『今年(2014年)に入ってから、いろんなことが分かってきました。また、比曽地区でも、住環境の除染が始まり、終えた場所の検証をしました。地区役員、環境省、除染事業者、村除染推進課担当が参集し、計測したデータを基に協議もしました。
結論から申しますと、はぎ取り、客土を行った平坦地はばらつきがあるものの(放射線量が)一定程度下がっていますが、法面(斜面)、いぐね(居具根=屋敷林)などは、ほとんど減少していないのが実態です。斜面は『斜面としての機能を維持する』。いぐねは『堆積物除去』という国の方針のため、放射性物質を除去できないのが現状のようです。
線量の低い場所では、それでもいいのですが、もともと高い場所は周囲の影響を受け、十分に線量が下がらないまま、『除染を終えたので避難指示を解除する』ということになってしまう可能性があります。
また、私の家のいぐねで研究をしている、帯広畜産大での調査結果をみると、杉の葉に着いたセシウムは、時間の経過とともに地面に落ち、林床土の線量が高くなっていることが報告されています。
林床土は壮齢林ほど腐葉土層が厚く、普通の農地の土壌と異なり、セシウムの吸着力が弱いと言われています。私が測定しても、下部まで高い汚染度が測定されます。堆積物の除去だけでは十分に下がりません。
現在、除染作業は、今年度に住環境、来年、再来年に農地を行う予定ですが、予定通りに進んでいません。村では除染のスピードを上げるように要望していますが、この状況では被災者のための除染や、復興のための除染にならないと感じています。』
9月半ば、このような手紙が届きました。二本松市内に避難中の飯舘村比曽の農家・前村議の菅野義人さん(62)がつづった近況です。
比曽は標高約600メートルの高冷地で、四方を山に囲まれた美しい盆地。冷害と凶作と闘う歴史の中で、住民たちは耕土を拓いてきました。義人さんは、比曽に入植した初代から数えて15世代、約400年続く農家です。本ブログの「震災3年目/余震の中で新聞を作る105〜生きる、天明の末裔として/飯舘 その1」でこんな話を紹介しました。
『天明の飢饉(1783〜87年)の話が出ました。相馬中村藩の山中郷(さんちゅうごう)と呼ばれた現飯舘村では約5000人の4割が死亡・失踪し、当時91戸の比曽で残ったのが、わずか3戸でした。「生き残りの1戸が私の家だった。それが復興の原点。先人の労苦を思えば、乗り越えられない困難はない。歴史からもそう問われ、試されている」』
義人さんは避難生活の間も比曽に通い、帰村と生業復活の可能性を探る活動をしています。村議の仕事は13年9月の改選まで4期16年間にわたって務め、原発事故後は、安全な帰村の条件となる除染への住民の疑問、要望を環境省福島環境事務所に訴えてきました。国の本格除染が始まった14年春からは住民有志と、農地の土壌汚染測定に取り組んでいます。その取材は4月下旬、比曽地区集会所で行った放射能測定機材の講習でした。
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『菅野さんは、前区長の農業菅野啓一さん(60)と地区の空間線量マップ作りなどに取り組んできた。3年前から支援する高エネルギー加速器研究機構(つくば市)の岩瀬広さん(38)がこの日、測定方法を指導した。岩瀬さんは従来の機材を改良し、金属缶に鉛線を巻いて外界の放射線をカットし、測定器に取り付けて土の線量を測れる装置などを提供した。
住民らは集会所の庭で代わる代わる測定試験を体験し、表土と、4、5センチ掘り下げた土中を測って放射線量を比較した。その結果、線量は大幅に減り「これが除染の効果か」と話し合った。避難先の同県川俣町から参加した女性は「帰ってきたいが、帰れるかどうか。その希望を自分で見つけたい」と語った。
村東南部の比曽は居住制限区域になり、約90世帯が避難生活を送る。村では既に9地区で国の除染作業が始まり、水田約30ヘクタールが廃土の仮々置き場になると決まった比曽でも近く着手の見込みだ。
「作業が始まる前に、自分たちの田畑をきちんと測り、農業を再生できる除染となるよう確かめていく。測定を通じ、ばらばらに離れた住民の協働も取り戻したい」と、菅野義人さんは話す。さらに多くの参加者を募り、放射線の知識や測定法に習熟してもらい、地域ごとに班をつくって活動を進めるという。』(14年5月8日の河北新報記事より)
