釣り師は釣りをしに釣り場にと参りますが、そこは人のこと、そればかりでは有りません。
余程つらいこと、辛らつなことなど有りましたら、逃避しても参りますから、なにやら苦虫を噛み潰した釣りと成ってまいります。
さる方など朝っぱらから眉間の縦じわ「どうしたい、えらい色っぽい縦じわじゃあねえか?」といいますと「なあに、昨日の晩嬶といざこざでひと悶着あってな、くそったれ!腹の立つことにゃぁ物も言わずに弁当を投げて寄越しやがった、くそったれ」
とまあこれなど可愛いもので、弁当を作ってくれるのは、決定的ではないことですからほほえましいと言わざるを得ません。
釣り場では余程親しい仲になれば別ですが、あまり他人の詮索はしてまいりません。
それでなくても煩わしい、陸のしがらみなどは持ち込みたくないからでしょうか。ですからどの職業の方であるかよく分かりませんで、家族構成、社会的な地位など知らぬ事が多いものです。 まあ釣りをするのに肩書きなぞ邪魔にこそなれ、ひとつの役にも立ってまいりません。
永年同じ釣り場で顔を合わせていると言葉の端々から、ああこの人はこんな境遇の人であったかと、時間をかけて輪郭がはっきりして来るものです。
釣り場は些少の社交の場で、これが深くなりますと釣りどころではありません。話をするということになれば、釣りに関する情報や技術的なことなど、いたって実務的なものです。後は差しさわりの無い与太話ということになってまいります。
これは後ほど知ったのですが、反社会勢力のさる方、挨拶から口を効くようになって、下衆な話などをしてまいります。釣れない時間帯ともなりますと、話などで時間つぶしの手持ちぶたさ、ぽつり、ぽつりと輪郭がはっきりしてまいります。
「最近の若い衆は、溜口はききやがるし、ポケットに手え突っ込んで話すは、あげく給料は出るんかボーナスはとか言い出す奴まで、扱いに困る奴が多くていかん」
「躾がなっとらんのよなあ、家庭内の躾がかまわずで、どういう具合の躾か知らんが、ようわからん若い衆を作っとる」
その反社会さん、あまり躾のよい上品な方とは思えないのだがそうおっしゃるのだ。その上「親の顔が見たい」ともおっしゃるのですから、こちらも反社会さんの親の顔が見たくなったものだ。
「それにな風邪で休むとなったらママが電話して来よって、うちの子今日休ませます
とこうだ。はあ、と言うしかないわな。これ位ならまだ我慢もするが、最後の最後けじめの時だ、これもママが電話してきて(うちの子止めさせます)こうくる。女だから大きな声上げるわけにもいかんし」
「一体全体誰の責任かわからん、言うて行く所がないわい。親はあの調子、学校か?警察か?」
その道でも悩みは深いのである。