゲ上がり具合で時間軸はわかるようになっている。まだ出会った頃の、前髪を目にかかるくらいにカットしたブロンドのまばゆいミシェル・ウィリアムズが、いまはほうれい線の目立つくたびれた顔をしている。いくらなんでもまだ老けるには早いから、それは日常の疲労と鬱屈の表れだ。顔を合わせればいがみあいになる夫婦。しかし過去の場面では、いまでは苛立ちの理由となるような些細なしぐさが、とてもチャーミングに見える。出会った頃のシンディとディーンが初めて親しくなるバスの背景で、空にかかる虹。でも、そんなステキな吉兆も、永遠の幸福を約束してはくれない。
この映画でもっとも美しく、もっとも幸福なシーンは、夜更けのウエデングドレス店のショーウインドーの明かりの前で、バンジョーを掻き鳴らし歌うライアン・ゴズリングと、両手をくの字にかまえて、おもむろにタップダンスを始めるミシェル・ウィリアムズの姿だ。この、あまりになんでもない出来事。これは、あらゆるカップルに起こる、ほんとうにたわいないがゆえに、奇跡的に唯一無二の幸福な記憶だ。さりげなくて、瑞々しくて、最高にときめく瞬間。みんなが同じ形式をたどる結婚式なんて儀式より、2人しか知らない、2人にしかなかった愛の出来事なのだ。映画は、どこにでもあるような街の夜、乾いたコンクリートの地面を、ハーフブーツで軽快に踏み鳴らす少女の姿に、愛が生まれる凄まじく美しい瞬間が宿っていることを教えてくれる。
この映画は幸福な最後を迎えない。恋愛であれ、結婚生活であれ、あんなに惹かれあって幸福な時間を分かちあったはずなのに、いつか歯車が狂ってすれ違ってしまう。この作品を基本的に貫くのは、現在の、できるはずもない修復にもがく男女の姿だ。傷つけたいはずはないのに相手を傷つけ、我慢を忘れて怒りがあふれ、相手が謝罪したり心を許そうとすると、報復としてあえて心を閉ざして受け入れない意地の張り合い。
恋愛の末期には、幸福なんてない。だから、その不幸な時期を経験してきた大人は、あの神経がすり減る時期を思い出して、臆病になってしまう。
また、恋愛中に苦しいのはお互いの価値観の違いだ。自分の時間を大事にしたいか、時間に余裕ができたら常に恋人と一緒にいたいかという、些細な価値観の違いも、うまく折り合いをつけないと当然破綻に向かっていく。決して価値観の違い=愛の深度ではないものの、恋愛至上主義者から見れば、恋愛以外にも大事なものがある恋人は不安な存在になる。文化系男子に、そういった「自分が愛するほど、彼女は自分を愛してくれない」という強烈に苦い記憶を甦らせたのが『(500)日のサマー』(2009年、マーク・ウェブ監督)だと思うが、女性側のそういった心情を描いた映画も多い。群像劇の『そんな彼なら捨てちゃえば?』(2009年、ケン・クワピス監督)では、恋愛下手な女性が、一度食事をしただけの男性から、再度誘いの電話がないか1分おきくらいに着信を確認してしまう。これはもう、恋愛に対する依存だろう。
恋愛対象に対する依存は、本当に虚しい。たとえ愛していても、その人を1秒たりとも手放したくないというのは土台無理な話だ。
おそらく、究極的に愛する対象を追い求める映画が、『アデルの恋の物語』(1975年、フランソワ・トリュフォー監督)だろう。ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの実話をもとにした映画で、当時弱冠19歳だったイザベル・アジャーニが、恋に狂っていく女性を演じている。
アデルが愛するピンソン英国騎兵中尉は、美男子で恋愛をハンティングのように考えている男だ。そしてたまたま弄ばれたアデルは、いまでいう関係妄想とストーカー気質の女性であり、ピンソンは派兵先まで追いかけてくる彼女のおかげで困った目に遭うことになる。
アデルはひたすら彼への愛と、父親のユゴーに金の無心の手紙を書く。母や兄が亡くなってもフランスに帰ることなく、ピンソンから避けられているのに、彼の身近に住み続けて勝手にピンソン夫人と名乗ってしまう。下宿を出て貧民窟で暮らすことになっても彼への愛を綴った紙を肌身離さずもち、そして最後には、ピンソンとすれ違っても、もはや彼が誰かもわからないほど精神に異常を来たしている。彼女は、脳裏の中だけの彼を愛し続けているのだ。
アデルの愛し方は極端だし、劇的な演出がされているけれど、わたしの友人でこれと同様のことをやらかした子がいるので、決してありえない話ではないのが痛い。
