真魚八重子(映画文筆業。「映画秘宝」「キネマ旬報」「TRASH UP」ほかで執筆多数)
「文化系女子」という言葉は業が深い。非常に使い勝手のいい言葉であると同時に、深く考え始めると、なんだかその範囲がぼんやりしてきて(?)となってしまう。でも、なにか絶対的に揺らがない共通の芯があるような、ある種の女性たちを的確に捉えた言葉。もちろん、この言葉を使う人によって定義に微妙な差があるし、少女でもないのに「女子」という呼び方が使われることに、露骨な苛立ちを見せる人も多い。「文化系女子」と呼ばれている女性像へ無性に反発を覚えるかたや、女性のなかでもひとつの言葉で自分の存在をくくられてしまうのが、窮屈でたまらないひともいるだろう。
そもそも「文化系女子」というのはざっくりした総称だ。読書、音楽、映画、美術など、インドア派な趣味をもつ女性たちを呼んだ表現だが、当たり前だけれど、そのなかには多様性がある。たとえば生活面でカレシがいたり結婚をしている女性と、恋愛に興味のないアセクシャルな女性では、映画や読書に現れるその部分に対して温度差があるし、子どもを産むことを選択したり、仕事と趣味を切り離して暮らしているかは、生活スタイルだけでなく精神面でも大きな影響をもつ。
でもそんなあやふやなのに、イメージできてしまうような種族、「文化系女子」。この分類がはらむのは、趣味がインドアな文化寄りというだけが共通項である以上に、映画や小説や音楽がもつ、「自己表現」にこだわる精神が透けてみえる状態ではないだろうか。
表現されたものが好き、または自己表現することが好きな女性。女がそういったことにこだわる心理が妙に当てはまる芯を追求していくと、どうも「考えすぎる」タチで、「情緒豊かで、豊かすぎて情緒不安定気味」という印象が湧かないだろうか。そんな子たちは普段から映画や読書やネットで見聞きして表現慣れしているので、それなりにうまい文章でブログに映画や読書の感想や、日常の心境を綴ってみたりする。そしてそれは、繊細であると同時に自己愛があって、神経質という性質ももちやすくなる。
そもそも、女から見ても女そのものが付き合いづらいものだ。筆者の生粋の文化系女子な知人がtwitterでつぶやいた、「めんどくさくない女に会ったことがない」という発言は、真理を突いた名言で忘れられない。男性から見て女の相手をするのがめんどくさいのは当然で、じつは、女同士も踏み込んではいけない領域をうかがうところから始まり、ざっくばらんに語るなんてまずはない。女子会だってよほど慣れた仲間じゃないかぎり、相手がどこまで腹を明かすか微妙にうかがって、いつまでも会話が上澄みを漂っているような気分になる。まして相手が考え込みやすいタイプなら、ちょっとした軽はずみな失言が心の底でドロドロしかねない。そして、気の合う友達と出会って同類と見極めたら、今度は文化系枠であっても異なるタイプのキャラな女子の悪口大会が、すさまじいことになったりする。アメリカでヒットした『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』(2011年)というコメディ映画が、結婚式をめぐる女同士の友情を描いた映画だったが、ここで露になる女性の姿は誇張されていて、あまりに不満をぶっちゃけすぎており、ほんとに表面化する女性同士の関係とは異なる印象を受ける。
もっと生々しい、すました文化系女子映画の典型的存在に、女性監督として活躍するソフィア・コッポラがいる。『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)は、日本という他国における、ミスコミュニケーションと、大勢の人々のなかで生まれる孤独がテーマだ。主人公のシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は夫の仕事に同伴して来日しているが、すでに夫婦のすれ違いは決定的で、彼女はホテルに置いてきぼりにされたまま、独りの時間をずっと過ごしている。そしてCM撮影で来日中の、ハリウッドスターのボブ(ビル・マーレー)と出会い、ストレンジャー同士の孤独を分かち合う、つかの間の共鳴を描いている。
