第3回 映画に登場するメンヘラ系女子

真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)

 誰でも、男女問わず精神的に調子の悪いときはある。仕事がうまくいってなかったり、環境の変化、失恋、家族や友人などの人間関係のこじれ、また体の病気を抱えてしまったりしたら、沈鬱な気分になるのも当然なことだ。逆に、それをなんなくクリアして過ごせるくらい、強靭なメンタリティーをもった人のほうが珍しいだろう。

 特に女性だと、PMS(月経前症候群)というのがほんとにめんどっくさいもので、人によって症状の多寡はあるが、神経質な子は生理前になるとなんの意味もなく、不安やパニックに襲われて泣きだしてしまうとか、そういう精神面での影響が大きい。でも、それはあくまでホルモンのいたずらであり、心を病んでいるわけではない。

 でもこういった足元をすくわれるような不安が慢性化していて、日常生活や、対人関係で長期にわたって支障をきたし始めたら、少し心配が生まれてくる。

 映画で描かれるメンヘル系は、若干極端な形になりやすい。日常において、カレシに1日に何度も電話をかけて、情緒不安的ぎみに「なんですぐ出ないの?!」とか言ってしまう依存は、心がインフルエンザだねと思うけれど、映像的にはパッとしない。そういう「ちょっと調子悪い」くらいの人物を描いても、日常のテンションが上ずってるか、ダウナー程度のしけた描写にしかならないので、もう少しイッてしまっている表現が、映画の適正レベルで、そういった症状の人々を追求する作品が多くなってくる。

 メンヘルにとってしんどい場は、なんといっても親戚一同が集まる家族内の結婚式だ。友人の結婚式なら、なんだかんだで欠席してすませることができるが、家族だとそうもいかない。そして葬式ならさりげなく奇行をはたらいても、「ああ、悲しいからあんなことになっちゃったんだな」くらいに情状酌量してもらえても、ハレの場である結婚式で周囲を引かせる言動はまずい。だから、その緊張がさらにストレスとなって、場違いなことをさせてしまう。メンヘルにとって「狂ってると思われる/精神状態の悪さを悟られる」ことは恐怖である。でも、結婚式はそういった気遣いが要求される儀式であるがゆえに、よけいそれがあらわになりやすい場だ。

 メンヘル結婚式モノでは、鬱病を公表しているラース・フォン・トリアー監督の『メランコリア』(2011年)が代表作だろう。この作品で、披露宴の主役である花嫁のジャスティン(キルスティン・ダンスト)も、完全にメンタル面の問題を抱えている。自分の披露宴に遅刻し、祝宴の最中に突然消えて、カートで庭を走り回っていたり、なぜか風呂に入って出てこない(鬱の人は風呂に入るまでが大変だし、一度入ると今度は出ることに再び気力がいる)。夫からの愛撫は拒み、しかしウエディングドレス姿のまま、初めて会った部下と庭で突発的に肉体関係をもったり、破綻した行動をとってみずからの祝宴の場をぶち壊す。

 男性のほうが場をぶち壊すことに対して、なんとか気持ちを律する理性がまだはたらく印象があるが、映画において女性は感情を爆発させる描写が多い。それはまだ男性の監督が多い映画作品では、異常行動を女性に仮託しやすいこともあるだろう。そして結婚式がおじゃんになったあと、ジャスティンは完全に鬱病の、指一本動かすのも億劫な状態になり、映画は鬱病の人の理想である、世界の破滅へと突入していく。

『レイチェルの結婚』(2007年、ジョナサン・デミ監督)も、姉のレイチェルが結婚するため、薬物依存症施設に入っていたキム(アン・ハサウェイ)が退院してくるところから始まる。彼女はチェーンスモーカーではあるが、いまはアルコールもドラッグも断っている。しかし、過去に年の離れた弟のおもりをしていたとき、ラリッたまま車の運転をして橋から落下し、弟を溺死させてしまった罪の意識からどうしても、逃れることができない。

