第4回 映画にみる「セックス恐怖症」の女子たち

真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)

 第3回のメンヘル系女子でとりあげた映画『17歳のカルテ』で、境界性人格障害と診断されたウィノナ・ライダーは、症状として「淫乱性」をあげられていた。前回ふれた映画では、それぞれのキャラでやけっぱちな性衝動が目立っていたが、実際のところ、そんな画一的ではなくて、誰しもが当てはまるわけではない。メンヘルでも、リスカする人もいればしない人もいる。同様に、性衝動で同じ傾向が出るものではない。

 世間には「性嫌悪症」が激しい人も多い。もちろんセックスへの恐怖が心の病気という意味ではなく、あまりにこじらせて病に発展してしまう場合があるということで、特に映画表現は過剰になるから、レアケースを描くことになる。性嫌悪症自体も色々原因があり、不潔感を覚えるという根源的な感覚だったり、親の潔癖なしつけや、小さい頃不快な経験があって、それがトラウマとなっている人もいる。2010年の厚生労働省の調査では、「30代未婚女性のうち、4人に1人が処女」だと報告された。なんとなく縁がないまま、臆しているうちにそうなったという女性も多いだろうが、セックスに対する恐怖心で踏み切れずに、その状況に至ったかたも少なくないと思う。

 自分も中学から電車通学をしていたとき、痴漢の多さが憂鬱だった。偶然男性の手が当たったとか、そういう思い上がり物件じゃなく、疑いようのない痴漢はけっこう多い。一番最初に衝撃だったのは、中一のとき、お尻に何かがしつこく当たるのでパッと手で振り払ったら、何か異様な感触がした。それで下を見ると、後ろに立った男性がペニスを出していて、驚いて咄嗟に顔を見たら、男はニターッと笑った。その笑い顔があまりにショックで、思わず次の駅で降りてしばらくベンチに座り込んでいた。その男性は普通のスーツ姿で、たぶん会社ではなんらかの役職についていて、当時のわたしか、それより上の子どももいたりするんだろう。でも、自分はたまたまそういう点ではタフで、厭な事件もすぐネタにして友達とバカ笑いし、不快さを発散できたけれど、こういう経験が打ち明けづらく、恐怖心となる女性も当然いると思う。

 女性の重い「性嫌悪症」を、「男性に触れられると豹に変化してしまう」というメタファーで表現した映画が『キャット・ピープル』(1942年)だ。プロデューサーのヴァル・リュートンと、ジャック・ターナー監督は、40年代においてすでにある種の女性たちが、セックスに対して強烈な忌避や嫌悪を示すことを見抜いていたのだろう。だが、モラルに厳しい時代性もあって、それを露骨にありのまま表現することはできない。なので本作はスリラー映画、もしくはモンスター映画という体裁で作られている。

 セルビア出身のイレーナ(シモーヌ・シモン)とオリバー(ケント・スミス)は、動物園の黒豹の檻の前で出会う。一目惚れしたオリバーのアプローチもあって、二人は恋に落ちる。だが、イレーナはセルビアに伝わる猫族の末裔である話をし、邪悪な血によって興奮すると相手を殺してしまうため、キスもできないと告げる。しかしオリバーはその思い込みは克服できると考えて結婚。そして二人の寝室を分けた新婚生活が始まる……。

 本作は豹に変身するという暗喩でドラマティック化された、明らかに性嫌悪の女性が恋をしたときの複雑な胸中の物語だ。愛する男性に性的な我慢を強いる申し訳なさや、我慢できずに浮気をされるかもしれない不安や、セックスをしたくない自分を異常だと判断される恐怖。

 案の定、オリバーの同僚アリスは彼から悩みを聞かされ、勝手にイレーナを精神科医に診せる手配をしてしまう。イレーナは二人の結婚生活を漏らされたことに腹を立てるが、アリスは「良かれと思って」と詫びる。その後もアリスはオリバーと残業していた際、「本当はあなたを愛していたのに、最近のあなたが不幸せそうで」と涙ぐんだりする。そしてオリバーをバーに誘い、二人は親密になっていく。

 いる、こういう女。アリスが気遣いを見せるようでいて、実はイレーナを押しやり、オリバーの胸の内に自分の領域を広げていく態度に、ムカつかない女性は少ないのではないか。昔から本作の評論に、既婚者のオリバーと擬似的な恋人になっていくアリスが、無意識であろうとイレーナの不幸につけこんでいることに、言及がないのが不思議でしょうがない。

