われわれは他人に対して改善案を提示しないことにしている。
あくまで問題点を攻撃するだけである。
これはいろんな理由があるであろう。
単にむかつくから攻撃するということもあるし、もしくは、善意に満ちあふれた態度で改善案を提案するのも恥ずかしい気がする。
実際のところ、お互いに人間性の改善案を提示し合う社会というのも、それはそれで気味が悪いし、大きなお世話というものであろう。
たとえば自閉的で注意欠陥の人間がいるとして、それは単にからかうしかないのである。
注意力がないことを善意で指摘し、出来るだけ周りを見るように促すということはない。
だから攻撃でしか関われないのである。
善意の押し売りで大きなお世話をすることはないわけである。

学校でも、教師以外に改善案を提示できる第三者が必要なのであろう。
教師はクラスの人間関係と一体化しているから、第三者ではない。
いじめられている人間は、たいてい教師から見ても変なのである。
発達障害者は、授業態度の悪さのポイントをすべて兼ね備えているのだから、教師も悪印象を持っており、それがいじめを助長するわけである。
この閉鎖的な世界を乗り越えるには、赤の他人として善意のアドバイスをする第三者が必要であろうと思う。
善意のアドバイスは人間の主体性を揺るがすものであるし、またわれわれの経験からして、下手くそほど他人に教えたがるというのがあるから、教えられたくないというのもあるが、これは技術の問題であろう。
教えたがる人ではなく、教える技術の高い人が職務として善意のアドバイスをするべきなのである。
フロイトという人間のクズのせいで、カウンセリングで無意識を分析するという変な迷信が跋扈したわけだが、治るどころか悪化している事例の方が多いわけである。
また神経症というのは、真面目な人間をさらに真面目にするという抑圧性の中で発生するのだから、最近の抑圧無き社会ではずいぶん減っているはずである。
元から間違いだらけなのに加えて時代にも合ってないのだから、フロイト精神分析は完全に葬り去るべきなのであり、またこれは自分語りの世界であるから、自己愛を強めるとも言えるし、自らの欠陥をスルーしてしまう危険性も高い。
何にせよ、(教えたがる人間ではなく)優れた第三者からアドバイスを貰うことがとても難しいので、われわれは欠陥を放置されながら、それを無意味な個性として引きずっていくしかないのである。







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