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2014/04/12

昭和最後の美人女優・夏目雅子さんの微笑み

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21歳で亡くなった赤木圭一郎さんが「昭和のイケメン」なら、27歳で逝った夏目雅子さんは「昭和の微笑」。あれから28年が過ぎているというのに、一向に人気が衰えぬ昭和最後の美人女優・夏目雅子さん。ほんとうに惜しまれるスターであった。

この笑顔に黒髪、ほんとに眩(まぶ)しいねぇ。あゝ夏目雅子さん・・weep

昭和の微笑

夏目雅子29年目の真実

★BSジャパン 夜9:00放送

将来を嘱望されながら27歳の若さで生涯を閉じた女優、夏目雅子。今もその微笑は昭和を知る人々の心の中に生き続けている。良家の子女からモデル、女優デビュー、恋愛、闘病、そして旅立ち。その人生は波瀾万丈だった。関係者の証言と映像で、彼女の素顔に迫る。・・と新聞のテレビ番組案内に紹介されていた。2014年4月12日付。僕は時間の都合で残念ながら見ることができません。またうちのテレビではBSの録画が出来ないんだよね、がっかり。

ところで、本名・小達雅子さんの芸名が夏目雅子さんになったわけを知ってますか?それは小達雅子さんがカネボウ化粧品「クッキーフェイス」CMのキャンペーンガールとなり、注目を集め、この時、の注目の玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子さんから夏目雅子さんに改名されたからですね。これまでは、夏目といえば文豪の夏目漱石を連想してましたが、いまでは夏目雅子さんをも連想しますheart04。また夏目雅子さんといえば、sun夏をイメージするのですが、彼女の水着姿は眩(まぶ)しくて最高でしたね、ご同輩!(団塊世代)

2012/08/21

眩しすぎるほどの肢体を披露する夏目雅子

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おお♪ 眩しい!

やっぱり夏目雅子さんの水着姿は、女優さんの中でも最高です。

われわれ団塊世代の男たちを魅了した夏目雅子さんは忘れられない女優さんです。透明感が全身にあふれていた。感受性の強さを物語る大きな瞳は常に輝いていた。カネボウのCMでその眩しすぎるほどの肢体を披露して一躍スターになった。

昭和57年『鬼龍院花子の生涯』で“なめたらいかんぜよ”とタンカを切り、『時代屋の女房』で報知映画賞を受賞。

写真はマガジンハウス「スタアの40年」より転載しました。

ロンドン五輪の水泳競技に出場し、銀1個・銅2個を獲得した鈴木聡美選手が夏目雅子さんに似ているというのでCM業界から注目されているそうです。もし鈴木選手がこの夏目雅子さんのように大胆なビキニ・スタイルを披露してくれたら人気スターになれますかどうか。

おそらく無理でしょう。ぼくは、目を皿のようにして、夏目雅子さんにまつわるエピソードのすべてを読み尽くしたつもりである(笑)。どんな女優さんも追いつかないだろう。まず、今を去る7月に発行された週刊現代に載った映画監督の篠田正浩氏と上智大学教授の碓井広義氏が対談した記事を紹介します。

 

 


野球団の少年たちと一緒に入浴した夏目雅子さん

篠田:僕が夏目君を撮ったのは、1984(昭和59)年公開の『瀬戸内少年野球団』だけです。残念ながら、それが彼女の遺作になりました。たった1本しか付き合えなかったけれど、夏目君との仕事は、何本も撮ったような気持ちにさせてくれました。

碓井:亡くなる約1年前、彼女が26歳の時ですね。

篠田:撮影は1983(昭和58)年4月から1年間。四季の移り変わりに合わせ、スタッフとキャストがロケ地である瀬戸内海の真鍋島に通いました。

ある日、我々一行が泊まっていた宿屋で一番風呂に入ると、隣の女風呂に野球団員役の男の子たちがガヤガヤと入っていく。すると

「前を隠すんじゃないの」

という女性の声がする。夏目君でした。親元を離れていた子供たちと一緒に風呂に入ってあげていたんです。役柄は主人公で小学校教師の駒子先生でしたが、役を離れても子供たちの面倒をよく見てくれました。

碓井:私は1993(平成5)年にフジテレビで放送されたドキュメンタリードラマ『夏目雅子物語』を作るため、彼女の生涯を取材しました。女優がスクリーン上と現実で違うのは当たり前なんですが、彼女には落差が感じられず、仕事と実生活のどちらも応援したくなるような女性でした。

篠田:きれいな女優はいっぱいいますし、演技のうまい人もいますが、女優の命はもう一つ違うところにあるような気がします。知性でもなければ教養でもない何か。それは夏目君は持っていた。

碓井:品位みたいなものでしょうか。確かに彼女は特別な何かを持っていました。

エキストラたちと雑魚寝をした夏目雅子さん

篠田:撮影中にはこんなこともありました。ある朝、助監督がやってきて、「監督、夏目さんにお礼してください」という。「なぜだ?」と尋ねると、島外から呼んだエキストラの泊まる部屋が足りず、スタッフが困っていると、夏目君が「女のエキストラさんは私が全部引き受けるわよ」と声を掛けてくれたというんです。結局、彼女は十数人のエキストラと一晩中酒盛り。最後は全員が夏目君の部屋で雑魚寝です。「この人は相当、公平な心を持っているなぁ」と感心したことをおぼえています。

碓井:彼女について、数多くの人から話を聞きましたが、感じたのは夏目雅子という女優は多分、素のままで愛される女優さんだったということです。

(以下、省略)

