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これまでの吟醸酒これからの吟醸酒

以下は日本醸友会で新城相談役(前理事長)が行った講演です。なお、日本醸友会は醸造業界の調査・研究発表や醸造技術者の交流を図り、醸造技術の進歩発展などを国内外に広く啓蒙しようとする団体です。


これまでの吟醸酒これからの吟醸酒

日本吟醸酒協会相談役 新城猪之吉


衣山 定刻になりましたのでシンポジウムを始めます。おはようございます。講師の新城先生を始め会場の皆さまには早朝からのご出席、誠にありがとうございます。ただいまから第五十回社団法人日本醸友会シンポジウムを開催いたします。


申し遅れましたが、私は本会の常務理事を承っております衣山と申します。よろしくお願いいたします。


今回のテーマは平たく申しますと、普段われわれが日本を代表する酒の文化と考えている清酒について、製造者の立場で現在どのように認識され、将来あるべき姿をどのように考えておられるかということについて、それぞれに率直なご意見を拝聴し、皆で勉強したいと企画しております。


「清酒」と一言で言いましてもさまざまで、現在、国と業界が消費者のために定めた製法品質表示基準があります。それらさまざまな製造法がありますが、勝手ながら私どもで日本酒文化を代表すると思われる吟醸酒、純米酒、長期熟成酒を選んでそれぞれの代表的な製造者の皆さんからご高説を拝聴することにいたしました。


これらのお酒は、皆さま方ご存じのとおり製法品質表示基準の中での優等生であり、よい原料を使い高度の技術と労働力を要するのでコストが高いものです。しかし価格が高くても消費者は気に入れば求めてくれる。その消費者をどうやって見つけるのかということも一つのテーマだろうと考えます。


本日はそれぞれにお忙しいところをご出席いただき、しかも非常に難しいテーマを限られた時間でご発表いただく次第ですが、よろしくご講演をお願いいたします。


まず、最初の演者である新城先生をご紹介いたします。


簡単にご経歴を申し上げますと、新城先生には1950年のお生まれで、1974年に慶應大学法学部政治学科をご卒業になりました。たぶん政治家を志しておられた時期があったのではないかと思いますが、大学をご卒業後協和発酵にご入社になりました。1979年にご自分のお家の会社である末廣酒造に入られました。1994年に代表取締役社長に就任されて現在に至っております。今年、平成二十二年から福島県酒造組合の会長もしておられ、公私ともにたいへんお忙しい立場でいらっしゃいます。


それでは先生、よろしくお願いいたします。


新城 ただいまご紹介いただきました「日本吟醸酒協会相談役新城猪之吉」という肩書きでやって参りました。私のことについては、今、衣山先生からご紹介いただきましたように地元の会津若松の末廣酒造という蔵元の七代目で県の酒造組合の理事長を今年から拝命いたしました。「こんなときに」とよく言われますが、誰かがやらなければいけないし、まだまだやらなければいけない組合としての仕事もあります。今日、本来は吟醸酒協会の現在の理事長の仲野益美君が来て講演する予定でしたが、益美君が海外出張でいませんので代わりに前理事長の私にいってくれということで、急きょやって参りました。


私も一般の人の前で冗談混じりに言うことはありますが、プロの前で話すというこんなやりにくいことはない。特にこんな雰囲気の会場の中では話しにくいと思いつつ、データ的なことは言えません。今日のためにちょっと勉強してきた話と、あとは吟醸酒協会の仲間と話し合っていることを若干申し上げたいと思います。


吟醸酒の歴史をひもとくと、昔の言葉の中に「吟造」という字もありました。実際、「吟醸」という言葉が文献に現れたのは明治二十七年に新潟の岸五郎という酒屋が、「酒造のともしび」の中で使ったのが最初ではないかといわれています。


