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生活の冒険

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#001 書く、書かない問題 2009.5.13 WED


■高校生の頃、趣味で文芸同人誌の編集をした。 僕は編集長だ。 ただし、長といっても偉くはない。 編集をしたのは僕一人だ。執筆を頼んだのは4人。 皆頭が良さそうだったし、実際良かった。 話も面白かったし、本も良く読んでいた。 それで小説か、エッセイを頼んだのだ。皆、引き受けた。 これで僕は編集が出来るぞと思ってウキウキした。 レイアウトシートなども用意した。 だが、すぐに問題が起こる。

■書かないのだ。 誰も書かないのだ。 一人もだよ。書くっていったのに。そんなのあるか。勿論、 催促をする。いったい、いつになったら書くのか。 すると皆、ハンでついたように同じ事を言うのだ。
「・・・書けない」(ため息をハァ、とつく)。

■だって打ち合わせをしたじゃないか。 自信満々に内容を語ったじゃないか。ある一人などこうもいったはずだ。 「もう、すべて頭の中にある。あとは書くだけさ」 でも、書かないのだ。一行も書かないのだ。 なんだかんだと言い訳ばかりして結局一人も書かなかった。

■それで仲の良かったNに頼んだのだ。Nなら何とかしてくれると思ったのだ。 Nは「小説などあまり読まないし、文章なども書いたことはないがまあ何とかしよう」と言い、 2週間で50枚ほども書いてくれた。同人誌は、結果的にNの個人誌になったわけである。

■本が出来上がると執筆予定だった4人が現れて、 Nの書いた文章をボロクソに批判した。 曰く、Nの書いたものはある著名な小説家の文章に良く似ている。 スタイルだけ借りた、志の無い駄作だと言うのである。

■僕は、こいつらはなんだろう、 と思った。なんなんだよお前らは。

■4人の指摘は確かに当たってはいたのである。 Nには書きたいモノなどなかったのだ。それはそうだ。 だって僕に頼まれて仕方なく書いたのだから。 だからある作家のスタイル−文体など−を借りて、 内容はともかく、体裁だけはそれらしいものをと、形だけ、 とにかく書いたわけである。それはまあ、僕にも分かった。

■しかしだからと言ってお前らはなんだ。

■きっとこういうことである。 奴らは傑作を書こうとしたのである。 このオレ様が書くのであれば、その作品は大傑作以外にあり得ない、 と鼻息も荒くだが平静を装うためコーヒーなどすすり書き始めたはずなのである。 一行書き、一枚書いてみる。 読み返す。陳腐である。おかしい。書き直す。読み返す。 凡庸である。頭の中にあったときは世紀の大傑作だったものが、実際に書いてみるとコレは・・・という代物にしかならぬ。 がっかりだ。こんなもの人目に晒すとバカにされてしまうかもしれない。何より自分が許せない。傷つくぞ、プライドが。悪夢である。

■で、その悪夢から逃れる素晴らしい方法があるのだ。 書かなければいい。そして人の書いたぼろぼろの作品をバカにして心の平穏を取り戻すのだ。 バカ者だと思った。このばかめ。

■10年振りにNから連絡があった。 小説家になれそうだというのである。 ほんとかよ。夏くらいに雑誌に短編がのるはずだ。 なんと感動的な話だろう。

■最初Nには書きたいものは無かったし、 書く技術もなかった。ソフトも、ハードも無かったということだ。 だが必要に迫られて、ハードだけをどこかから借り受けて、 ソフトの無い作品をでっちあげた。そして何作か書く内に、 書きたいものが出来た。ソフトが出来たわけだ。 だが、ハードはまだ借り物だ。まあでも兎に角書いてゆく。 そして10年が経ち、いつの間にかハードも立派に自分製になっていた。 自分の技術で、自分の言葉を書く、プロの物書きだ。おめでとう、N。