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清楚な役から汚れ役まで、なんでもこなせる女優だった

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あるブログでは、このようなエピソードが書かれていました。無断で流用します。

美しかった。美貌だけではなく、生き方そのものが一片のくもりもなく美しかった‥。デビューから10年も経たずに散った「ひまわり」は、今なお、男たちを魅了してやまない。豪邸に住む令嬢が芸能界の門を叩き、やがては大胆な見せ場にも挑んだ。令嬢は、いつしか〈炎の女優〉になったのだ─。
ためらいもなく“裸体”を披露する。
「雅子ちゃん、ちょっとバスタオルを外してみてくれる?」

CM撮影の合間に、写真家の田川清美は声をかけた。田川はまだアシスタントの身ではあったが、カネボウ化粧品のチュニジアロケに参加していた。
その問いかけに、浜辺でデッキチェアに座って休んでいた夏目雅子は、何のためらいもなくバスタオルを取り、田川が向けるカメラに笑顔を見せた。その上半身は、陽に焼けてはいるが完全な裸体である。
それは77年2月のことだった。正確には夏目ではなく、本名の小達雅子として参加した。当時は化粧品メーカーの商戦が激化しており、このCMが「夏の目玉商品」だったことから、公開時には「夏目雅子」と改名された。
当時、18歳の雅子が堂々と素肌を見せたことを、田川はこう話した。

「あのロケは日本からパリ、そしてチュニジアに渡るコースだった。それが、ちょっとした手違いから僕や雅子ちゃんなど何人かがパリで3日ほど足止めを食った。その待ち時間が縁で、彼女と家族ぐるみのつきあいになったんですよ」
このCMのディレクターを務めたのが、後に雅子の伴侶となる伊集院静だ。そして田川もライフワークとして、亡くなる直前まで雅子をフィルムに焼きつけてきた。夏目雅子として名前を知らしめた「クッキーフェイス」のCMは、同時に男たちとの深い縁をもたらした作品でもあった。
音楽プロデューサーの酒井政利もまた、同CMのテーマ曲を雅子が歌うということで作業をともにしている。「歌は結局、あの1枚きりでしたが、楽しそうにレコーディングしていました。プロの歌い手ではないけど、さわやかさがあふれていました」
公の場で再会したのはそれから7年後、酒井が長らく育ててきた郷ひろみと夫婦役で共演した映画「瀬戸内少年野球団」(日本ヘラルド)のロケだった。すっかり大人の女優になった雅子に、酒井は〈美人薄命〉という言葉が浮かんだが、それは1年後に現実のものとなってしまう‥‥。
こうした男たちと出会った当時、雅子は横浜・山手の高級住宅街にある250坪の邸宅に住んでいた。実家は六本木で輸入雑貨店を営んでおり、名門の東京女学館に小学校から短大まで通う「お嬢様」だった。
それでありながら、あわやバストトップが見えそうな「クッキーフェイス」のポスターは衝撃だった。田川は、その撮影を引き受けた雅子の「思い切りのよさ」を見た。
「もともとCMは、フランスの名優であるジャン・ポール・ベルモンドがメインで、雅子ちゃんは添え物的なコンテだった。ところが、海外ロケに出たとたん、ベルモンドがキャンセルしたと知らせが入って」
それは本当にアクシデントだったのか、あるいは最初からベルモンドなど存在しなかったのかは今もわからない。ただ、海外で雅子の露出が突然、アップしたことは事実である。
「海外ロケについて行きたいと言うほど心配していたお母さんに、彼女は電話することもなく、あのシーンを引き受けた。ここまで多くの人が動いている現場で、自分1人がイヤと言ってもしょうがないと腹をくくっていました」
田川は、相手の立場になって物事を考えられるのが夏目雅子の最大の魅力だと思った。

2012/04/14

偉大なるアマチュア女優/夏目雅子さん

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27歳の若さで逝った夏目雅子さんを「偉大なるアマチュア女優」と語るのは演出家の和田勉氏。

和田勉氏は数々のテレビ作品で芸術祭入賞11回、「芸術祭男」の異名をもつ。松本清張原作の「ザ・商社」で、新人の夏目雅子さんを主演に起用する。この作品で夏目雅子さんはそれまでのイメージを一新。「ザ・商社」は、夏目雅子さんの鮮烈な映像とともに、テレビドラマ史上に特筆される作品となった。

突然、ひらめいた主役抜擢

夏目雅子くんと初めて出会ったのは、昭和54年の6月でした。「ザ・商社」が放送になったのが昭和54年の11月ですから、1年半ぐらい前に準備に入ってたんですね。この作品は5時間のドラマになるということで。原作は松本清張さんでしたが、単行本のタイトルはあまりパッとしないタイトルで、清張さんも気に入ってなかった。清張さんがおつけになったタイトルは「油の海」だったんです。それを出版社の方で「ガラスの城」というタイトルにして出しちゃった。で、ドラマでは「ザ・商社」というタイトルにしたんです。

この小説は、そのころ戦後最大の倒産と言われた安宅産業をモデルにした実録小説でした。大野靖子さんに脚本をお願いしたんですが、脚本ができるまでのいちばん大きな問題だったのが、このお話そのもののモデルがあったことなんです。安宅アメリカの社長を演じるのが山崎努。清張さんの原作は、その安宅産業をそっくりモデルにしていて、登場人物がほとんど男なんです。原作にはヒロインというのがいないんです。本来、ドラマというのはヒーロー、ヒロイン、男と女が基本ですから、ヒロインがいないと、ドラマにならない。