本作では、シャーロットの夫やスタッフとホテルで飲んでチャラチャラと騒いでいる、来日中の女優ケリー(アンナ・ファリス)が登場する。シャーロットがケリーの様子を覗いてそっと身を引く演出がうまいのだが、どこか、軽薄な女性へ一線を引くような視線でもある。本作が公開されたとき、このハリウッド女優にはじつはモデルがいて、キャメロン・ディアスではないかと噂になった。この役を演じたアンナ・ファリスは、みんながあまりにディアスをイメージすることに困惑したといい、ソフィアはこの噂を否定した。しかしソフィア・コッポラが実際に、一部の被写体となる女優たちへ、「上辺の美しさで男性の気を引こうとする、軽薄な中身のない女性」というイメージを抱いたのは確実で、そうでなければ、このシニカルな視線で描写されたシーンは登場しなかったはずだ。
けれども、一見浮ついて見える女優たちは本当にからっぽだろうか。たとえば、噂の主といわれたキャメロン・ディアスは『イン・ハー・シューズ』(2005年、カーティス・ハンソン監督)でまさに、「自制心が生まれつき欠落していて欲望のまま軽はずみに行動し、自分の唯一の売りである美貌やナイスバディをアピールすることしかできず、そのために信頼する姉から疎まれてナーバスになっていく」ヒロインを演じているのだ。本当にバカな女であれば、美貌だけが頼りで他者からの信頼を失って絶望していく、そんな役を演じられるような自己認識能力はないだろう。それに、美貌に恵まれているなら、せっかくの生まれついた宝を売りにするのは当たり前な権利だ。こういう女性は男性に媚を売る愚かしい女性なのではなく、じつはすべてが本能も含めて計算に基づいた策士であり、そのあたりの自己演出が下手な文化系女子にとって、ズルく見えるか、もしくは性格が悪いといったほうがじつは正しい。
確かにたぶん、そんな彼女たちと学校や会社で、気軽に日常会話を楽しむのは難しいだろう。『イン・ハー・シューズ』のディアスが姉のカレシを寝取ってしまったように、あの手の女性はオタク寄りな女子の生活圏を食い荒らす存在でもある。また、学校や職場で毎日一緒になっても、あまりに趣味が異なるので会話の糸口がなかなか見つけづらい。わたしは派遣の仕事をしていたとき、「好きな映画はジブリアニメ」「毎日帰宅後は韓流ドラマを見ている」「音楽で好きなのはB’z」という同僚女性と何を話せばいいかわからず、なんとか自分にも理解できる、彼女の好きな占いとダイエットと過去の恋愛話を、フンフンと聞くくらいしかできなかった。でもそれは、わたしが彼女と共有できる〈女子〉の部分を見出せなかったせいでもあるのだ。もし彼女に、わたしも色々思うところがある『プラダを着た悪魔』(2006年)を薦めていたら? もし尋ねたら『バーレスク』(2010年)が好きだったかもしれないし、韓流ドラマと併せて『セックス・アンド・ザ・シティ』も見てもらって、その話で盛り上がれたかもしれない。いま思うと、わたしは自分が文化系であり、彼女はその枠外の人間だと思っていて、共通項すら探そうとしなかった。文化系女子はそんな傲慢さを抱えた存在でもあるのだ。
映画は、センスのいい本を抱えて、独自のオシャレなファッションセンスをもった女子だけが〈女子〉の仲間ではないことを見せてくれる。わたしは、もし実生活で身近にいたら敬遠するし、友達付き合いもしないだろう『イン・ハー・シューズ』のキャメロン・ディアスのキャラクターが好きだ。ラストシーンで、車のリアウインドウにぼやけてそのまま消えてしまいそうな彼女が不安で、見るたびに胸が締め付けられそうになる。現実に対して理解のないわたしでも、せめて映画のなかだけなら、住む世界が違う彼女の内的世界に入ることができる。
文化系女子同士でも、明白な棲み分けがある。再びソフィア・コッポラの映画へと話題を戻すが、彼女の映画はゴスへの偏見も顕著だ。まず断っておくけれど、『マリー・アントワネット』(2006年)は個人的に好きな映画で、女の子独特なかわいいアイテムが登場する映画は見てて楽しいし、青春期の心の移ろいを捉えた内容もいとおしい。でも、分類としては大枠で同じ文化系に入るはずのオシャレ系とゴス系女子が、これほど立場が違うのかと驚かされる映画でもあった。