■そういうわけで7月にまた舞台をする。 僕もまた書く者として上演台本と格闘する日々なんだけども、、 戦う体にはウォーミング・アップもまた不可欠なのである。ということで推敲日誌だ。 今日は随分温まったので、これで台本に戻る。稽古の初日にどれだけの分量、 台本が仕上るのか。それは誰にも分からない。

小野寺邦彦
生活の冒険


#002 音楽など 2009.5.16 SAT


■音楽ばかり聴いている。

■日常、ほとんど音楽は聴かないのだけれど、3ヶ月に一度、台本を書くときばかりはかけっぱなしにしている。 一晩かけて2行しかセリフが書けなかった日でも、CDは5枚も聴いたという結果が残ればなんとなく達成 感が得られる気がするから、というわけではなく(そういうわけもあるのかもしれないけど・・・) いわゆる「な がら族」としての習性である。

■ 本でも新聞でも雑誌でもいいから何か読みながらでないと一人で食事は出来 ないし、風呂に入ることも出来ない。風呂で読む本を探してる内に小一時間も経 ってしまうことも稀ではないのだ。 で、まさかパソコン睨みながら本を読むわけにもい かないので音楽を聴きつつ・・・ということになる。

■ところで今、パソコン睨みながら本読むわけにもいかないと書いたけど、こ れがパソコンでなくてノートや原稿用紙だったらどうかと考えたら、実はそれは 可能なのだった。 というか、頻繁にやっている。 あの、つまりですね、どういうこと かと言えば、ノートを広げてセリフを考えつつ、それとは何の関係もない読書をして いる、ということです。 これ、説明するのすごく難しいな。

■つまり目で活字を追いつつ、頭の中ではセリフを考えている、という事 態がですね、あります。かといって本の内容が頭に入っていないというわ けではなく、またセリフを考えている頭が散漫になっているというわけでもな い。両立しています。 新聞をぐいぐい読みながら、箸の動きも止まらない 、という状態と同じですな。

■ ただマーその、これ、他人が見てたらサボってるようにしか見え ません。 しかもサボってると思われて、話しかけられたら凄い怒っ たりします。 今、考えてるんだから!って。 その人にしてみたら、 アホぬかせ、サボってたではないか、と思いますね。 しかも読んでるの が大体マンガだったりスポーツ新聞とかだったりしますしね。 あ、音楽に ついて書くつもりだったけど、マーいいか。

■一日中パソコンに向かっていて、台本はじわじわとしか進 まないが、舞台で使う音楽ばかりが決まってゆく日々である。

小野寺邦彦
生活の冒険


#003 稽古初日だった 2009.5.18 MON


■アメリカについて考えている。考えざるを得ない。 映画を観たからだ。「グラン・トリノ」。 イーストウッドは本当に今、凄いことになっているな。「チェンジリング」といい、骨太で素晴らしい作品である。 感動、という言葉の意味を考えてしまう。「泣く」ことが感動だと思っているバカ共、思い知るがいい。と思うがそういうバカはこういう映画は観ないのかもしれない。 何が余命何ヶ月だかの花嫁だ。勝手にハナジルでも垂らしているがいい。

■アメリカとイーストウッドについてはまた改めて考えて書こう。

■久しぶりに外出すると、5人に1人くらいはマスクをしていて、やはり流行してんだなぁと思うが、それにしてもとある店先にあった 「インフルエンザ大流行につきセールス延長」には、笑った、笑った。 流行の意味が違いはしないか。いや、合っているのかもしれないけどさ・・・。

■ところで今日は稽古初日であった。宣伝用の写真撮影などもあり慌しかったが、久しぶりに会う顔もあり、楽しかったなあ。 台本はマアその・・・という程度しか渡せなかったが、一応、読み合わせなどもした。 1月の舞台から4ヶ月振り、皆ちゃんと下手になっているからたいしたもんだ。 マーこれからである。台本もこれからだ。