しかし、安宅の実録を読むと、安宅さんがかわいがっていたピアニストがいるんです。清張さんにそのことを聞くと「相手が女の人だし、まだ生きているから」っておっしゃるんです。彼女は安宅さんの囲い者とかそういうのではなくて、安宅さんが育てようとした若いピアニストで、パトロンになってアメリカのジュリアード音楽院などに留学させていたんです。現在も高名なピアニストとして活躍されていて、清張さんはいろいろ気をつかう人でもあったので、原作には彼女は登場していない。でも私たちがドラマを作るときに必要なら、新たに創造してもらってもいいと。それでピアニストというヒロインが生まれたんです。ですからドラマの中のヒロインは脚本家と私のオリジナルの人物です。

ヒロインを作ったのはいいのですが、これを誰に演じてもらうかという問題、キャスティングを誰にするのかというのを最後の最後まで僕は非常に悩んでいたんです。目安としては、浅丘ルリ子というのを考えていたんですが、当時すでに30いくつかの年齢だったので、20歳ぐらいのドラマの設定には難しいかなと。でも最悪の場合は演技力のある浅丘さんかなと思いながら、最後まで決められずにいました。

そしてついに6月、稽古の1週間前になった。まだヒロインは決めかねていました。それとは別に、あまり重要でない役なんだけどそのピアニストの友だち役を、当時「西遊記」や「黄金の日日」などで売り出し中の新人女優の夏目雅子にしょうかと考えて、NHKの近くの喫茶店で会いました。普通、駆け出しの新人女優とはいっても一人では来ない。たいていマネージャーとか付き人がついてくる。約束の時間に行くと、複数で来ている人はいないんです。ぽつんと一人マンガを読んでいるカーリーヘアの女の子がいて、彼女しかいないから、前に回ってみたら写真やドラマで見た夏目くんらしいので「夏目さんですね」って言うと、パッとを顔を上げて「アッハハハハ、そうです」って大笑い。それが最初の出会いですね。

そのときは、ヒロインでもない役だから、やらせてみてどんなものか一度見てみようという気持ちだった。それで、じゃあ1週間後に稽古が始まるからということで、別れようとしたとき、別れ際に夏目くんが「私、10年後、30歳になって演技力がついたらこのピアニストの役をやりたい」と言ったわけです。そのとき何か、僕のなかでグラッときたものがあった。で、僕は「役者というのは、明日というのがないんだよ」と言ったんです。つまり役者にとって10年後やりたいというようなことはありえない、タレントは別だけど、役者は明日がないというぐらいの覚悟でやらなくちゃいけないと。そして「もし、ほんとうに演(や)りたいんだったら、今これをやらないと意味ないよ」というようなことを言って、ポン! とこのピアニストの役に決めちゃったんです。彼女は、ほっぺたつねってたけど。

やはり、そういうふうに僕に言わせてしまう何かがあったんだろうね。役者というのはプロじゃなきゃなれないんだ。タレントはアマチュアでもなれるけど。たとえば「きんさん、ぎんさん」やCMに出てくる可愛い赤ちゃんとか。しかし役者は、腕を磨いたり勉強しなくちゃならない。そのためには今これを演りたいというときに演っておかないと腕も磨けないんだ、いうようなことを話したあとでした。

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夏目雅子の凄さ

僕が「けものみち」で組んだ名取裕子と夏目雅子を比べると、名取りはまぎれもなくプロでした。それも悪しきプロと僕は言っていたんだけれど、世慣れし過ぎている。そして夏目を言うならば偉大なアマチュアだと思います。夏目を一言でくくってしまうとこの言葉になります。


僕がそれまでにブラウン管で見ていた夏目くんというのは、日本テレビの「西遊記」三蔵法師、そしてテレビマンユニオンが作った単発のドラマでチャップリンを演じたものでしたけど、両方とも男を演じてる。普通、プロはそんなことやらないですよ、それはアマチュアの凄さです。そういうものに打たれたのかも知れないと今になって思いますけれど。

「ザ・商社」は、当時初めての「経済ドラマ」でした。NHKには経済部も当然あり、その取材への影響などからドラマには抵抗がありました。安宅産業の実録を書いた山香芳隆さんという経済記者がいて、その方がすごく応援してくれました。そういう意味で稀(まれ)なドラマだったと思います。

カナダの北東海岸のカンバイチャンスという所で、ついに山崎努演じる安宅アメリカ社長とのベッドシーンがあって、台本には「上半身裸になる」とある。もちろん夏目くんもそれを読んでいるわけで、そのときほとんど何の抵抗もなく演じた。それは事実、映像に残っています。そういうNHKらしからぬシーンを撮れたというのも、当時の局長の島桂次(のちに会長)が報道出身であったということも大きかったでしょうね。

あのシーンについても、一切ピーアールに使わないというのを広報室と記者クラブとの約束にしたので、それも幸いしたと思います。これが民放さんだったら大々的に宣伝したでしょうから。

二度とあんな女優は出ない

夏目雅子という女優は僕にとって記憶に残る女優です。そしてもう出ないだろうという女優だと。そういう人は僕の中では二人しかいないんです。もう一人は太地喜和子です。この二人のような女優はちょっと出ないなと思う。つまり太地は恐るべきプロで、夏目は恐るべきアマチュアとして。

そして27歳で亡くなったことが伝説化された原因だろうけど、現在生きていたら44歳ぐらいですか、そうしたときにどんな女優になっていたのか。女優として腕を磨いていく過程が、彼女の場合一歩一歩ではないでしょ。ヒロイン役でもいきなりだから。したがって彼女が40、50になったときの姿はほとんど想像できないんです。そういう人って何人かいますよね。山口百恵さんとか、松田優作、赤木圭一郎とか。そういう意味での女優のタマゴはいなかった。僕は40歳から女優と呼んでいるから、「女優のタマゴ」と呼ぶんですが。

