真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)
誰でも自意識は大なり小なりあって、自己評価や、他人の目に自分がどう映っているかは気になるものだ。そして、その自意識に溺れて周囲との距離感が冷静につかめなくなったり、他人からの評価とのバランスがうまくつりあわないとき、めんどくさいことになりがちなのが文化系女子だと思う。
クラスや会社の同僚たちが、とても退屈な人間に見える。自分は映画や音楽や本をどんどん開拓して、豊かな感受性を育んでいるのに、書店で山積みになっている自己啓発本を読んで「気づき」とか言いだしたり、凡庸な歌詞の日本語ラップをカッコイイと思っていたりする周囲の人々。話の合う恋人ができなくて「こういう人たちって合コンでいくらでも相手見つけられるんだよね」と、悔しまぎれに同類な友人と話したことがあった。趣味の分母が大きいから、「ミスチル好きなんですよー」と言ったら「俺もだよ」と返ってくる率は、「野坂昭如の『黒の子守唄』が好きなんです」と言って「俺も」と言われるよりは、どう考えても大きい。
でもそんな空気の読めないことを言うのはさすがに若いときだけで、「知らない」と返されるような、わざわざマイナーなタイトルをあげるのは、奇を衒ったあざとい態度だ。だから、趣味に生きる女性は座をしらけさせないよう、自分が面白くない場にはそもそも参加しなかったり、テキトーにあいづちを打って時間をしのいでいる。ああ、いやだな。こういうことを書くことすら、すでに傲慢だと自覚もしているのに。
でも、こんなふうにいちいちためつすがめつ、自分の言動を客観的に見られるようになったのも、たくさん失敗をして、そこに羞恥を覚えるようになってきた年齢によるものだ。
しかし、そうなる前の、若気の至りの段階を容赦なく見据えて描いた映画がある。
『ゴーストワールド』(2001年、テリー・ツワイゴフ監督)は、二人の少女が高校を卒業する場面から始まる。イーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)はダイキライだった学校を出られてせいせいしている。
イーニドは少し太めといっていいポッチャリ型で、黒縁のメガネをかけ、奇抜なファッションをし、黒髪を緑色に染めてみたりと落ち着かない。普段も周囲の凡庸な人間を嘲っていたずらばかりしていて、新聞に一度だけ出会った女性を探す広告を出していたシーモア(スティーヴ・ブシェミ)を、ニセの電話で店に呼び出し、冴えない中年男性が本当に現れ、独りで失望して帰るのを観察して笑ったりしている。だが偶然ガレッジセールで見かけたシーモアは、マニアックな古いレコードに詳しく、イーニドはちょっと敬意をもつようになって彼と親しくなっていく。その間も、レベッカはバイトに励み着実にお金を貯めて独立を目指しているのに、イーニドは労働自体をナメていて、まともに働くことができない。
そしてシーモアが出した人探しの広告を見た該当女性が現れ、彼はイーニドから離れていきそうになる。途端にイーニドはイライラして、いままでただの年の離れた友人だったシーモアを誘惑して肉体関係をもってしまう。だが、イーニドの狭い世界において、シーモアはマシなほうで、謙虚なオタク男性としてイヤではないけれど、やはり彼は見た目も冴えない中年男であって、決定的に好みではないのだ。シーモアはせっかく見つけた女性をふって、若いイーニドに夢中になる。だが、彼女はその日からシーモアを避けるようになっていく。
未熟な人間は、人の心を傷つける残酷さを理解していない。それがどれほどむごいことか、自分が被害者にならなければ、想像することすらできない。
