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尖閣の“致命的譲歩”と日中首脳会談

2014.11.08

中国の“力の戦略”に、ついに日本は屈した。APEC(アジア太平洋経済協力会議)を前にして日中両政府が11月7日に発表した文書について、私は、「ああ、日本はやってはいけないことをしてしまった」と思った。

第一報を聞いた時、正直、耳を疑った。それが、尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題に関して「(日中双方が)異なる見解を有している」ことで「一致した」というものだったからだ。

中国問題に多少でも関心がある人間なら、「まさか」と誰しもが思ったに違いない。日本政府は、これまで一貫して尖閣について、「日本固有の領土であり、領土問題は存在しない」という立場をとっていたからだ。

今回、日中両国が4項目で合意した文面の中で問題の部分(第3項目)を読んでみると、「双方は、尖閣諸島など東シナ海の海域で近年緊張状態が生じていることに異なる見解を有していると認識し、対話と協議を通じて、情勢の悪化を防ぐとともに、危機管理メカニズムを構築し、不測の事態の発生を回避することで、意見の一致を見た」というものである。

日本側から見れば、至極当然の文言で、なんら目くじらを立てるものではないように思える。だが、私には、冒頭のように「ああ、してやられた」としか思えなかった。たしかにこの文章では、尖閣諸島など東シナ海の海域において「“領土問題”が存在する」とは言っていない。

しかし、あの中国共産党相手に、これはいかにもまずい。今後、中国は、この文言をタテに「尖閣(釣魚島)の領有を中国は一貫して主張してきた」という基本姿勢を強く打ち出すだろう。

中国の論理では、日本が「異なる見解」を有していることを「認識」したというのは、すなわち「領有権を中国が主張していること」を日本側が認めたことになる。今後、日本側からいくら「領土問題は存在しない」と言っても、中国側から言えば、「おまえは“異なる意見”があることを認識していたではないか」となるからだ。

さらに問題なのは、後段の「対話と協議を通じて、危機管理メカニズムを構築し、不測の事態を回避する」という見解である。これは、尖閣に対して延々とおこなってきた中国による“示威行動”がついに功を奏したことを意味している。なぜなら、「不測の事態を回避する」というところまで「日本を“譲歩”させた」ことになるからだ。

中国にとって、これで尖閣問題は、フィリピンやベトナムが頭を悩ませる西沙(パラセル)諸島や南沙(スプラトリー)諸島と、同じレベルの問題まで「引き上げること」に成功したと言える。

言うまでもなく中国にとっては、「自国が領有権を主張している」海域に公船を派遣しようが、民間の漁船が出向いていこうが、「日本とは“見解が異なる”のだから当然」ということになる。

なんでも都合よく解釈して、あとは“力攻め”で来る中国共産党にとっては、願ってもない「成果を得た」ことになる。本日、外国記者たちとの会見に出てきた王毅外相の抑えようのない「笑み」がすべて物語っている。

私が疑問に思ったのは、日本は、「前提条件なしの首脳会談」を求めていたはずなのに、なぜこんな譲歩をしてしまったのか、ということだ。そして、日本はこれで「何を得たのか」ということである。

中国の首脳とそこまでして「会談しなければならない」理由はいったい何なのか。APECのホスト国である中国で、なぜ、日本は首脳会談を実現しなければならなかったのだろうか。

日本は、「会話の扉はいつでも開かれている」という立場をただ堅持していればよかったはずだ。「前提条件なしの首脳会談」がだめというのなら、つまり、向こうが会いたくなければ、「会わなければいい」し、これまで当ブログで何度も書いてきたように、冷静さを堅持し、毅然として中国と「距離を置くべきだった」のである。

独善と傲慢な国家運営によって周辺諸国と摩擦を繰り返している習近平政権に、なぜ日本は擦り寄らなければならなかったのだろうか。レームダック状態に陥ったオバマ政権がいくら日中の首脳会談と摩擦の緩和を望んでいようと、日本がそれに乗る必要はなかったはずである。中国との「真の友好」を目指すなら、今はむしろ「距離を置くこと」の方が大切だからだ。

報道によれば、8日付の環球時報(中国共産党機関紙の「人民日報」系)は、さっそく4項目の合意文書について、「安倍首相の靖国参拝を束縛」することができ、さらに(釣魚島の)主権に関して、これまで“争いは存在しない”と公言していた日本が、「危機管理メカニズム構築に関して中国と協議したいと望んでおり、これは釣魚島海域で“新たな現実”が形成されたと宣告したのと同じだ」と、勝利宣言ともとれる記事を掲載した。

私は、この報道の通りだと思う。中国にとって、それは「歴史的な勝利」を意味しており、その“新たな現実”なるものによって、尖閣周辺の“力による示威行動”は今後、増えることはあっても、減ることはないだろうと思う。

つまり、「何年後かの日本」は、尖閣をめぐってより危機的な状況に陥るだろうということだ。絶対に譲歩してはならない国に対して、なんの益もない「日中首脳会談実現」のために、日本は致命的な失策を犯してしまったのである。

カテゴリ: 中国, 政治

朝日誤報事件「故郷土佐」で訴えたこと

2014.10.27

一昨日、昨日(土・日)に、2日続けての講演で故郷・高知に帰ってきた。25日は、昭和19年10月25日に戦局挽回のために特攻が始まって70年目の記念日だった。その日に合わせて、「特攻、その真実」というテーマで、故郷で講演をさせてもらった。

ちょうど今月、戦争ノンフィクション『慟哭の海峡』(角川書店)を出したばかりでもあり、故郷での講演ということで、ふたつ返事で引き受けさせてもらった。

特攻第1号といえば、関行男大尉が率いた「敷島隊」が広く知られている。しかし、この定説には異論が存在する。というのも、敷島隊は10月21日の初出撃で敵艦隊を発見できず、23日、24日の出撃を合わせて、計3度も引き返している。

やっと10月25日の「4度目」の出撃によって敵艦隊と遭遇することに成功。250㌔爆弾を抱いて体当たりを敢行し、空母一隻撃沈、さらに一隻が火災停止、軽巡洋艦一隻も轟沈という大戦果を挙げたと伝えられる。だが、その時、実は時間的には、敷島隊ではなく「菊水隊」の方が先に敵に特攻を敢行していたのではないか、という説が存在する。

海軍兵学校出の関大尉を“第一号”にしたかった海軍上層部の意向があり、菊水隊は記録上、特攻“第一号”とはなっていない。しかし、どこが第一号なのかというこの“時間論争”は専門家の間では、いまだに議論がなされている。

菊水隊には、高知県幡多(はた)郡出身の宮川正・一等飛行兵曹がいた。私は、この宮川一等飛行兵曹の逸話をはじめ、特攻にまつわるさまざまなエピソードを紹介しながら、当時、最前線で戦った男たちの「信念」と「無念」を語り継ぐことの重要性を講演で話させてもらった。

そして、昨日の26日には、「ネット新時代のジャーナリズムを考える~朝日新聞は何に敗れたのか~」というホットなテーマで、講演をさせてもらった。こちらは、話題がホットなだけに、聴いてくれている人たちの熱気がより伝わってきて自然と力が入った。

高知は、土佐出身の自由民権運動家・植木枝盛が立志社の機関誌『海南新誌』創刊号巻頭に「自由は土佐の山間より出ず」と書いた言葉でわかるように、日本の「自由と民主主義」の原点となった地である。私はその土佐で、いま日本が「時代の転換点に立っている」ことを話させてもらったことに少なからず意義を感じている。

真実を追及するのではなく、自らの「イデオロギー」や「主張」に従って、自分の都合のいい事実をピックアップして「真実」とはほど遠いものを掲げて大衆を誘導していく――私が長く“朝日的手法”と呼んできた日本のジャーナリズムの悪弊をじっくり2時間にわたって話をさせてもらった。「朝日新聞の敗北」の意味を私なりの解釈で講演させてもらったのである。

一連の従軍慰安婦報道と「吉田調書」報道――朝日新聞を襲ったこの二つの事柄は決して難しく考えることはないと思う。このことで明らかになったのは、これまで当ブログでも書きつづけているように、「朝日新聞は日本を貶めるためなら真実を捻じ曲げる」という、ただそれだけのことである。

なぜ朝日は事実を曲げてでも、日本を貶めたいのか。これは、1970年代に新左翼がもてはやした「反日亡国論」を理解しないとわかりにくいかもしれない。

日本の戦後は、「戦争を反省すること」から始まったことに異論はないだろう。戦争とは“絶対悪”なので、戦争を反省することに誰も反対はない。しかし、戦争をするというのは、一方が悪いのではなく、両方に必ず非があるはずなのに、日本では「日本だけがすべて悪かった」という短絡的な戦争反省論が構築され、それに支配されてきたことに不幸の第一があった。

それは、GHQによって生み出された非常に歪(いびつ)な戦争反省論だった。それも無理はなかっただろう。もし、「戦争犯罪」を指弾するなら、“焦土化作戦”によって、日本中の都市を焼き払い、広島・長崎に住む非戦闘員の頭上に原爆を投下したアメリカは、国際法に違反しただけでなく、人道上の罪という観点からも、本来、「許されるものではない」からである。

しかし、そのことから逃れ、日本だけを糾弾するためには、日本の指導者を徹底的に非難し、「日本だけが悪かった」という理論を構築する必要があった。昨日までの日本の指導者たちが断罪されることに多くの日本人は戦争に敗れたことの悲哀を感じ、瞑目(めいもく)した。

だが、そのGHQにもろ手を挙げて同調し、日本を弾劾する方向に突っ走っていった新聞があった。それが、戦前・戦中を通じて最も軍国主義を煽った朝日新聞である。GHQの顔色を窺いながら、ひたすらGHQにとって“愛(う)いやつ”になったメディアの代表が朝日新聞である。

朝日は、ひたすら「日本だけが悪かった」という論陣を張りつづけ、それに反する意見や文化人を全面否定する路線をひた走った。自分の意見に反対する者に“右翼”のレッテルを貼り、「日本だけが悪かった」論を拡散させつづけるのである。

それが全盛時代を迎えたのが、1970年代である。ベトナム反戦の風潮に乗って今度は「反米」を掲げた朝日は、全共闘世代、いわゆる団塊の世代に全面的に受け入れられた。それでも朝日新聞は「日本だけが悪かった」という主張を引っ込めることはなかった。

「日本だけが悪かった」という理論は、やがて新左翼の間に「反日亡国論」を生んだ。アジアの人民に災厄だけをもたらした日本人には“生存する権利”などなく、文字通り滅びればいい、という極端な理論である。強固な「反日」の思想は、当時の若者に幅広く受け入れられ、特にジャーナリズムの世界に「根を張る」ことになる。

そして、朝日新聞をはじめ、日本のメディアは大衆を誘導するためには、「事実」を自分の主張に合うべく都合よく“加工”し、それで大衆を誘導していくことの手法を多用していくようになる。“真実”より“イデオロギー”という時代の到来である。朝日新聞はいつの間にかそのことに慣れ、次第にそれが“当たり前”のようになっていったのだと、私は思う。

私は、2014年9月11日、朝日新聞が「吉田調書」報道で自らの誤報を認め、謝罪の上に自らの記事を撤回した時、「ああ、時代の転換点が遂にやって来た」と思った。それは、事実を捻じ曲げてまで自分の国を貶めるジャーナリズムの正体がやっと国民の前に「明らかになった」という意味である。

朝日新聞とは、平和を愛し、先人を敬い、家族や郷土、そして国を愛するという大多数の日本人の「実は敵だった」ことがやっと「明らかになった」のである。

日本人は「決して誇りを持ってはいけない」「国を愛するのは右翼だ」「日の丸は許されない」という彼(か)の国の代弁者ともいうべき存在でありつづけた朝日新聞の正体、ひいては“進歩的”ジャーナリズムの問題点が私たちの前に明らかになった意義は大きいと思う。

朝日新聞の木村伊量社長が、社内の動揺を鎮めるために8月28日に社内メールで出した内容は興味深い。週刊文春によってスッパ抜かれたその中身には、こういうくだりがあった。

「私の決意はみじんもゆらぎません。絶対ぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうアプローチなのか。改めて問うまでもないことです」

平和を愛し、先人を敬い、家族や郷土、そして国を愛するという大多数の日本人の心が、木村社長には「偏狭なナショナリズム」としか捉えられないのだろうと思う。そして、「歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする」のが朝日新聞なのだそうだ。

私は、申し訳ないが、こう言わせていただきたい。「歴史の真実をねじ曲げて誤った情報を世界に広げ、アジアの近隣諸国との信頼関係を決定的に破壊してきた」のが朝日新聞なのだ、と。

日本人は今、朝日新聞の長年の報道によって、朝鮮人女性の「強制連行」というありもしない事実をつくり上げられ、「慰安婦=性奴隷(sex slaves)」を弄んだ日本人として世界中から非難されている。

そこまで歴史の真実をねじ曲げて、朝日新聞が「日本と日本人を貶めるのはなぜですか?」と、私は本当に朝日新聞に聞いてみたい。多くの日本人は、「偏狭なナショナリズム」など持っていない。あなたが勝手にそんな“敵”をつくり上げて、自分の立ち位置を「正しいもの」と強弁しているだけではないですか、と問うてみたいのである。

私は、そんな話を故郷・土佐でさせてもらった。「自由は土佐の山間より出ず」という自由発祥の地で、戦後ジャーナリズムのくびきから脱することの「意義」について、最初に話をさせてもらったことに、私は深い感慨を覚えた。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

永田町で教訓を「生かす者」「殺す者」

2014.10.20

「なんのための改造だったの?」。永田町では、そんな声が飛び交っている。改造前には、辞任が取り沙汰されるような閣僚スキャンダルは出なかったのに、満を持したはずの内閣改造をおこなった直後、次々とスキャンダルが噴き出した。

目玉だった女性閣僚のうち、小渕優子経済産業相と松島みどり法相の二人が「一緒に辞任する」というのだから、大変な事態である。

先週から今週にかけて、辞任劇に至る永田町の動きは興味深かった。選挙区内の祭りで配られた「うちわ」をめぐって松島みどり法相が窮地に追い込まれていくのに対して、最初に追及した民主党の蓮舫議員も、「うちわ」のようなものを「配っていた」と反撃を食らうなど、低レベルな議論が飛び交う様相を呈していたからだ。

さらに週刊新潮の報道から発した小渕優子経済産業相の案件の方は、「呆れてものも言えない」というのが多くの国民の本音ではないだろうか。

いまどき、これほど「露骨」で、しかも「わかりやすい」不明朗な資金処理をやっていたこと自体に国民は驚いたに違いない。今まで問題にならなかったことの方が不思議なぐらいのお粗末な資金処理である。

女性総理候補のトップといってもよかった小渕氏は、大きな打撃を受けた。私は、これまで繰り返されてきた政治資金問題、いわゆる“政治とカネ”の問題で、過去の事件による教訓が「まったく生かされていないこと」に最も驚いた。

記者会見で小渕氏は、「私自身がわからないことが多過ぎる」「信頼するスタッフのもとでおカネの管理をしていただいたが、その監督責任が十分ではなかった」「すべて私が甘かった」と思わず吐露した。

後援会の誰かに“食いもの”にされたのか、あるいは、自分が全く知らないところで“何かが起こっていたのか”――いずれにせよ、小渕氏の政治家としての資質の問題だろう。

過去の教訓を「生かす」か「殺す」か。それで運命が大きく変わってくるのは永田町に限らず、一般社会の常識である。私はその意味で、小渕氏の失態に同情の余地はなく、さらに言えば、この脇の甘さで“国家の領袖”を目指すのは、とても無理だと感じざるを得なかった。

私は、大臣就任時、各メディアのインタビューに対して能面のような表情で答える小渕氏のようすを見て、「あれ?」と思った。小渕氏の人間的な魅力がまったく出ていないように思えたのである。

だんだん自民党内で地歩を固めるにつれ、逆に「表情」を失い、「能面」のようになってしまったのだろうか。失言を恐れて機械的なやりとりになっていったのかもしれないが、もしそうなら、政治家としての限界だろう。ご本人の「実力」と政治的な「地位」、それに周囲の「期待の大きさ」との間に、だんだんと「乖離(かいり)が生じていたのではないか」と推察する。

「二人を任命したのは私であり、責任は私にあります。こうした事態になったことに国民に深くお詫び申し上げます。しかし、政治の遅滞は許されません」と語った安倍首相も悔しさが隠せなかった。まさに「なぜ?」という思いだろう。

私は一方で、永田町の動きの中で過去の教訓を“プラス”にする側のことも印象に残った。ほかならぬ北朝鮮による「拉致被害者家族会」のことだ。

またしても「家族会」によって政府は「交渉とは何か」の基本を教えてもらっているような気がする。先週の10月16日夜、家族会が「安否に関する報告が聞ける段階まで派遣は待つべきだ」とする申入書を政府に提出した。

この申入書は、東京で開かれた集会の中で山谷えり子・拉致問題担当大臣に家族会から直接、手渡された。私も、このニュースに接してハッとした。そして、「さすがだなあ」と唸ってしまった。

「(拉致問題は)完全に決着している」。家族会が重視したのは、今月、ニューヨークで北朝鮮外務省の高官が、この発言をおこなったことだった。このひと言で、「北朝鮮の拉致問題に対する態度が変わりつつある」ことに家族会は気づいたのである。

叔父の張成沢を無惨にも粛清したことにより、頼るべき中国からソッポを向かれた金正恩・朝鮮労働党第一書記は、経済破綻の立て直しを日本からの「巨額の援助」に頼ろうと方針転換した。そこで出てきたのが、拉致被害者の「全面的な再調査」だった。

両国の間で合意されたこの「再調査」は、いかに北朝鮮が追い詰められているか、を表わすものでもあった。しかし、今月のニューヨークでの北朝鮮高官の発言は、家族会にとって「その方針は果たして堅持されているのか」という疑念を生じさせるものだったわけである。

さっそく、「いまピョンヤンにのこのこ出かけていったら、相手のペースに乗せられる」と懸念を持った家族会には、「さすが」というほかない。長年、北朝鮮と対峙している家族会にとっては、北朝鮮の考えることは「手に取るようにわかる」に違いない。