女優が生涯にこの一本という作品に出会うのは、それはおそらく男と別れて次の男を捜している、ほんのわずかな瞬間じゃないかと私は思うんです。夏目の場合は「ザ・商社」がそうだったんじゃないかと私は思うんです。「天城越え」という作品での大谷直子もそうだった。でも、夏目は結婚したら、おそらく次の男を捜すような女じゃない。なぜならアマチュアだから。

僕は2回、3回と組んだ女優というのは、ほとんどいなくて、いちばん数多く仕事をしたのは山崎努で、太地喜和子とは僕がNHK定年前に近松門左衛門ものを3本(1984年)「心中宵庚申(しんじゅうよいこうしん)」、85年「おさんの恋」、86年「但馬屋のお夏」)続けてやったけど、夏目は「ザ・商社」ただ1回。名取裕子も「けものみち」のただ1回。大谷直子が「夜明け前」「天城越え」の2本。1回全力で立ち向かえば飽きてしまうんです。

「ザ・商社」が終わったあと、夏目は初めて新橋演舞場の舞台に立つことになって、もちろん僕も見に行ったし、楽屋にも行ったけれど、そんなにいいとは思わなかった。でももう1回会ってみようと思っていて、その後パルコで「愚かな女」を演(や)るというので、「明日見に行くよ」って連絡して、次の日に行くと張り紙があって、急遽入院したというのを知ったんです。だから結局僕は「愚かな女」を見てないし、入院以降の彼女に会っていないのです。

有限会社まどか出版/編者 夏目雅子伝刊行会「夏目雅子27年のいのちを訪ねて」2001年11月発行(今から約11年前)から引用致しました。和田勉氏は2011年(平成23)1月14日に食道上皮がんのため他界した。享年80。

2011/09/25

いま語られる真実/夏目雅子さん

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上の画像は、ことしの6月に発行された週刊現代に載っていた「週現スペシャル記事」の一部をスキャンしたものです。テーマは「死ぬのが早すぎた11人の天才たち」というもので、夏目雅子をはじめ、松田優作、福澤幸雄、津田恒美、岡田有希子、大場政夫、堀江しのぶ、尾崎豊らが取り上げられていた。

“素晴らしい才能に出会ったときの衝撃といったらない。しかもそれが、直ちに消え失せてしまったとしたら・・。残された人々のあいだに脈々と語り継がれる、決して死ぬことはない「天才」の逸話”というものが書かれていた。ここでは、夏目雅子さんをとりあげる。その中身は・・・。

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いま生きていれば

短い生涯を全速で駆け抜け、人々の心にまばゆい光跡を残した人たち。一つのことに打ち込むあまり、まるで才能に命を食い破られるようにして消えた11人のうちの1人、夏目雅子さんの逸話を週刊現代の記事より原文のままに伝える。

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「姉はおてんばというか、もともとバイタリティが普通の人の倍以上あるんですよ。家でも黙っている時間は少なくて、食事に行っても知らない人に話しかけるのは当たり前だし、町で『夏目さん』と声を掛けられると『ワーイ』ってはしゃいだりする。病気で入院した時も、アクション映画が好きで、ジャッキー・チェンやブルース・リーを一緒に見て大騒ぎしました」

 

女優としての絶頂期を迎える目前、急性骨髄性白血病のため27歳の若さで他界した夏目雅子の実弟・小達敏昭氏が証言する。

 

「姉が入院していた時、僕は毎日のように予備校を抜け出して、お見舞いに行っていました。そこで僕は姉に相談したんです。勉強して大学へ進学するか、好きなゴルフをするかと。姉は言いました。『ゴルフやりなよ。どんなに苦しくても、自分の好きなことをするのが幸せよ。私も実際そうしたし』。僕はその頃母親が怖かったので、『それなら母親にそう言ってくれる?』と問うと、姉は本当に相談してくれたんです。あの時の姉の一言がなければ、僕はプロゴルファーにはなっていなかったかもしれない」(小達氏)

 

生前の彼女を知る人たちは「天真爛漫を絵に描いたような女性だった」と口を揃える。演技で見せた自由奔放さや大胆さは、素の性格そのものなのである。

 

NHKのドラマオーディションでは、作中でパンツを脱ぐシーンがあると知り、プロデューサーの前で実際にパンツを脱いでみせたという。彼女の仕事ぶりはつねに全力投球だった。

「どんな仕事にも手を抜かないし、絶対に愚痴を言わない。その代わり身体はボロボロでしたね。チュニジアでのCM撮影のとき、自ら黒く日焼けした感じにする必要があったんです。彼女はすでに、日本の日焼けサロンか何かで焼いてきていました。ですが、人工的に焼いたせいか、胸元の肌は綺麗には焼けず、痛々しく剥(む)けていた。仕事熱心な子だなと思いましたね。

 

一方で、遊びも忘れない。これは誰も知らない話ですが、その撮影の最後の夜に雅子ちゃんをディスコに誘い出したんです。踊っている雅子ちゃんの日焼けした唇が、照明の光に照らされて印象的に映りました」(カメラマンの田川清美氏)

 

高すぎるプロ意識とバイタリティが命を刻むことにつながってしまったとすれば、残念というほかない。

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そうだったのでありますか。夏目雅子さんのプロ意識とバイタリティが結果的に身体を蝕んだとすれば僕も残念だと思います。 話は変わるが、女性が自分の乳房を「見せる」と「見せない」のふたつに分かれるとすれば、夏目雅子さんは「見せてくれる」ほうであった。お父さんたちは目の保養になり、一種の清涼剤となった。われわれファンは、魅了してくれた夏目雅子さんを決して忘れることはないでしょう。

