R.I.P.アダム・ヤウク。ビースティ・ボーイズの知られざる誕生秘話


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ビースティ・ボーイズのブレイク前夜と、その偉大なる功績


2012年5月4日は、ヒップホップ・ファンにとって人生最悪の1日だった。いや、音楽を愛する者なら誰にとっても最悪の1日だったかもしれない。ビースティ・ボーイズの「MCA」ことアダム・ヤウクが、唾液腺癌により47歳の若さで亡くなってしまったのだ。訃報は瞬く間に世界を駆け巡り、マドンナ、エミネム、ZEEBRAといった国内外のミュージシャンがSNSで追悼のメッセージを寄せ、彼らの地元NYではミュージック・ビデオのロケ地に無数のファンが花を手向けた。また、ニューヨーク・メッツの全選手が、それぞれ異なるビースティーズの曲でバッターボックス入りするなど、いかにMCAが、ビースティーズが人々に愛されていたのかを痛感したものである。

今振り返ってみても、ビースティーズの登場は衝撃的だった。パンク・ロック・バンドを前身とし、リック・ルービンに見初められ<デフ・ジャム>と契約。未だ「黒人のもの」というイメージの強かったヒップホップ・シーンに土足で踏み込み、ブラック・サバスやレッド・ツェッペリンからのサンプリングも使用した1stアルバム『ライセンス・トゥ・イル』(86年)が、ロック・リスナーにも広く愛され全米1位の大ヒット。ここ日本にも幾度となく来日し、伝説の深夜番組『11PM』に出演して暴れまくったり、夏フェスでヘッドライナーを務めるほどの根強い人気を誇っていた。

彼ら自身が設立したレーベル<グランドロイヤル>(2001年閉鎖)が紹介するアーティスト/バンドは、ショーン・レノン、ベン・リー、チボ・マットをはじめ間違いない連中ばかりだったし、やりたい放題の雑誌『Grand Royal Magazine』を発行し、音楽のみならずファッション、アート、映画など多方面でユース・カルチャーを牽引した功績も無視できないだろう。また、「永遠の悪ガキ」とも称されるビースティーズだが、MCAの提唱でチベット独立を支援する<チベタン・フリーダム・コンサート>を94年より不定期で開催したり、9.11同時多発テロのチャリティ・コンサートや、イラク戦争に対するプロテスト・ソング(※1)の発表など、政治に対するステートメントを常日頃から発信してきた活動家としての顔も持つ。MCAの死の直前、2012年にロックの殿堂入り(※2)を果たしたことも記憶に新しい。

メンバーのマイク・Dとアドロックは、「MCAを抜きにしたビースティ・ボーイズの活動はありえない」とキッパリ宣言しているが、彼らの残した音楽は、これからも世界中のリスナーをインスパイアし続けるはずだ。ビースティーズは、真の意味での「異端児」であり、「革命家」だったのだから。

Text by Kohei UENO