他人の手首は縦に切れ

他意はないです。

人間を傷つけるセックス

私には彼氏がいるらしい。

朝起きたらそこは知らない部屋のベッドの上で、隣には名前も知らない男が寝息を立てていた。案の定全裸である。もちろん私も。驚きや恐怖よりもまず先に、甘く重い眠気が優しく私を包み込んだ。私はゴミ箱を覗いたら二度寝しようと決めてずるずるとベッドから這い出る。ゴミ箱の中に口を結ばれたコンドームが二つ捨てられているのを確認して、私はまたゆっくりとベッドに沈んだ。

無機質なシーツをくしゃくしゃにしながら体温の残骸を探す。それと同時に今私が置かれている状況を理解する努力をしてみる。そうだ、私には今、好意を寄せている男がいる。男は素っ気なく不器用だが優しい。そしてとても魅力的な容姿をしていた。華奢でありながらもしっかりとした身体は薄く、透き通りそうなほど白い肌に長い黒髪が映り込みそうなほど美しい。長い手足がしなやかで、どうしたって色気が漂ってしまうのだ。だが一つの問題がある。それは、男は私のことをなんとも思っていないということだ。私がホテルに連れ込めばセックスに応じ、私が好きと言えば好きと答える。ただそれだけだったし男には他に似たような女がいるようだった。似たようなという表現は私の驕りかもしれない。もしかしたら、その女は私よりも大切に扱われているのかもしれない。怖い。男がそんな様子なので、私も心の中で仕方ないと悪態をつきながら毎日フラフラしている。その結果がこれである。ダメだ。何一つ現状を把握できない。

「ん……起きてたの?」
男が寝ぼけ眼で私を引き寄せる。どこかで見たことのある顔だな。誰だっけ。
「さっき起きた。ところで、えーっと、なんて言ったらいいのか」
私は素直に困惑しながら、できるだけ申し訳なさそうな顔を作る。男はだらしなく口元を緩めながら私の頭を撫でた。
「昨日は嬉しかったよ。日付が変わっていたから今日が記念日だね。約束通り、他の男とセックスしないでね」

今朝目覚めた瞬間に比べて100倍ほどのはてなマークが頭の中をぎゅうぎゅう詰めにした。どういうことだ?脳内で「嬉しかった」「記念日」「他の男とセックスしない」というワードを検索エンジンに打ち込むと「もしかして:交際」がサジェストされた。もしかして、交際?私が?この男と?いやいや。いやいやいや。そんなまさか。
「君が、うんって言ったんだよ。今更覚えてないって言っても無駄だからね」
いやいやいやいや。たじろぐ私を尻目に、男はベッドから起き上がり優雅にコーヒーを淹れ始めた。こんなことになるなら汚い路地裏でレイプされて放心状態のままアフターピルを買いに行くほうが気が楽なんだけど。私はとりあえず飲めないコーヒーの香りに気づかないふりをした。

その日以来、男はことあるごとに過干渉してきた。相変わらず私はあの朝以前の記憶がスッポリと抜け落ちたままで、ベッドの中で初対面の瞬間を迎えたことになっている。もちろん交際の意識も何も無い私は、例の好意を寄せている男に甲斐甲斐しく世話を焼いた。そしてそれを見た男があからさまに不機嫌になる。
「俺がいるんだから、そういうのやめてよ」
「どうして?別に私たち付き合ってるわけじゃ」
「付き合ってる!」
男は大きな声を出す。私はびっくりしてしまって動きが止まる。不思議なことに何も言い返せなくなるのだ。そうすると男は悲しそうな顔で私の頭を撫でる。こんなやり取りが10回ほどあり、初めて会った朝から一ヶ月が経とうとしていた。



珍しく寝覚めが良い。今日は例の好意を寄せている男と予定がある日だからだ。当然あのよくわからない自称彼氏には言っていない。大きな声を出されると何も言えなくなるが、私が交際したいのはこれから会う予定の男なのだ。一番好きなのもその男なわけで、つまり、奴はなんなのだろう。