2010/10/19

昭和最後の美人女優・夏目雅子さんに感動

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写真家が驚いた気働き (田川清美)

オールドファンの記憶に鮮明に残っている1977年(昭和52年)のデビューCM「クッキーフェイス」の頃から折りに触れて撮影を続け、17回忌の2001年(平成13年)、写真集『HIMAWARI』を出した写真家の田川清美とは、東京・新宿のホテルで待ち合わせた。「僕は、アフリカのサハラ砂漠と、チュニジアの海辺で行われたあのCM撮影では、メインカメラマンのアシスタントとして参加したんです。彼女は当時、19歳。まだ本名の小達雅子という名前でした。

仲良くなって帰国後、六本木のレストランで二人で食事したのですが、その時、彼女がテーブルの下から一万円札をそっと渡してくれたんです。半人前の僕がお金のないのを知っていて、恥をかかせまいとしたんですね。年配の女性ならいざ知らず、まだ19歳の女の子が男性を立てる。あれはこたえました。このCM撮影は、当初、当時、フランスの有名俳優と二人でやる予定だったが、直前になってキャンセル。雅子一人で撮ることになったという。が、水着だけではパワーがない。そこで出た代案が、あの上半身裸、トップレスのポーズだった。

(このフランス人俳優、名前は公表されていないが、田川も雅子の兄、一雄も、ジャン・ポール・ベルモンドだと証言する。当時、二枚目のアラン・ドロンと人気を二分する個性派俳優。『勝手にしやがれ』など話題のヌーベルバーグ映画に出演していた)

田川はさらに続ける。

「突然、コンテ変更を打診された彼女は、その時、家に電話して相談もせず、自分一人で決め、“やります”と返事した。この決断の早さ。彼女をずっと見ていて感じるのは、必ず先に決め、コトを為(な)していく強さです」

この話には、後日談がある。

帰国してこのCMが流されると、今で言う大ブレーク。健康的な小麦色の肌とはちきれんばかりの笑顔のポスターは、貼っても貼っても盗まれた。だが、小達家では大騒動。中でも兄一雄は「何という格好をしているんだ。お前は小達家末代までの恥だ」と怒って雅子をこづいて階段から落とし、ケガまでさせてしまった。

田川の記憶では、また、こんなこともあった。映画『魚影の群れ』(1983年)のロケで青森県下北半島の民宿に泊まったときのこと。

「民宿のおやじさんが採れたての殻付きのウニを朝食に出してくれた。ところが彼女はウニが苦手らしくて食べられない。でもせっかくのご馳走を残しては申し訳ないと思ったのか、僕の皿に自分のウニをよこし、代わりに僕が食べた殻を自分の皿に置いたんです。この心遣い、この気働き。彼女はこういうことが自然に出来る子でした。僕は彼女の明るさと、こういう性格のよさが大好きでした」

実業之日本社発行 森英介・著 小達スエ(編集協力)   

優日雅 夏目雅子ふたたび」より抜粋しました。


2010/10/18

波瀾万丈の短い生涯、夏目雅子さんは 永遠に輝き続けてゆくことでしょう。

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あゝ 夏目雅子さん・・ weep

知人が語る「夏目雅子さんのエピソード」を読むたびに、僕はあなたの優しい気配りや心遣いに感動して涙してしまいました。改めて、 いい女優さんだったんだなぁと思います。

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伝説のエピソード

とにかく負けん気が強かった

『ザ・商社』のディレクター  和田勉さんを驚かせたライター事件

寂しがりやで、負けず嫌いで、茶目っ気があって、焼きもち焼きで、甘えん坊で、お酒が好きで、偉人・山頭火(さんとうか)を愛していた・・。

夏目雅子の死後、新聞や週刊誌など多くのマスコミがさまざまな追悼記事を書いた。出演した映画やテレビドラマでの演技など女優としての評価もさりながら、自由奔放な人間味を語るメディアも多かった。

その中で共通して際だつのは、負けず嫌いの激しい性格を指摘する声だった。彼女の素顔を知る人たちの中で語り継がれる伝説のエピソード、その一である。

夏目雅子は、1976年(昭和51年)、テレビドラマ『愛が見えますか』のヒロイン一般公募に合格し、本名・小達雅子でデビューした。

(そのとき、夏目雅子さんは18歳)

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翌年、『トラック野郎 男一匹桃次郎』のマドンナ役で映画に出たあと、カネボウ化粧品の夏のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで一躍世間の話題をさらった。

(夏目雅子さんは当時、19歳)

この時、夏の目玉商品で目が大きいということや、本人が好きだったお茶の棗(なつめ)から夏目雅子が芸名となった。

デビュー以来9年足らずの間に出演したのは、テレビドラマ50本、映画10本と4つの舞台。

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NHKドラマ『ザ・商社』1980年放送(夏目雅子さんが22歳の時)

スターの階段を駆け上がって行く中で、最も大きな転機になったのは1980年(昭和55年)のNHKテレビ『ザ・商社』と言われる。戦後最大の倒産事件と言われた安宅産業をモデルにした松本清張原作(『空の城』)のこの骨太5時間ドラマ。彼女は、主役の山崎努ら3人の男を踏み台にのし上がるピアニスト役。

初めてのヌードシーンもあった。それまでのお嬢さん役から脱皮し、女優として大きく開花したと言われる。この好演が『鬼龍院花子の生涯』(1982年)、『時代屋の女房』(1983年)、『瀬戸内少年野球団』(1984年)など話題の映画出演につながってゆく。