 まだ性嫌悪症の概念が薄く、男性を性的に受け入れないのは、極度に精神を病んでいるかのように判断される、無理解な時代のイレーナの不幸には、ギリギリと胸が痛む。観客はたとえイレーナの性嫌悪の感覚を共有できなくても、彼女の「愛したいのに肉体では愛せないどうしようもなさ」を、哀れみ、心境をくんであげることはできるだろう。

 本作は1982年に同名タイトルで、ポール・シュレイダー監督によりナスターシャ・キンスキー主演でリメイクされている。この映画では一度でも受け入れたいと思い、豹になることを承知で、愛する人とセックスをするナスターシャがよけい切なかった。

 より直接的に、性嫌悪とセックスへの憧れで狂気に至っていく娘を描いたのが、ロマン・ポランスキーの『反撥』(1964年)だ。

 キャロル(カトリーヌ・ドヌーヴ)は典型的な男性恐怖症である。道にいる肉体労働者の男たちの視線に怯え、コリンという彼女に恋している青年がデートに誘ってきても、困惑して逃げ回っている。ある日コリンから強引にキスされたキャロルは、帰宅するなり狂ったように歯磨きをして汚れをぬぐおうとする。

 姉のヘレンは妻帯者のマイケルとの交際が順調で、毎晩のように姉妹二人暮らしのアパートに彼が泊まりにくる。そして夜毎聞こえてくる睦み声。キャロルは姉に依存気味だが、姉たちはイタリアへ不倫旅行に出かけてしまう。独り残されたキャロルの狂気はより深まっていき、仕事を無断欠勤し、家にこもって妄想にさいなまれていく。なかなかなびかないキャロルに対し、じれたコリンが強引にドアを打ち破って入ってきた際、キャロルは思わず彼を撲殺してしまう。また、家賃を取りにきた大家が、彼女に劣情をもよおして「家賃をタダにするから愛人になれ」と迫ってきたのも、彼女はマイケルの剃刀で殺害する。

 キャロルが暴力的なセックスの幻覚におびやかされる姿は、嫌悪だけでなく、性への好奇心もあり、その両極の激しさに引き裂かれている。彼女は道を歩いていて、コンクリートの地面にY字型のひび割れがはいっているのに気をとられ、気がつくと何時間も見入っている。その形は女性の股間を想起させるし、割れるということが処女喪失の隠喩でもあり、精神が引き裂かれていくことも象徴しているだろう。

 姉が旅行に行っている間、キャロルは家中の壁が何度もヒビ割れる幻影を見、道端で見かけた土木作業員が押し入ってきてレイプされる妄想の体験をする。姉の愛人の肌着が落ちていたのを衝動的に匂いを嗅いで、思い切り吸い込んだ後に、その汚らわしさに吐いてしまう。そんな性への恐怖と、憧れを表す対極的な行動が何度も繰り返される。

 セックスは怖い。粗暴に思える男性が自分の奥深くに触れるのは恐怖で、男性の性器も怖い。もしセックスをして、快楽に囚われ自分を失ってしまうのが恐ろしい。なのにみんなが、そんなことを普通にしているのは異常に思える。でも、みんなが普通にしていることを、恐れる自分のほうが異常なのだと頭のなかの声が囁く。そして、キャロルのような娘たちは狂っていく。

 ようやく姉たちが旅行から戻ってくる。しかし、部屋には二人の男性の遺体があり、正気を失ったキャロルはベッドの下に倒れていて、腕がダラリと垂れている。騒ぎを聞きつけて近所の人たちが無神経に部屋へ入ってきて、ベッドを上げて倒れたキャロルを見下ろすが、「誰かなんとかして」というばかりで、誰も手を貸さない。

 だが、家の様子を見て、マイケルだけが旅行中に起こった出来事を察する。そして彼はキャロルを抱きかかえて静かな別室へ運んでいく。そのとき、ふっと気がつくとキャロルは目を見開いてマイケルの顔を凝視しているが、わずかに瞳が動き、マイケルはかすかに笑みを浮かべて見返す。

 キャロルの背反する心を感じ取っているのはマイケルだけで、最初は自分が嫌われているのだと思っているが、旅行から帰って惨状を見るなり、キャロルの引き裂かれた哀れな心理を一気に理解する。他の見物人たちには理解できなくても、キャロルにとって一番身近な、性の香りのしていた男性であるマイケルが、キャロルの錯乱と反撥を受容する。その演出は淡く、はっきりと感情が描かれるわけではないが、抱き上げ、抱きかかえられた二人の間に拒絶はなく、ほのかに赦しのような空気が流れている。