小野寺邦彦
生活の冒険


#004 闇の仕事 2009.5.22 FRI


■真夏のような日差し。新宿は日中30℃を越えた。

■夕方、人身事故があったようで電車がホームからなかなか出なかった。 発車予定時刻を10分あまり過ぎていたのだが、動き出す気配はない。マー誰に文句を言うわけにもいかないのだが、待つしかない身にはイライラが募るところです。周りの人々もケイタイをいじったりゲームをしたりしてはいるが何となく落ちつかず、全体的にカリカリとイヤなムードになってきていた。 と、傍らに立っていた若い女性の二人組が、けっこうな大声で喋りはじめた。初めは聞くとはなしに聞いていたのだが、次第に聞き入ってしまった。話が進むにつれ、同じ車両に乗り合わせた者皆がなんとなく聞き耳を立てている雰囲気になってきた。

A「ユミコ、こないだいたのよ」
B「ああ、あのオッパイおばけ」
A「カメムシの」
B「カナブンでしょ」
A「あ、カナブン」
B「で」
A「手、出したみたい」
B「ウソ。お持ち帰り?」
A「うん」
B「誰を」
A「カネダさん」
B「ウソ、あのハゲ」
A「ハゲてないでしょ」
B「ハゲてるって」
A「ハゲっていうか、むしろ油?」
B「ま、いいや。それで」
A「でもそれが奥さんに」
B「ウソ、ばれた?」
A「みたいで」
B「ケイタイ?」
A「みたい。で、アイドルのさ、いるでしょ、例の、ホラ。誰だっけ」
B「ユッキーナ」
A「それ!で、」


と、そこまで話したとき、発車を告げる車内アナウンスが。すると


A「あ、いかなきゃ」
B「うん」


電車を降りる二人・・・。 おいおいおい、そこで終わるのかよ。 カメムシならぬカナブンのオッパイおばけユミコとハゲているんだかいないんだか、いやむしろ油のカネダさんの浮気に、例のアイドル、ユッキーナがどう絡むというのか。 ていうか誰だ、ユッキーナ。 なんてことだろう。この謎、もう一生解けないよ。

■しかし・・・話の内容にも増して気になるのは、2人が何故電車を降りたのか、だ。停車中には乗っていて、発車時刻に降りるとはどういうことだろう。そこでハタと気づくと、話に聞き耳を立てている間に、優に15分は経過していた。退屈な待ち時間がストレスゼロで過ごせたわけである。 これは、あれじゃないだろうか。闇のバイト。闇の仕事だ。 停車中の険悪な車内に放たれるスパイなのである。 そこで気になる話を聞こえよがしに話し、車中の者の気を引くのだ。 気づけば皆が聞き耳を立て、時間を忘れて話の内容に聞き入っている。そうやって時間を稼ぐのだ。 メキシコでは催しものの開始時刻が遅れる際には飛び入り歓迎サッカー大会を開き、暴動を防ぐというし。それにしてもオッパイおばけユミコの行く末が気になる。

■そんなわけで、稽古に遅刻したのだった。

小野寺邦彦
生活の冒険


#005 稽古場のコトバ 2009.5.28 FRI


■今日で稽古を始めてから大体10日が過ぎた。

■役者にセリフを言ってもらうと、その度に発見があり、セリフを直したくなるので、直す日々である。稽古初日は役者が下手になっている、と書いたがマア人のことは言えない。僕も随分セリフの勘がやはり鈍っていたな、と感じた次第です。 やはり舞台は現場ですよ。稽古にこそ全てがある。

■役者は本番の舞台でしか上手くならないものだけれど、稽古を見ていればどの役者が上手くなるかは大体分かる。 上手くならない役者は、稽古場での下手さに慣れてしまって、本番で化けようとしない役者である。 だから稽古場では同等の実力と思っていた者に、本番の舞台の上でおいていかれる。 その結果はもう、稽古場で出ているのだ。 というわけでそんなことのないように張り切って稽古しよう、と思うのだが今週は欠席者が多かった。 風邪を引いた者などもおり、まあじりじりとしか進まないが焦っても仕方ない。