吟醸酒協会の勉強会で初めて知ったのが広島の三浦仙三郎という酒屋の歴史です。岡山の池田明子というノンフィクション作家が、時事通信社から2001年に出した『吟醸酒を創った男「百試千改」への記録』の中に三浦仙三郎のことがこと細かく書いてありました。彼の造りの歴史が吟醸酒の一つのベースになってきたのではないかということが読んでいるうちにわかりました。三浦さんのいちばんの根本は、腐造が多い中、腐蔵しない酒をどうやって造るかというのが最初の闘いだったようです。その中で水の問題もある。軟水と硬水。京都の蔵元の大八木さんが、「こういう米にはこちらの水だ」とおっしゃっている中でそうかなということと、吟醸酒に一つ必要な低温発酵に関しても、たまたま冷え込んだときの醪の経過との闘いの中でできたのが一つの吟醸酒のかたちだったのだろうと本に書いてありました。そういう時代の中で吟醸酒のもとになる部分が育ってきたことを私自身も学びました。


まず大事なことは、明治三十七年五月九日に滝野川に醸造試験所ができたことです。当時は酒税が国税の中でいちばん大きなウエイトを占めていたので、国としてはもっと税金を稼ごうということでつくった機関です。今は独立法人化されてわれわれメーカーの仕事はやりたくないと言われるように環境が変わりました。酒税も少なくなってしまいましたので大きく変わりましたが、当時はそういうかたちで開設されて醸造協会が明治三十九年一月にできました。それを受けて明治四十年に醸造協会主催の第一回清酒品評会が行われたと書いてあります。その中ですごいのは、その当時でさえ出品数が2138点、参加人員が1886名、出品地域がすごいことに「全帝国」と書いてあります。そのころの日本地図は日本本土以外も赤く染まっていておもしろいものだと思いましたが、その全帝国から出品された中で優等賞が五点。それまでお酒の基本的なベースになっていたのは灘、伏見の酒であった中で、三浦さんが広島の酒屋でそういう勉強をしてきたことがあると思いますが、龍勢、三谷春という広島の酒が一位、二位を占めたことは酒の品質競争のいちばんの大きな要素だと。そして冨の寿が三位、兵庫の高賞が四位に入った。これがスタートだというところにやはり歴史的な大きな意義があるのではないかと思っています。


審査員が先生ばかりでおかしい、酒造家や仲買人を入れるべきだという声の中で、二回目にうちの四代目の名前が入っていました。父からは聞いていましたが、うちの四代目は利き酒がすごかったということで選ばれています。そのときに優等賞に三浦仙三郎の子供の蔵が入ったことが大きな歴史的流れの第一歩だと学びました。


同時に明治四十一年に醸造試験所が主催した第一回新酒鑑評会が行われたということで調べたら出品はただの27点、参加蔵元17場という寂しい限りのスタートでした。聞きますと当時は原料米に雄町を使うといい酒になるということで東北では雄町はもらえない。私の祖父の記録によると、明治四十年ごろ秋田で亀の尾をつかったところがのちに賞に入るようになったと聞いて、会津でも亀の尾の栽培が始まったと聞いております。山田錦は昭和に入らないと生まれていませんが、そういう米の変遷があり、もう一つ大きな要素は昭和五年、広島の佐竹製作所が竪型精米機をつくったという歴史的な流れがあり、途中の鑑評会が競争激化していく中で競争は必要ですが、過度になると、こういうレベルは排除しようとか、いろいろな動きの中で活性炭が生まれて真っ白の味も素っ気もない酒が鑑評会で入るようになったとか、いろいろな歴史があるようですが、戦争前の昭和十三年には中止になり昭和三十五年に醸造協会主催のものは幕を閉じた。しかし醸造試験所の全国新酒鑑評会は続いたということです。


私自身、会社の歴史の中に昭和三十年代に全国新酒鑑評会で金賞をもらったデータが残っていますが、現実、その酒そのものはどこに消えたか。うちの蔵だけではなくていろいろな蔵で創っていながらも出せないで深く眠ったままずっと経過してきました。それがどの時点で表に出てくるようになったか。