私は「無法国家との交渉とは何か」を家族会が教えてくれているような気がする。いや、「外交とは何か」という根本を教えてくれているのかもしれない。なぜなら、家族会は「調査結果の提出期限」を決め、それが守られない場合は「協議を白紙に戻すことも検討すべきだ」と主張しているからだ。

一刻も早く拉致されている肉親を取り戻したい家族会が、相手のやり方を熟知しているがゆえに、逆に「相手のペースに乗ってはならない」と必死で堪(こら)えているさまが浮かび上がる。

断腸の思いで今回の申入書が出されたことを想像すると胸が痛む。そして、集会で家族会代表の飯塚繁雄さんが語った以下の言葉も印象深かった。

「今、ピョンヤンに行くのは拙速だ。単に“来い”というだけで、日本側が乗り込んでいくのはリスクがある。それでも総理の判断で行くのであれば、担当者1人か2人で行き、情報を“持ち帰るだけ”にしていただきたい」

外交における交渉とは、「力と力」、「駆引きと駆引き」の勝負である。相手の要求通り、北朝鮮に、ただ行けば、相手のペースに乗り、家族会が指摘するように、相手のつくった土俵に上がることになってしまう。

秋から冬に向かえば、北朝鮮は今年も“飢餓の季節”を迎える。「引き伸ばしによる援助の先取り」で人道的支援を勝ち取ろうとする北朝鮮の目論見は、家族会の苦渋の申し入れによって風前の灯になったと言えるだろう。

本日、政府は、日本人拉致被害者の再調査について、伊原純一・外務省アジア大洋州局長ら交渉当事者を訪朝させることを正式決定する方針を固めたが、家族会の申入書によって、伊原局長への安倍首相の指示は、事前とは「決定的に違うもの」になるだろう。

「(拉致問題は)完全に決着している」という北朝鮮の揺さぶりが勝つのか、家族会が言うように「調査結果の提出期限を決め、それが守られない場合は協議を白紙に戻すべき」との主張が勝つのか。

秋が深まり、寒さが増していく中で始まった「北朝鮮」と「家族会」との我慢比べ――正義が勝つことを私は、信じたい。

カテゴリ: 北朝鮮, 政治

朝日新聞「3度の転機」と生き残りへの「道」

2014.09.26

日本人にとって非常に不思議な存在である「朝日新聞」への非難が収まらない。中国と韓国の主張と一体化し、ひたすら日本人を貶めて来た同紙に、国民の怒りが一気に噴出しているように思える。

現在、世界から「性奴隷(sex slaves)を弄んだ民族」として日本が糾弾されているのが、朝日新聞の報道によるものであることは、これまで再三再四、書いてきた通りだ。

それが朝日新聞による「強制連行」報道に端を発しており、しかも、その「強制連行」が歴史上の「真実ではない」のだから、事情を知る日本人には、悔しく、情けなく、本当にやるせない思いだろう。今日は、少し違った視点でこの問題を書いてみたい。

9月11日におこなわれた朝日新聞の木村伊量社長の記者会見は、世のビジネスマンたちにとって「非常に興味深いものだった」という。それは、企業体としての朝日新聞社が「いかに危機管理能力が決定的に欠如していたか」を明確に表わすものだったからだそうだ。

メーカーに勤めているビジネスマンたちによって、特に関心が注がれたようだ。それは、その会社の「商品」に対する企業トップの認識という点である。

メーカーに勤務するビジネスマンたちは、まず第一に自社が売る商品を徹底的に自分なりに「分析」し、頭の中にすべてを「叩き込むこと」から始める。商品を売り込む場合でも、またクレームが来た場合でも、どんな時でも「商品」それ自体のありようが最も重要なものだからだ。

では、新聞社というのは、いったいどんな“商品”を売っているのだろうか。言うまでもないが、新聞社が消費者(購読者)に売っているのは新聞という名の「紙」である。だが、何も書いていない白い紙を売ろうとしても、誰も買ってはくれない。

新聞社は、その白い紙に「情報」と「論評」という付加価値を付けた活字を印刷することによって、その紙を読者に販売している。つまり新聞社の商品とは、紙面に掲載されている記事の中にある「情報」と「論評」にある。これこそが、新聞社が売る商品の「根幹」を成すものである。

今回の「吉田調書」問題を例にとってみよう。朝日新聞は政府事故調による吉田調書(聴取結果書)を「独占入手した」として、デジタル版まで動員した大キャンペーンを5月20日に始めた。その大々的な記事に対して、「これは誤報である」と私が最初にブログに書いたのは、5月31日のことだ。

朝日新聞にとっては、私は一介のライターに過ぎないかもしれない。しかし、私は、故・吉田昌郎所長をはじめ数多くの現場の人間を取材して『死の淵を見た男』というノンフィクションを書いた人間である。その人間が記事を「誤報だ」と申し立ててきたわけである。

つまり、新聞社にとって、消費者に売る「商品の根幹」であるスクープ記事に「クレームが飛んで来た」のである。これは、普通の企業にとっては、大変な事態だと思う。例えば、自動車メーカーに、「エンジンに欠陥がある」という指摘が、専門家から突きつけられたとしたらどうだろうか。

まともな自動車メーカーなら、大急ぎで対応にあたり、必死で検証し、事態の収拾をはかろうとするだろう。しかし、朝日新聞は違った。私が、ブログのあと、週刊ポストに「朝日新聞“吉田調書”スクープは従軍慰安婦虚報と同じだ」と書くと、これに「言論」で反論するのではなく、「法的措置を検討する」という信じがたい抗議書を送りつけてきた。

その企業が売っている商品の根幹にかかわる指摘を、「黙れ、黙らんとお白洲に引っ張り出すぞ」という“脅し”で応じたことになる。私は、言論機関として「自由な言論」を封じるこのやり方に呆れる前に、朝日新聞に企業体としての「危機管理」がまったくなっていないことを知った。

世のビジネスマンも、そのことに注目したという。自社の商品の“根幹”にクレームが来たら、これは大変な事態であり、これをどう収拾するかは、頭を悩ませる重大案件である。しかし、朝日は、これを弾圧によって抑え込もうとしたのである。

普通の企業なら怖くてできないような対応をとった朝日新聞は、そればかりか、当該の週刊ポストが発売になった翌日、第二社会面に私と週刊ポストに対して「事実無根」の抗議書を送ったことを発表したのである。

その後のことは、これまでも書いてきた通りなので繰り返さない。ただ、この対応によって、大きな世間の関心事となった「吉田調書」問題は、私を駆り立てた。以降、私は各メディアをレクチャーして廻り、必要なら取材先を紹介するなどの行動に出た。

そして、8月末までに、朝日を除く全新聞が「これは誤報である」という朝日包囲網を敷くことになる。9月11日の記者会見は、朝日が「やってはいけないこと」を繰り返してきた結果だと、私は思う。

さて、今回の問題での朝日の粛清人事は凄まじいものだった。木村社長が「道筋がついた後の辞任」を示唆し、編集担当の杉浦信之・取締役編集担当、市川速水・ゼネラルマネジャー兼東京本社報道局長、渡辺勉・ゼネラルエディター兼東京本社編成局長、市川誠一・東京本社特別報道部長を解任するというのである。

これほどの更迭をおこなった限りは、朝日新聞が「生まれ変わることができるのかどうか」がポイントになる。しかし、私は、それは望み薄だと思う。ただ、今回の出来事は、朝日新聞が創刊以来、「3度目の危機」であることは間違いないだろう。

朝日新聞の最初の危機は、1918(大正8)年に起こった「白虹(はっこう)事件」である。当時、朝日新聞は、大正デモクラシーの風に乗って、デモクラシー礼讃の記事を盛んに書いていた。しかし、米騒動による寺内正毅内閣への批判が巻き起こった時に、朝日新聞は「白虹日を貫けり」と書いた。

「白い虹」というのは、秦の時代、刺客・荊軻(けいか)が始皇帝への暗殺を企てた時に現われた自然現象とされる。「帝」に危害を加え、「内乱」のきっかけになるような不吉な兆候のことだ。

朝日新聞は、これで帝の暗殺と、内乱を煽っていると右翼に糾弾され、大規模な不買運動につながっていく。さらに、当時の村山龍平社長の人力車が右翼に襲撃され、村山社長が全裸にされて電柱に縛りつけられるという事件に発展する。村山社長の首には「国賊村山龍平」と書いた札がぶらさげられていたという。

この事件をきっかけに、村山社長と編集幹部の総退陣がおこなわれた。そして、編集方針も一変する。それまで大正デモクラシーを讃えていた記事から、それとは距離を置いたものとなり、紙面が右傾化していくのである。

そして、朝日はその後、どの社よりも極端な軍国主義礼賛の新聞社として変貌を遂げていく。戦時中はもちろんだが、すでに敗戦の情報をキャッチしていたはずの昭和20年8月14日の社説でさえ、中身は凄まじい。

「一億の信念の凝り固まった火の玉を消すことはできない。敵の謀略が激しければ激しいほど、その報復の大きいことを知るべきのみである」。

これほどの煽動的な記事を書いていた朝日新聞が、それまでの路線を一気に転換するのは、同年10月24日のことだ。「戦争責任明確化 民主主義体制実現」と1面で宣言し、村山長挙社長以下、取締役が総退陣し、社説で「自らの旧殻を破砕するは、同胞の間になお遺存する数多の残滓の破砕への序曲をなすものである」と言ってのけたのである。

「白虹事件」で右翼新聞になり、今度は占領軍(GHQ)路線に乗って、過去の日本を徹底的に弾劾する路線を基本とするべく「宣言」をおこなったのだ。そして、それが、現在の「日本」そのものを貶める路線の原型となり、そして朝日新聞の明確な特徴となっていく。

これが全盛を迎えたのは、一九七〇年代である。全共闘世代、すなわち団塊の世代に朝日の主張は広範な支持を獲得し、それが「自分たちの主張は素晴らしい」「自分たちのイデオロギーこそ戦後日本の象徴である」との錯覚を生んでいった。

やがて、自分たちの主張やイデオロギーに沿って、情報を都合よく“加工”して、どんどん大衆に下げ渡していくという手法が確立する。これを私は「朝日的手法」と呼んでいる。朝日の記者はそれに慣れ、麻痺し、慰安婦の強制連行報道や、今回の吉田調書の誤報事件へと発展していったと、私は思う。

前回のブログでも書いたように、朝日がもし、“ニューメディア時代”の本当の意味を理解していたら、ここまでの「失敗」はしなかったと思う。インターネットの普及によるニューメディア時代は、これまでの「情報」のあり方を決定的に変えていたからだ。

インターネットを通じて、誰もがさまざまな情報を取得することができ、さらに個人個人が情報を発信するブログやSNSなど、さまざまなツールを持つに至った。私は、これを“情報ビックバン”と名づけているが、かつては新聞に都合よく“加工”されて下げ渡されていた「情報」を検証する術(すべ)を持たなかった大衆が、それを個人個人ができるようになったのである。

朝日新聞は、そういう“時代の変化”を読むこともできず、全盛を誇った70年代の手法をそのまま踏襲し、今回、墓穴を掘ってしまったのである。

私は、創刊以来「3度目」の危機に朝日新聞がどう対処するかに注目している。このまま、「中国と韓国」の主張との“一体化”をつづけ、徐々に部数を減らしていくのか。それとも、新たな路線に転換するのか。

私は、いずれも茨(いばら)の道であろうと思う。生き残れるかどうかは、年内で「部数」激減に歯止めがかかるかどうか、である。すべては、朝日新聞を長年購読してきた読者の動向にかかっている。彼らの朝日離れが続くなら、朝日新聞は「3度目の危機」によって、ついに消え去ることになる。

カテゴリ: マスコミ

“情報ビッグバン”に敗れた朝日新聞

2014.09.13

朝日新聞は、“情報ビッグバン”に敗れた。私は、そう思っている。朝日新聞の木村伊量社長の記者会見、そして「吉田調書」誤報の検証記事を見ながら、私には、いくつもの感慨が湧き起こった。

朝日新聞の「9・11」は、日本のジャーナリズムにとって「歴史的な日」であり、「時代の転換点」として長く記憶されることになるだろう。

おそらく従軍慰安婦報道の一部撤回につづく今回の吉田調書の誤報事件は、朝日の致命傷になると私は思う。それは、朝日新聞はジャーナリズムとしても、そして企業体としても「生き残れない」という意味である。

それは、朝日新聞が今、糾弾されているのは、単に吉田調書に対する誤報ではなく、意図的に事実を捻じ曲げて報道するという“朝日的手法”にほかならないからだ。それが報道機関にとってあってはならないことであり、その正体が白日の下に晒された以上、すなわち、国民がそのことに気づいた以上、それは朝日新聞にとって「致命傷」である、ということだ。

自らのイデオロギーや主張に基づいて、それに都合のいい事実をピックアップし、真実とはかけ離れたものをあたかも真実であるかのように報道する――朝日新聞がこれまでつづけてきた、その「手法」と「姿勢」そのものが糾弾されているのである。

私は、すでに“朝日的手法”が通用しない時代が来ていることを、なぜ朝日新聞は気がつかなかったのか、と思う。情報を独占し、自らの主張、イデオロギーによってそれを加工し、大衆に下げ渡していくという手法が、もはや通じなくなっていることに、である。

今回、5月20日に朝日新聞が「命令違反による撤退」という吉田調書報道をおこなった後、私が5月末にまずブログで誤報を指摘し、次に『週刊ポスト』誌上でレポートとしてまとめ、写真誌『フラッシュ』のインタビューに応じるなど、問題提起をしていった。

私自身が驚くほど、それらはインターネットによって拡散され、大きな影響を及ぼしていった。そして以降、産経新聞、読売新聞、共同通信といったマスメディアが吉田調書を入手して検証するに至り、朝日の誤報の具体的な問題点が次々、浮き彫りにされていった。

これは、いったい何を意味しているのか。それは大新聞が情報を独占し、加工して下げ渡していく時代がとっくに終焉しているということである。インターネットの登場によるニューメディア時代は、マスコミが情報を独占する時代を、あっという間に「終わらせていた」のである。

私は、これを“情報ビッグバン”と呼んでいる。情報を発信するのは、マスコミに限らず、それぞれの個人個人、誰にでもでき、ブログやSNSといったニューメディアは、その大きな手段となっている。今回、私が最初に情報発信したのが、「ブログであった」ことでもわかる。

これらニューメディアが台頭する以前、大衆は情報を確かめる術(すべ)を持たなかった。しかし、今は違う。マスメディアが大衆を導く時代は終わり、逆に大衆によって監視され、検証される時代に入っているのだ。

しかし、朝日新聞は、驕りと偏見によって、そのことに気づこうともしなかった。だが、その代償はあまりに大きかった。私はこれから朝日新聞を待っている試練は、はかりしれないほど大きいと思う。それは、いよいよ“本丸”での闘いが、これからスタートするからだ。

本丸とは、いうまでもなく朝日新聞によって、引き起こされた従軍慰安婦の「強制連行」問題だ。中国や韓国の側に立って、日本と日本人をどうしても貶めたい朝日新聞は、1991年8月、1人の朝鮮人慰安婦の取材をすることに成功する。

それは15歳の時にキーセンに売られ、またその後も売られていく金学順さんという薄幸な女性だ。初めて証言する従軍慰安婦として、朝日新聞は彼女を大きく取り上げつづけた。

彼女は、朝日新聞によって、「女子挺身隊の名で戦場に連行された朝鮮人慰安婦」に仕立て上げられた。強制連行の被害者、すなわち、のちに「性奴隷(sex slaves)」と称される従軍慰安婦の典型例として、朝日は彼女を「利用していく」のである。

しかし、実際の彼女は、不幸にも身内によって、身を売られた女性だった。しかし、それでは「日本」を糾弾することができない朝日新聞は、彼女を強制連行された存在としてデッチ上げていくのである。

だが彼女は、自分が「売られていった過去」を隠していない。朝日の報道後、名乗り出た彼女は、記者会見でも、自分が40円で売られたことを堂々と語っている。そしてその後、日本政府に損害賠償請求をした訴状の中にも、はっきりとそのことを記述している。

しかし、朝日新聞は、それでも彼女を「強制連行の被害者」としたのである。1992年1月11日付朝刊で、朝日は従軍慰安婦のことを「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と書いている。“強制連行”という謂われなき濡れ衣を日本人にかぶせつづけたのである。

その結果、日本はどうなったのか。そして日韓関係はどうなったのか。国連の人権委員会によって、慰安婦への謝罪と賠償を勧告され、世界のあちこちに従軍慰安婦像が建ち、日本人が「性奴隷を弄んだ民族」として非難を浴び、そして決定的に日韓関係は破壊されてしまったのである。

朝日新聞が、さる8月5日、6日に検証記事によって撤回したのは、「済州島で慰安婦狩りをした」という自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長の吉田清治氏に関わる記事だけだった。

しかし、朝日新聞の罪は、吉田清治証言を報道したことよりも、前述の通り、日本軍、もしくは日本の官憲による「強制連行」をつくり上げ、拡大し、そして世界に広めていったことにある。

朝日の報道によって、日本人が被った「不利益」と、失われた「名誉と信用」は、到底、損害額としてはじき出せるようなレベルではない。すなわち、それは、戦後、ひたすら日本と日本人を貶めることに血道を上げてきた朝日新聞の“不断の努力”が実をむすんだ結果なのである。

果たして、朝日新聞の本当の姿が、今後、どれだけ国民の前に明らかになるだろうか。私はそこに注目している。そして、その解明が成された時、私は朝日新聞が「終焉を迎える」と思っている。

中国や韓国の報道機関ならいざ知らず、繰り返されてきた朝日新聞による「日本人を貶める」報道。それが今後、一生懸命、働き、真面目にこつこつ努力してきた大多数の日本人に、受け入れられるはずがない。

私は、「吉田調書」報道の謝罪会見を開いた「2014年9月11日」は、日本のジャーナリズムのターニング・ポイントであり、同時に朝日新聞にとっては、生き残りさえ難しい「致命傷」を負った日だったと思う。

カテゴリ: マスコミ

「日本を貶める朝日新聞」は生き残れない

2014.08.31

いよいよ読売新聞も共同通信も“参戦”してきた。私は昨日の読売新聞、そして共同通信の配信記事を掲載した本日の地方紙の各紙を見て、いったい朝日新聞はどんな対応をとるのだろうか、と思った。

