原発建設 技量の証し/第14部・東北電の難路(2)黎明

「震災・防災」のページ

河北新報オンライン コミュニティー

スクラップブック

テーマに沿ったWebページを集めました

  • 記事を印刷

原発建設 技量の証し/第14部・東北電の難路(2)黎明

漁業権の一部放棄が決まり、社内でバンザイをして喜ぶ東北電力の社員=78年8月28日

<同業他社に遅れ>
 技術力への自信と同業他社への強烈なライバル心。東北電力を原発建設に駆り立てたのは、国策や経営合理化の要請だけではなかった。
 同社初となる女川原発(宮城県女川町、石巻市)の1号機は1984年に稼働した。国内でトップを切った日本原子力発電(原電)に遅れること18年。既に東京、九州など電力7社が計25基を保有していた。
 「自分たちの技量を証明するには原発が必要だった」。当時の経営環境を知る元東北電役員が語る。
 建設の前提となる地元漁業者との漁業権交渉は難航した。理解を得られなければ着工は不可能だ。東北電はなりふり構わぬ説得工作を展開した。
 女川町議会議長の木村公雄さん(78)は、40年以上も前の光景が忘れられない。まだ若手町議だったころ、東北電副社長が自宅を訪ねて来た。
 激しい抵抗を受け、漁業権交渉は暗礁に乗り上げていた。当時の漁協幹部の中に木村さんの親類がいた。その幹部への仲立ちを、副社長は依頼してきた。
 「何とか、何とか、お願いします」。親子ほどの年の差があるのに、大企業のナンバー2が畳にこすりつけるように頭を下げる。木村さんは「プライドをかなぐり捨てた姿に、ほだされてしまった」と振り返る。

<社の命運懸ける>
 対策は浜にも及んだ。東北電は三つのチームを現地に投入。社員らはカキの運搬や殻むき、缶詰販売などを手伝った。
 「漁師との付き合いに朝も夜も休日もなかった。社の命運が懸かっているという使命感があった」。現地対策に当たった東北電OBの一人が語る。
 漁業権の一部放棄を決める漁協の総会は、78年8月28日に開かれた。誘致を進めていた女川町の関係者は「漁協の幹部とシナリオを書き、何度も予行練習して臨んだ」と明かす。

<放棄連絡に歓声>
 68年の立地場所選定から10年。原発建設の先兵として、東北電が原子力調査部を発足させてから20年以上が過ぎていた。漁業権放棄を認めたとの連絡が届いた時、社内には「バンザーイ」と歓声が上がったという。
 女川1号機を皮切りに原発開発は加速する。95年に2号機、2002年には3号機が稼働した。青森県東通村にも東通1号機を新設した。
 東北電の供給量の2割以上を占めるまでになった原子力は、東日本大震災と福島第1原発事故で壁にぶち当たる。後ろ盾となった国策は揺らぎ、原子力は「次世代エネルギー開発までの過渡的手段」と位置付けられた。
 「原発の新増設はもはや望めないだろう」と元東北電役員。「だからこそ経営陣は現有原発を手放すわけにはいかないんだ」。衰退に向かっている原子力の現状が言外ににじんだ。


2014年11月11日火曜日

河北新報社震災アーカイブ

東日本大震災の新聞記事や市民の皆様が撮影した写真などを収集しています。  [WEBサイト]

先頭に戻る