『ザ・商社』を担当したNHKの元チーフディレクター、和田勉(わだべん)に東京・日比谷公園のそばのレストランで会った。今回の「夏目雅子を探す旅」に欠かすことが出来ない登場人物の一人である。

芸術祭賞入賞11回。芸術祭男の異名を取った名物演出家も75歳(当時)。昼間からワインを傾けながら、思い出話は止まらなかった。夏目ファンには先刻承知のエピソードも多いだろうが、何度聞いても面白い話もある。

ヒロインに起用したその日のことを改めて話してください。

夏目に初めて会ったのは、『ザ・商社』のリハーサルまであと一週間という日。ヒロインの友人役のつもりでした。NHKの前にある喫茶店に行くと、カーリーヘアでジーパン姿の女の子がひとりで漫画を読んでいる。“あなたが夏目さん?”と声をかけると、満面の笑顔で“ハイ、そうです”と答え、いきなりアハハハと大声で笑った。

当時、僕はヒロインを探しあぐねていた。最初は浅丘ルリ子でやろうと思っていましたが、ヌードシーンが問題で、ぎりぎりまで決まらなかった。

夏目とドラマの話をしていると、

私、あと10年して30歳になったらこの役をやりたい

と台本のヒロイン役のところを指さした

それを見た僕は、

そうか、でも役者に明日はない。やりたいことは今やれっ 

口走っていました。

彼女は、

エーッと驚き、

本当ですか?とほっぺたをつねっていました。

そのときの彼女には、役を彼女に決めさせるオーラがあった。その後もいわく言い難いオーラがありましたね」

●彼女が自分のおっぱいを和田さんに見せた話。

「その裸のシーンを撮る1時間前、楽屋に僕を呼び、いきなり胸をはだけて、“夕べ、母に見せたら、小さいんじゃない? って言われました。これでいいですか?”

と聞いて来た。びっくりしましたが、よく見ると彼女は鼻の頭にうっすらと脂汗をかいていました」

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NHKドラマ『ザ・商社』1980年放送/ベッドシーンの前に、夏目雅子さんが服を脱いでオッパイを出しています。相手は山崎努さん。夏目雅子さんの女優としての将来性を見抜いた演出家の和田勉氏によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢されました。このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあり、オッパイを惜しげもなく堂々とみせる夏目雅子さんの迫真ある演技により女優としての評価を高めることに成功しました。

Natsume126_6 NHKドラマ『ザ・商社』1980年放送

●和田さんの目の前でライターを投げつけた事件について。

「負けん気の強さは相当なものでした。『ザ・商社』のあと、僕は81年に同じ松本清張原作の『けもの道』を撮ることになった。夏目は『ザ・商社』の評判がよかったことから、ヒロイン役は当然自分に来ると思っていたようです。しかし、僕は同じ役者とはほとんど続けてやったことがなく、名取裕子に決めました。ある日、夏目を帝国ホテルのロビーに呼び、“今度は名取でやるよ”と伝えた。すると夏目はいきなり持っていたピンク色の百円ライターを床に激しくたたきつけた。無念さをただちに表したことは他にもありましたが、これには一番驚いた。“ああ、お嬢さんだな”とも思った。もっとも、その怒りはそれだけで、後日『けもの道』の撮影を見学に来てましたけどね」

和田が目にしたのはもちろん彼女の戦闘的な面ばかりではない。

『ザ・商社』のころ、夜の六本木を二人で歩いた時、「手をつなごう」と言ったら「ダメ!」と言わず、腕を組んできて、笑いながら「許してあげる」と言った。「許す」というのは、とても可愛く、いい言葉だな、と印象に残っているという。

「夏目は、慣れるとよく相手の真似をした。僕がしかめ面をするとしかめ面、笑うと笑う。言葉でも、僕が何をくう? と聞くとスシをくう。何をたべますか? と聞くとローストビーフをたべますと答える。

このちょっとした“あたしがカガミになってあげる”というところが可愛いところだった」

実業之日本社発行 森英介・著 小達スエ(編集協力)      

優日雅 夏目雅子ふたたびより抜粋しました。

2010/10/17

あゝ 昭和最後の美人女優・夏目雅子さん

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一向に人気が衰えぬ美貌の夏目雅子さん。多くのファンに惜しまれながら逝った夏目雅子さん。若くして亡くなった歌手と女優さんは多いが、いつまでもファンの心に残るスターは指折り数えるほどに少ないのではないか。その点からいって、夏目雅子さんはダントツだろう。 ああ、夏目雅子さん。じつに、もったいない女優さんである。
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カネボウ化粧品のCMにノーブラで駆ける夏目雅子さん。年齢問わず多くの男性を魅了した女優さんでしたね。女性向けのCMなのに、僕たち男性は野性的に駆けるその夏目雅子さんの揺れるおっぱいが、すごく元気をくれました。外国の美しい海で撮ったポスターは貼っても貼ってもよく盗まれたそうだ。僕は盗んだことないけどね(笑)。

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見開きの紙面いっぱいに展開する夏目雅子さんの美しい裸体写真。けっして大きいほうではないが、ツンと上を向いた、なかなかいい形のおっぱいをしていて乳首も柔らかそうでいい。日焼けした胸にブラジャーのあとが残っていないのもまたいい。北アフリカ地方の海岸で撮ったという彼女のヌードが美しい。おっぱいを惜しげもなく堂々と見せてくれる彼女の女体美に拍手を送りたいと思うheart04。もう、これは天然記念物的であり、芸術品といえよう。夏目さん、頭が下がります。ありがとう。