読売新聞も共同通信も、産経新聞につづいて「吉田調書(聴取結果書)」を入手し、「吉田調書の全容が明らかになった」として、大展開したのである。特に、読売新聞の報道量は凄まじいものだった。各面で、朝日新聞の「吉田調書報道」が誤報であることを繰り返して伝える紙面となっていたからだ。

1面トップでは、〈福島第一 吉田調書 「全面撤退」強く否定 「第二原発へ退避正しい」〉、2面で〈朝日報道 吉田調書と食い違い〉、3面では〈退避 命令違反なし〉、社会面トップの39面では、〈「命賭けて作業した」 吉田調書「逃亡報道悔しい」第一原発所員語る〉という記事を掲げたのだ。

つまり、産経新聞と同じく読売新聞も、吉田調書の“現物”を読んだ上で、朝日新聞の「吉田調書報道」を全面否定し、糾弾したのである。産経新聞につづき、これほどライバル社が同業他社の記事を“全否定”する事例は珍しい。朝日の手法に対して、同業者として、そして同じジャーナリストとして、“怒り”が抑えられなかったのだろう、と思う。

そして、共同通信の中身も痛烈だ。こちらも、吉田調書を入手し、〈吉田氏は聴取に、命令違反があったとの認識は示していない〉〈2Fまで退避させようとバスを手配した〉と、朝日の報道内容を全面否定した。

しかも、共同通信には、当時、免震棟内の緊急時対策本部で総務班長を務めた男性社員(46)が、退避前夜の3月14日、2号機の危機的状況を目の当たりにした吉田氏の命令で自分が避難先を探したと明らかにした上で、「第2原発に退避することは前夜のうちに決まっていた。吉田所長も理解していた。“命令違反”と書かれているが、それはいったい何だという感じです」と証言している。

この共同通信の記事は、今朝の地方紙を中心に一斉に掲載されている。私はこれらの報道をある種の感慨をもって見つめている。朝日新聞が5月20日から始めた「所長命令に違反して現場の9割の所員が撤退した」というキャンペーン記事に対して、私がブログで異を唱えたのは、5月末のことだった。

吉田所長以下、福島第一原発(1F)の事故現場で闘った多くの人々を取材していた私は、朝日新聞の報道が「虚偽」であることがすぐにわかったからだ。日本が有史以来、最大の危機に陥った2011年3月15日朝、福島第一原発の免震重要棟にいた女性社員を含む約700人の内、9割の所員が所長命令に「従って」、福島第二原発(2F)に「退避した」ことを私は知っていた。それが、たった一つの「厳然たる事実」である。

拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』の中でも、そのことは詳細に記述している。退避に先立つ3時間以上前(3月15日午前3時過ぎ)には、東電本店から「退避の手順」として、「健常者は2Fの体育館へ」「けが人は2Fのビジターへ」と具体的な退避先の建物も決められ、1Fに伝えられていた。退避する時は、「2Fへ」というのは、吉田所長以下、全員の共通認識だったのだ。

大きな爆発音が轟き、2号機の圧力抑制室(サプチャン)の圧力がゼロになった午前6時過ぎ、吉田所長は「各班は最少人数を除いて退避!」と叫んでいる。免震重要棟にいた女性社員を含むおよそ650人が、この吉田所長の命令に従ってバス5台と自家用車に分乗して、あらかじめ決められていた通り、「2Fに向かった」のである。

しかし、これが午前5時36分に東電本店に乗り込んだ菅首相の「逃げて見たって逃げ切れないぞ」「東電は100パーセント潰れる!」という大演説の直後だっただけに、吉田所長は、全体に流れるテレビ会議の発言では、菅首相がテレビ会議の映像を見ていることを前提に慎重な発言を繰り返している。

朝日新聞は、吉田調書の一部を取りだして「所長命令に違反して所員の9割が撤退した」と報じ、吉田所長の本当の命令は「1F構内か、その近辺にとどまることだった」と書いたのだ。

しかし、現場を少しでも取材したことがあるジャーナリストなら、これがいかに非常識であるかは、即座にわかる。なぜなら、1Fの中で最も安全な場所は、彼らがいる「免震重要棟」である。そこから出て、その約650名は、いったい構内のどこに行けばいいというのだろうか。放射性物質大量放出の危機に、防護マスクも圧倒的に不足している中で、どこかの“木陰”にでも「隠れていろ」という命令を吉田所長が出したとでもいうのだろうか。

朝日新聞は、一連のキャンペーン記事の中で、世界から称賛されたあの“フクシマ・フィフティー”も、福島原発に留まったのは、所員9割が所長命令に違反して2Fに撤退してしまった「結果に過ぎない」とまで書いたのである。

朝日の思惑通り、外国のメディアは朝日の報道を受けて、「パニックに陥った原発所員の9割が命令に背いて逃げ去った」「これは、“日本版セウォル号事件”だ」と大々的に報じたのは周知の通りだ。

しかし、各メディアが入手した「吉田調書」には、朝日が書いた「命令違反で所員の9割が撤退した」との吉田証言は存在しなかった。

吉田所長をはじめ、現場の人間に大勢取材している私は、現場の真実を知っている。だからこそ、朝日の第一報があった時、「ああ、いつものやり方だ」と、即座に理解できた。

それは、政治家や官僚などのちょっとした発言の「言葉尻」を捉えて中国や韓国の要人に“ご注進”し、それを打ち返して「大問題」にしていく、いわゆる“ご注進ジャーナリズム”を得意としてきたメディアならではの「手法」だと思ったのである。

朝日新聞が「吉田調書」の中の一部分の言葉尻を捉えて、事実とは真逆のことを報じてきた――そのことは、私にかぎらず、あの事故現場を取材してきたジャーナリストたちには、すぐにわかったのである。

私は、朝日の記事を全面否定する今回の報道が福島第一の現場に食い込んでいるメディアによるものであることに注目している。彼らには、当初から朝日の報道が虚偽であることはわかっていたが、吉田調書の現物を入手できていないために、これまでそれを「否定する報道」ができなかっただけなのである。

だが、政府が吉田調書の公開を決めたことにより、ついにこれを各メディアが入手し始めた。それは、そのまま朝日の誤報を白日の下に晒す結果につながったのである。

私が5月末にブログで意見を発表後、週刊誌、写真誌、月刊誌、インターネットテレビ、新聞が次々と私の論評を取り上げてくれた。そして、ついに先日の産経新聞につづいて読売新聞、そして共同通信も吉田調書を手に入れ、朝日新聞のその報道を全面否定したのである。それは、私が声を上げて、わずか「3か月後」のことだった。

私は、何十年か後になってこの「吉田調書」が公開された時、初めて朝日新聞の“誤報事件”が明らかになるだろう、と思っていた。しかし、何十年か経ってからでは、言うまでもなく意味はない。だから、正直言えば、ある種の“虚しさ”を覚えつつ、私は一連の論評を発表していた。

つまり、「吉田調書」の事実を捻じ曲げて、現場の職員、つまり「日本人を貶めた」朝日新聞の手法が、白日の下に晒されることなど「まずないのではないか」と思っていたのだ。

しかし、従軍慰安婦の検証記事を朝日新聞が発表(8月5、6日)以降、事態は急変した。慰安婦狩りの証言記事を撤回するまでに32年かかったとはいえ、正式に朝日は慰安婦狩りの証言記事を撤回した。

そこから、この「吉田調書問題」も、急展開してきたのだ。まず産経新聞、そして読売新聞、そして配信を始めた共同通信を含めたメディアは、実際に吉田調書の“現物”を手に入れて、堂々と朝日の「誤報」を取り上げ始めたのだ。

朝日新聞がいかに「誤報」をおこなったか、意図的な編集はどうおこなわれたか。ここに国民の関心が集まることは、実に貴重なことだと思う。私は、これは朝日新聞の“終わりの始まり”だと思っている。

それは、近く政府から公表される「吉田調書」によって、国民自ら、朝日新聞の「日本を貶める手法」を確認することができるからだ。「なぜこの調書で、あんな“真逆の記事”ができるのか」。それを国民は自ら、その目で判断できるのである。

私は、朝日新聞から抗議書を送付され、「法的措置」を講じることを検討する、という脅しの文句を伝えられている身だ。それは、言論機関とは到底思えない“圧力団体”の手法でもある。その当の朝日新聞が、どんな“意図的な編集”をおこなっているか、国民が自分の目で確かめればいいのではないか、と思う。

自らは現場で命をかけて奮闘した人々の「名誉と信用」を傷つけたことを恬(てん)として恥じず、それに批判の論評を掲げたジャーナリストに対しては、法的措置をちらつかせる抗議書を送りつける――私は、朝日新聞に対して、もはや言うべき言葉はない。

私の論評に対して、「朝日新聞社の名誉と信用を著しく毀損しており、到底看過できません」という抗議書を送りつけた朝日新聞は、それよりも明確な“完全否定”をおこなった読売新聞と共同通信に対して、どんな抗議書を送るのか、私はまずそこに注目したい。

しかし、「真実はひとつ」しかない以上、朝日新聞がどんなに抗(あらが)っても、いくら弁明しても、吉田調書報道の正当性を主張するのは、もはや無理だと私は思う。

私はコメントを求められたために、吉田調書の全文を読ませてもらったが、先日の産経新聞、今日の読売新聞と共同通信は、「吉田調書」の真実を客観的に報じている。それが私の率直な感想である。

「朝日新聞以外のメディア」は、読者に吉田調書の内容を「正確に伝えている」ので、朝日の“現場の人間”を貶める意図的な「編集とその手法」は、これから徹底的に分析されていくに違いない。

しかし、一度失われた名誉を回復するのは、難しい。世界中に流布された「現場の人間は逃げた」という内容は、なかなか払拭(ふっしょく)されないだろう。それは、従軍慰安婦報道と同じだ。日韓関係を徹底的に破壊し、世界のあちこちに従軍慰安婦像が建つような事態をもたらした朝日新聞の従軍慰安婦報道と同じく、失われた日本人の信用は、容易に回復されないだろう、と思う。

今週、朝日に広告掲載を拒否された『週刊文春』の記事の中に国際ジャーナリストの古森義久氏が、こうコメントしていた。「彼ら(筆者注=朝日新聞のこと)は日本という国家が嫌いなんですよ。日本は弱ければ弱いほどいい、という中国共産党と同じ発想。自らが信じる政治的なイデオロギーに合ったものしか選ばないから、結果的に間違えてしまう。それが朝日の体質なんでしょう」

また、『週刊現代』には、元朝日新聞記者の本郷美則氏の「朝日、特に社会部系は左傾した偏向報道を続けてきたが、それももう限界だろう。ニューメディアの普及により情報伝播は民主化され、旧メディアが民衆を操作する時代は終わったのだ」という意見も紹介されていた。

私も両氏と同意見である。私は反原発でも、原発推進の立場でも、どちらでもない。なぜなら、両方の意見に「一理がある」からだ。しかし、反原発という強固な主張を持つ朝日新聞が、その“イデオロギー”に基づいて、事実を捻じ曲げてまで「吉田調書」を偏向報道したことは、朝日にとって致命的だと私は思う。

それは、慰安婦報道と同じく、意図的に「日本を貶める」ことを前提としていることが国民の前に明らかになるからだ。私は、もはや朝日新聞が日本で「生き残る」ことは無理だと思う。それが、私が「朝日新聞の終わりの始まり」と思う所以である。

カテゴリ: マスコミ, 原発

日本人にとって「朝日新聞」とは

2014.08.20

もうここまで来ると「日本人にとって朝日新聞とは?」ということを真剣に考えなければならないのではないだろうか、と思う。一昨日から産経新聞が報じている「吉田調書」(聴取結果書)の真実は、多くの国民に衝撃を与えたのではないだろうか。

私は、産経新聞にコメントを求められ、吉田調書の全文を読んだ。そして、「朝日はなぜ事実を曲げてまで日本人を貶めたいのか」という文章を産経新聞に寄稿した。すると、朝日新聞から「名誉と信用を傷つけられた」として、抗議を受けている。

私は正直、そのことにも、呆れている。朝日新聞は5月20日付紙面で、「吉田調書入手」と銘打ち、「福島第一原発から職員の9割が所長命令に違反して撤退した」と、大キャンペーンを始めた。

その記事によって、世界のメディアが「日本人も原発の現場から所長命令に背いて逃げていた」「これは“第二のセウォル号事件”だ」と報じ、現場で命をかけて事故と闘った人々の名誉と信用は傷つけられた。

朝日新聞が報道機関として本当に「名誉と信用を傷つけられた」というのなら、紙面で堂々と反論すればいい。そして、命をかけた現場の人々の名誉と信用を自分たちが「傷つけていないこと」を、きちんと論評すればいいのである。

これまで何度も書いているので詳細は省くが、朝日が報じる2011年3月15日の朝、福島第一原発(1F)の免震重要棟には、総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”も含む700名ほどの職員がいた。その中には、女性職員も少なくなかった。事態が悪化する中で、彼ら彼女らをどう1Fから退避させるか――吉田昌郎所長はそのことに頭を悩ませた。

700名もの人間がとる食事の量や、水も流れない中での排泄物の処理……等々、1Fで最も安全な免震重要棟はその時、とても多数の人間が居つづけられる状態ではなくなっていた。1Fのトップである吉田所長は、2F(福島第二原発)への退避について、2Fの増田尚宏所長と協議をおこない、その結果、2Fは、「体育館で受け入れること」を決めている。

そんな交渉を前日からおこない、その末に3月15日朝6時過ぎに、大きな衝撃音が響き、2号機の圧力抑制室(サプチャン)の圧力が「ゼロになった」のである。それは放射性物質大量放出の危機にほかならなかった。もはや、彼ら彼女らを免震重要棟に留まらせていることはできなかった。

「各班は、最少人数を残して退避!」と吉田所長は叫び、のちに“フクシマ・フィフティ”と呼ばれる人々(実際には69名)を除いて、吉田所長の“命令通り”職員は2Fに退避したのである。

こうして女性職員を含む多くの職員が、バスと自家用車を連ねて2Fへと一斉に移動した。しかし、これを朝日新聞は“所長命令に違反して撤退した”と書いたのである。

この場面は、私が吉田所長以下、90名近い現場の人たちに取材して書いた拙著『死の淵を見た男』のヤマ場でもある。私は、この事態になる直前、「一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべていた」と、1Fに残ってもらう人間を“選別”する吉田所長の思いと姿を、当の吉田さん自身から詳細に聞いている。

私は、吉田さんの証言を聞きながら、「今の世にこれほど“生と死”をかけた壮絶な場面があるのか」と思い、そのシーンを忠実に描写させてもらった。

しかし、朝日新聞は、あの壮絶な場面を世界中のメディアが「所長命令に違反して現場から逃げ出した」と報じるようなシーンにしてしまったのである。

吉田調書には、吉田さんが「関係ない人間(門田注=その時、1Fに残っていた現場以外の多くの職員たち)は退避させますからということを言っただけです」「2Fまで退避させようとバスを手配したんです」「バスで退避させました。2Fの方に」とくり返し述べている場面が出てくる。

そして、「本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」と、危機的な状況で現場に向かっていく職員たちを吉田氏が何度も褒めたたえる場面が出てくる。そこには、「自分の命令に違反して、部下たちは2Fに撤退した」などという証言は出てこない。

吉田調書とは、いかに事態を収束させようと、現場で働く浜通りの人々、すなわち故郷、ひいては日本を救おうと頑張った人たちのようすが「よくわかる内容」だったのである。それは、私が予想した通りのものだった。

私は、「日本人にとって“朝日新聞”とは何だろう?」と、しみじみ考えている。従軍慰安婦の強制連行問題でも、朝日新聞は「私は済州島で慰安婦狩りをした」と言う自称・山口県労務報国会下関支部動員部長の吉田清治氏の話を流布しつづけた。


32年間もその報道を訂正しなかった朝日新聞が、さる8月5日、この一連の記事を突然、撤回したのは周知の通りだ。しかし、世界中で「性奴隷(sex slaves)を弄んだ日本人」と喧伝され、日韓関係も完全に「破壊」された今となっては、その撤回も虚しい。

朝日新聞とは、日本人にとって何なのだろうか。今、そのことを多くの国民が「わがこと」として考える必要があると、日本人の一人として心から思う。

カテゴリ: マスコミ

従軍慰安婦「記事取り消し」でも開き直った朝日新聞

2014.08.05

本日(8月5日)紙面で朝日新聞が、突如、従軍慰安婦の大特集を組んだ。しかし、まるで子どものようなひとりよがりの記事に、私は絶句してしまった。“僕だけじゃないもん!”――そんな駄々っ子のような理屈に、言葉を失った読者は多いのではないだろうか。

「この記事は、本当に朝日が従軍慰安婦報道を反省し、撤回したものなのか」。私は、本日の朝日新聞の大特集を読みすすめながら、そう思った。「これは、逆に火に油をそそぐものかもしれない」と。

従軍慰安婦問題とは、朝日新聞が一貫して報じてきた「強制連行問題」にある。あの貧困の時代、さまざまな事情で、春を鬻(ひさ)ぐ商売についていた薄幸な女性たちが数多く存在した。そういう商売が「公娼制度」として現に認められていた、今とは全く異なる時代のことである。

彼女たちは当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となった女性たちである。新聞に大々的に業者による「慰安婦募集」の広告が打たれ、その末に集まった女性たちだ。なかには親に売り飛ばされた女性もいただろう。彼女たちの不幸な身の上には、大いに同情しなければならないと思う。

だが、これが、無理やり日本軍、あるいは日本の官憲によって「強制連行された」となれば、まったく様相は異なる。それを主張してきたのが、ほかならぬ朝日新聞である。

「強制連行」とは、すなわち、従軍慰安婦たちは日本によって「拉致」「監禁」「強姦」された被害者だった、という意味である。意思に反して連行されたのなら「拉致」であり、無理やり慰安所に閉じ込められたのなら「監禁」であり、望まない性交渉を強いられたのなら、それは「強姦」であるからだ。

現在、韓国が主張し、世界中に広まっている日本による「従軍慰安婦=性奴隷(sex slaves)」という論拠は、まさにそこにある。その結果、今や世界各地に日本糾弾のための「慰安婦像」が建ち、さまざまな議会で日本非難の決議がなされ、日本の若者の国際進出に対する大きな「障壁」となっているのは、周知の通りだ。