 キムは、家族友人一同がひとりずつ新婚夫婦へ祝辞を述べる席上でも、自分が今日施設から出てきたばかりで、アル中の薬物依存だったことを明け透けにしゃべり、ひたすらいろいろなことを謝罪し続けて、参加者に気まずい思いをさせる。さらに姉が妊娠を告白して、一気に祝祭モードが盛り上がったときに、「大ネタでわたしの話を遮らないで!」とまで叫ぶ。

 でも、だからこそメンヘルなのだ。そこで自分を殺して同調できれば、本人だってどれだけラクだろう。軽症で、自分ひとり内心鬱屈しているだけですめば、悪目立ちせずに、数日我慢して帰宅できるのだ。しかし、その感情の揺れを抑制することができず、ぶつけずにいられないから、彼女は家族との折り合いをさらに悪化させ、みずからを精神的に追い詰めていく。

 結婚前夜、キムは母親に弟殺しを責められて、ショックから衝動的に、車でブレーキを踏まずに森へ突っ込んでいく。それは、「どうせ本気で死ぬつもりなんてないだろう」と安易にいえることではない。リストカットと同様に、肉体の破壊で精神の痛みを緩和したい、そして自分を罰したいという自傷行為なのだ。この事故によって、キムは目の周りに殴られたような青あざを作って結婚式に参加することになり、人の幸福を願う価値がいまの自分にはなく、まだ施設の外の世界で暮らすことはできないのを悟っていく。

 それと逆に、施設に入るところから始まる、思春期の少女たちの情緒不安定さを描いた著名な作品が、『17歳のカルテ』(1999年、ジェームズ・マンゴールド監督)だ。主役のスザンナを演じるのはウィノナ・ライダー。そして本作の破壊的なキャラのリサ役で、数々の賞に輝いたのがアンジェリーナ・ジョリーで、当時から、精神的な不安定さが如実だった女優ふたりの共演も生々しい映画だ。

 映画はスザンナが鎮痛剤1瓶と、ウォッカ1本を一気飲みして、病院に担ぎ込まれたことから始まる。彼女は自殺を図ったつもりはなかったが、周囲には自殺未遂と判断され、「境界性人格障害」との診断を受けて強制入院となる。スザンナは、その病院に長く入院していて、支配的な性格をした大胆なリサと仲良くなっていく。

 そしてふたりは、あるとき病院の窮屈さがイヤになって一緒に脱走し、過去の入院仲間だった、摂食障害のデイジーのウチに泊まることとなる。だがそこで、リサはデイジーがいまだにリストカットを続けているのを目ざとく見つけ、彼女の心の闇である父親との近親相姦を暴いたことから、翌朝デイジーは自殺してしまう。しかし、デイジーの遺体を前に激しくショックを受けたスザンナに対し、リサは「(死にたい者の)背中を押してやっただけ」とうそぶく。

 メンヘルの難しさは、「寂しさ」と「苛立ち」を、同時に強く抱えていることだ。スザンナはやたらと担当看護婦に突っかかるため、「あなたは怠け者で、わがままで、自分を壊したがっている」と評される。それは負の表現だけれど、まさにそのとおりなのだ。

 彼女たちは孤独だから、男性と衝動的に肉体関係をもつ。そしてそれは、みずからを安売りする自罰でもある。『レイチェルの結婚』のキムも花婿付き添い人の男性と、会った次の瞬間には空部屋でファックをするし、『メランコリア』のジャスティンも同様な行為をおこなう。スザンナも大学教授や病院の看護士とすぐ寝てしまい、それを第三者から淫乱といわれて傷つく。でも、スザンナは同時に、奇妙なほど自分を蔑む「淫乱」という言葉に執着する。その二重性が彼女には重要なのだ。また、病的なチェーンスモーカーなことも、何かに頼らずにいられない依存症資質と同時に、吐き気に苦しみ、自分の喉と体を痛めつける自罰行為のひとつであり、他人を責め、自分を甘やかし、そしてそんな自分を罰する矛盾の象徴なのである。