■ところで今下手、ヘタと書いたが、僕は「下手クソ」という言葉は嫌いである。上手い・下手は(現時点での)単なる性質であって、それ自体はマーある意味仕方ないものです。 しかしですよ、下手だからといって何もクソまで付けてまで蔑まれるいわれはないと言いたい。 中学生の頃、やたら「下手クソ」を連発する体育教師がいて、俺は下手だが貴様にクソなどと言われる筋合いはないと思っていた。今も思っている。 言葉の意味は正確に捉えましょう。「下手」はあくまで性質を指しているだけで、人格を貶めようという言葉ではナイ。「下手クソ」は「お前なんか嫌いだ、ば〜か」という意味なので、マア無視していこう。 ウチの役者に下手クソはいません。まだあんまり上手くはないだけです。それもあと少しの間でしょう。

■台本はやっと半分といったところ。締め切りまではあと10日と少し。

小野寺邦彦
生活の冒険


#006 演出家不在 2009.6.4 THU


■フランスのサルコジ大統領が出てくる度に思うのだけど、この人は悪魔が人間に化けている顔をしていないか。

■新しい動き方をいろいろ試している。そのためか、稽古はサクサク進むというわけにはいかない。 じりじりと這って進むような進行状況である。 稽古場の外でも舞台の演出のことばかり考えてボンヤリしているので、淹れたばかりのコーヒーをそのまま流しに捨てたりしてしまった。まあ、台本はある。じっくりとやろう。

■以前の芝居のアンケートで、「作家はいて、役者もいるが、演出家がいない」と指摘されたことがある。痛いところを点かれたな、と思った。 それは薄々感じていたのだったが、マア同時に開き直ってもいた。 当時は作劇に夢中で、演出への欲求が薄かったように思う。 バランスを欠いていた、というか。 演出しているときは言葉への欲求だけがあり、カラダへのそれがあまり無かったのかな。 自分ではあるつもりだったのだけれど、実際の舞台を見たらアンバランスだなあ、と思うことが多かった。 単に未熟だった、というべきだろうし当然今も未熟であることに変わりはナイ。 「当時」とか言ってしまったが、ホンの一年前のことだ。

■ただこの一年あまり、ダンス、とりわけニブロールやボクデス、珍しいキノコ舞踊団などのコンテンポラリーダンス・カンパニーの公演を以前より多く観るようになり、カラダへの意識が変わってきたかもしれない。 言葉は使わなければ覚得ることは出来ない。カラダもまたしかり。 当たり前のことなんだけども、未熟なので当たり前のことをすぐ忘れる。 どうでもいいことは凄く良く覚えてるんだけどな。

■朝方、テレビのニュースを聞くとは無しに聞いていると、キャスターが、ある轢き逃げ事件を伝える際に 「女が女性を車で轢いた」 という言葉を使った。 こういう場合に「女性が女性を轢く」と言われることは絶対にナイ。 ここにも、ある感情に意識的に導こうとする、恣意的なコトバがある。

小野寺邦彦
生活の冒険

#007 高くて安いコトバ 2009.6.7 SUN


■今週は自分の都合で大分稽古を潰してしまった。丁度先週、役者の集まりが悪いことにぶつくさ言っていたらこの始末である。やっぱり人のことは言えないな。自戒を込めて。 稽古をしないと調子が悪いのだ。来週はもりもりと進める。

■野球のテレビ中継をつけていたのだった。 野球中継の放送席にはアナウンサーの隣に解説者と呼ばれる、まあ元プロ野球選手や監督などが座り、プレーに対しての「解説」を施すのがお決まりなわけですが、この解説者のですね、言葉でモノスゴイのがあった。