正直言ってあの男のことは好きでも嫌いでもない。無害であれば居ても構わないが、私の生活や精神状態に悪影響を与えるのならばすぐに関係を切ってしまいたい。本命までとは言わないが、この男に対する好意が少しでも私の中で確認できれば、もう少し男に優しくなれるのかもしれない。だが私の中には男に対する気味の悪さと嫌悪感しか見当たらない上に男のささいな言動は悉く私の癇に障り、その度に私は故意に男を傷付けた。そんな自分が嫌になって何度も男に理解してもらうために説明したことがある。

「あの、もうやめない?」
「何が?」
「えーと、だから、この関係」
どうしても交際を認めたくない私は「別れる」という言葉を使うことが腑に落ちなくて言い淀んだ。男はいつものように目を伏せてコーヒーを啜る。
「私は他に好きな人がいるんだよ。だからあなたとは付き合えない」
「やっぱり嘘吐いてたんだね。じゃあ俺のことはどう思ってるの?」
「……よくわからない」
「好きか嫌いなら?」
「嫌いなわけじゃないけど……」
まずい。どんどん男のペースに飲まれている気がする。
「じゃあ好きなんだね。俺も好きだよ。両思いじゃん。それなら別れる必要無いよね?」
「いや、だから、他に好きな人がいる」
「じゃあその人と付き合えるまで、俺と付き合ってよ」
「い、いやだ」
「どうして!」
私は黙り込む。大きな声を出さないでほしい。
「俺のこと嫌いなわけじゃないんでしょ。ならいいじゃん。好きな人と付き合えるまで俺と一緒に居ても。俺も、もうわかった。めんどうなことは言わないよ。ね、それでいいじゃん」

結局、何度説明しても無駄だった。それどころかあの日の夜、私が何を言ったのかと問い詰めても教えようとしない。確かに別れなくても問題は無いかもしれないがなんだか居心地が悪い。まだ痛みがない親知らずみたいだ。

まずい。そんなこと今はどうでもいい。約束の時間に遅れてしまう。姿見で最終チェックを済ませ、意気揚々と玄関を出た私の目の前には自称彼氏が立っていた。

「どこ行くの?かわいい格好して」
「……あんたこそなんでここにいんの」
「デート?」

どいてよ。約束の時間に遅れちゃうんだけど。

「俺は言いたいことを言いに来ただけだよ。お前さ、最初に寝た夜のこと聞きたがってたよな。信じるか信じないかは任せるけど、その話をしてやろうと思って。まず飯食ってる時にお前がこの後ホテル行きたいっつったんだわ。俺がまだ付き合ってもいないのにダメだって言ったら、私のこと嫌い?って訊いてきたの。俺は、まぁ確かに本音はセックスしたかったけど、お前しかいなくて、お前のことだけが本当に好きだったから、うんって返した。じゃあいいじゃんって、私も好きだよってお前が言ったから、二人でホテルに行った。俺、セックスする前に何回も言ったし訊いたよ。真剣にお前のことが好きだから付き合おうって。私も私もって、お前はそれしか言わなかったから、もうどうでもいいやって。俺、本当に真剣だったんだよ。お前はそういうの慣れてるのかもしれないけど、好きな人が他の男とセックスするとか絶対無理じゃん。嫌だよ。それでもお前は私も好きだよとか他の男とセックスしないよとか言ったの。覚えてないんだろ。お前にとってそんなのどうでもいいんだろ。俺はどうでもよくない、どうでもよくなかったの。な。そういうこと。でももういいよ。お前の好きな男さ、さっき他の女とホテル入ってったよ。それ見てどうでもよくなった。お前も可哀想だよな。今電話してみろよ。多分出ないと思うけど。それだけ。じゃあな」

男の声はとても静かだったが私は一歩も動けなかった。