その前に、私自身が吟醸酒とどのように触れあってかというと、昭和五十三年に試験所に入りました。その当時布川先生の下で勉強するといっても、協和発酵時代、私はセールスをやっていました。学校も政治学科です。先ほど先生がおしゃっていましたが、別に政治学科を目指していたわけではなくてそこしか入れなかったのです。そこに入って政治家になろうとはまったく思いませんでした。政治家になるほど莫迦ではないというと怒られますが、政治家の道は私とは違う世界だといつも思っています。ただし政治家をつくるのは好きです。田舎に帰って、「おまえ、やれ」と言うのはおもしろくてやっていますが他はやりません。


協和発酵ではワインと焼酎を売れということで、五年間そればかり売っていました。小学校時代からずっと父親の晩酌、蔵人にもらう茶碗酒が大好きでした。飯を食ったあと蔵の中に入ってみんなが茶碗酒を飲んでいるところで一緒に飲むのです。そういう環境で育ってきました。ところが協和発酵に入ってワインと焼酎を売れと言われまして、当然毎晩、飲食店フォローでワインと焼酎しか飲んでいない。日本酒を飲む時間がない環境の中で五年間を過ごしました。そして醸造試験所に入って日本酒を飲んだときに甘くて飲めない。こんな甘かったのかと痛感したことがありました。


そのとき、たまたま先生が吟醸酒を講義として初めて教えてくれました。うちの先生はいろいろなかたちでチャレンジしようということで、麹をつくるのがいちばん大変だから、力価だけ調べて酵素だけで吟醸酒を造る実験をしてみごとに大失敗しました。


試験所にいた人はわかるでしょうが、造った酒を次の年の研究生が飲むのです。搾ったときにこんな酒を飲むのはかわいそうと思いました。失敗のもとはある仲間が濾過ペットを落としたのです。それを放っておけばいいのに、取らなければと思って毎晩行ってはかき混ぜていた。かき混ぜ過ぎが失敗のもとでした。そんなときに研究室に越乃寒梅の本醸造が置いてありました。それを飲んだときのショック。あぁ、すごい。「これが吟醸酒だ」と言われたときにたいへん驚きました。


このときに第七研究室の永谷先生がこれから「幻の日本酒を飲む会」に行くと言われたので連れて行ってほしいと言ったところ、おまえのところは蔵が大きいからだめだと意味不明なことを言われて連れて行ってもらえませんでした。そのあと篠田先生が出たNHKの番組を見ていろいろ話を聞いてそういうことだったのかと思いましたが、思い出すとあれがそういうときだったのだなと思いました。


そして昭和五十四年に帰って、どうしても吟醸酒を造りたい。昭和三十年代から来ている蔵人が二人いたので、「吟醸酒を造ろう、覚えているか」といったら「覚えてる」と言ったのですが、いざ麹造りをしたら全然覚えていなかった。麹蓋の扱いまで覚えていなくて、苦労して出来上がったのはただのきれいな薄い酒。それが私の吟醸造りの始まりでした。きれいだけれども味も素っ気もない薄い酒で、麹造りが全然だめだと言われました。


そして手に入る米も背が低くて粒も小さな地元の五百万石。五百万石とは名ばかりの米しか手に入りませんでしたから、削るにも限度があり50%しか削れませんでしたのでなかなかいい酒ができない。やはり山田錦しかないと言って、父親が兵庫県の経済連に一生懸命通って、やっと山田錦をもらって造ったとたんに金賞をもらいました。


父親は嬉しくて、「本当か」と杜氏のほっぺたをばしんとひっぱたいて、「金賞だよな」と欣喜雀躍、飛び上がって喜んだのを今でも覚えています。過去の歴史はありましたが、意識して吟醸酒を造って一つのかたちができた大きな喜びの瞬間でした。


金賞をもらったときに税務署から「これは一級酒以上で出すように」という通達が来ました。売るときにそのまま出したら「一級審査不合格」という通知が来ました。なぜかと聞いたら、色が付いているからだと。色を取れと。吟醸酒で出品してアンバーグラスで飲んで色は関係ないと言うことでやったのに、突然級別審査ではねられた。税務署の命令は一級以上で売れということでしたが最初は普通酒で売りました。吟醸のかたちと税務署の指導が非常にずれていて、チェックする先生もわかっているはずなのに、なぜそういう差がことが起きたのか。そういう不思議な思いをしたことがあります。