言いかえれば、韓国と歩を一にして、「日本を貶めつづけた」存在が朝日新聞にほかならない。私はそのことに対して、どの程度の真摯な反省が記述されているのか、今日の記事を読みすすめた。まず第1面に〈編集担当 杉浦信之〉という署名で書かれた〈慰安婦問題の本質 直視を〉と冠する記事には、こう書かれている。

〈私たちは元慰安婦の証言や数少ない資料をもとに記事を書き続けました。そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことが分かりました。問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します〉

私は、これは朝日新聞が真摯な反省をするのかと思い、期待した。しかし、それはすぐに失望に転じた。それは、次のくだりである。信じられない朝日独特の論理がそこには展開されていた。

〈似たような誤りは当時、国内の他のメディアや韓国メディアの記事にもありました。こうした一部の不正確な報道が、慰安婦問題の理解を混乱させている、との指摘もあります。しかし、そのことを理由とした「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません。
 被害者を「売春婦」などとおとしめることで自国の名誉を守ろうとする一部の論調が、日韓両国のナショナリズムを刺激し、問題をこじらせる原因を作っているからです。見たくない過去から目を背け、感情的対立をあおる内向きの言論が広がっていることを危惧します。
 戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです〉

「えっ? それはないだろう」。この言い分を読んで納得する人がどれだけいるだろうか。ここにこそ、朝日新聞特有の巧妙な論理の“すりかえ”がある。

彼女たちが薄幸な女性たちであることは、もとより当然のことである。貧困のために、心ならずも身を売らなければならなかった不幸な女性たちに、今も多くの人々が同情している。私もその一人だ。

しかし、朝日新聞は、彼女たちが自分たちの意思に反して無理やり「日本軍や日本の官憲」によって、「戦場に連行」された存在だった、としてきたのである。だからこそ、日本は「拉致」「監禁」「強姦」国家である、という汚名を着せられているのだ。

その根拠なき「強制連行」報道を反省すべき朝日新聞が、〈「慰安婦問題は捏造」という主張や「元慰安婦に謝る理由はない」といった議論には決して同意できません〉と、改めて主張したのである。

これは、一部勢力の過激な「従軍慰安婦論」を持ち出すことによって、自分自身を“善”なる立場に持ち上げて「擁護」し、自らの「正当性」を訴えているのだ。これは一体、何なのだろうか。

さらに、この記事は、問題の本質をこう捻じ曲げている。〈戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです〉

この手前勝手な論理に、私は言葉を失ってしまった。〈問題の本質〉とは、朝日新聞が“虚偽の証言者”を引っ張ってくることによって、歴史の真実を捻じ曲げ、従軍慰安婦のありもしない「強制連行問題」をつくり上げたことではなかったのだろうか。

そして、そのことによって、日本人が将来にわたって拭い難い汚名を着させられ、国際社会で「性奴隷を弄んだ日本人」として、謂われなき糾弾を受けていることではないのだろうか。

私が、「こんなひどい論理が許されるのだろうか」と思う所以である。私は記事を読みすすめた。1面で開き直りの宣言をおこなった朝日新聞は、今度は16面、17面をブチ抜いて、〈慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます〉という記事を掲げている。

ここでは、5つの事象で、読者に対して「説明」をおこなっている。しかし、その5つの説明は、どれも納得しがたい論理が展開されている。特に驚くのは、肝心の「強制連行」に関するものだ。そこには、こう書かれている。

〈読者のみなさまへ 日本の植民地だった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません。一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています。共通するのは、女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があったことです〉

すなわち〈軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません〉と、このことでの誤りを認めたのかと思ったら、〈軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めること〉ができた、さらに〈インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています〉と、逆に「強制連行はあった」という立場を鮮明にしたのである。

ここでいう〈インドネシア〉の事例というのは、スマランという場所で起きた日本軍によるオランダ女性に対する事件である。「強姦罪」等で首謀者が死刑になった恥ずべき性犯罪だが、この特定の犯罪をわざわざ持ち出してきて、これを朝日新聞は強制連行の“実例”としたわけである。

まさに開き直りである。結局、読みすすめていくと、朝日新聞は、韓国・済州島で「慰安婦狩りをした」という衝撃的な告白をおこなった自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の発言を繰り返し報道したことに対してだけ〈虚偽だと判断し、記事を取り消します〉としたのである。

また、戦時中の勤労奉仕団体である「女子挺身隊」を、まったく関係のない慰安婦と混同して、記事を掲載したことに関しては、〈当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました〉と言い訳しながら、しぶしぶ間違いを認めている。

驚くのは、この検証記事のなかで、ほかの新聞も吉田清治氏の証言を取り上げていたと、わざわざ各新聞社の名前を挙げて、各紙の広報部のコメントまで掲載していることだ。まるで、“(悪いのは)僕だけじゃないもん!”と、駄々っ子がゴネているような理屈なのである。

さらに、朝日新聞は、元韓国人慰安婦、金学順氏の証言記事を書き、〈『女子挺身隊』の名で戦場に連行〉と、実際の金氏の経験とは異なった記事を書いた植村隆記者に関しては〈意図的な事実のねじ曲げなどはありません〉と擁護している。

記事を書いた植村記者の妻が韓国人で、義母は当時の慰安婦訴訟の原告団幹部だったことは、今では広く知られている。そのことに対して、朝日はこう弁明しているのだ。

〈91年8月の記事の取材のきっかけは、当時のソウル支局長からの情報提供でした。義母との縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした〉

ソウル支局長の情報提供によって、大阪からわざわざ植村記者が「ソウルに飛んだ」ということを信じる人が果たしてどれだけいるのだろうか。情報提供したのが〈ソウル支局長〉なら、なぜ本人か、あるいはソウル支局の部下たちが金学順氏を取材し、記事を執筆しないのだろうか。大阪から、わざわざ“海外出張”までさせて、取材・執筆させる理由はどこにあったのだろうか。

さらに言えば、植村記者は、なぜ金学順氏が妓生(キーセン)に売られていた話など、自らが主張したい「強制連行」に反する内容は書かなかったのだろうか。

私は、朝日新聞の今回の従軍慰安婦の検証記事は、完全に“開き直り”であり、今後も肝心要(かなめ)の従軍慰安婦の「強制連行」問題では「一歩も引かない」という宣言であると思う。

つまり、朝日新聞は、「日本が慰安婦を強制連行した」ということについては、まったく「譲っていない」のである。今日の記事で、従軍慰安婦問題が新たな段階に入ったことは間違いない。しかし、それは朝日新聞の“新たな闘い”の始まりに違いない。

すなわち、どう検証しても「虚偽証言」が動かない吉田清治氏についての記事は「撤回する」が、そのほかでは「闘う」ということにほかならない。

私は、不思議に思うことがある。それは、「朝日新聞は、どうしてここまで必死になって日本人を貶めたいのか」ということだ。歴史の真実を書くことはジャーナリズムの重要な使命であり、役割だ。しかし、朝日新聞は、「真実」が重要なのではなく、どんなことがあっても「日本は悪いんだ」と主張しつづけることの方が「根本にある」ような気がしてならない。

なぜ、事実を捻じ曲げてまで、朝日新聞はそこまで「日本人を貶めたい」のだろうか。私はそのことが不思議だし、そんな新聞を今も多くの日本人がありがたく購読していることもまた、不思議でならない。

従軍慰安婦問題で肝心要の「強制連行」を撤回しなかった朝日新聞――日本を貶めたいこのメディアへの風当たりは「一部記事の撤回」によって、今後、ますます激しくなっていくだろう。

カテゴリ: マスコミ, 歴史

「真の友好」を遠ざけた舛添都知事の「屈服外交」

2014.07.27

これで韓国との「真の友好」は遠のいたなあ、とつくづく思う。舛添要一・東京都知事が韓国の朴槿惠(パク・クネ)大統領と青瓦台で会い、まるで朝貢外交でやってきた使節のようにぺこぺこと頭を下げるようすが日本と韓国で一斉に報じられた。韓国国民の溜飲を大いに下げさせたこの「舛添外交」によって、日本と韓国の「真の友好」は、確実に遠ざかったと思う。

今、韓国に対して最もやってはならないこと――それを舛添氏は「やってのけた」のである。これまで、当ブログで何度も指摘してきたように、本当に韓国との「真の友好」を目指すなら、少なくとも韓国の国民に、「歴史の真実」を知ってもらう必要がある。そして、いったい日本人がなぜ「従軍慰安婦問題」で怒っているのか、そこに韓国に目を向けさせることが重要だった。

しかし、そのことについて全く触れないまま、舛添氏はソウル大学の講演でも「90%以上の東京都民は韓国が好きなのに、一部がヘイトスピーチをして全体を悪くしている」などと誤ったメッセージを伝えてしまった。

世界各地で従軍慰安婦像を建て、さまざまな議会で日本非難の決議をおこない、日本を貶める行動を世界中で展開している韓国に、のこのこと出かけて行き、逆にあちこちで“お赦し”を乞うてまわったのだ。やるべきことが全く逆である。いま韓国が世界中でやっていることに対して、「皆さん、日本人は怒っていないですよ」と容認のメッセージを与えたようなものではないだろうか。

朴大統領との会談で、その舛添氏は、次のような“お言葉”を頂戴したそうだ。「一部政治家の言動で両国関係に難しさが出ているが、正しい歴史認識を共有しつつ、関係を安定的に発展できるよう努力をお願いする」「慰安婦問題は両国関係だけではなく、普遍的な人権に対する問題。真摯な努力で解決できる」

この「正しい歴史認識」と「慰安婦問題」について、舛添氏はどんな返答をしたのだろうか。そもそも、この問題に、どのくらいの認識を持って会談に臨んだのだろうか。

一方の朴大統領にとっては、これほどありがたいことはなかっただろう。セウォル号事件以来、政権の求心力を失い、国民の失望の連続にあった時に東京都知事がわざわざ「頭を下げにやって来た」のだから、「ああ、大統領もやるじゃないか」と韓国国民に映り、彼女の窮地を救う一助となったのは間違いない。

では、これが日本と韓国との友好につながるのだろうか。答えは“ノー”である。従軍慰安婦問題で謂われなき非難を浴びているのは日本である。韓国の誤った認識と主張によって、日本は「拉致」「監禁」「強姦」国家であるという糾弾を受けている。従軍慰安婦像なるものが世界中に建ち、この問題を世界の記憶遺産にしようという中国と足並みをそろえて、日本人を侮蔑し続けている。

間違っていることをやっている側に、やられている側が「私たちは怒っていません」と伝えてしまったのだから、これからますます彼らの日本非難は強くなるに違いない。自信を持って、さらに糾弾に拍車がかかるだろう。

日本の言っていることに少しでも耳を傾けさせるためには、韓国との間に「距離を置くこと」が最も重要な、まさにその時に、それと真逆なことを舛添氏はやってしまったのである。「真の友好」が遠のいたという所以(ゆえん)だ。

言うまでもないが、従軍慰安婦問題は、1991年8月、朝日新聞によって火をつけられたものだ。朝鮮人従軍慰安婦を「“女子挺身隊”の名において戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」存在として、クローズアップさせたのである。

それが完全な誤報だったことは、その後の検証で次々と明らかになった。女子挺身隊とは、戦時中の14歳以上25歳以下の女子の勤労奉仕団体である。それを慰安婦と混同し、さらに、その後、20年以上経っても記事が示すような「強制連行」の事実は出て来なかったのだ。

しかも、記事を書いた当の朝日新聞記者の妻が韓国人で、義母は当時の慰安婦訴訟の原告団幹部であったことまで明らかになる。しかし、韓国国内で従軍慰安婦の問題が燎原の火のごとく広がり、「女子挺身隊」といえば日本軍の慰安婦であり、彼女たちは「性奴隷(sex slaves)」であったとされ、完全に日韓の関係は破壊されていくのである。

だが、実際には、彼女たちは当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となった人々だ。貧困の時代の薄幸な女性たちだが、新聞広告で募集された収入は今に換算すると年収4000万円を遥かに超える金額となる。

その額を保証されて春を鬻(ひさ)ぐ商売についた人々が、「日本軍や日本の官憲によって強制連行された」、すなわち「拉致」「監禁」「強姦」の被害者とされているのである。

そんな虚偽が韓国国内では堂々と罷り通り、それが今では韓国の運動によって世界中で流布されている。そのことに舛添氏はどんな考えを持っているのだろうか。

ちなみに、慰安婦を「性奴隷とした」のは、当の韓国であったことが明らかにされつつある。当ブログでも書いた、6月25日に韓国政府を相手どってソウル地裁で起こされた訴訟のことだ。かつて米軍を相手に商売をおこなっていた慰安婦122人が韓国政府を相手取って、1人あたり1000万ウォン(およそ100万円)の損害賠償を求める集団訴訟を起こしたのだ。

彼女たちは韓国政府に管理された、駐留米軍相手の「洋公主」(ヤンコンジュ)と呼ばれた慰安婦たちである。韓国軍と国連軍が運営した「慰安所」の存在は有名だが、朝鮮戦争時には、私娼窟から女性たちを連行し、それを「第五種補給品」と呼んで最前線までドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで運んだことも暴露されている。

皮肉なことに、慰安婦の強制連行は「日本」ではなく「韓国」だったことが、やっと歴史的な事実として出てきたのである。もし、「女性を性奴隷にした」と呼ぶなら、それは韓国自身の問題というべきだろう。

私は、そのことを彼(か)の国と同じレベルに立ち、あれこれあげつらって声高に叫ぶ必要はないと思う。それは日本人には相応(ふさわ)しくない。しかし、少なくとも歴史の真実を捻じ曲げてまで世界中で日本人を糾弾する人々に対しては、静かな怒りを持っておくべきだと思う。

そして日本人は、国際的な舞台で、韓国の異常な日本攻撃にも、毅然として、堂々と反論していって欲しいと思う。私は、謂われなき中傷によって、海外で日本の子供たちがイジメられたり、唾を吐かれたりしている現状に、少しでも一石を投じて欲しいと思う。

舛添氏の今回の行動に、毅然たるものは何も感じられなかった。それほど韓国を訪問したいなら、毅然として覚悟を決めて行って欲しい。1300万都民どころか、日本中を失望させたこの“屈服外交”は、日韓の「真の友好」を遠ざけ、長く歴史に汚点を残すことになったことだけは間違いない。

カテゴリ: 国際, 歴史

共同通信が決着させた朝日新聞「吉田調書」誤報事件

2014.07.25

どうやら朝日新聞の「吉田調書」の“誤報事件”も決着がついたようだ。共同通信の連載記事『全電源喪失の記憶~証言福島第一原発~』が、ようやく問題の「2011年3月15日朝」の場面に辿りつき、その時のようすが克明に描写されたのである。

地方紙を中心に連載されているこの記事は、今年3月に始まり、現在、70回以上に達している。異例の長期連載と言っていいだろう。連載は、これまで第1章「3・11」、第2章「1号機爆発」、第3章「制御不能」、第4章「東電の敗北」とつづき、そして今の第5章は「命」と銘打たれている。7月に入って、この第5章がやっと始まり、地方紙およそ30社がこれを掲載している。。

そこでは、3月15日早朝、東電本店に乗り込んだ菅首相が「撤退したら東電は100パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」と演説する場面がまず描写されている。拙著『死の淵を見た男~吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日~』のヤマ場でもあり、朝日新聞が「所員の9割が所長命令に違反して撤退した」と、報じた“あの日”のことである。

私は、この2011年3月15日は、日本が有史以来、最大の存続の危機に陥った日だったと思っている。共同通信は、長期にわたった取材によって、この日の福島第一原発の内部を克明に記している。多くの場面が、拙著とも重なっているので、私は興味深く読ませてもらった。

激烈な菅首相の演説のあとの衝撃音、2号機のサプチャン(圧力抑制室)の圧力がゼロになる場面、そして吉田所長が職員の「退避」を決断し、福島第二原発へと退避させる場面……等々、息を呑む場面が連続して描写されている。

拙著と同じく、記事はすべて実名証言に基づいている。私は、生前の吉田氏から、この時のことを直接、聞いているので、共同通信が「3・15」をどう書くのか、連載の途中から注目していた。そして、それは予想以上の克明さだった。

〈全員が凍り付いた。圧力容器からの蒸気を冷やす圧力抑制室の気密性がなくなり、高濃度の放射性物質を含んだ蒸気が環境に大量放出される。もう第1原発構内どころか、周辺地域にすら安全な場所はなくなる。最も恐れていた事態だった。
 稲垣が吉田に進言した。
「サプチャンに大穴が開いたと思います。とんでもない量の放射性物質が出てきますよ」
「退避させるぞ」
 吉田は即決した。テレビ会議のマイクのスイッチを入れ、本店に退避を申し出た。必要のない大勢の社員たちをいつ退避させるか吉田はずっとタイミングを計ってきたのだ。今がその時だった。
 ところが約220キロ離れた東京の本店の反応は鈍かった。制御室にある圧力計が故障したのではないかと言う。吉田がキレた。
「そんなこと言ったって、線量が上がってきて、こんな状態で全員いたら、おかしいだろっ!」〉

共同通信のこの詳細な描写に、私は『死の淵を見た男』を取材した当時のことを思い出した。時に涙し、時には震えながら、あの自らの「生」と「死」をかけた闘いの場面を述懐するプラントエンジニアたちの姿を思い出したのだ。

記事は、南に約12キロの位置にある退避先の福島第二原発(2F)の安全を確かめるため、風向きをまず見させてから職員を退避させる吉田所長の姿が描かれている。そして、総務班長はこう指示する。

〈「皆さん、速やかに退避してください。最終目的地は2Fです。免震重要棟近くの路上にバスがあります。とにかく乗れるだけ乗ってください。まず正門の先で線量を測ります。とどまれなければ2Fに行きます」。総務班長はこの後、第2原発に「そちらに行くことになります」と電話を入れた〉

「2Fへの退避ですよ」と仮眠中に叩き起こされ、2Fへ向かった者や、逆に2Fへの退避を命じられても「残ります」と言い張って、命令をきかなかった者、あるいは、2Fへの退避を決めたエンジニアが、「最後に子どもの顔が浮かんだんです。子どものためにも今は死ねないな、と思いました。正直、うしろめたさはありましたが……」と、自らの葛藤を吐露する場面など、長期にわたる取材の深さを感じさせてくれる描写だった。