本作にはゴス界代表のアーシア・アルジェントが、黒いドレスに身を包んで登場する。アーシアは女優として活躍中で、ホラー映画『サスペリア』(1977年)や『フェノミナ』(1985年)の監督として知られるダリオ・アルジェントの娘であり、母は女優のダニア・ニコロディ。アーシアみずからも『スカーレット・ディーバ』(2000年)を監督した、ソフィア・コッポラとは映画製作に携わる一家出身として似た境遇にある。アーシアはホラー監督の娘らしく、生粋のゴスッ娘で、入墨だらけだし常に黒髪に黒い縁取りのアイメイクだ。そんなアーシアに対して、『マリー・アントワネット』における扱いはひどかった。彼女の黒いドレスは悪趣味と陰口を叩かれ、出自が卑しいため貴族たちがつどう食卓でも平気でゲップをし、気味の悪い猿をペットとして飼い、寵愛を失うと宮殿から追い出されてしまう。そして彼女が追われて消えたことに、アントワネットたちは気付く描写もない。
ゴスは1980年代のアメリカ学園映画にも登場する、一定数必ずいる存在だ。あらゆるアートにおいて、「死の魅力」は原動力や要素として切り離せないものだし、文化系女子の多様性のなかで、特にその暗黒部分に引かれ、みずからも黒い服で死を体現する構成員がゴス少女である。ゴシック小説や、血の美学を湛えたホラー映画を愛する少女たちは、文化系において無視できない重要なアダ花だ。しかしなぜか文化系女子のなかでも、近年はオシャレ領域なままミステリーを愛することに「暗黒乙女」という言葉が生まれ、見た目からして暗黒であるゴスとは一線を引いて、ゴスをはじいていこうとする力関係が生まれている。ソフィア・コッポラが明らかに愛でている、金髪で、着飾ることが好きでロハスに目覚めたりする情緒豊かなマリー・アントワネットは、不吉な黒い存在を唾棄する。同じ文化系のなかでも、ここまで冷たい感情を露に描き、相容れないことがはっきりとするのだ。
文化系と分類するのはラクだ。でも、くくられた女性たちは不恰好なくらいそんな周縁など無関係に、それぞれ苦吟して、ふさわしく生きる道を探してぶち当たりながら模索を続けているし、社会のなかで生きていくかぎり、映画や本が好きで、文化系と他人から認識されるような典型的な文化系女子以外にも、複雑な孤独や屈折を抱えた〈女子〉がいるのは無視できない。そして、文化系女子同士のなかでも相容れない、激しい近親憎悪を乗り越えていくことも。せめて書く場を与えられたわたしは、『マリー・アントワネット』に対してただイジケているだけじゃなく、きっと誰も気付いてくれないだろう「ゴスはあの映画を見て傷つく」ということを記したい。
女子たちの理想郷とはなんだろうか。たぶん、その美しい境地のひとつは、独りぼっちで平気な甘ロリ少女と、暴走族の徒党からはぐれ者となっていく、ヤンキー少女の友情物語である『下妻物語』(2004年、中島哲也監督)だ。この映画は、まさに多分野に棲み分けた〈女子〉同士が引かれ合う、古典的なまでに麗しい歩み寄りの映画だった。このふたりの友情が良かったのは、お互いを自分の領域に引っ張り込もうとするのではなく、個性を尊重したままで引かれ合うことだ。じつは学園コメディなどでは、棲み分けた領域を超えて友情を育む映画のなかにも、無意識に誰かの棲息地を荒らして個性を剥奪し、自分の領地に引き込んでハッピーエンドに見せかける映画が多い。でも、『下妻物語』は甘ロリと走り屋なまま、お互いの生き方は変わらない。もちろん、だから相手のことが好きなのだ。
「このままのわたし」なんて、死ぬほど恥ずかしい表現だけれど、女子を描いた映画はそれを死守する戦いと、または変化していく痛みの記録そのものとなるはずだ。
第2回は、もっともめんどくさい「映画にみる文化系女子の自意識」についてです。
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