金賞をもらったときに篠田先生から声をかけていただいたのが吟醸酒協会に入るきっかけになりました。先ほど申し上げた「幻の日本酒を飲む会」の篠田次郎さんは麹室の設計などされていた先生で、たまたま福島大学を出られて会津のある蔵の室を設計されていました。そういう縁があり金賞をもらったとたんに電話がかかってきて吟醸酒協会に入れと言われて入りました。


その吟醸酒協会とはいったいどういうものか。昭和五十六年に国内に吟醸酒を普及させたい蔵元43社が手を上げてスタートしました。最初は龍力の本田さんに会長を十年間務めていただきました。吟醸酒協会の運動として吟醸酒の夕べを開催して、一般のお客さんを呼ぶ小さな会でしたが、毎年回を重ねるごとに大きな会になっていきました。そのときに全国新酒鑑評会にも大きな変化が表れました。私が試験所にいた頃はだいぶ人数が増えてきましたが、そのあとどんどん増えて行列ができました。


蔵に帰ってから東京に末廣を売り込みに行ってある地区を回ったときに、「福島県の酒、煮酒か。煮酒なら買ってもいいぞ」と言われたときの悔しさ。福島県はいつの間か駄酒の代名詞と、ある業務酒販店に言われました。「安い酒なら買ってもいい」と言われた時代があり非常に悔しい思いをしました。


当時福島の国権の大木杜氏という有名な南部杜氏がいらして、私の昭和五十九年の前に四年間連続して(金賞を)取って、そのあとうちが五年連続。しかし五年連続の間に県内では1社か2社しか金賞を取る蔵がない。昭和六十年代に入ると、全国の有名なブランドがどんどん続出する中で福島県は遅れていた。何とかがんばらなければというときに、うちがやっと山田錦をもらい始めて量が増えてきて、お客さんに応えられるほどの量で売れるというときに父親は何をしたかというと、もらってきた米を地元のメーカーに分けて吟醸酒を造らせたのです。そのときにけんかをしました。どうして人のためにやるのかと言ったときに父は「ばかやろう。うちだけが吟醸酒を造ってもしょうがない。会津で吟醸酒造りが盛んにならないことにはどうにもならない」と言って山田錦を配りました。しかしそのときのメーカーからは「なぜ、末廣ばかり山田錦をもらって金賞をもらうのか。ずるい」としか言われませんでした。


それでなんとか少しずつ火が付いてきて、全国新酒鑑評会も徹夜並んだ覚えがあります。われわれの若手の会で椅子を買って門の前で座って徹夜した懐かしい思い出があります。しかし勢いばかりで金賞の数はちっとも増えずに寂しい思いをした思い出も多くあります。


私は吟醸酒協会に入っていたのですが、ブームの中で吟醸酒協会に入りたいというメーカーがどんどん出てきたので一県3社までとしました。途中から4社に変えましたが、県の蔵元が推薦すれば入ってもいいという条件付きで、金賞を取った蔵に限るということにしました。入りたい人がたくさんいて断ったのです。ただ蔵元によっては「あいつが入ることは許さない」と言う人もいます。横のライバル同士でそういう関係もありましたから、入れない人もいましたが、あっという間に100社近くになってしまいました。上限を設けて100社以内にしようということでやっていた吟醸酒隆盛の時代がありました。


しかしバブルがはじけ、吟醸酒ブームにも陰りが出始めました。吟醸酒はそれなりの値段でしたから、吟醸酒ブームが好景気の裏にあったことは事実です。それがスーッと落ちていったときに何が起きたか。


それから吟醸酒協会の試みとして、最初は料理を出してお酒を出す。各メーカーの酒を飲んでもらう展開にして、会場も変えてきました。しかしあるとき料理のクレームばかり出る。いくら料理を出しても、あっという間に食べられてしまう。吟醸酒協会は一つだけ大きな過ちをしました。最初に来た人が料理を全部食べてしまう。だから30分遅れてきた人は料理が何もない。それだったら煎餅を出そうとだれかが言い出して煎餅を出したんですが、これは大きな間違いでした。会場中煎餅くさい。ばりばりかじっている音と酒を飲む音と異様な風景でした。虎ノ門の東京農林年金会館でやったのですが、吟醸酒協会のイベントとしては香りをまったく台無しにする最悪のイベントになってしまいました。吟醸酒をもっと売ればいいというときにそのようにいろいろな問題が起きました。