私は、この記事の中で、「俺は、残る。君は出なさい」「絶対、外で会いましょうね」「分かった」「約束ですよ」……当直長からの退避命令に、そんなやりとりの末に2Fへ去っていく若手プラントエンジニアの証言が印象に残った。

また、退避しながら免震棟を振り返り、「あの中にはまだ人がいる」と涙が止まらなかった人、あるいは2Fの体育館に全員が無事到着したことが報告されると、「おぉ、そうか」と吉田所長が安堵した声で答える場面などが、興味深かった。

これが、朝日新聞が「9割が所長命令に違反して逃げた」と報じる、まさにその場面である。私は、あまりの違いに言葉も出ない。

『死の淵を見た男』の取材で100名近い関係者の実名証言を得ている私は、NHKの「NHKスペシャル班」も相当、現場への取材を展開し、深く食い込んでいることを知っている。

そして、共同通信の現場への食い込み方は、やはり活字媒体ならでは、の思いが強い。しかし、朝日新聞だけは、現場取材の痕跡がない。「ひょっとして朝日は現場に取材もしないまま、あの記事を書いたのではないか」と、どうしても疑ってしまうのである。

現場を取材する他紙の記者たちの中にも、今は、あの時の“現場の真実”を知っている記者たちが多くなってきた。彼らは、今回の朝日の「吉田調書」キャンペーンには、実に冷ややかだった。そこには、裏取りが不完全なまま「9割の人間が逃げた」と書いてしまう同業者に対する諦めと怒りがあるように私には思えた。

だが、朝日の報道の結果として残ったのは、「日本人も現場から“逃げて”いた」「日本版“セウォル号”事件」と外国メディアに大報道され、現場で闘った人々の名誉が汚され、日本人そのものが「貶められた」という厳然たる事実だけである。

従軍慰安婦報道をはじめ、日本と日本人を貶める報道をつづける朝日新聞にとっては、それはそれで「目的は達せられた」のかもしれない。しかし、自らのイデオロギーに固執し、そのためには世論を誘導することも、また真実とは真逆の記事を書いても良しとする姿勢には、同じジャーナリズムにいる人間にとって、どうしても納得ができない。

私は、朝日新聞には一刻も早く「吉田調書」の全文を公表して欲しい、と思う。そして、吉田所長と彼ら現場の人間を貶めるために、作為的な編集作業をおこなったのか否か――ジャーナリズムの検証を是非、受けて欲しい。私はそのことをまず、朝日新聞にお願いしたいのである。

カテゴリ: マスコミ, 原発

日本のメディア“偽善”と“すり替え”の罪

2014.07.10

昨日7月9日は、福島第一原発(1F)の元所長、吉田昌郎氏が亡くなって丸1年、すなわち「一周忌」だった。ちょうどこの日、『週刊朝日』の元編集長で、朝日新聞元編集委員でもある川村二郎さんと私との対談記事が『Voice』に掲載され、発売になった。

対談の中身は、例の「吉田調書」である。政府事故調によって28時間にわたって聴取され、記録されたという「吉田調書」なるものを朝日新聞が報道して、1か月半が経った。

それによって朝日新聞は「福島第一原発の所員の9割が所長命令に“背いて”福島第二に撤退した」という、事実とは真逆のことを書いた。私がこれに異を唱えて朝日との間で問題になっているのは当ブログでも書いてきた通りである。

この問題について、『Voice』誌に依頼され、私にとっては雑誌業界の大先輩である川村さんとの対談をさせてもらったのだ。題して、「吉田調書を公開せよ」。つまり、それは、「朝日新聞は責任をもって『吉田調書』の全文を公開せよ」という内容の対談となった。

私は、吉田さんや汚染された原子炉建屋に突入を繰り返した1Fのプラントエンジニアたち、あるいは当時の菅直人総理や班目春樹・原子力安全委員会委員長ら、100名近くの当事者を取材し、その実名証言をもとに『死の淵を見た男』を上梓した。2012年11月のことである。

私が描かせてもらった1Fのプラントエンジニアたちは、多くが地元・福島の浜通りの出身だった。つまり、地元の高校、工業高校、そして高専などの出身者である。

地震から5日目の3月15日、2号機の圧力が上昇して最大の危機を迎えた時、総務、人事、広報など、女性社員を含む多くの事務系職員たちを中心に、600名以上が吉田所長の命令によって福島第二原発(2F)に一時退避する。

この時、1Fには、彼らのような多くの“非戦闘員”たちが残っていたのである。フクシマ・フィフティ(実際には「69人」)を残したこの600人以上の退避を、朝日新聞は、所長命令に「背いて」、「9割」の人間が「撤退した」というのである。朝日の報道を受けて、外国メディアが、「日本人もあの現場から逃げ去っていた」と大々的に報じたのは、周知の通りだ。

私は、朝日新聞には、本当に『吉田調書』を公開して欲しい、と思う。菅直人政権下の政府事故調によって非公開とされた『吉田調書』。しかし、これほど真実とかけ離れたかたちで調書が朝日新聞に利用され、極限の現場で奮闘した吉田氏と部下たちが貶められた以上、このままであってはならないと思う。

朝日新聞の報道によって、現場の必死の闘いは、外国から「あざ笑われるようなもの」となった。貶められた1Fの現場の人間たちも、是非、朝日には「吉田調書」を公開してもらいたいだろう。何をもって自分たちが「所長命令に背いて逃げた」と言われなければならないのか。その根拠とは何なのか。そして朝日が伝えたい“現場の真実”とは一体、どんなものなのか。そのことを確かめたいに違いない。

実際に、私のもとにはそういう現場の声が多数、寄せられている。朝日新聞には「吉田調書」の全文公開をなんとしてもお願いしたいと思う。そして、いかに事実とは真逆のことを朝日が書いたのか、多方面のジャーナリズムの検証を受けて欲しいと思う。

発売になった同じ『Voice』誌には、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が〈『朝日』と中国から日本を守れ〉という記事を書いていた。私はこの記事に目を吸い寄せられた。

それは、櫻井氏が、日本がそこから守らなければならない「相手」として、「中国」だけでなく「朝日」も俎上に上げていたからだ。〈『朝日』と中国から日本を守れ〉――それは、実に強烈なタイトルだった。

櫻井氏はこう書いている。〈『朝日新聞』の特徴は、中国の特徴と似ています。多くの事例から『朝日』は「嘘をもって旨とする」メディアといわれても仕方がないでしょう〉、さらに〈歴史の事実を目の前に突き付けられても反省する気配のない『朝日新聞』の報道姿勢を見ると、「この人たちには名誉というものの価値がわからないのではないか」と疑わざるをえません〉。

厳しい論評だが、私もまったく同感である。櫻井氏も指摘する1991年8月の朝日新聞による報道に端を発した「従軍慰安婦問題」などは、その典型だろう。櫻井氏は、中国が嘘を連ねる背景を孫子の「兵は詭道(きどう)なり」の言葉を引いて説明している。

残念なことに、日本にはこの隣国の掌(てのひら)で踊るメディアは少なくない。日本のメディアが、なぜここまで日本を貶め、真実とは程遠い隣国の主張を代弁しつづけるのか、確かにそのあたりから説き起こすべきかもしれない。

私は最近の一部のメディアを見ていて、感じることがある。それは、「公平」や「中立」、あるいは「客観報道」というものから、完全にかけ離れた存在になっている、ということだ。

それは、あたかも「“活動家”が記事を書く」、すなわち真実はそっちのけで、自分の主張に都合のいいファクトを引っ張って来て、一定の活動家勢力の機関紙かのような内容になっている点である。「こんな新聞を毎朝読んでいたら、知らず知らずに洗脳されていくだろうなあ」と思わずにはいられないのである。

宗教的な事件が起こるたびに“マインドコントロール”という言葉がよく出てくるが、まさにそんなあからさまな紙面が毎朝、「当たり前」になっているのである。新聞メディアの部数低下の大きな原因は、読者の“愛想尽かし”にあるのではないかと、私は思う。

櫻井氏が指摘するように、「慰安婦問題」の検証は重要だと思う。この問題がもたらしたものは一体、何だろうか。朝日新聞の報道をきっかけに始まったこの問題で大騒ぎした人々は、今、満足しているのだろうか、と思う。日韓両国の間に残ったのは、根深い憎悪と怨念だけである。しかも、もはやそれは、修復不能かもしれない。

あの貧困の時代にさまざまな理由で春を鬻(ひさ)ぐ商売につかざるを得なかった薄幸な女性たち。喜んで色街(いろまち)で働く女性は当時とてなく、あの不幸な時代に“身売り”していった女性たちの気持ちを思うと胸がしめつけられる。

しかし、これは、その薄幸な女性たちが、「日本軍、もしくは日本の官憲によって戦場に強制連行されていった」という“虚偽”によって問題化され、そして国際化されていったものである。その中心にいたのは、あくまで「日本人」だったのだ。

日本と日本人を貶めたい彼(か)の国の人々と連携し、自分たち日本人を必死で貶めようとする「日本人の存在」が、この問題を大きくし、複雑化し、そして国際化させていったことを私たちは忘れるべきではないだろう。

あの時代の薄幸な女性たちの存在を私たちは、永遠に忘れてはいけない。しかし、その存在を「事実を捻じ曲げて」、日本の「強制連行問題」に巧妙にすり替えた「人々」とその「手法」もまた、私たちは絶対に忘れてはならない、と思う。

それは、日本の一部のメディアが得意とする“偽善”と“すり替え”によるものである。以前、当ブログでも書かせてもらった「マスコミ55年症候群」がそれだ。

私たち日本人は、「日本」と「日本人」を貶めようとする記者たちの巧妙な手法に、いつまでも騙されていてはならないだろう。櫻井氏のレポートを読みながら、私は、日本を救った男の一人・吉田昌郎さんの「一周忌」に、そんなことを考えていた。

カテゴリ: マスコミ, 原発

従軍慰安婦が「韓国政府」を訴えた歴史的意味

2014.06.30

いつも興味深い情報を提供してくれる『レコード・チャイナ』が、今日も注目すべきニュースを配信していた。かつてアメリカ軍基地の周辺で売春に従事していた韓国の米軍慰安婦たちが起こした集団訴訟に関する論評記事である。

このニュースは、少なからず韓国社会にショックを与えている。“憎き日本”を糾弾するための従軍慰安婦問題の矛先が、こともあろうに自分たちの政府に突きつけられてきたのだから無理もない。思わぬ事態に日本糾弾の急先鋒だった人々の多くが沈黙を決め込んでいる。

問題の訴訟の中身は以下のようなものだ。この6月25日、かつて米軍を相手に商売をおこなっていた慰安婦122人が韓国政府を相手取って、1人あたり1000万ウォン(およそ100万円)の損害賠償を求める集団訴訟を起こした。

『レコード・チャイナ』によれば、原告団は、「なぜ被告が韓国政府であるか」をこう説明しているそうだ。「米軍慰安婦制度を作ったのは韓国政府であり、しかもこれを徹底的に管理したのも韓国政府だ。表向き、売春行為を不法としながら、“特定地域”なるものを設置して米兵相手に売春をさせ、愛国教育という名で精神教育までおこなった。国家は私たちを守るどころか、“外貨を稼ぎ”のために利用したのだ」と。

日本では周知の通り、1991年8月、朝日新聞が従軍慰安婦問題に火をつけ、今や世界各地に日本糾弾のための「慰安婦像」が建ち、完全に日韓の関係は破壊され、さらには日本の若者の国際進出の大きな「障壁」ともなっている。

朝日新聞は朝鮮人従軍慰安婦を「“女子挺身隊”の名において戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」存在として、クローズアップさせた。だが、その後、20年以上経っても記事が示すような「強制連行」の事実は出て来ず、しかも戦時中の女子の勤労奉仕団体である「女子挺身隊」を従軍慰安婦として混同するなど、お粗末な記事の実態が指摘されてきた。

しかも、記事を書いた当の朝日新聞記者の妻が韓国人で、義母は当時の慰安婦訴訟の原告団長であったことが明らかになるに及んで、日本国内で激しい反発を買った。だが、韓国国内の対日批判は時間が経過してもとどまるところを知らず、「日本人は朝鮮女性を強制連行して性奴隷(sex slaves)にした」として、今も糾弾が続いているのである。

当時の兵士の給料の30倍という「月収300圓」を保証されて慰安婦となった女性たちが、「無理やり日本軍、あるいは日本の官憲によって強制連行された」という虚偽が罷り通っているところに、この問題の特殊性と根深さがある。さらに、日本では、政治家などが、この問題に批判的に言及すれば、たちまち朝日新聞を代表とする日本国内の“反日メディア”に目の敵にされ、攻撃を受けるパターンが繰り返されてきた。

いつの間にか、この問題自体がタブー視され、敬遠される存在となっていったのも当然だろう。しかし、韓国政府を相手に起こされた今回の集団訴訟は、私たち日本人に3つの点で大きな「示唆」を与えてくれているのではないだろうか。

一つは、従軍慰安婦という存在は、日本だけが糾弾されなければならないような問題ではないということ。二つめには、慰安婦とは、はっきり米兵相手に“売春”をしていたもの、と当の韓国国内の訴訟提起によって明らかにされたこと。そして、三つめに、韓国政府自体が女性を強制連行して“管理”していた、という疑いが出てきたことだ。

自国の女性を狩り出して他国の軍隊に提供していたことが、仮に裁判によって「事実」と認定された場合、激しやすい韓国の国民は一体、どんな反応をするのだろうか。ソウルの日本大使館前に従軍慰安婦像を建て、日の丸を焼くなどの行為をおこなってきた韓国の人々は、果たして今度は「青瓦台(韓国の大統領府)」の前で同じことをするのだろうか。

私は、安倍政権によって「河野談話の検証」がおこなわれ、河野談話の上で“強制性”を認める時、両国の間でどのような擦りあわせをおこなったかが明らかになった丁度この時期に、今回の「集団訴訟が起こされたこと」に歴史的な意味を感じている。

6月30日、韓国の国会の外交統一委員会は河野談話の検証結果を日本政府が公表したことについて、「挑発行為だ」と 非難する決議案を採択した。あくまで、「日本は性奴隷を弄んだ事実を認めて謝罪しろ」という姿勢を崩していないのある。

しかし、ならば、これまで指摘されてきたように、韓国軍と国連軍が運営した「慰安所」の存在や、朴正煕大統領の時代(1970年代)に、アメリカが韓国政府に対して「基地村浄化事業」を要求し、それに従って韓国政府が米兵相手の多数の「洋公主」(ヤンコンジュ)と呼ばれた売春婦たちに性病検査をおこなうなど、「管理」していたことを、朴槿恵大統領にはきちんと総括して欲しいと思う。

私は、2009年に文藝春秋から刊行された『大韓民国の物語』という本を読んで驚いたことがある。それは、ソウル大学の李榮薫教授が、朝鮮戦争時の韓国軍が、娼窟の女性をドラム缶に入れて戦地に運んだ実例を赤裸々に暴露していたことだ。

〈各部隊は部隊長の裁量で、周辺の私娼窟から女性たちを調達し、兵士たちに「補給」した。部隊によっては慰安婦を「第五種補給品」と言っていた。その「補給品」をトラックに積んで前線を移動してまわった元特務上等兵によれば、慰安婦を前線まで、ドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで最前線まで行った。夜になると「開店」するが、これをアメリカ兵が大いに利用した(以下略)〉

私はこの本を読み、明日の命が知れない兵士たちの戦場での哀しき性の現実について、しばし黙考せざるを得なかった。歴史家の秦郁彦氏の著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社)では、イギリス軍やオーストラリア軍の性病罹患率の数字まで明らかにされている。それが、戦争の厳然たる現実なのである。

私は、今回の韓国での集団訴訟で、こうした戦場での容赦のない現実と、薄幸な女性たちの存在がきちんと明らかになって欲しいと思う。そして、「性奴隷」を弄んだ民族として、韓国や中国によっていわれなき糾弾をされている日本の濡れ衣が晴らされることを望みたい。

この集団訴訟をきっかけに、ベトナム戦争時に韓国軍兵士によるベトナム女性に対する強姦事件が頻発し、ライタイハンと呼ばれる混血児が多数生まれた問題をはじめ、被害を受けた多くのベトナム女性の救済問題もきちんと考えていくべきであろうと思う。

私は『レコード・チャイナ』が今日の記事で以下のような韓国のネットユーザーたちのコメントを紹介していたことに目が留まった。

「本当にむごい。日本をあれほど悪く言っておきながら、(韓国政府が)その日本と同じことをしていた事実を隠してきたなんて……」、あるいは、「日本軍の慰安婦だけ騒いでおきながら、米軍慰安婦、韓国軍慰安婦に目を背けていたら説得力がない」。さらには、「韓国人慰安婦の人権侵害で米国を糾弾しなければならない。米国は韓国に謝罪も賠償もしていない。韓国人慰安婦の人権を守ろう!」

この問題は『レコード・チャイナ』だけでなく、日本の大手メディアもきちんとフォローし、報道していくべきだろう。不思議なことに、日本には「自国を貶めたくて仕方がない人」が沢山いる。特にマスコミには、その手の人種が多い。

だが、自国の若者の誇りと自信を失わせる報道に終始する姿勢のおかしさに、彼らもそろそろ気づいていいのではないか、と思う。そんな報道姿勢が、日本や、あるいは隣国の将来に「何も生まない」ことは、すでに完全に証明されているのだから。

カテゴリ: 歴史

“文民統制”が効かなくなりつつある中国人民解放軍

2014.06.27

昨日は大垣と岐阜で講演があった。朝早くの新幹線に乗り、また夜は地元で大学時代の先輩と一杯飲り、その上、「十八楼」という長良川沿いの創業150年という老舗旅館で温泉まで満喫させてもらった。ここのところ締切に追われていたので、つかの間のほっとしたひと時を持つことができた。

出張の時は、私は新幹線の中で、新聞各紙に目を通すのが常だ。昨日の各紙の記事の中で最も目を引いたのが、産経新聞のオピニオン欄(第7面)に出ていた評論家の石平氏のコラムだった。「習政権を乗っ取る強硬派軍人」と題されたコラムは、実に興味深かった。