アナ「おっとここで原監督、好調のピッチャーを変えますね。これは?」
解説「ええ。まあ監督も、なんか考えたんでしょう」

「なんか考えたんでしょう」

これが解説だろうか。何だ、お前の仕事、すっげえ楽そうなのな!俺にもできそうだ。譲ってくれないか。また、こんなのもあった。

解説「ここはホームランが最高ですが、ヒットでも2塁ランナーは帰ってきますからね。ただし、内野ゴロと三振だけはしてはいけません」

てそんなこと昨日野球始めた子供でも分かるんだよバカ。思わず取り乱すナイター中継の夜である。

■しかし改めて意識的に聞いてみると、この「解説者」たちの喋る言葉のテキトーなことといったらないな。ほとんど骨髄反射、というか常套句を繋げているだけである。自分の言葉に対する疑いというものが微塵もナイ。 例えば調子の悪いピッチャーをして「ピリっとしない」と言うが、「バッターがピリっとしない」とは言わないのである。 若しくはボールの内角低めをインロー、内角高めはインハイ、外角低目をアウトローというが、外角高目をアウトハイとは言わないのである。外角高めは外角高めだ。 なんでだろうか。解説者よ、解説してくれ。

■常套句というのはそういうものなんだけれど、ほとんどの場合意味はないのである。そういうことになっているのだからそう言うのだ。言葉は記号だ。通じれば良いのだ。アマチュアならば、若しくは日常生活でならばそれでもいい。 だが仮にもその一言に料金が発生し、メシを食うプロの言葉がそれでいいだろうか。いいわけがない。だがそれがまかり通る。まあそれは解説者という仕事が、現場を引退したプレーヤーの再就職先、もっと言えば要するに天下り先とでもいったものなのだからだろうな。名誉職、というか老後のごほうび、というか。つまりプロの解説、などというモノを誰も期待しているわけではナイ。 だから視聴者の誰も解説者の言うことなど聞いてはいない。あれは、野球中継を点けると流れている風の音のようなモノとして、聞き流している。だがその毒にも薬にもならないどーでもいい言葉が日々撒き散らされ、料金が発生しているということは考えておかなければならない問題だ。いやホント、問題ですよ。

■なんてことをブチブチと言いながらも、台本はついに、というかやっと、というか三分の二までが書けた。いよいよ追い込みか。しかし締め切りも目前だ。何とかなるだろうか。何とかしなくてはいけない。

小野寺邦彦
生活の冒険

#008 台本の〆切だった 2009.6.10 WED


■台本の締切日だったのだ。 だが終わらなかった。未だ四分の一が残っている。残念だ。今週中には何とかしなくては。 公演まであと丁度一月、明日からは宣伝もスタートする。

■何か事件が起こった際に 、しばしば、当事者の所属先が「今は担当者がいないのでコメントは出来ない」 というでしょう。 訴えられたりした側が「書類が届いていないのでコメントは差し控えたい」と言うのも、よくありますね。 マアいわゆる常套句なのだけれど、しかし今日ニュースを聞いていて、報じられた5件のうち3件で「担当者がいない」のには笑ってしまった。担当者よ、どこにいるのだ。そんなに席を外していて仕事になるのか、担当者。 電話には出ないのか、担当者。メールにも返信しないのか、担当者。おお、担当者。

■今から5〜6年も前のことになるが、用件があって日野にある警察署に行ったときのこと。 ある作業のため、一定時間道路にクルマを駐車させることを許可して欲しいという内容だったと記憶する。で、窓口に行ったのだ。その書類はどこへ提出すれば良いのか。 すると窓口に座っていた初老の男が言うのだ。

「今は担当者がいない、出直せ」。

いや実はこちらは人に頼まれて、書類を渡せば良いとだけ聞いて来たので出直せと言われても困る。その担当者はいつになったら帰ってくるのか。と質問したのだ。 すると驚くべきことに、辺りに響き渡るような大声で一喝された。曰く

「話を聞け!日本語が分からないのかこのバカ。いないと言ったらいないのだ!何でも自分の思い通りになると思うなこの若造」。

これが私用であれば一戦交える所存なのだが、何せ人に頼まれたことなのである。 それも明日の作業なので今日許可が取れないと困るとのことなのだ。 私は卑屈にもヘエヘエ申し訳ございません、と殊勝な態度で何故かコウボクの説教をその後10分あまりも拝聴することになる。 俺、こんなトコで何やってるんだろうかとジンワリ涙目になって来た頃、目の前のオマワリが言うのだ。