吟醸酒は香りが大きな特徴です。私はワインを習っていたのですが、香りを表現するのにパフュームとかアロマ、ブーケなどのいろいろな香りの分類があって、その中でほめ言葉がたくさんある。しかし日本酒の表現は、「におい」と「香り」。「におい」というとくさいイメージで、「香り」というといいイメージです。でも「いい香り」だけで終わってしまう。日本料理の繊細さ、いろいろな意味の繊細な感覚があるのに、なぜ香りに関しての繊細なる表現が足りないのかとつくづく思いました。吟醸酒だっていろいろな香りがするではないか。それを「いい香り」という言葉だけではなくて、もっと具体的にどんどん広める必要があることをあらためて痛感しました。
ワインも第一次ワインブーム、第二次ワインブーム、第三次ワインブームが起きたのですが、おもしろいことに吟醸酒が好きな人はワインも好きです。


私も協和発酵で麦焼酎を売っていたことがありますが、東京では「くさい」と言われて売れませんでした。いちばん売れている「さつま白波」を飲んでみろといわれたときに、この香りは薩摩の人しかわからないと言って飲んでいた時代がありましたが、途中で蒸留法の変化によって香りも大きく変わりました。昔は「におい」だったような気がしますが、焼酎も「香り」に大きく変わりました。香りが持っている飲み物に対する拡がりがどんどん大きくなっていたのを痛感しながらも、さぁ、吟醸酒はどうかということでした。


吟醸酒ブームの中で起きた一つの事件は、ビールメーカーが吟醸ビール、吟ビールを出したのです。吟醸酒協会としては抗議すべきだと理事会で大いにもめて提言書を各ビールメーカーに出そうというところまでやったのですが、残念ながら至らず、理事会だけのもめ事で終わってしまいました(事務局註:平成二年秋に「吟」を名称に使ったビールが新商品として登場したのに対し、翌三年一月九日に緊急理事会を開き、日本酒造組合中央会および国税庁への陳情と二つのメーカーへ「吟」使用撤回を決め、これを実行した)。そのように人に使われるほど価値があるものだと思いました。


それとビールメーカーにいつもやられているのですが、「一番搾り」だってビールメーカーにはないではないかと思っていたんですが、清酒メーカーで使っていたものをビールメーカーが使う。清酒で使う言葉をうまくビールで表現してどんどん広まっていく。マーケティング力において日本酒のやっていることはまだまだ個の闘いであって、相対的に広めなければいけない部分の展開ができていませんでした。吟醸酒協会一つの力ではなくて中央会全体でどうすべきかということが大きく問われていたのが、吟醸酒の一つのおおきなあれだろうと思っています。
ブームの中で私も鑑評会に行って広島にも通いました。昔、広島の賀茂鶴を代表するあの味わいに感動し、金沢局の濃いのに感動したのですが、ある時突然感動しなくなりました。そのときにある先生に、最近は鑑評会で飲んでも感動しないのはなぜかと聞いたら、「感動は別の表現であって、鑑評会は欠点をいかになくすかだ。感動は欠点をマスキングすることで欠点はある。鑑評会の酒は欠点をなくすのだからそういうものだ」と言われたときに、そうかと思いながら、昔は自分で感動してこういう酒が造りたい、これを目標にしたいというものがありましたが、自分で金賞連続を重ねながら不思議だなという思いがしました。


それと「新酒鑑評会」という名前をなぜいつまでも付けているのか。なぜかと言うと、「新酒」という言葉からくるイメージと、吟醸酒の鑑評会で賞をもらった酒、早く火入れしろ、熟成をかけろ、渋、苦を早く消すために熟成をかけるという出品テクニックを聞くにつれ、何か違うのではないかと。