石平氏は、中国・四川省の生まれで北京大学を卒業後、1988年に来日し、2007年に日本国籍を取得した中国ウォッチャーだ。厳しい中国に対する論陣は、日本人では考えつかない独特の発想のものがあり、唸らされることが多い。中国問題の専門家が集まる会合で、私も何度かご一緒させてもらったことがある。

今回の論考の注目すべき点は、2点ある。習政権を脅かす軍人を“名指し”し、さらにはその具体的な動きを指摘した点だ。その人物とは、中国人民解放軍の房峰輝・総参謀長(63)である。中国人民解放軍というのは、中国共産党の「党」の軍隊であり、あくまで党の最高軍事指導機関である「中国共産党軍事委員会」の指導を受ける存在だ。その軍事委員会の主席は習近平・国家主席(61)であり、その意味で軍の最高指導者は習近平氏にほかならない。

かつて国家主席でもなく、党主席でもなかった鄧小平氏が、この「軍事委員会主席」の座だけは最後まで手放さず、最高権力を振るいつづけたことが思い出される。だが、石平氏は、その主席の地位にはない人民解放軍総参謀長である房峰輝氏を「習近平氏を脅かす第一の人物」として挙げたのである。

房峰輝氏は、中国共産党中央委員会の委員であり、党中央軍事委員会委員でもあり、さらに中国人民解放軍総参謀長でもある。すなわち軍人としては最高の地位にある(階級は「上将」)。なぜ房峰輝氏が注目されるのか。それは、中国とベトナムとの紛争について、アメリカでおこなった「発言」にあった。

「中国の管轄海域での掘削探査は完全に正当な行為だ。外からどんな妨害があっても、われわれは必ずや掘削作業を完成させる」。5月15日、訪米中の房峰輝氏が記者会見で語ったこの言葉にこそ、その秘密が隠されていた。

石平氏の言葉を借りれば、「ベトナムとの争いが始まって以来、中国側高官が内外に“掘削の継続”を宣言したのは初めてのこと」であり、「一軍関係者の彼が、政府そのものとなったかのように“掘削の継続”を堂々と宣言するのは、どう考えても越権行為以外の何ものでもない」という。

人民解放軍を率いる房峰輝氏のこの発言は、「もはや怖いものがなくなった」、すなわち完全に習近平を脅かす存在となった、というこの見方は注目される。

石平氏は、房氏が習主席主宰の「中央財経指導小組(指導グループ)」の会議に出席していることも指摘する。人民解放軍は、国の経済運営には関与しないのが原則であり、軍の幹部は本来、中央の「財経会議」に顔を出すようなことはない。

しかし、すでに房氏は“堂々と”習主席主宰の「財経会議」に出席し、さらに“堂々と”アメリカにおいて、中国とベトナムとの紛争について、「国際的な宣言」をおこなうほどになっているのである。

東シナ海、南シナ海での人民解放軍の強硬姿勢は、「本当に習近平の本意なのか」という専門家の指摘はこれまで少なくなかった。だが、クローズアップされた房峰輝・総参謀長の存在は、これらの問題に大きな示唆を与えている。

石平氏は、こう結論づけている。「もし房氏が“中国軍として掘削作業の安全を守る決意がある”と語るならば、それは理解できる」。しかし、「軍総参謀長の彼が“掘削継続”と宣言すれば、その瞬間から、中国政府は“やめる”とはもはや言えなくなっている。つまり、房氏の“掘削継続発言”は実質上、政府のいかなる妥協の道をも封じ込めてしまった」、そして、「軍がこの国の政治を牛耳るという最悪の事態がいよいよ、目の前の現実となりつつあるのである」と。

「文民統制」が効かなくなりつつある中国の現状が浮かび上がってくる。あの文革の時代、軍を率い、同時に毛沢東の腹心でもあった林彪がクーデターを策して失敗し、亡命する途中、モンゴルで墜落死した「林彪事件」があった。

絶対的な指導者・毛沢東がいた時ですら、軍によるクーデター計画は存在した。では、戦争第一世代が遥か「過去の存在」になった今、習近平・国家主席は、本当に軍を「掌握」、いや「抑え込む」ことができているのだろうか。

人民解放軍は、自ら経済活動を「軍隊の生産運営」と呼び、その“活動範囲”は、農業、工業、鉱業、サービス業……等々、あらゆる分野に及ぶことは広く知られている。特にサービス業では、不動産開発から医療事業、ホテル経営、レストラン経営をはじめ、「ここも人民解放軍の経営なのか」と驚かされるほど、多岐にわたっている。

そのトップである房氏は、日本では想像もできないような巨大コンツェルンの総帥(しかも、武力を併せ持った)ということになる。そして、房氏は常に各委員会で国家指導者(習近平)の「すぐ隣にいる」のである。

その軍のトップが、石平氏が指摘するように「政府のいかなる妥協の道をも封じ込めてしまう」存在になった意味は大きい。私が怖いのは、軍のトップには弱気になることが「許されない」ことだ。下からの突き上げに対して、軍のトップは常に強気でなければ、その地位を維持できないという「宿命」がある。軍事費が膨張しつづけている人民解放軍が、その意味でも今後、弱気に転ずる可能性はないだろう。

巨大化する軍事力を背景に、東シナ海、南シナ海での人民解放軍の振る舞いは、ますます激しさを増すに違いない。文民統制の効かなくなった軍事組織ほど怖いものはないからだ。

今週、私はちょうど航空自衛隊のある基地司令と話す機会があった。その時、「私たちには覚悟はできております」という頼もしい言葉を聞いた。東シナ海の現実が私たちに突きつけているものは何だろうかと、その時、私は思った。国防の最前線に立つ自衛官たちの「覚悟」が発揮される事態にならないことを祈らずにはいられない。

カテゴリ: 中国

朝日新聞の「抗議」を受けて

2014.06.10

昨日、名古屋で講演があった。テーマは、「極限の現場に立つ日本人の底力とは」というものである。サブタイトルは、「太平洋戦争と福島第一原発事故から何を学ぶか」というものだった。

私は、さまざまなジャンルでノンフィクションを書かせてもらっているが、文庫も含めて25冊の著作のうち10冊が戦争ノンフィクションであり、また福島原発の事故を扱った作品もある。共通しているテーマは、日本人の「現場力」であり、毅然とした「生きざま」である。

前回のブログで、私は朝日新聞の「吉田調書」キャンペーン記事のお粗末さについて書かせてもらった。これを読んだ週刊誌や写真誌、月刊誌等から原稿依頼や取材依頼が来た。私は、次作のノンフィクションの取材と執筆に忙殺されてはいるが、できるだけその要望にお応えしたいと思い、時間を割いた。

ちょうどそのことについて書いた記事(6ページ)を掲載した『週刊ポスト』が昨日、発売になった。講演では、そのことをまず話させていただいた。

それは、「東電本店」の命令にも逆らって、現場で事故と闘った原発職員たちの話である。彼らの凄まじい闘いについては、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』に書かせてもらっている。

しかし、本を読んでくれている人は少ないので、私はぎりぎりの土壇場で日本を救った無名の「現場の人々」の話をさせていただいたわけである。聴いてくれた人たちが驚いたのは、現場の人々が「東電本店とも闘って日本を救った」という点だった。

日本のマスコミは、「東電本店」と「福島第一の現場」を同一視して報道しているが、そもそも、そこが間違っている。東電本店は、優秀な大学を卒業して就職してきた「エリート集団」である。一方、福島第一原発の現場職員たちの中心は、地元の高校、工業高校、高等専門学校……等々を卒業して就職した叩き上げの「地元の人」たちだ。

私が描いたのは、「家族と故郷」を守るために放射能汚染の中で命をかけて作業をおこなったその「現場の人々」の姿と思いである。彼らは、福島第一原発に就職し、プラントエンジニアとして成長していった人など、多くが「浜通り」に生まれ育った人たちなのだ。

私は現場の人たちの証言を聞くうちに、吉田所長のもとであそこまで彼らが踏ん張れた理由がわかった気がした。あるプラントエンジニアは、いざ生と死をかけて原子炉建屋に突入する時、自分には「やり残したことがある」ことに気づき、「心が折れそうになった」と語ってくれた。外部との連絡もできず、家族が無事かどうかもわからない中でのことである。

「やり残したこと」とは、「ありがとう。今まで幸せだった」という言葉を妻に告げることだった。せめてそのことだけでも伝えてから汚染された原子炉建屋、すなわち“死の世界”に「飛び込みたかった」というのである。

家族を背負い、故郷を思い、決死の覚悟で突入を繰り返した人々の話に、私は何度も心が震えた。吉田所長の生前、私はジャーナリストとして唯一、吉田さんからも話を伺うことができた。そこでも、極限の現場に立った人間の思いを聞くことができた。

東電本店のとんでもない命令に反して、現場はどう闘ったか――今は亡き吉田さんは、部下たちの凄さを語ってくれたのである。

朝日新聞は、その福島第一の現場から「9割の人間が所長命令に違反して撤退した」と書いている。吉田さんが政府事故調の聴取に応じたいわゆる「吉田調書」にそう書いている、というのだ。

だが、根拠とされる「吉田調書」には、そんな部分はない。朝日で紹介された吉田調書の中の証言を素直に読めば、一糸乱れず福島第二に行ってくれた部下たちのことを、吉田氏は含羞(がんしゅう)をこめた彼独特の言いまわしで、むしろ「自慢」しているのである。

震災から5日も経った2011年3月15日朝、福島第一の免震重要棟には、女性社員を含む総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”、さらには協力会社を含む作業員たちが計700名近くもいた。

事態が刻々と悪化し、大気が放射能で汚染されていく中で、「外部への脱出」の機会が失われていったからだ。彼ら、彼女らをどう福島第二原発まで脱出させるか。吉田さんは、そのことに頭を悩ませている。

そして、3月15日午前6時過ぎ、ついに大きな衝撃音と共に2号機の圧力抑制室(通称・サプチャン)の圧力がゼロになった時、吉田所長は「各班は、最少人数を残して退避!」と叫んでいる。

吉田所長たちは、彼ら“非戦闘員”たちを福島第二へ撤退させることを前夜から話し合っており、「各班は、最少人数を残して退避!」というのは、イコール「福島第二への退避」を意味している。

しかし、朝日新聞はこれを「所長命令」に違反して「9割が福島第二に撤退した」、すなわち職員の「9割」が吉田さんの命令に違反して逃げたと報じ、今、世界中の新聞がそのことを報道しているのである。

彼ら現場で闘った人々を曲解によって貶める報道は、日本人の一人として私はいかがなものかと思っている。しかし、本日、朝日新聞から私の記事に対して、「当社の名誉と信用を著しく毀損している。法的措置を検討している」との抗議書が来た。

朝日の記事によって名誉を毀損された福島の「現場の人々」の嘆きが私のもとには続々寄せられている。しかし、その内容について「言論」によって指摘した私の記事に対して、言論機関である朝日新聞が「言論」で闘うのではなく、「法的措置」云々の文書を送りつけてきたことに私は、唖然としている。

私は週刊ポストの記事の最後に「記者は訓練によって事実を冷徹に受け止め、イデオロギーを排する視線を持たなければならない」というジャーナリズムの基本を問う言葉を書いた。しかし、朝日新聞には、とてもその意味を理解してもらうことはできなかったようだ。ジャーナリズムの人間として寂しい限りである。

カテゴリ: マスコミ, 原発

お粗末な朝日新聞「吉田調書」のキャンペーン記事

2014.05.31

「ああ、またか」。失礼ながら、それが正直な感想である。今週、私は取材先の台湾からやっと帰ってきた。私が日本を留守にしている間、朝日新聞が「吉田調書」なるものを“加工”し、「福島第一原発(1F)の現場の人間の9割が所長命令に違反して撤退した」という記事を掲げ、そのキャンペーンが今も続いている。

「ああ、またか」というのは、ほかでもない。ある「一定の目的」のために、事実を捻じ曲げて報道する、かの「従軍慰安婦報道」とまったく同じことがまたおこなわれている、という意味である。私は帰国後、当該の記事を目の当たりにして正直、溜息しか出てこないでいる。

故・吉田昌郎氏は、あの1号機から6号機までの6つの原子炉を預かる福島第一原発の所長だった。昼も夜もなく、免震重要棟の緊急時対策室の席に座り続け、東電本店とやりあい、現場への指示を出しつづけた。

東電本店のとんでもない命令を拒否して、部下を鼓舞(こぶ)して事故と闘った人物である。体力、知力、そして胆力を含め、あらゆる“人間力”を発揮して「日本を土壇場で救った一人」と言えるだろう。

昨年7月に癌で亡くなった吉田氏は、生前、政府事故調の長時間の聴取に応じていた。今回、朝日が報じたのは、28時間ほどの聴取に応じた、いわゆる「吉田調書」の中身だそうである。

私は吉田さんの生前、ジャーナリストとして直接、長時間にわたってインタビューをさせてもらっている。私がインタビューしたのは、吉田所長だけではない。

当時の菅直人首相や池田元久・原子力災害現地対策本部長(経産副大臣)をはじめとする政府サイドの人々、また研究者として事故対策にかかわった班目春樹・原子力安全委員会委員長、あるいは吉田さんの部下だった現場のプラントエンジニア、また協力企業の面々、さらには、地元記者や元町長に至るまで、100名近い人々にすべて「実名」で証言していただいた。

私がこだわったのは、吉田さんを含め、全員に「実名証言」してもらうことだった。そして、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』が誕生した。

私は、吉田氏に直接取材した人間として、さらには100名近い関係者から実名証言を得た人間として、朝日新聞が「所長命令に違反」して9割の人間が「撤退した」と書いているのは「誤報」である、ということを言わせていただきたい。

今回、自分の意図に反して貶(おとし)められた故・吉田昌郎さんとご遺族の思いを想像すると、本当に胸が痛む。この意図的な捻じ曲げ記事に対するご遺族の心痛、精神的な打撃は大きく、今後、なにがしかのリアクションが朝日新聞に対して起こされる可能性もあるのではないか、と想像する。

朝日の巧妙な捻じ曲げの手法は後述するが、今回、朝日の記事で「9割の人間が逃げた」とされる「2011年3月15日朝」というのは、拙著『死の淵を見た男』の中でも、メインとなる凄まじい場面である(拙著 第17章 266頁~278頁)。

震災から5日目を迎えたその2011年3月15日朝は、日本にとって“最大の危機”を迎えた時だった。その時、免震構造だけでなく、放射能の汚染をできるだけシャットアウトできる機能も備えた免震重要棟には、およそ「700名」の所員や協力企業の人たちがいた。

朝日新聞は、その700名の「9割」が「所長命令」に「違反」して、原発から「撤退した」と書いている。そう吉田氏が調書で証言しているというのである。

だが、肝心の記事を読んでも、所員が「自分の命令に違反」して「撤退した」とは、吉田氏は発言していない。それが「意図的な」「事実の捻じ曲げ」と、私が言う所以だ。

これを理解するためには、あの時、一体、なぜ700名もの人が免震重要棟にいたのか。そのことをまず理解しなければならない。

震災から5日も経ったこの日の朝、700名もの職員や協力企業の人たちが免震重要棟にいたのは、そこが福島第一原発の中で最も“安全”だったからである。

事態が刻々と悪化していく中で、とるものもとりあえず免震重要棟に避難してきた所員や協力企業の面々は、「外部への脱出」の機会を失っていく。時間が経つごとに事態が悪化し、放射線量が増加し、汚染が広がっていったからだ。

免震重要棟にいた700名には、総務、人事、広報など、事故に対応する「現場の人間」ではない“非戦闘員”も数多く、女性社員も少なくなかった。彼らをどう脱出させるか――吉田所長はそのことに頭を悩ませた。

700名もの人間がとる食事の量や、水も流れない中での排泄物の処理……等々、免震重要棟がどんな悲惨な状態であったかは、誰しも容易に想像がつくだろう。

事故対応ではない「非戦闘員」たち、特に女性職員たちだけでも早くここから退避させたい。トップである吉田さんはそう思いながら、広がる汚染の中で絶望的な闘いを余儀なくされていた。

震災が起こった翌12日には1号機が水素爆発し、14日にも3号機が爆発。その間も、人々を弄ぶかのように各原子炉の水位計や圧力計が異常な数値を示したり、また放射線量も上がったり、下がったりを繰り返した。

外部への脱出の機会が失われていく中、吉田所長の指示の下、現場の不眠不休の闘いが継続された。プラントエンジニアたちは汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、またほかの所員たちは原子炉への海水注入に挑んだ。

そして、2号機の状態が悪化し、3月15日朝、「最悪の事態を迎える」のである。5日目に入ったこの日、睡眠もとらずに頑張って来た吉田所長は体力の限界を迎えていた。いかにそれが過酷な闘いだったかは、拙著で詳述しているのでここでは触れない。

最後まで所内に留まって注水作業を継続してもらう仲間、すなわち「一緒に死んでくれる人間」を吉田さんが頭に思い浮かべて一人一人選んでいくシーン(拙著 第15章 252頁~254頁)は、吉田氏の話の中でも、最も印象に残っている。

午前6時過ぎ、ついに大きな衝撃音と共に2号機の圧力抑制室(通称・サプチャン)の圧力がゼロになった。「サプチャンに穴が空いたのか」。多くのプラントエンジニアはそう思ったという。恐れていた事態が現実になったと思った時、吉田所長は「各班は、最少人数を残して退避!」と叫んでいる。

たとえ外の大気が「汚染」されていたとしても、ついに免震重要棟からも脱出させないといけない「時」が来たのである。「最少人数を残して退避!」という吉田所長の命令を各人がどう捉え、何を思ったか、私は拙著の中で詳しく書かせてもらった。

今回、この時のことを朝日新聞は、1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一 所員の9割」と報じ、2面にも「葬られた命令違反」という特大の活字が躍った。要するに、700名の所員たちの9割が「吉田所長の命令に違反して、現場から福島第二(2F)に逃げた」というのだ。

吉田所長の命令に「従って」、福島第二に9割の人間が「退避した」というのなら、わかる。しかし、朝日新聞は、これを全く「逆に」報じたのである。記事の根拠は、その吉田調書なるものに、吉田氏がこう証言しているからだそうだ。

「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。(中略)

いま、2号機爆発があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、これから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれとうつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。

それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して」

吉田調書の中の以上の部分が「吉田所長の命令に違反して、現場から逃げた」という根拠なのである。しかし、この発言をみればわかるように、吉田所長は「2F」、すなわち福島第二に「行ってはいけない」とは全く言っていない。むしろ、その方がよかった、と述べている。

これのどこが「吉田所長の命令に違反して、現場から退避した」ことになるのだろうか。サプチャンが破壊されたかもしれない場面で、逆に、総務、人事、広報、あるいは女性職員など、多くの“非戦闘員”たちを免震重要棟以外の福島第一の所内の別の場所に「行け」と命令したのだとしたら、その方が私は驚愕する。

サプチャンが破壊されたかもしれない事態では、すでに1Fには「安全な場所」などなくなっている。だからこそ放射能汚染の中でも吉田氏は彼らを免震重要棟から「避難させたかった」のである。

つまり、記事は「所内の別の場所に退避」を命じた吉田所長の意向に反して「逃げたんだ」と読者を誘導し、印象づけようとする目的のものなのである。

朝日の記事は、今度は地の文で解説を加え、「吉田所長は午前6時42分に命令を下した。“構内の線量の低いエリアで退避すること。その後、本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう”」と、書いている。

今度は、なぜ調書の吉田証言を「直接引用」をしないのだろうか。ひょっとして、そうは吉田所長が語っていないのを、朝日新聞の記者が“想像で”吉田氏の発言を書いたのだろうか。

この一連の朝日の記事の中には、実質的な作業をおこなったのは「協力企業の人たち」という印象を植えつける部分がいくつも登場する。しかし、これも事実とは違う。放射能汚染がつづく中、協力企業の人たちは吉田所長の方針によって「退避」しており、作業はあくまで直接、福島第一(1F)の人間によっておこなわれているのである。

吉田氏は、「いかに現場の人間が凄まじい闘いを展開したか」「部下たちはいかに立派だったか」を語っているはずだ。しかし、朝日新聞にかかれば、それとはまったく「逆」、すなわち部下たちを貶める内容の記事となるのである。

私はこの報じ方は本当に恐ろしい、と思う。一定の目的をもって、事実を「逆」に報じるからである。吉田氏は、政府事故調による28時間もの聴取に応じたことを生前、懸念していた。自分の勘違いによって「事実と違うことを証言したかもしれない」と危惧し、この調書に対して上申書を提出している。そこには、こう記されている。

「自分の記憶に基づいて率直に事実関係を申し上げましたが、時間の経過に伴う記憶の薄れ、様々な事象に立て続けに対処せざるを得なかったことによる記憶の混同等によって、事実を誤認してお話している部分もあるのではないかと思います」

そして、話の内容のすべてが、「あたかも事実であったかのようにして一人歩き」しないかどうかを懸念し、第三者への「公表」を強く拒絶したのだ。昼であるか夜であるかもわからない、あの過酷な状況の中で、吉田氏は記憶違いや勘違いがあることを自覚し、そのことを憂慮していたのである。

その吉田氏本人の意向を無視し、言葉尻を捉え、まったく「逆」の結論に導く記事が登場したわけである。私は、従軍慰安婦問題でも、「強制連行」と「女子挺身隊」という歴史的な誤報を犯して、日韓関係を破壊した同紙のあり方をどうしても思い起こしてしまう。

「意図的に捻じ曲げられた」報道で、故・吉田昌郎氏が抱いていた「懸念」と「憂慮」はまさに現実のものとなった。記憶の整理ができないまま聴取に応じたため、「公表」を頑なに拒否した吉田氏の思いは、かくして完全に「踏みにじられた」のである。

私のインタビューに対して、吉田氏は事故の規模を「チェルノブイリ事故の10倍に至る可能性が高かった」と、しみじみと語ってくれた。そして、それを阻止するために、部下たちがいかに「命」をかけて踏ん張ったかを滔々と語ってくれた。しかし、朝日の記事には、そんな事実はいっさい存在しない。

最悪の事態の中で踏ん張り、そして自分の役割を終えて私たちの前から足早に去っていった吉田氏。そんな人物を「貶める」ことに血道をあげるジャーナリズムの存在が、私には不思議でならないのである。

カテゴリ: 原発

“反日教育”を受けた人民解放軍「青年将校」の怖さ

2014.05.25

台湾南部での取材を終え、今日、台北まで帰って来た。ネット環境が悪く、ブログも更新できないままだった。バシー海峡を隔てて遥かフィリピンと向かい合う鵝鑾鼻(ガランピー)と猫鼻頭(マオビトウ)という二つの岬を中心に台湾最南地域を取材してきた。

バシー海峡に向かって「南湾」と呼ばれる穏やかな湾を包み込む鵝鑾鼻岬と猫鼻頭岬――地元の言い伝えでは、「鵝鑾」は、台湾先住民のパイワン族の「帆」を意味する言葉が訛(なま)ったものであり、「猫鼻頭」は文字通り、岬の形が蹲(うずくま)った猫の姿に似ているところからつけられたものだという。

この二つの岬は、太平洋戦争末期、日本人の悲劇を見つめた場所でもある。“輸送船の墓場”と称されたバシー海峡で、多くの日本兵を満載した輸送船がアメリカの潜水艦や航空機の餌食(えじき)となった。

犠牲となった日本兵の正確な数は、今もわからない。だが、少なくとも十万人を超える兵士たちが、この“魔の海峡”で深く蒼い海の底に吸い込まれていったと言われている。

その犠牲者たちの遺体の一部が流れついたのが、二つの岬に囲まれた台湾最南部の海岸である。この地の古老たちにとっては、流れついてきた日本兵たちの遺体を運び、荼毘に付した経験は、70年という気の遠くなる年月を経ても、鮮烈な記憶としてまだ残っていた。

バシー海峡をめぐる壮絶な体験を持った人々のノンフィクションの取材は急ピッチで進んでいるので、ご期待いただければ、と思う。

さて、私がバシー海峡、そして南シナ海に向かう台湾最南端の地で取材していた時、東シナ海では、一触即発の事態が起こっていた。昨日5月24日、東シナ海上空で、自衛隊機に中国軍機が相次いで“異常接近”したのである。

それは、日本の防空識別圏に大きく踏み込む形で中国が昨年11月に一方的に設定した空域でのことだ。中国機は、日本の海上自衛隊機と航空自衛隊機に対して、それぞれ、およそ50メートル、30メートルまで「並走するように近づいてきた」というのである。

言うまでもないが、30メートルから50メートルまで近づけば、パイロットはお互いの顔がはっきりと見える。つまり、相手の表情を見た上で、「おい、やるか? やるならやってみろ」と、事実上、“喧嘩を売ってきた”ことになる。

幸いに自衛隊機はそんな挑発には乗らなかった。日本の防空識別圏に重なる形で中国は一方的に新たな防空識別圏を設定したのだから、中国にとってそこはあくまで「自国の空域」である。要するに彼らには、「日本が中国の防空識別圏に侵入してきた」という論理になる。

勝手に「設定」して、勝手に自国の領空(領海)だと「主張」し、そして相手には「有無を言わせない」。戦後、周辺国(周辺地域)と紛争を繰り返し、国内でも粛清と弾圧ですべてを支配し、さらにはここ10年で4倍に国防予算を膨張させた中国の面目躍如というところかもしれない。「政権は銃口から生まれる」という毛沢東の言葉通りの国家方針である。

中国の実質的な国防費は日本の防衛予算のおよそ「3倍」と言われる。世界のどの国よりも軍事大国化を押し進める中国は、「地域の現状を一方的に変える」ことに、いささかの躊躇もない。21世紀の現在、そんなことは国際社会では認められないが、世界中を敵にまわしても中国はそれを押し進めるだろう。それが「中国共産党」が持つ特性だからだ。

小野寺五典防衛相は本日、報道陣に対して「ごく普通に公海上を飛んでいる自衛隊機に対して、(航空機が)近接するなどということはあり得ない。完全に常軌を逸した行動だ」「中国軍の戦闘機には、ミサイルが搭載されていた。クルーはかなり緊張感を持って対応した」と、緊迫の状況を説明した。

それは、昨年1月、中国のフリゲート艦が東シナ海で海上自衛隊の護衛艦に火器管制レーダー(射撃用レーダー)を照射した事件を彷彿させるものである。だが、予想通り中国側は、即座に、そして激しく反論した。中国の国防部が、「中国の防空識別圏に“侵入”し、中ロ合同演習を偵察、妨害したのは日本の自衛隊機である」と発表したのだ。

両国の防空識別圏が重なる部分は、当初から航空自衛隊の関係者たちによって「ここが日・中の戦端が開かれる“Xポイント”になるだろう」と懸念されていたところである。実際にそれが現実になる「時」が刻一刻と近づいていることを感じる。

勝手に「自分の領土(空域)だ」と設定して、そこを力づくで「自分の領土(空域)」として実力行使をするのは、ベトナムやフィリピン相手の西沙諸島・南沙諸島での強引な資源掘削と建造物建設の実態を見れば、よくわかる。

日米安保条約第五条の規定によって、日本に対して “何か”をおこなえば、即座に米軍が乗り出してくることは中国もわかっている。それでも中国は「挑発をやめない」のである。

私が懸念するのは、人民解放軍の若手将校たちだ。彼らは、江沢民時代以降の苛烈な反日教育を受けて育った世代である。ただ日本への憎悪を煽る教育をおこなってきた影響は、彼ら青年将校たちにどの程度あるのだろうか。

中国の若手将校の動向が話題になることは少ない。しかし、ちょうど今週、アメリカ企業にハッカー攻撃を仕掛けたとして、米司法省が、中国人民解放軍の若手将校「5人」を産業スパイの罪で起訴したことが発表された。私にはこの事件が象徴的なものに見えた。

米司法省のホルダー長官の発表によれば、「中国人民解放軍の将校5人が、5つのアメリカ企業と労働組合にサイバー攻撃を仕掛け、機密情報を盗んだ。司法省は彼らをサイバー攻撃の疑いで起訴した。このハッカー攻撃は、アメリカ企業を犠牲にして、中国の国営企業など、中国に利益をもたらすために行われたものだ」という。

しかし、中国の外交部は例によって「中国は、アメリカによるサイバー攻撃の被害者である。これは捏造だ。中国は、アメリカに関連事実を説明し、行動を停止するよう求める」と反発した。何を指摘されようと、絶対に非は認めず、反対に「相手に罪をなすりつける」のが中国の常套手段だ。

彼ら若手将校は、肥大化する人民解放軍の中でもエリート集団であり、同時に「怖いもの知らず」だ。文革や貧困時代の中国を知らず、大国となって傍若無人の振る舞いをする中国しか知らない。

どの国でも青年将校は怖い。かつての日本がそうであったように、血気盛んな若手のエリート将校は、時として歯止めがきかなくなる場合がある。理想論を闘わせ、やがてそこに向かって突き進もうとする者が出てくるからだ。

今、中国は「日本が(世界の)戦後秩序を破壊しようとしている」と、世界中でキャンペーンを張っている。日本による「戦後秩序への挑戦」が、彼らのキャッチフレーズなのだ。彼らには、日本が本当に“悪”にしか見えず、それは“憎悪の対象”でしかない。視野の狭い若手将校がどんな考えを持っているかは、容易に想像がつく。

もともと中国国内のツイッターでは「敗戦国が何を言うか」「いっそ原爆を日本に落とせ」と、盛んにやり取りされている経緯がある。日中国交回復以後、3兆円ものODAを中国につぎ込み、さらには民間レベルでの「技術協力」によって、ひたすら中国のインフラ整備に力を注いだ日本。しかし、そのことを全く知らない青年将校たちの「時代」が中国に訪れていることを忘れてはならないだろう。

私はそのことに言い知れぬ恐怖を覚える。苛烈な反日教育には、史実にそぐわない一方的な“日本悪者論”に基づくものが数多い。それを真に受けた世代が、いま前面に出ているのである。

かつて日本の青年将校は、「アジアを解放する。有色人種をアングロサクソンの差別と支配からなんとしても解き放つ」という理想に燃え、そしてその過程で「自分たちには何でもできる」と思い込んでいった。

そんな理想の中で、いつの間にか、「自分たちがその欧米諸国と同じようなことをアジアに対しておこなっていた。ある時、私はそのことに気づきました」と、元山航空隊の元特攻隊員で、零戦搭乗員でもあった大之木英雄・海軍少尉が私にしみじみ語ってくれたことを思い出す。

自分たちの論理で、より過激な道を歩もうとする若手将校たちほど怖いものはない。「“小日本”に核ミサイルをぶち込め」という意見がネットで氾濫する中国で、徹底した反日教育を受けた人民解放軍の青年将校たちは、今後、軍をどう導いていくのか。

操縦桿を握っているのは、彼らエリート意識に溢れた青年将校たちである。何百回、何千回とつづいていく「スクランブル(緊急発進)」の中で、「いつ」「いかなる」不測の事態が勃発するのだろうか。

私には、そのことを考えると深い溜息が出てくる。多くの日本の若者の命を呑みこんだバシー海峡を見てきた直後だっただけに余計、そう感じるのかもしれない。平和ボケしたわれわれ日本人も、不測の事態への「覚悟」だけは持っておくべき時代が来たことだけは間違いない。

カテゴリ: 中国, 台湾

日台の“絆”と映画「KANO」

2014.05.20

台湾に来ている。次作のノンフィクションの取材のためである。明日(21日)からは南部の高雄、明後日からは、恒春より猫鼻頭(マオビトウ)に至る台湾最南端各地での取材となる。

太平洋戦争下、台湾とフィリピンの間に横たわる「バシー海峡」で亡くなった兵士たちにまつわるノンフィクションだ。しかし、今回も“時間の壁”にぶち当たって取材が苦戦を余儀なくされている。なんとか局面を打開したいものである。

昨夜は2年3か月ぶりに訪台した私を、メディアの台北支局長や在台ジャーナリスト、領事館員、あるいは自治体の駐在員たちが集まって歓迎の宴会を開いてくれた。

そこでは、次作のノンフィクションの話はもちろん、3月18日から4月10日まで続いた台湾学生による立法院占拠の話題に至るまで、さまざまな問題が俎上に上がった。

今年3月、日本の国会にあたる立法院を占拠した学生運動は、今後の政局に影響を及ぼす大きなものとなった。台北市・新北市・台中市・台南市・高雄市の市長と議会議員を改選する統一地方選が今年11月におこなわれるだけに、台北駐在の日本人たちもあの学生運動の選挙への影響がどの程度のものとなるのか、関心が非常に高いようだ。

そんな中で、話題が映画『KANO』に及んだ。今年の2月から台湾で上映されている人気映画である。昭和六年の夏の甲子園で見事準優勝を遂げた嘉義農林野球部の実話を映画化したものだ。

日本人、台湾人、原住民の三つの民族で構成される嘉義農林は、常勝ならぬ“常敗”のチームだったが、松山商業、そして早稲田大学という野球の名門で活躍した近藤兵太郎氏を監督に迎えて、めきめき腕を上げていく。

さまざまな出来事を乗り越えて甲子園の決勝まで駒を進めた嘉義農林は、決勝でこの年から3連覇を果たすことになる強豪・中京商業と激突。連投で指を痛めた嘉義農林の呉投手が血染めのボールを投げ続けるシーンはこの映画のハイライトと言える。

映画には、烏山頭ダムを建設し、嘉南一帯を有数の穀倉地帯に生まれ変わらせた技師・八田與一も登場する。その豊かな水がそれぞれの水路に流れ込む場面と全島制覇を成し遂げた嘉義農林を同時に描いた部分が斬新であり、感動的だった。

私は、ここまで日本の統治時代を前向きに捉えた作品は見たことがない。戦前の日本と日本人の凄さが、そのまま描かれた作品だったと思う。

私は、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡―』(角川文庫)を取材していた5、6年前、「門田さんは嘉義農林のことを書くつもりはりませんか?」と台湾で持ちかけられたことがある。私が拙著『ハンカチ王子と老エース』(のちに『甲子園の奇跡』と改題。講談社文庫)で昭和六年の甲子園大会のことをノンフィクション作品として発表していたからである。

その時、すでに嘉義農林の当時の選手たちが若くして戦死したり、あるいは老齢で病死しており、ノンフィクション作品として描くことが難しいことを理由にお断りさせてもらった経緯がある。それだけに、映画『KANO』が、どのように当時を描いたのか、そこに関心があった。

折しも、中国が南シナ海一帯で周辺国との摩擦を繰り返している。そんな複雑な国際情勢の中で、制作者の魏徳聖氏はこの作品で何を訴えたかっただろうか、と思う。魏徳聖氏は、『海角七号』や『セデック・バレ』という話題作を次々発表している台湾ナンバーワンの映画監督である。

少なくとも、「日本なくして台湾なし、台湾なくして日本なし」ということに改めて気づかせてくれる貴重な映画であったことは間違いない。私は今日、取材の合間に映画『KANO』を観にいき、そのことを強く感じた。映画の後半では、映画館が観客のすすり泣きで覆われたのが印象的だった。

覇権主義と領土的野心を隠すことさえしなくなった中国に対抗する唯一の方法は、日本と台湾が強固に結びつくことである。そのために、この映画は多大な影響をもたらすに違いない。

私は、これを日本でも上映して欲しいと思った。多くの日本人が、ひたむきな日本と台湾の戦前の人々の姿に心を打たれるだろう。日本と台湾の“絆”が深まれば、中国も簡単には手が出せない。その意味でも、日本での一刻も早い上映を待ちたい。そんなことを考えながら、私は今日の午後、台北の映画館にいた。

カテゴリ: 台湾, 歴史

日本はそれでも「中国の掌(てのひら)」で踊るのか

2014.05.07

2014年のゴールデンウィーク(GW)も終わった。昨夜は、大学時代のサークルの飲み会があり、夜中まで深酒した。帰路、酔い冷ましに午前2時を過ぎた都心をしばらく歩いたが、GWというのに3月から4月上旬の気温らしく、実に肌寒かった。当方のGWは、相変わらず世の中の休みとは無縁の仕事三昧の日々だった。今朝は、疲労困憊で職場に向かう連休明けのサラリーマンで電車が一杯になっていた。

GWというのは、国民の大型連休であると同時に、国会議員を筆頭に、議員センセイたちにとっては、貴重な“外遊”の時期でもある。地方議員には、「視察」と称されるこの海外旅行は最も大きな楽しみとなっている。一時期、税金の無駄遣いと批判が出たが、それでも今もつづく“年中行事”のひとつである。