環境省の飯舘村での除染は、帰還困難区域の長泥地区を除く19の行政区で14年春に、家屋など住環境を中心に本格的に始まりした。ダンプカーや作業員送迎のマイクロバスが村内を慌ただしく行き交い、「除染作業中」のピンクと黄色ののぼりが道路沿いの至る所に立っています。1軒ごとの家の屋根や敷地に白いマスクとヘルメットの人々が見え、まわりの農地では重機の長いショベルが汚染土をはぎ取り、黒いフレコンバッグ(土のう袋)を山積みしています。原発事故後の無人状態の中、自然だけが変わらず美しく巡っていた飯舘村とは、別世界のようです。
義人さんが手紙で問題を提起した居具根は、飯舘村をはじめ東北の農村風景を形づくる、田園のこんもりした林です。北西風や砂塵を避けたり、次代の家造りの建材、嫁入り道具のタンスの材料にしたり、多様な目的で家の周囲に育てた杉やケヤキなどの屋敷林をいいます。高さ20メートルを超えるような高木が多く、原発事故の際には、福島第1原発のある南東方向からの拡散した放射性物質が、真っ先に屋敷林に付着したとみられています。
義人さんの家は比曽の盆地を望む高台にあり、あたりの緑に浮かぶ赤いサイロの屋根が目印です。もちろん原発事故の後に牛を手放して以来、広い牧舎には音もありません。それでも「雑草を生やしておくなんて恥ずかしい」と、草刈りにもしばしば通います。家は主の思いとともに生きており、寒々とした留守宅の空気がありません。居間でお茶を出してくれた後、義人さんは早速、さまざまなデータが載った色刷りのプリントを広げました。
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居具根の汚染実態は、13年夏から調べてきたそうです。原発事故があった11年から村を支援してきた辻修帯広畜産大教授(農業土木)が、防風林の研究が専門という縁で協働しています。具体的な検証の測定は14年7月末、比曽で一番早く環境省の家屋除染が終わった農家の協力を得て行い、1年前に同じ家の敷地で測った数値と比較しました。
その結果、家屋のまわりの空間放射線量(高さ1メートル)は1年前、3~4マイクロシーベルトだった数値が、土をはぎ取った(環境省の基準は約5センチ)除染の後、1.1~1.4マイクロシーベルトに低減していました。これに対し、家屋のすぐ裏にある居久根の端では5.9マイクロシーベルト、そこから約12メートル奥の地点で7.4マイクロシーベルトもあり、減ったとは言い難い高線量のままでした。
「家から一歩出ると、いつも放射線を気にしなければならないようでは、住民は不安で帰れない」と義人さん。届いた手紙の最後にあった『この状況では被災者のための除染や、復興のための除染にならないと感じています。』という言葉の意味が分かりました。
家屋のまわりの除染は、粘土分に吸着する性質の放射性セシウムが密集する「深さ約5センチ」という環境省の基準にのっとり、表土をはぎ取ります。しかし、居久根では奥行き20メートルまでの範囲に限り、落ちた葉や枝、林床の堆積物を除去するだけの方法を採っています。同省福島環境再生事務所の担当者は取材に、「居久根は斜面にあることが多く、(重機を使い)土をはぎ取れば、土砂崩れを起こしやすいため」と理由を説明します。
辻教授は、居久根の放射線量が高いままの原因を調べるため、除染が始まっていなかった義人さん宅の居久根で林床の土を採取し、比較分析をしました。その結果、家屋前の土のセシウムの濃度は、深さ1センチで7万ベクレル(1キロ当たり)ありましたが、2~5センチの深さで1850ベクレルに激減しました。これに対し、そこから約13メートル離れた地点の居久根の土では、深さ1センチで約24万8000ベクレル、2~5センチで約8万ベクレル、6~10センチでも約1万4000ベクレルに達しました。セシウムが居具根の土に深く入り込んでおり、「これでは除染といえない」との疑問がわきます。
後日、電話を掛けた先の帯広畜産大の研究室で、辻教授はこう解説してくれました。