ワインだとネゴシアンが出来たワインを飲んで将来性を認める。今年のこの出来のワインだと二十年後この熟成でこうなるからこれは買いだと値段を付けていくということを習ったときに、消えないものもありますが、渋、苦が味の膨らみになるんだという読みの部分はあり得ないのだろうかと、素人考えですが、つくづく思いました。新酒鑑評会ではなく、もっと違う鑑評会ができないかという思いをよくしていました。


別の意味でそれを解消してくれたのが全米歓評会であり、市販酒の吟醸酒などを審査する会であり、インターナショナル・ワイン・チャレンジ・イン・ロンドンとか海外の審査会において初めてそうではない部分は生まれましたが、いちばん大事な全国新酒鑑評会においての評価のあり方はどうなのかというのはまだまだ疑問に思っている次第です。


なぜかと言うと、今、日本酒がいろいろな国に飛んでいけるようになりました。私が十八年前に香りのことを理解するのはフランスだと言うことでフランスに渡ってフランス人に飲んでもらったところ、「トレビアン。おいしい。この果物香りは何だ。説明しろ」と。フランス語はわからないので、英語で説明しようと思いましたが難しいですね。米からなぜフルーツの香りがするのかという説明はいくらしてもわかりませんでしたし、麹の説明が非常に難しい。「かびの一種だ」と言えば言うほどわからなくなる。今は「麹」という言葉を覚えてもらっています。外国人に飲ませて感動するのはやはり吟醸酒です。これはすばらしいとつくづく思いました。


これからの吟醸酒の話も、今、併せてしていますが、残念ながら近年ずっと低成長の中で、その前から起きていましたが、吟醸酒が過激な競争にどんどん入っていく中で「吟醸酒」という名前が付いていて一升瓶で1500円ぐらいのものが出回る。飲んでみると「本当か」という酒と、小さな蔵では「純米」としか書いていないけれども飲み口は吟醸酒というものも生まれました。
それと囲い込みというかプレミアムが付いて、なぜこれが2万5千円するのかというもの。それからこの酒を買うのに純米酒を10本買わされたというような、メーカーによってはそれはないだろうという販売をされた方もいて非常に残念なことだと思います。


今申し上げましたが欠点が三つある。名ばかりの吟醸酒、それと囲い込み。もう一つは料飲店の価格がどうしても高すぎる。3倍はざらですが不思議なことにアメリカに渡る途中で税金がしっかりかかって、流通も二つ、三つしっかりかかっているのに(アメリカの飲食店での価格は)日本の価格の3倍とだいたい同じなのです。なぜ日本で3倍も取るのか。高いものを高くするという理屈はわかりますが、そこまで高くしなくてもいいだろうとつくづく思います。


ただ吟醸酒のマーケットをいたずらに拡大する必要はないと思います。いちばん上の5%。それを支えて一般的に飲んでほしいと思う純米酒のレベルは、普通に料理を食べておいしいと拡がっていく世界だろうと思っています。ピラミッドが全部吟醸酒である世界を考える方がおかしいと思うので、いちばん上の権威の部分のサイズをどう守っていくのか。篠田先生がよく言っていましたが、権威の部分を守りながらどう拡大していくか、まだまだ知らない人がたくさんいる。この前、渋谷のホテルでやった福島県の夕べに700人も来てくれましたが、初めて来た人が半分、女性も半分でした。吟醸酒を飲んでくれました。福島県が二回目の日本一になったということで、たいした広告もしないのにネットだけの告知でこんなに来てくれた中で、飲んでいない人がいるのです。だから飲んで一ない人のマーケットは大きい。外国においても吟醸酒を飲んでいるのは金持ち層だけですが、世界中のマーケットにいけば、5%のマーケットにしてもまだまだ拡大の余地はあると思っています。底辺までしなくてもいい。


他の部分でもよくあります。マツタケをマイタケと同じように工場で作ってくれるなとか。量を拡大することによって何が起きるか。やはりそれは違うだろうと。吟醸酒も名ばかりの安い吟醸酒をどんどん造るのもおかしいと思っています。