(写真集HIMAWARIより)

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夏目雅子さんのアルバムです。

ほろりとさせられる夏目雅子さんのエピソード

人の名前を大切にした

夏目雅子さんが他界した直後、彼女のマネージャーをした内藤陽子さんが『婦人公論』に寄せた「女優夏目雅子を看取って」という追悼文の中にこんなくだりがある。

〈夏目雅子という女優は、決して作品数の多いほうではありません。むしろ、一作一作を大切にというのが事務所の方針でしたし、彼女もまたそんなタイプでした。(中略)

それでいて過去のどの作品にも縛られるということはありませんでした。ちょうど昆虫が脱皮を繰り返す様にも似て、一つ一つの作品はキラキラした抜け殻になって、すべり落ちてゆくようでした。後に残るのは、現場で培った人間関係だけ、などと本人も笑っていましたが、実際に雅子ちゃんほど共演者スタッフの方々から可愛がられ、愛された子はいないかも知れません〉

その人柄を証明する小さなエピソードが一つある。「新しい作品で仕事の現場に行くと、必ずスタッフ全員の名前を教えてくれ、と言うんです。照明部の若い助手から、カチンコをたたく新人の助監督まで何十人もいるんですよ。何故? と聞いたら、

“私は、〈ねえねえ、照明さん!〉なんて呼ぶのはイヤ。だって、その人には名前があるんだから、ちゃんと呼びたいの”と言うんです」

ウーン、私は思わずうなった。思っていてもなかなか出来ないこと。私などは人の名前はすぐ忘れてしまい、失礼を重ねてしまう。

優日雅 夏目雅子ふたたびより抜粋しました。

「いきなり名前を言われた方はびっくり、なんでオレたちの名前まで覚えていてくれるんだ、と感激しま す。それも、まだ仕事はスタートしたばかりなのに。でも、ときどき忘れて、あの人、なんて人だっけ? と聞きに来てた。私の方も覚えきれないから台本の下に書き込んだりして大変でした」と楽しそうに笑う。

だから、スタッフみんなに好かれる?

「そうです。あのころ若かったカチンコのお兄ちゃんたちも今では、みんな偉くなっているけど、いまだに彼女のことを想っていて伝説になっていくんです」

内藤陽子さんは「この名前の話はこれまでいろんな取材を受けてお話ししましたが、どこも取り上げなかった。彼女の人となりを知る上でとても大事なことだと思うのですがね」と付け加えた。

実業之日本社発行 森英介・著 小達スエ(編集協力) 

その本のあとがき奥付です。

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僕は夏目雅子さんの生き方に感嘆し、涙することもしばしばです。

 文字が小さくて読みづらいと思うので クリックすれば文字が大きくなるので、なんとか読めると思います。

 

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2010/10/02

夏目雅子さんの白血病との闘いと母の後悔

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上の写真は、前日(10月1日)の朝日新聞夕刊に載っていた記事を複写したものです。

血液のがんで夏目雅子が27歳で逝って、25年になる。当時、遠い世界の女優さんがさらに遠くへ旅立ったと感じたが、私自身が同世代でがんと向き合い、彼女の気持ちや残したものが気になるようになった。
雅子の兄、小達一雄(56)は、1985年の2月14日の夜、都内の病院で妹が見せた狂乱ぶりが忘れられないという。
初の座長公演が好評で、あすは中日という夜だった。体調の悪い雅子を診た医師が、入院を宣告する。雅子は「公演をやめろと言うなら死んでやる」と叫び、低いうなり声をあげた。なみだをぽろぽろ流す。病室の窓から外に飛ぼうとするのを、一雄は、夫の伊集院静か(60)と必死にとめた。
「妹のあんな声と姿は初めてだった。夢見ていた座長公演だったとはいえ、すごかった」急性骨髄性白血病。当時は不治の病と思われ、雅子には「重度の貧血」とだけ伝えられた。
18歳で役者デビューした雅子は、『西遊記』で三蔵法師を演じた。映画『鬼龍院花子の生涯』では、なめたらいかんぜよ、と啖呵を切る。『瀬戸内少年野球団』では教師役、白いユニホーム姿がまぶしかった。女優の頂点に駆け上がり、夢に手をかけたところで、引きずりおろされた入院だった。

一雄は母親のスエに尋ねた。
「おふくろ、新しい強い薬は髪が抜ける、どうしょう」「髪は女の命なんだ。まして女優なんだから、冗談じゃないわ」
スエと雅子は、旅も酒もいっしょ、夜中のトイレも誘い合う、仲の良い親子だった。母は、脱毛は娘の希望を砕き、再起を妨げると信じた。
だが、使った抗がん剤では効果が弱く、結局は強い新薬を使うことになる。スエは娘に、やっとの思いで脱毛の副作用を告げた。軽く笑い飛ばされた。
「ママ、なに言っているの。三蔵法師のときの坊主頭、覚えてないの。頭の形がいいとか色っぽいとか言われたじゃない」
スエは後悔した。しまった、早く使っておくんだった。
無菌化した花一つない白い壁に囲まれ、雅子は吐き気や倦怠感の副作用と闘った。「白血病か」と騒ぐので、スエは、テレビも雑誌も見せなかった。
白血病細胞が順調に消え、もう少しで退院も、というときに肺炎になり、息を引き取る。真冬の入院から7ヶ月、夏が終わっていた。
新薬を早く使っていれば、と悔いる母親に、一雄が提案し、93年、かつらを無料で貸し出す「夏目雅子ひまわり基金」ができた。患者とのやりとりに没頭したスエは、かっての自分を重ね、こう話していた。「脱毛ごときで治療を控えたり、つらい思いをしたりするなんて」
2年前、74歳で死去する。基金は一雄らが引き継ぎ、のべ約6500人が利用してきた。