「林床では、落ち葉が腐って分解すると腐葉土になっていく。その過程で、葉に付いた放射性物質が外に離れる。これが土ならば、粘土分に付着する性質のあるセシウムはがっちり固定されるが、腐葉土の層には粘土がないので吸着せず、降ってくる雨水がとともに下に動いていく。原発事故から3年半がたち、落ち葉は積もって腐葉土となり、セシウムは既に林床に染み込んでいる。表面の堆積物の除去だけでは不十分なことは明らかだ」
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居間での話を終え、義人さんと家を出て、裏の牧舎に接する斜面の上の居久根に登ってみました。根元の太さが一抱えもある杉が並び、家屋に面した側の木だけは既に森林組合に切ってもらったそうです。木がなくなった部分のむき出しの林床に立ち、義人さんが手にした線量計を見ると、7・27マイクロシーベルトと表示されました。次に、杉の枯れ葉が積もった地表に近づけると、11・2まで数値が上がります。居久根がただの森林でなく「住民の住環境、生活圏の一部」であることは、その中に菅野家の氏神の赤い社が立ち、大切に守られていることからも分かりました。立派に建てられた社の内側には、延享2年(1745年)、義人さんの先祖によって奉納された鰐口(わにぐち)がが飾ってありました。
居久根を下り、牛舎の前の線量を測ると、1・43マイクロシーベルト。今後の除染作業で土が5センチはぎ取られれば、確実に線量は下がることでしょう。しかし、放射線は下からばかり来るものではありません。農地の自主測定に記事に登場する、義人さんらを支援している専門家の岩瀬広さんに聞くと、「放射線はあらゆる方向に飛散する。居久根に付着した放射線の影響は、高い照明灯の光と同じく範囲が広い。特に飯舘村では、家のまわりの除染をしても、線量が劇的に下がらないことの原因は、居久根の除染不足にある」。
やはり前掲記事に登場する前区長の農家、菅野啓一さんは長年、義人さんの村づくり活動の仲間です。12年9月、比曽の自宅を、NPO法人「ふくしま再生の会」(田尾陽一理事長)などの研究者らとの除染実験の場に提供し、家屋と周囲の除染実験を行いました。この時、2階の部屋の線量が2・4マークロシーベルト毎時ほどにしか低減せず、「家の裏にある高い居具根から放射線が飛んで注いでいるのではないか」との仮説が浮かびました。
さらに居久根の除染実験を試み、啓一さんは自ら奥行約20メートルまでの林床を、小型ショベルカーを使って十数センチの深さまではぎ取りました。除去した枯れ葉や腐葉土、汚染土を、地下浸透のない粘土層まで約1・2メートルの穴を掘って埋めました。加えて、セシウムが付着している杉の枝切りを、はしごを使って8メートルの高さまで行いました(実験の詳しい模様は『余震の中で新聞を作る81~除染に挑む・飯舘 その7』参照)。
実験前後の放射線量の変化は、家と居具根の境の計測地点で、地表面が20.5マイクロシーベルトから1.8マイクロマイクロシーベルトに減り、空間線量も9マイクロシーベルトから2マイクロシーベルトに減りました。居久根の中の空間線量も2~3マイクロシーベルトに低減。生活圏を一つにした除染の必要が確かめられました。「やるからには、そこまでの除染が必要だ。低線量被ばくを心配することのない、帰村と復興のための除染実現のため、地元から提案を採り入れてもらいたい」と、比曽の有志は訴えてきました。
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環境省福島環境再生事務所は、居久根の除染の不備を住民が訴えている-という筆者の取材に「除染が足りないとの要望があれば検討し、フォローアップ除染を行いたい」と答えました。しかし、この話に義人さんは、こんな経緯を語りました。「8月7日、環境省や村除染推進課の担当者に比曽の集会所に集まってもらい、私たち地区役員が居久根などの除染の改善を申し入れた。しかし、環境省側は無反応だった。(林床の堆積物のみの除去という)今のマニュアルでは無理、現場で方法変更を決められる人もいない、と言っていた」。現場の除染作業を行っているゼネコンのスタッフとも同じ話をする機会があったそうですが、「比曽地区の役に立ちたいが、今のマニュアルでは限界」と異口同音の結果でした。