大事なことは、お酒をどう飲んでもらうかという部分において、当然おいしく飲んでもらう。これもメーカーの非常に悪い点だと思うのは、吟醸酒はやはりちょっと冷えている方がおいしい。冷えすぎたら香りが楽しめないという部分があります。われわれの酒の会においても温度が上がっているのを放っておく。お客さんにどうおいしく飲んでもらうかという心得が足りない。
それと日本酒だけが持っているお燗も、純米吟醸などの香りが比較的穏やかなものに関しては、お燗をして飲むと膨らみ方がまた違うので、おいしい飲み方をまだまだ告知しなければならない。


からわれわれの吟醸酒協会は、前は80社以上でひしめき合っていたんですが、今は毎年辞める人が出てきて歯抜け状態になってきて53社(2011年5月現在)ぐらいになりました。吟醸のことはみんな知っていると思っても、二十歳の人たちを含めて新しいマーケット、海外もそうですし、若手層、女性層に対して普及活動を進めていない。全体でまだまだ普及していこうというときに自分にメリットがない、会費が高いから、と辞めていく人たちがいて非常に残念でなりません。われわれ吟醸酒を大事に育てていく。これから低成長下においての日本酒の売り方の大事な活動だと思います。


話があちこち飛んでしまいましたが、私の提言とさせていただきます。ご静聴どうもありがとうございました。

 

衣山 どうもありがとうございました。会場からご質問なりご意見がありましたらお願いいたします。


戸塚 新城会長、いつも吟醸酒協会の活動でご尽力され、いろいろな催しを通して吟醸酒の一般消費者に対する知識の普及等に努めていただき、非常にありがたく思っています。今後ともひとつがんばっていただきたいと思います。


日本酒とワインとの関係についてのお話でおっしゃったワインの「香り」の話ですが、言葉遊びあるいはソムリエが消費者にサービスする際の表現であって、ワイン関係の技術者は普段は使いません。今日は来場者にも技術者の方が多いので申し上げておきますが、ワインに関しても技術者同士で酒質について語るときは清酒と同じように技術用語を用いて討論、議論を行います。しかし、いざパーティになると一転してソムリエと同じようにほめ言葉、あるいは花の香り等を使って表現する、というように技術面での議論とは一変し、飲むときは「場」の雰囲気に応じて話題を提供するのが非常に上手です。その点、清酒の技術者は、この次ぎに長期熟成酒のお話しもありますが、私が熟成香と思うものでも若い人の多くが「老ね香」だと一言で言っておしまいにしてしまう。そのあたり言葉の使い方が非常に下手だと思います。今日のご講演を機会に技術者も、パーティ等ではワインの技術者と同じように言葉の使い方を多様化して、特に吟醸酒はすばらしいお酒ですから、酒類市場を引っ張っていく機関車の一つとして清酒の需要を育てていただくようにお願いしたいと思います。今日は新城さんのお話を大変興味深く伺いました。ありがとうございました。


新城 ありがとうございました。まさか試験所時代の先生に質問されるとは思いませんでした。はらはらどきどき、私にワインと日本酒のいろいろな比較を教えてくれた先生ですので、やばいと思いましたが、ありがとうございました。がんばります。


衣山 ワインの香りの表現ですか。言葉ですね。俳句、和歌など美しい言葉によって人間の感性を引き出す文化が盛んですが、やはりあれは先天的に言葉の上手な人々だと思います。だから歌を詠む人を探して吟醸酒を飲んでいただいて、どういうさけか表現してもらったらおもしろいのではないかという感じがします。


新城 ありがとうございました。いつも税務署に文句を言うのですが、向こうの国では(熟成中に水分、アルコール分が蒸発して酒が目減りすることを)「天使の分け前」といっているのに、日本ではなぜ「亡失」という恐ろしい言葉を使うのか。「天使の分け前」のほうが美しくてかわいいといつも思います。税務署用語と酒のいろいろな用語が混在しているのが過ちのような気がしないでもありません。以上です。ありがとうございました。