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実業之日本社発行 森英介・著 小達スエ(編集協力) 優日雅 夏目雅子ふたたび」から転載致しました。

 

2010/03/29

もう一度会いたい 素顔の夏目雅子

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当ブログの記事「逝って24年、未だに眩しい夏目雅子」を2月13日に公開してから、1ヶ月と15日後に、テレビのBS朝日で「もう一度会いたい 素顔の夏目雅子」という題のドキュメント番組が放送された。

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急性骨髄性白血病に倒れ、1985年(昭和60年)に27歳で他界した夏目雅子さんの生い立ちや出演作にまつわる逸話を、親交のあった女優の中井貴恵さんがたどる、というものでした。中井貴恵さんはご存じ、佐田啓二さんの長女。中井貴恵さんは、映画監督、写真家、旧友、なじみの店の店主など多くの人を訪ね、夏目雅子さんの人柄を偲んだ。映画「瀬戸内少年野球団」の篠田正浩監督は、夏目さんの演じた主人公が、アメリカ文化への憧れと敗戦の傷という、戦後の日本の「明」と「暗」が共存する役柄であったと懐古するのであった。見応えのある番組でした。

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天真爛漫な夏目雅子さんの魅力。おっぱいがこぼれそうheart04。エッチとかすけべとか言うなかれ、女性のおっぱいには、安心感というかホッとさせるものがあるんですよ♪温かいおっぱいの谷間に顔をうずめていると気分がいいでしょうし、幸せを感じますね。母性のシンボルであるオッパイに心は癒されるのだろう。男はいつまでたっても赤ん坊です(笑)。われわれ男たちは男として生きていくことに疲れているのかもしれない。

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夏目雅子さんの美貌、才能、気さくさ、破天荒さを、笑顔や涙で語る人々の言葉には力があった。Dsc_0060
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もったいない、本当にもったいない。日本映画界は惜しい女優さんを失ったものです。早いもので逝ってから25年が経つというのに、人気は一向に衰えていない。ファンは忘れないんですね。

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夏目雅子さんは、俳句も得意だったんだ・・すごいね。

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病床の臨終で、夏目雅子さんは瞼(まぶた)を静かに閉じ、ふたたび開けることがなかった。あの美しい瞳は、もう二度と見ることはなかった・・と聞かされると涙がとまらないweep

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夏目雅子さんは男に元気(目の保養のこと)を与えてくれました♪目の保養は神様が与えてくれた本能、あるいは能力です。こういう 能力、つまり目の保養という本能がなくなるとき、男はボケが始まるのだろう。目の保養っていうのは、女体美だけでなく、風景、美術、花の観賞・・なども含めています。なにもエッチなことに限らないのです♪

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ある私鉄沿線の建売り住宅に住むたくましい女の子と隣の末っ子との心温まる交流。チャコちゃんシリーズ第二弾。夏目雅子さんがまだ小学生だったころ、このドラマを見て女優になりたいと言ったという。「小学生だった雅子が高輪に移った頃、「女優になりたい」と言ったことがあった。テレビの『チャコちゃん、 ハーイ!』を見ていたとき、内気な雅子がそう言うので、私は驚いてしまった。

「小達スエ・著「ふたりの雅子」(講談社1997年発行)より引用」

2010/02/13

逝って24年、いまだに眩(まぶ)しい夏目雅子

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逝きて24年。いまだに眩しい夏目雅子さん。魅惑の肉体を披露したカネボウのキャンペーンガールから大女優(ブルーリボン主演女優賞)へと有望なスターだっただけに、彼女の写真を見ると改めて惜しまれてならない。典型的な美人薄命である。写真は20歳のころの夏目雅子さん。もったいない女優さんである。

 

 

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懐かしのカネボウのキャンペーンガール・夏目雅子さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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20歳の頃の夏目雅子さん            ↑耳をひっぱっています、かわいい。

 

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夏目雅子さんは昭和32年(1957年)12月、東京生まれ。東京女学館短大在学中に日本テレビの愛がみえますか」のヒロインに応募、採用されて出演する。しばらくは主にテレビで活躍し、昭和55年(1980年)の二百三高地」の出征軍人の妻の役あたりから映画でも注目されるようになる。鬼龍院花子の生涯」(1982年)では主演で、なめたらあかんぜよの啖呵が受けたheart04

 瀬戸内野球少年団」(1984年)の敗戦直後の田舎の小学校の先生役もよかったが、素晴らしかったのは「魚影の群れ」(1983年)の三陸地方のマグロ獲り漁師の若い妻。ひたむきな熱演型の演技であるが、内からあふれる情感の素直さがあって将来の大器を思わせた。

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昭和60年(1985年)9月11日、27歳の若さで白血病のために亡くなった。あまりに若かったのでキャリアも少なく、映画不振の時代で作品も多くはないが、これほど惜しまれた新進女優も少ない。生まれてくる時代がちょっと遅かったか。昭和30年代・映画の黄金時代にいたら、間違いなく大女優になるはずだったと思う。残念である。

 

 

 

 

 

 

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わたし、脱いだらすごいのよ。

うーむ、いいですheart04 

 

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ノーブラ(トップレス)で海辺を駆ける夏目雅子さん。当時、世の男性を魅了させたものです。じつに開放的でいい。 

 

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ああ、夏目雅子さん・・

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