義人さんは、「(菅野典雄)村長は、除染について『年間1ミリシーベルトを目標にする』と話していた。長期的に年間1ミリ以下に下げることが安心安全の必要条件だ。そうでなければ、村民が納得しなくなる」と話します。14年1月に公表された飯舘村住民意向調査(復興庁、福島県、同村が実施し、3024世帯の内1458世帯が回答)によれば、「現時点で戻らないと決めている」(30・8%)住民の意思決定理由で最上位が「放射線量が低下せず不安だから」であり、「現時点でまだ判断がつかない」(36・1%)住民が「帰村を判断する上で必要な情報」として最も多いのも「放射線量の低下、除染成果の状況」(72・6%)。除染成果に納得が得られないなら、「戻らない」はさらに増える、と義人さん。
同じ原発事故被災地の福島県川内村は14年7月、「川内村への帰還に向けた検証委員会」を発足させました。帰村に向けて除染の効果を検証する目的でしたが、8月まで2度の会合で「避難指示準備解除区域への帰還にあたって行われた除染の結果、全体として効果が確認されている」とし、「住民の帰還は妥当であると考えられる」との中間答申を出しました(国はこれを受けて10月1日、村内の避難指示準備解除区域を解除しました。同区域の住民139世帯275人のうち、現在までに戻った人は16世帯、約30人)。検証委員会の委員は、福島県放射線リスクアドバイサーだった学者(原発事故直後に飯舘村を訪れ『医学的には注意事項を守れば健康に害なく村で生活していける』と講演)や電力中央研究所名誉アドバイザー、大学の専門家ら有識者4人と村の放射線管理担当者でした。
「(飯舘)村に対しても、除染の対象区域である村内19の行政区事に住民の代表が参加して、地元の当事者の立場から除染を検証する場をつくるべきだ、と要望してきた。しかし、役場の反応はなかった」と、義人さんは振り返ります。「川内村から避難している知人は、『放射能は手ごわい』と言っていた。地元の人間が一番よく知っているのだ。国の予算をもらうために、あるいは、もらった中でやっていくだけでは、住民の復興ではない」
そして、環境省など村外の関係者の目から居久根が「森林の一部」としかみられないこと、それを汚染されたものとして接しなければならないことに対しても、埋めがたい溝を感じています。居久根は、かつて村が誇ったはずの「までい」の手作り精神の象徴でした。
『「居久根の杉の木は、俺の親父が植えたんだ。この家を建てた時、俺は一本一本を自分の手で切った。標高600メートルの比曽は、冬が厳しくて、目の詰まったいい杉材ができる。家の柱を見てくれ。東京では3寸幅がいいところだが、うちは4〜5寸幅。『秋田杉に負けない』と本職から言われた。家の地ならしも、U字溝を埋めるのも、自分でやった。今、23歳になる長男が生まれる前の年だったな」。9月8日の昼休み。食卓を囲んだ一座に、啓一さんが語りました。「居久根は、農家の財産。次の世代、その次の世代のために植えてきたんだ」。その杉で建てた家は、息子さんに受け継がれ、住まわれ続ける場なのです。
比曽地区は2006年、村が行政区ごとに1000万円ずつの予算を配った自主事業で、公園や景勝地の整備だけでなく、全住民参加の仕事として「比曽地区史」を作った(中略) 地元の歴史や故事伝承、文化財、民俗遺産とともに、87の全世帯の家系図が家族写真と一緒に載っています。4〜5代前までの家々の系譜と結びつきを掘り起こし、記録した努力も「までい」(手間暇掛け、大切にする)精神であり、1戸たりとも欠かせない信頼関係、そして、世代のつながりを語るものでした。居久根の杉の木もただの「山林、森林」ではないのだ、と知りました。』(『余震の中で新聞を作る81〜除染に挑む・飯舘 その7』より)
住環境の除染が進む比曽地区=9月18日
田園と居久根の緑に囲まれた菅野義人さん宅の赤いサイロ
辻教授との調査データを広げる義人さん
自宅裏の居久根に登る
居久根で計測する義人さん
高い線量を示す居久根の林床
居久根の中に立つ氏神の社
家屋とすぐ接する居久根
除染後の検証測定を行った農家。やはり居久根を背負う
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