もっと普通の文化系な女性が、普遍的に愛を探す姿を描いた映画では、エリック・ロメールの『緑の光線』(1986年)が有名だ。バカンスを前にして、デルフィーヌ(マリー・リヴィエール)は女友達に旅行をすっぽかされてしまう。ズルズルと友人として頼っている元カレも、山でのアルバイトに行ったっきりで当然一緒に過ごすことはできない。女友達の実家へついていっても、気の合う人がおらず、ナンパしてくる男は冴えないし、独りで海へ行ってもただ退屈で孤独なばかり。
ロメールの映画は、ひたすら会話が続く。デルフィーヌの友人たちは、アヴァンチュールを楽しむことなく、積極的に男性へアタックしないデルフィーヌを、「王子様を待っている変わり者」だと言い、「あなたにカレシがいたなんて意外だったわ」とバカにする。デルフィーヌは孤独で、誰よりも恋人が欲しいと願っている。確かに彼女は頑固で、菜食主義であることにも、回りくどい夢想めいた説明をして周囲を困惑させるし、本当だったら楽しかったはずのバカンスの時期を、気乗りしない友人家族のなかで過ごすことに、まともに我慢もできない。
でも、昔から何度もこの映画を見ていて思うのは、わたしもこの映画に登場するデルフィーヌ以外の女性たちの気持ちが、理解できないということだ。ナンパされる目的で独り旅をする女性や、明日出航する船乗りと一晩だけ楽しめばいいという友人。ステキな男性ならいいけれど、口先だけのつまらない会話しかしない男性と過ごすのは、目先のヒマを無意味につぶしているだけとしか思えないし、それにデルフィーヌをナンパしてくる男は極端に愛想がないのに強引だったり、めちゃくちゃ気持ち悪いメッシュの服を着ていたりする。そんな男性相手に妥協をしたら、自分で自分を貶めることになるとしか思えない。
だから、恋人がいなくて寂しい時期、自分もデルフィーヌ同様に、ボロボロな満身創痍で模索を続けている気分になる。デルフィーヌは友人たちとの会話で、頑固で狭量なことを変わり者扱いされて思わず泣いてしまう。しかし一緒にいて楽しくない、好みじゃない男性と無理やり付き合っても、孤独は癒されるどころか、よけい虚しくなるばかりだ。だから周囲が気軽に押し付けてくる男性を、拒絶してしまうデルフィーヌの気持ちは痛いほどわかる。「何様だよ」と言われたら、頭を垂れるしかないけれど、でも本当にどうしようもない。べつに王子様じゃなくていい、どこか自分と似たような、共鳴できるものをもった男性と出会いたいだけなのだ。
海辺をフラフラと散歩していたデルフィーヌは、老人たちが太陽の沈む瞬間に見える一条の緑の光線について話しているのを耳にする。その光を見ると、幸福になることができるという言い伝え。映画の最後、デルフィーヌが孤独なバカンスを切り上げて、パリへ帰るための駅で本を読んでいると、遠くから彼女に気付いて、少しずつ近づいてきた男性が、彼女の読んでいる本に目を留めて「ドストエフスキーの『白痴』だね」という。
もちろんここで、デルフィーヌが返事をするのは、本に反応してくれたことも大きいけれど、読書の趣味だけで選んでるわけではない。直感的に、見た目の好感度や清潔感、自分に興味はもってくれているけれど、ゆったりと近寄ってくる謙虚さにアンテナが働く。穏やかなしゃべり方。優しい目線。そういったものを瞬時に判断して、デルフィーヌは美しい漁村へ旅に行くという彼に、思い切って「わたしも連れていって」と頼む。海辺に行けば、緑の光線が見られる予感を覚えて。デルフィーヌが彼とうまくいくのかはわからないけれど、この映画は妥協しなかった変わり者の女性がやっと見つけた緑の光線によって、幸福な気持ちをもたらしてくれる。
デルフィーヌは知人の家に泊めてもらっているとき、独りになりたくて散歩に出る。強い風が遠くの森を地鳴りのようにうならせ、周囲の背の高い草は渦巻くように揺れて小さな葉がザザザッと耳元で鳴る。一面の草むらが風で四方八方になびいていて、その美しい風と緑のなかで、デルフィーヌは不意に涙をこぼして嗚咽してしまう。美しいものに胸が打たれるし、さんざめく草木の音と、涼しい風に吹かれて、そんなすてきな場所に独りきりでいるのは切ない。わたしはたぶん、女性たちはみんなそれぞれにひっそりと、人に見られない場所で、こんなふうに涙をこぼすような瞬間を過ごしているんだろうと思っているのだけれど――でも、どうしてロメール翁はそんな女の子たちの秘密の時間を、知ってるんだろう。
次回は「働く文化系女子映画」です。
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