 しかしデイジーの死によって、スザンナは初めて目が覚める。その場にいながら、リサの暴言を止めたり、つらい真実を白日の下にさらされたデイジーを慰めることもしなかった自分に愕然として、「何もできなかった。正常な人なら、なんとかしてた」と呟く。仲間の死を目の当たりにした衝撃が、他人を救済したいという利他的な気持ちを呼び覚まして、ただ自分だけを慈しむことからようやく脱する。自分の死があれほど軽かった彼女が、他人の死の重さに気付いたことで、ようやく回復に向かう足がかりとなっていく。

 同時に、原作者のスザンナ・ケイセンはのちに小説家となっていく少女であり、病院でも常に自分の心情を観察した日記をつけている。彼女は生まれつきの「言葉を綴る者」だ。それが病院を安住の地としてしまったリサや、施設へ戻っていくことになる『レイチェルの結婚』のキムとの差異ともなっているだろう。

 そして、そのなかでも、いままで見た作品でいちばん、詳細にメンヘラになる過程を描いていたのは、松尾スズキ氏がみずからの原作を監督した、『クワイエットルームにようこそ』(2007年)だと思う。

 主人公のフリーライター佐倉明日香(内田有紀)は、目覚めると精神病院の女性用閉鎖病棟の、無機質な部屋(クワイエットルーム)でベッドに拘束されている。記憶が飛んでしまっているが、原稿が書けない憂さ晴らしに、酒と大量に飲んだ導眠剤によって昏睡状態となったらしい。彼女は事故だと言い張るが、「希死念慮あり」と診断され、そのまま2週間の強制入院をさせられる。

 明日香の回想シーンで語られるように、彼女は自分がメンヘルになっていった因子を理解している。おろそかに接していた前夫の自殺と、妊娠中絶と、父親の突然死が彼女を落としていったトリガーだ。やはり彼女も愛煙家で、普段から寝酒で導眠剤を飲み下すような自暴自棄な生活を送っており、同棲相手(宮藤官九郎)に不安を与えている。そして、とあることを契機に彼女はとうとう「やらかして」しまう。

『クワイエットルームにようこそ』は軽妙なコメディーとして描かれていながら、この映画で主人公の心が壊れていく過程は、あまりに生々しい。だらしなさ、自己管理能力のなさ、そんな自分への嫌悪と自己破壊衝動。ライターと自称しながら、たかが800字の連載も埋められない行き詰まりは、スランプというものがきたら、自分もそうなるのかと恐怖を覚えずにいられない。

 そしてこの映画のラストは、心を病んだ人間が、一度泥のような霧に飲まれると、もはや逃れるのが難しい恐ろしさを暗示していた。一度壊れた人間は、またすぐ簡単に壊れる。おそらく本作を見て、明日香が二度とこの病院に戻らないと思う能天気な人はいないはずだ。メンタルを立て直すのは、すさまじい意志の力が必要で、その意志の力が弱いゆえにメンタルは折れるのだから。

 本作と『17歳のカルテ』で重要なモチーフとなっているのが、『オズの魔法使』だ。ドロシーがかかとを3回鳴らす。彼女は即座に望んだ場所にいける。でも、明日香のはいた銀色の靴はまがい物で、両足とも拘束されているから、かかとを打ち合わせることすらできない。

 わたしたちは、どこへも行けない。

 記憶をなくしていたあいだ、自分が本当に希死念慮にさいなまれていたことを知ってパニックになり、二度目のクワイエットルーム送りとなって横たわる明日香が、メンタルを病んだ者の心情を、正直な言葉で語っていた。これ以上、わたしたちがいまいるところの的確な表現はない。

「最高にめんどくさい女が、着地するべき正しい場所に、ただいるのだ」。

 

第4回は、メンヘラ女子後篇で、「自爆!映画にみるメンヘル自滅系女子」です。

 

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