バーに入ったイーニドは周囲を見渡し、ビールを飲んでゲップをしている凡庸な男たちに辟易する。そしてレベッカがパッとしないバンドマンに、ライブへ誘われてウキウキしているのも、仲良しだったはずなのに、軽侮のまなざしで見ずにいられない。だが、そういうイーニドはどうなのだろう。本当に、彼女自身が思うほど、彼女は特別なのだろうか。
イーニドはイラストでつづった日記をつけているが、多少面白いものの、それはバツグンに秀でたセンスというわけでもない。この程度のイラストを描く子ならごまんといるだろう。彼女は高校の美術の単位を落としてしまって補習に出ているが、課題を仕上げることすら小馬鹿にしている。そしてシーモアがコレクションしていた、まだ人種差別に人々が疎かった時代の黒人をモチーフにした飲食店の看板を、自分が描いた作品として提出してしまう。イーニドは周りを見下しているけれども、自分が何かを表現できるわけではないし、地元から抜け出す能力もなく、ただただ、退屈な人々と日常のなかで暮らすことに耐えられないと感じている。
もちろん、イーニドが自分自身を無意識に過大評価してしまう自意識はよくわかる。未熟だった頃のわたし――いまも全然ダメな人間だけれど――人を傷つけても、傷つけたことに気付かないくらい未熟だった頃の、自分を思い出さずにいられない。自己表現欲をうまく形にできず、いらだっていた過去のわたしを見るようで、自分の愚かな十代の記憶を鼻先に突き付けられた気分になる。だから、この映画を見るのは本当に居心地が悪くてしかたなかった。
その根拠のない自意識の高さはなんだ? おまえは何者だ? おまえ自身は、その過剰な自意識にふさわしいのか? そんな辛らつな批判が、この映画からは如実に迫ってきて、言い訳を許さない。
そして、シーモアの孤独も生々しく、アラフォーの自分がいま生きている現状そのものだと理解できる。あまりに他人事じゃなさすぎて、彼の姿を同輩には見せたくない気さえする。もし親しい人が、この映画のシーモアに自分自身の姿を覗きこんで、未来のないオチに絶望してしまってはつらい。だってシーモアは最後、精神科のクリニックに、母親に付き添われて通っている場面で終わるのだ。
イーニドの最後も痛ましい。彼女は町で、廃線になったバスを待っている老人を見かけて声をかけたことがある。だがある日、来ないはずのバスが来て、その老人をたった一人乗せてバスが発車するのを見てしまう。そしてラスト、そのバス停に立つイーニドにも、来ないはずのバスがやってきて、彼女はそれに乗り込んで去っていく……。この映画が突き付けた辛辣な問いへ、映画自身の用意した答えは、あまりに絶望的だ。
もうひとつ、女性が背負う重い十字架がある。イーニドはよくいえばムッチリした巨乳だけれど、「若い」という価値があるものの、美人とは言いづらい。それにどんな美人でも、男性と違い老けたら「劣化」であって、美貌も価値を失っていく。男性は渋くダンディになっていくのに、女性は老いが魅力になるとは言いがたい。せっかくいろいろと痛い目をみて精神的にも成熟し、見聞きしてきた文化的素養も充実してきたあたりで、心の豊かさと反比例して若さや美を失っていくなんて、この意地悪な世界の法則は本当にいったいなんだろう。
男性は売れて小金もちになると、年齢や容姿に関係なくモテるようになったりする。『ゴーストワールド』のテリー・ツワイゴフ監督の出世作は、『クラム』(1994年)というドキュメンタリー映画だ。学生時代にモテなかったロバート・クラムが、コミック作家として成功をおさめた途端、女性たちが寄ってくるようになった様子をしっかり撮っている。そして同時に、ロバート・クラム以上に絵を描く才能がありながら、引きこもりだったロバートの兄は、映画の最後に自殺してしまう。ほんとにツワイゴフは、ぞっとするほど救いのない現実を見据える監督だ。
