第48回 丸山 茂雄氏

5. 大ヒットの感触を追い求めて

丸山茂雄5--さきほど東京に戻られて邦楽に移ったと仰いましたが、すぐに制作へ行かれたんですか?

丸山:いや、東京に帰ってから2年間営業をやって、それから制作ですね。ですから会社に入って6年くらい経ってから制作に移ったんです。

--具体的にはどのようなことをされたんですか?

丸山:宣伝ですね。

--その移動というのは丸山さん自身が希望を出されたんですか?

丸山:いや、会社からの命令です。当時私は「ずっと営業でいいかな?」と思っていたんです。

--今まで丸山さんご自身の音楽的バックボーンのお話が出てこなかったんですが、音楽を演奏されたり、聞かれたりはしていたんですか?

丸山:家にピアノがあって、母親がピアノを弾いていました。姉もクラシックをピアノで弾いていました。それで「あなたも弾きなさい」と言われて、弾いてみたけれど逃げ出した、と。高校生になってからステレオを買ってもらって、最初に買ったレコードはクラシックですね。クラシックのレコードを3、4枚買ってもらって、擦り切れるまで聴きました。その影響でN響の定期会員になって、高校の時はラグビーをやりつつずっと聴いてました。それでラジオから流れてくる音楽は何かと言えば、まだビートルズじゃないですからね。プレスリー、ポール・アンカの時代でそれを聴いていました。大学に入ってからはモダンジャズですね。ジャズを聴かなきゃ、大人になった感じがしないじゃないですか?(笑)

--ジャズ喫茶で難しい顔をしながら聴いていたわけですか?(笑)

丸山:そう(笑)。片手に岩波の雑誌「世界」と「朝日ジャーナル」、「平凡パンチ」とわけわかんないですよ(笑)。

--制作に移られて、どのような方々を手掛けられたのですか?

丸山:私はメインの人ではなかったので。メインは稲垣(博司)がやっていましたからね。山口百恵とかね。

--それで酒井さんが郷ひろみとかを手掛けられていたと。

丸山:山口百恵・郷ひろみといった主流は稲垣・酒井というラインでやっていて、吉田拓郎や山本コータロー、ばんばひろふみといったフォークをやれと言われて、私はそっち側をやったわけです。

--その頃の印象深いお仕事は何ですか?

丸山:太田裕美ですね。彼女はもともとアイドル志望だったんですが、20才を過ぎちゃって「20才を過ぎてアイドルは無理だろう」ということになって、それでディレクターの白川(隆三)と相談して、ちょうど小坂明子が『あなた』を出したときだったんですが、「あの曲は良すぎる。次から次へあんなにいい曲を書けるわけがない」というすごく乱暴な発想をしまして(笑)、「小坂明子はこの曲の後はしばらく出てこないだろうから、太田裕美をピアノの弾き語りでデビューさせれば、小坂明子の後釜として上手くいくかもしれない」と思ったんですよ。それでこっちは本人が曲を作るんじゃなくて筒美京平・松本隆コンビで、この二人を使っていれば曲を次々と作れる(笑)。それが大成功で、本当に考えたとおりになったんですね。

--それもマーケティングというのでしょうか?

丸山:ある種のマーケティングかもしれませんね。

--「木綿のハンカチーフ」は大ヒットしましたものね。

丸山:あれは4枚目ですね。

--主流じゃないところから大ヒットを出されたわけですが、やはり達成感はありましたか?

丸山:ありましたね。はっきり言って滅茶苦茶いい気分ですよね(笑)。だってお金を使ってないんですから。

--やはりその時の感触をずっと追い求めてきたということなんでしょうか?

丸山:そうでしょうね。

--続いてEPICソニーを設立されますが、どのようないきさつだったんですか?

丸山:太田裕美とかをやっている一方で主流のお手伝いもしなくてはいけなくて、その中で私が一番嫌だったのがいわゆる賞レースのスタッフに入ることだったんですね。基本的に「賞をくれる」と言われるのであれば、「ありがとう」と言って素直に受け取りますが、「賞をくれ、くれ」みたいな下品なことはできるか! と思っていましたからね(笑)。だけど「賞をくれ」と言わなきゃくれないじゃないですか? だから会社としてはシフトを組んで審査員のところを回らなくちゃいけなくて、それが毎年あるのでほとほと嫌になってしまって、「このセクションから外してくれ」と頼んで、一旦営業に戻りました。それで営業に戻って1年経った頃に「EPICを作るから、またお前やれ」と言われたので、「そういうのが嫌で営業に戻ったんだから、勘弁してくれ」と言ったんですが、「運営を好きにやっていい」ということだったので、やることになったんです。

--あまり乗り気じゃなかったんですか?

丸山:全然乗り気じゃなかったですね。それで「賞レースとかやらなくて済むのは何だろう?」と考えたんですね。同じように「TVのプロデューサーに“アーティストを出してくれ”と頼まなくて済むのは何だろう?」とも考えて、両方やらなくて済むジャンルはロックじゃないですか?

--それで佐野元春さんですか(笑)。

丸山:さっき言ったように私はビートルズを一番肝心なときに聴いてないでしょう? 一番感受性が強いときに聴いていたのはプレスリー、ポール・アンカですからね。だから私の体にはロックするものがないんです。だけど頭下げなくていいのがロックだと気が付いたわけです(笑)。

--そういう理由から『ロックの丸さん』が誕生したんですか…。

丸山:そう。頭を下げて媚びないというのはロックの精神と一緒じゃないですか?(笑) 私はその部分は一貫していますから、ミュージシャンと話が合いますよね。でも頭を下げること自体が嫌なんじゃなくて、理不尽なことに対して頭を下げるのが嫌なんです。

--それでEPICはロック色の強いレーベルになったわけですね。

丸山:そうですね。

--丸山さんのEPIC時代は10年ありますね。

丸山:10年と言いましても、あまりにもEPICが上手くいきすぎたので、自分が作ったチームのみんなが怠くなりましたね。つまりEPICを始めたのが37才、そこから10年ですから47才で、私が定年までEPICにいるとすると、EPIC設立当時に20代後半だった奴らは「丸さんが辞めるまであと十数年…」と思うわけですよ。しかも僕とそいつ等の距離感は一緒に年を取っていくわけですから変わらないじゃないですか? そうすると私は嫌われてるとは思っていないですし、彼らも嫌いってわけではないんだけど、この関係がずっと続くのも…という雰囲気が口には出さないけどありましたね。

--ということは自らCBSソニーに戻られたわけですか?

丸山:自分で勝手にね。