 彼女の心は壊れたままかもしれない。ラストで、幼い頃のキャロルの写った家族写真がアップになるが、キャロルだけはよそを向いて、すでに常軌を逸した表情を浮かべている。でも、そんな彼女の狂おしさを受け止めるかのように、静かに映画は幕を下ろす。

 最近、この『反撥』をベースにしていると監督自身が認めた映画が公開された。ダーレン・アロノフスキーによる『ブラック・スワン』(2010年)だ。性嫌悪症を抱えたバレリーナのニナ(ナタリー・ポートマン)が、『白鳥の湖』の主役に選ばれる。だが清廉な白鳥は踊れても、官能的で挑発的な黒鳥を体得できず、そのプレッシャーで幻影にさいなまれ狂気に陥っていく。

 彼女は舞台演出家のトマ(ヴァンサン・カッセル)に「処女か」と聞かれて、違うと答えるが、彼女の臆病さを見れば、誰でもそれがウソだとわかる。トマは彼女のなかの官能性、欲望への率直さを引き出すためにキスしたり、性的な刺激を繰り返す。そして宿題として「自宅で自分の性器に触れること」と告げるが、欲情しつつも欲望の開花に恐怖を感じるニナは、欲望に身を浸そうとすると、恐ろしい幻覚に襲われてシャットダウンが繰り返される。

 本作には『17歳のカルテ』をはじめ、ずっと文化系女子の不安定な部分を体現してきたウィノナ・ライダーが、中年となり、主役の座を追われたバレリーナのベスとして登場する。トマが彼女を例える表現が、まさに前回のメンヘル文化系女子にふさわしいだろう。表現者は、正気ではいられない。でも、どこかで戻ってこなければ表現もできない。まさにそのキワにいる女性についての言葉だ。

「ベスは、心の奥に深い衝動を抱えている。だから踊りも面白い。危険性に満ち、しかも完璧」。そして、「おまけに破壊的」。

 官能に対して臆病なニナが、その殻を打ち破るためには、ベス以上に破壊的にならなければいけない。でも、一人の魂に白鳥と黒鳥を得た彼女には、まさに自滅的なエンディングが訪れる。わたしは、このラストはあまりに無惨で、悲しいといまでも思う。

 映画は、所詮作りものだ。脚本家が話を作り、監督が演出をしていく。でも、最後に倒れたニナが、繊細さと官能の両極を細い体に湛えて、立ち上がるラストだって作れたはずなのだ。でも、『反撥』のドヌーヴは男性たちを殺害し、『ブラック・スワン』のナタリー・ポートマンは自滅していく。 

 男性に触れられる恐怖は、『反撥』のキャロルがマイケルを受容し、彼に理解されたように、時間をかけてでも克服できれば幸せなことだと思う。でも性恐怖を描いた代表的な映画はあまりに悲劇的で、彼女たちは狂気に打ちのめされる。その姿は封じた扉を開けようとあがくゆえに官能的で美しいけれど、自縛から逃れることは決してできない。

 しかし一瞬とはいえ、性の恐怖を克服した姿が見える場面もある。『ブラック・スワン』で黒鳥を見事に踊りあげたニナに対し、これまで彼女を翻弄してきたトマが舞台の袖で、まさに破顔というべき初めての笑顔で迎える。すると、ニナはしゃにむに彼に飛びつき、熱烈なキスをする。驚きながらも、彼女が心底異性に触れることに対し自由になったのびやかさに、嬉しげに照れ笑いをするトマの表情には、観客であるわたしたちも同じ喜びを感じる。しかし、その後哀しい出来事が起こってしまうのだけれど……。それでも、あの積極的なキスの愛らしさは、ニナの一瞬の幸福な姿として忘れたくない。

 セックスは快楽以前に重要なことがある。指を伸ばす。相手の肌に触れて、指先にわずかに力をこめる。ふっと腕を引かれることもなく、そのまま触れることを受け入れてもらえる。悦楽よりも、「触れることの受容」が何より嬉しい。それが快楽か愛かはわからないけれど、触れることを許し、許されることの喜びが、幸福だと思う。

 

 第5回は、「映画にみる文化系女子の恋愛事情」です。

 

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