どんな分野でも昔から、美貌はもって生まれた才能のひとつとして重要視されている。特に女性のそれはエスカレートしている印象すらあって、作家、ライター、歌手、映画監督……、「女流」という言葉は差別じゃないかと指摘されてその形容が減ってきても、「美人」という代名詞は、今後も廃れることなく女性の創作家たちの冠として使われるだろう。美人じゃ飽きたらず「美人すぎる」がまとめサイトのタイトルの主流であるいま、才能だけじゃ認めてもらえない、なんとも世知辛い世の中だと思う。
成瀬巳喜男監督の『放浪記』(1962年)で、林芙美子を演じる高峰秀子はいわゆる不器量な女性として登場する。芸達者な高峰秀子だから、歩き方から不恰好にして、なんとも女性的魅力に乏しい姿を強烈にアピールする。貧乏なため、女給(昔のホステス的職業)の仕事にたびたび就くのだが、白粉は付けすぎだし、おてもやんのような下がり眉のメイクになってしまい、その姿は昼間よりさらにひどいあり様だ。でも、彼女はすばらしい詩を書く感受性の豊かな女性だから、美しい存在が好きで、いつも「色男、金と力はなかりけり」の典型のような男性ばかりに恋をし、当然のように幸せになれない。そしてラストには名声を得ながら、何か大きな幸福や輝きを失った林芙美子の中年の姿を描いていて、この映画は苦味を覚えずに見ることができない。成瀬は不美人な林芙美子のあがきと、満たされぬ渇望を描く。高い自意識と豊かな才能に、ついてこない容姿。なんて酷なことだろうか。
ただおそらく、こういった容姿に恵まれないけれど、表現に対して意欲的な文化系女子はイメージしやすいだろう。空や食べ物のおいしそうな画像をアップし、ポエムをつづったブログを書いている女性で、赤いフレームのメガネをかけた素朴な顔立ちの子とか……。しかし逆に、文化系女子といわれるなかには美人も多い。それはそれで、じつはあまり見抜かれていないだろうけれど、彼女たちのなかには精神的にチクチクとした痛みを覚えている人も多い印象を受けるのだ。もちろん、容姿を売りにできるしたたかな女性ならそれでいい。だが、ある種の女性たちは、まだ若すぎたり美人すぎて、創作活動で秀でた成果をあげたいのに、思うような表現の才能がついてこない逆現象でイラついている。コレを読んで「ああ、ソレわたし!」と名乗りをあげるような人もいないだろうけれど、内心思い当たる女性たちは多いと思う。若さや美貌が自己表現能力への欲望とつりあわず、自意識を傷つける。チヤホヤされても、評価されたい表現の才能に関しては言葉を濁されたり、容姿を意に留めない人からは率直にダメ出しを受けたり、男性が気を惹くためだけに大仰に褒めてきたってうれしくなくて、ストレスを溜め込む女子たち。そして、老いとともに美貌が失われていく不安もあり、自己表現欲への焦燥は激しくなっていく。
自意識と才能や容姿の問題は大きい。傍目には滑稽な葛藤に見えるかもしれないが、ボチャボチャと不器用に溺れて、文化系女子と呼ばれる人たちは自意識に見合った生き方の難しさに悩んでいる。
でも、年齢を重ね失敗から学んで、自意識の高さを削っていくことはできるし、失望にもなんとか、みっともなく泣いたりはしつつ次第に慣れることができる。満足いかなくとも自己表現を継続することこそ大事だし、いまはネットでこの気持ちを共有できる友達を見つけることができ、好きな映画を見て、音楽を聴いて、お酒を飲んで「いまがいかに大事で、楽しむことがかけがいのない瞬間であること」かを体感することもできる。不本意だっていい。学んで苦しんで、常に自意識と真っ向勝負で折り合いをつけて生きていくしかないのだ。
第3回は文化系女子の醍醐味!「映画に登場するメンヘラ系女子」です。
Copyright Yaeko Mana
本ウェブサイトの全部あるいは一部を引用するさいは著作権法に基づいて出典(URL)を明記してください。
商業用に無断でコピー・利用・流用することは禁止します。商業用に利用する場合は、著作権者と青弓社の許諾が必要です。