「で」
はあ?
「いや、だから、書類。見せて」
ハイ。
「・・・はい、OK。んじゃ。」

■えー。 お前だったんじゃん、担当者。いないっていったじゃん担当者。てゆーか私なんで怒られたのでしょうか。警察署に行って担当者はいませんか、と担当者に聞くと説教を喰らうのか。 問い質せばそのカラクリはこういうことらしい。

「私が訪ねた時間には、昼休み中であった」

で、昼休みの時間が終わったから担当者に復帰し、書類を受け取ったのだという。 その驚くべき言説に、自分が何か言い返すことが出来たのかまったく覚えてはいないが、ちょっと泣きながら帰ったことは覚えている。

■季節の変わり目である。今日も朝から雨が降っている。

小野寺邦彦
生活の冒険

#009 消耗する 2009.6.21 SUN


■大分間が空いてしまった。 この間何をしていたのか。毎日稽古をしていたし、打ち合わせだってしていた。そして何より台本を書いていたのだ。実は、まだ書いている。

■締め切りだった、と書いたのはもう10日も前のことだ。 終わらない。書けない、のではなくて、終わらないのだ。 書いているとアイディアが出てくるのだ。次々と出てくる。それを台本に書き込もうと格闘していると、台本が膨大な分量になってしまっている。 今、書いているのは終盤なのだ。もうこの劇は終わりに近づいているのに、こんなに新しいアイディアを、この期に及んで入れてしまってどうするのだ。 前回はそれで2時間20分もの上演時間になってしまった。 劇場の人にも「長いよ」と言われたのだ。 私も長かった、と思う。長いよなあ。 今回は100分が限界だろう。 深夜から書き始めた内容を、朝になって消してしまう毎日だった。

■無駄なことだろうか、と考えれば明らかに無駄なことだ。 でもねえ、悪いことではないじゃないか。 ダメだろうか無駄。無駄がホメコトバになるような舞台は沢山ある。 生真面目な性格が私の弱点だと思う。

■今日は朝から雨だった。雨の中でタタキがあったはずだ。私は顔を出したかったが、結局パソコンの前から離れることが出来なかった。申し訳ない、と思う。スマナイ、と思う。ああタタキたい。かつて平行四辺形型の超芸術的な平台(でも何故か自立した)を作ったことのある私である。クギを抜くくらいなら任せて欲しい。

■台本はいよいよ完成するだろう。しなくては困る。

小野寺邦彦
生活の冒険

#010 感じる前に考えよ 2009.06.26 FRI


■吉祥寺の喫茶店で打ち合わせをしていたのだった。

■隣のテーブルに座っていたグループの男が大きな声でシキリと「感じたい、感じたい」とノタマッていたので、何事かと思ったのだ。 「想いをコトバにすると、汚れてしまう気さえする。理屈では無くて、感じたままに作品を作りたい」 概ねそんな内容を喋っていた。帰り際にチラと目をやったら、年の頃は30歳前後か。テーブルにイラストのようなものが拡げられていた。

■こういう言い回しは大学に入った頃はよく聞いた。美術大学であったから、当然作品を作っている人がほとんどで、「感じる」ことを大事にしている、と言う人も少なくは無かった。だがそういう人の作品ほど、えてしてツマラナく時として頭デッカチと感じたのはどういうわけか。思うにそれは他人の批評を逃れるための浅い方便だったのではないか。 良い作品を作っていた人は、皆、考えていた。考えながら感じていた。

■人が自分の作品に向けてくるコトバを一律に「つまらない理屈」などと言ってはならないよ。うんざりする位つまらない「感じ」だってあるじゃないか。 ね、あるでしょう。

■人の振り見て我が振り直せ。コレを他山の石としよう。「感じる前に考える」 コレが架空畳のテーマです。よしよし、今決めた。

■日中は30度を越える日々。6月も終わる。夏が来るなぁ。

小野寺邦彦
生活の冒険

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