今年、話題を集めたのは、自民党副総裁の高村正彦氏が会長を務める日中友好議員連盟の訪中だろう。私は当ブログで「真の“日中友好”をはかるためには、今は中国との距離を置くべき」と何度も書かせてもらっている。そのため、この訪中団の動向が気になっていた。

訪中前から「日中首脳会談の実現に向けた環境整備を図りたい」と、その目的が明らかにされていたからだ。「このメッセージが中国に利用されなければいいが……」と、私は思っていたのである。

いま日本側が「日中首脳会談」を開かなければならない理由は全くない。歴史問題を振りかざして世界中で“日本悪玉論”を展開している習近平・国家主席に対して「すり寄る」ような印象を世界に見せてしまっては、対中包囲網外交を展開している安倍外交そのものを「否定」してしまいかねない。さらに、当の中国に対しても誤ったメッセージを与えてしまうことになるからだ。

残念ながら、その懸念は的中した。報道によれば、高村会長は5月5日午後、中国共産党で序列3位の張徳江・全人代委員長と北京で会談し、「なんとか本来の戦略的互恵関係に戻したい。そのためには、日中首脳会談の実現を……」と伝えたという。予想通り、中国当局は、この“飛んで火に入る夏の虫”を逃さなかった。

張氏は「習国家主席に伝える」と述べるにとどまり、さらに高村氏が全人代と日本の国会の間で議会交流を行いたいとの意向を伝えると、「議会交流の再開が望ましい」と前向きな発言をした上で、「しかし、日本側が問題を取り除くよう態度で示して欲しい」と発言したのである。

会談から数時間後、中国外交部の女性報道官、華春瑩・副報道局長は内外の記者たちに、「日本の指導者は、歴史を直視して深刻に反省し、実際の行動で両国関係が正常な関係に戻れるよう真面目に努力すべきである」と、表明した。すなわち首脳会談をしたければ、「まず自ら態度を改めよ」というわけだ。勝ち誇ったような華報道官の表情が印象的だった。

私は、さまざまな思いが頭をよぎった。自民党副総裁の立場にある高村氏の発言は当然、安倍首相の意向によるものだろう。実際、張氏との会談の中で「これは安倍首相の気持ちです」と、首脳会談実現に対して注釈までつけたという。

連休前の4月24日に訪中した舛添要一東京都知事も、思惑を持った中国の掌で踊らされた。中国側の招きに応じて訪中した舛添氏は「北京市が数ある友好都市の中から一番最初に私をお呼びいただいたことは、中国国民、北京市民が本当に日中関係をよくしたいんだという思いが胸に響いています」と、都知事就任後初の訪中の感慨を披歴(ひれき)した。

しかし、中国側は日本との関係改善への意欲を示しながらも、「(日中間の)最大の問題は靖国神社参拝である」と釘を刺すことを忘れず、舛添氏は、「帰国して安倍総理とお会いする機会があれば正確にお伝えする」と、返答せざるを得なかった。

中国のやり方は、昔も今も変わらない。中国に招いて相手をおだて上げて有頂天にさせ、その上で、自分たちの主張をわからせ、さらにその要求を実現させるための“尖兵”に仕立て上げるのである。

中国に完全に取り込まれた小沢一郎氏が2009年12月、民主党議員143名を引き連れて訪中した例を見ればわかりやすい。訪中団の一人一人が「1人何秒」と注文をつけられた上で、胡錦濤国家主席(当時)と嬉々としてツーショットの記念写真に収まっていくさまが象徴的だった。

恥も外聞もない訪中団として歴史に刻まれたこの事例は別としても、相手が中国の場合、政治家は招待を受けた段階で、すでに「相手に取り込まれる」ことを認識しなければならない。

なぜなら、訪中して序列の高い人間と会えなければ、自分たちの価値は落とされる。政治家なら、それを避けたいのが人情であり、習性だ。そこが中国側の狙いどころなのである。日本の政治家が、まず地位の高い人間と会わなけれならないことが“第一”であることを中国側は熟知しているのだ。

そして、訪中の間に、地位の高い人間との会見が「可能になった」ということを告げ、その会見の実現自体に「感謝させる」のである。そして、会見の席上、中国側の言い分をありがたく“拝聴”させる。

知らず知らずの内に中国に対して膝を屈していく「土下座外交」の仕組みがそこにある。連休前に訪中した舛添氏も、そして今回の高村訪中団も、したたかな中国と中国人のやり方に乗せられたと言っていい。高村氏の場合、靖国問題で相当突っ込んだ議論をおこなったというのが唯一の“救い”かもしれない。

いま中国の内情はガタガタだ。ウィグル族による弾圧への抗議のテロが相次ぎ、大都市では、排気ガスや噴煙等による有害なPM2.5がまき散らされ、ばい煙による地球規模の環境破壊も一向に改善される兆しがない。

さらに中国は世界から孤立しつつある。ベトナムの排他的経済水域で海底資源の掘削を強引におこなっている中国に対して、アメリカは5月6日の記者会見で、国務省のサキ報道官が「中国の行為は挑発的であり、地域の平和と安定に役立たない」と、痛烈に非難した。

サキ報道官の言を俟(ま)つまでもなく、領土的野心を隠さなくなった中国と周辺諸国との摩擦はエスカレートしつづけている。尖閣や南沙諸島の奪取を目論んで、盛んに東シナ海、南シナ海を遊弋(ゆうよく)する中国艦船は、世界的な紛争が勃発する原因が「ここにある」ことを示している。

サキ報道官の会見があった翌7日、さっそく石油掘削作業をめぐって、作業を阻止しようとしたベトナム艦船と中国船が海上で衝突し、事態がエスカレートする懸念が高まっている。周辺諸国に対して挑発行為をつづける中国は、さまざまな場所で“一触即発”の状態にあることをはからずも世界に知らしめたのである。

アメリカは、この「仮想敵国・中国」に対して着々と手を打っている。オバマ大統領が連休前の4月28日、フィリピン訪問で、フィリピンへの米軍派遣拡大を図る新軍事協定に署名し、1992年にフィリピンから撤退していた米軍が20数年ぶりに「フィリピンに戻ってくる」ことが決められたのも、そのひとつだ。

オバマ大統領は、「アメリカのフィリピン防衛への関与は鉄板のように堅い。われわれは同盟国が孤立しないように関与を続ける。(領土にかかわる)論争は、平和的に、そして脅迫や威圧なしに解決されなければならない」と、国名の名指しこそ避けたものの、中国への痛烈な非難を含むスピーチをフィリピンでおこなったのである。

孤立を深める中国は、ウクライナ問題で同じように国際社会から孤立するロシアとの接近をはかるしかなくなっている。そんな中国に「首脳会談に応じてください」と日本側から懇願する必要はまったくない。

1970年代に、のたうちまわるような苦労の末に各種の公害を克服した日本からの援助を中国は喉から手が出るほど欲しい。そのために、世界中で対中包囲網外交を繰り広げる安倍政権にさまざまなルートを通じて「揺さぶり」をかけているのである。

今は、自治体の首長や政治家たちが訪中する時期ではない。行くこと自体が孤立感を深めつつある彼らを「勇気づかせてしまう」からだ。これまで何度も当ブログで書いてきたように今は我慢に我慢を重ね、臥薪嘗胆で中国との「距離」を置かなけれならない。

そうすれば、放っておいても、中国側から日本にすり寄ってくる。これまで「舐められていた」日本が着々と進める対中包囲網外交によって、日本への「対応の変化」を説く動きがやっと中国に出始めたのである。

ここまで中国にバカにされながら、日本は返済義務のない無償資金協力(ODA)を現在も年間およそ300億円もおこなっている(外務省・平成24年版ODA白書)。いまやるべきは、訪中してご機嫌を伺うことではなく、「貴国は、すでにわが国を上まわる経済大国となりましたので、謹んで無償資金協力を終了させていただきます」と、告げることである。

1972年の日中国交回復の際、周恩来首相は田中角栄首相に「言必信 行必果」(言必ず信、行必ず果)という孔子の言葉を書いた色紙を贈ったのは、あまりに有名だ。これは、いまだにその意味をめぐって論争が絶えない言葉である。

この言葉だけを見れば、「言うことは必ず偽りがなく、やるべきことは必ず結果を出す」という意味だ。だが、実際の孔子の言葉には後段があって、「硜硜然 小人哉」(こうこうぜんとして しょうじんなるかな)とつづく。

これは、「それだけしかできないとしたら、それは小さな人間だ」という意味である。つまり、「言ったことには必ず偽りがなく、やるべきことは必ず結果を出す。だが、それだけしかできない人間は、小物である」という意味になる。

国交回復の当事者として訪中した日本の総理に対してすら、そんな言葉を色紙に書いて贈るのが中国の指導者である。それから42年という長い年月が経過し、日本はその間に「3兆円」を超える円借款をおこない、ひたすら中国の近代化のためのインフラ整備に力を注いだ。それがどれだけ「日中友好」に寄与したのかと思うと、深い溜息が出るのは私だけではあるまい。

もう、中国の掌で踊るのはやめ、「中国と距離を置く」必要性を噛みしめ、アジアの民主国家として毅然として中国と対峙すべきではないのか。その方が真の意味の日中友好への「近道」であることを政治家たちには理解してもらいたいものである。

カテゴリ: 中国

世界の脅威「中国」とどう対峙すべきなのか

2014.04.24

さまざまな意味で、2014年4月24日は歴史的な一日だったと思う。私は東京・内幸町の飯野ビルで講演があり、朝9時過ぎには霞が関界隈にいた。オバマ大統領来日の影響で車が都心に流れ込むのが規制されたのか、霞が関の通りは閑散としていた。

しかし、講演が終わって午後、タクシーで虎の門から溜池を抜けようとした時、渋滞に巻き込まれてしまった。ちょうどオバマ一行の移動に遭遇したらしい。先を急いでいたので、10分ほど停められた後、大渋滞の中からUターンして別のルートをとった。オバマ来日の余波を私自身も受けてしまった。

今日の日米首脳会談は、さまざまな意味で歴史に残るものだったと言える。日本側が目指した「尖閣防衛」をめぐる日米同盟のアピール、一方、アメリカが目指した関税の完全撤廃によるTPP(環太平洋パートナーシップ協定)をめぐる交渉の妥結――両国の思惑が激突し、関係の深さと同時に溝の深さも明らかになった一日だった。

夜11時半を過ぎてもTPPをめぐる交渉の歩み寄りは見られず、現時点で日米共同声明発表の目処は立っていない。「もう一度この担当大臣をやりたいか、と言われればやりたくない」。記者団に囲まれた甘利明・TPP担当相は険しい表情のまま、そう語った。

その発言を受けて記者たちは笑ったが、甘利大臣本人はまったく笑っていなかったのが印象的だ。いかにギリギリの交渉をおこなっているかが垣間見えた一瞬だった。歴史に残る凄まじい攻防である。

しかし、今日のオバマ・安倍の共同記者会見は見応えがあった。日本側にとって、焦点だったのは、言うまでもなく「尖閣問題」である。虎視眈々と尖閣奪取を目指す中国に、オバマがどんなメッセージを発するのか、注目が集まっていた。

「日本の施政下にある尖閣諸島も含めて、日米安保条約の適用対象となる」。安倍首相の期待通り、オバマは記者会見でそう明言した。これまでアメリカ政府の高官から同様の発言は何度もあった。だが、大統領の口から直接、「尖閣」が名指しされた上で、同盟国として「これを守る」という発言はかつてなかった。その意味は、測り知れないほど大きい。

今後、アメリカ政府へのチャイナ・ロビーたちの激しい活動があっても、この「明言」、すなわち「基本方針」を覆すのは、相当困難だろう。折しも今日、第二次世界大戦中の中国企業の損失の賠償として、上海海事法院(裁判所)に船舶を差し押さえられていた商船三井が同法院に40億円の「供託金を支払った」ことが明らかになった。

言うまでもなく、1972年の日中共同声明で日本に対する戦争賠償の請求は放棄されている。その国家間の約束を覆して、中国は法治国家とは程遠い行動に出ていた。5日前、この差し押さえのニュースに接した私は、「これは事実上の日本に対する中国の“宣戦布告”だ」と思った。

もちろん、武力行使という意味の「宣戦布告」ではなく、経済的、社会的な国家としての総合的な「宣戦布告」という意味である。

当ブログでは、中国人民との真の意味の友好を築くために、今は「臥薪嘗胆」の時期であり、中国との「距離を置く必要性」を繰り返し書いてきた。それは、日本が目指すべきは、中国共産党独裁政権との“友好”ではなく、その独裁政権に弾圧され、喘いでいる中国人民との“友好と連携”であるという意味である。

対中ODAの中で「有償資金協力」を3兆円もおこない、「技術協力」によってひたすら中国国内のインフラ整備に力を尽くしてきた日本。文化大革命で荒れ果て、後進国のひとつとしてのたうちまわっていた中国を日本は必死で援助しつづけた。

その日本に「お前たちの役割はもう終わった」とばかりに、中国は日中共同声明を反故(ほご)にして各企業別“戦時賠償”取り立て作戦まで展開し始めたのである。

“人治国家”である中国の共産党独裁政権に、道理は通じない。中国国内の人権活動家や民主運動家への厳しい弾圧でわかるように、それと同じ理不尽極まりない「対日弾圧」に中国は出てきたのである。広い意味での「日本への宣戦布告」と呼ぶ所以(ゆえん)だ。

菅官房長官は「日中共同声明で示された国交正常化の精神を根底から揺るがすものだ」と差し押さえを非難したが、この日本への「宣戦布告」から僅か5日後に、オバマ大統領が記者会見で「尖閣は日米安保条約の適用対象であり、昔も今も変わらない」と言明したのである。

情けないことだが、日本にとって、これほどありがたいことはなかった。海洋進出とアジアどころか世界の覇権を目指す中国に対して、アメリカの軍事力の傘の下でなければ、日本は「尖閣」という自国の領土を守ることが難しいからだ。

中国が「第一列島線(九州から沖縄・台湾・フィリピンを結ぶ線:First island chain)」を突破し、太平洋の西半分を支配しようとする剥(む)き出しの悲願を隠さなくなった今、日本は日米同盟、そして南シナ海で中国から同様の圧迫を受けているフィリピンやベトナムとの連携が不可欠だ。

日本にとって、今日の日米首脳会談の歴史的な意味づけは、中国が“世界の脅威”であることが内外に示されたことにある。その中国と今後、どう対峙していくのか、それがアジアの安定にどれだけ大切なことなのか、そのことが広く「宣言された」ということだろう。

集団的自衛権の議論もこれから加速するに違いない。尖閣周辺で航行中の日米の艦船が中国によって攻撃され、そのうち例えばアメリカの艦船が被害を負った時、日本が「俺は知らないよ」と言って、そこから離脱するわけにはいくまい。そんなことをすれば、たちまち日米同盟は破綻する。

しかし、中東やアフリカでアメリカがなんらかの攻撃を受けた時、「同盟国が攻撃を受けたから」と、その攻撃相手を叩くために日本から艦船や航空機が遠く中東やアフリカまで「攻撃に向かう」というのはおかしい。

集団的自衛権が難しいのは、アメリカの戦争に日本が「巻き込まれてしまう」という恐れがあるからである。石破茂幹事長をはじめ、自民党の多くは「集団的自衛権の行使には、国会の承認が必要だから心配にはあたらない」という立場のようだが、それでも、懸念は払拭されない。

焦点は、集団的自衛権の問題において「エリア限定」を組み込んでいけるか、という点に尽きるのではないだろうか。前述のように尖閣周辺でアメリカの艦船が攻撃され、傷ついた時に日本が“知らぬ顔”はできない。それと同時に、日本がアメリカと「世界の各地で」同じ行動をとることができないというのも当然なのである。

国民はそのことに悩んでいる。妥協点は、集団的自衛権行使の前提となる「同盟国が攻撃を受けた場所」をいかに「エリア限定」できるかにあるような気がする。そのエリアを日本の国土から「何カイリ以内」と設定するのか、それとも「東シナ海全体」、あるいは「西太平洋全体」という具合に広い範囲を設定するのか……等々、そういう議論が必要になってくるのではないだろうか。

日米首脳によって、事実上、中国が世界の脅威であることが宣言された今日以降、日本人にはある種の「覚悟」が求められるだろう。それは、中国と毅然と「距離を置く」ことができるかどうかの「覚悟」である。

それは、中国を取り巻く国との関係を強化することによって、中国の巨大市場からできるだけ早く離脱することを意味する。それは、つらく苦しい道だが、日本が本気で中国から距離を置いた時、初めて中国側からアプローチの要請が届くだろう。中国は、面子(めんつ)より実利を重んじる国であり、そのとき初めて、向こうから「すり寄ってくる」ということである。

友好国としてお互い尊重し合える関係を持てるのは、それからだ。その時まで毅然とした対中姿勢が続けられるか、私たち日本人の「覚悟」が求められているのである。今日2014年4月24日は、そんなさまざまなことを考えさせてくれた“歴史的な一日”だった。

カテゴリ: 中国, 国際

名実ともに「空想的平和主義」の時代は終わった

2014.04.09

いよいよ日本と中国との鬩(せめ)ぎ合いが、国際社会の大きな焦点となってきた。訪中したアメリカのヘーゲル国防長官が4月8日、記者会見で述べた中身が要因だ。

ヘーゲル氏は、尖閣諸島(中国名:釣魚島)について「日米安全保障条約に基づく防衛義務を果たす」と明言した上で、昨年11月に中国が尖閣諸島の上空を含む東シナ海に広範囲にわたって“防空識別圏”を設定したことに言及し、「どの国も防空識別圏を設定する権利はある。だが、事前協議なしに一方的に設定すれば、緊張や誤解を招き、衝突を誘発する」と痛烈に非難した。

このヘーゲル発言にほっと胸を撫で下ろした日本人は少なくないだろう。虎視眈々と尖閣奪取を目論む中国に、「アメリカは(中国の尖閣奪取を)黙っちゃ見ていないよ」と、はっきり言明してくれたのである。

これに対して、中国の常万全・国防相は「領土問題で、われわれは妥協や譲歩、そして取り引きは一切しない。もちろん、わずかな領土侵犯も許さない。中国は日本とトラブルを起こすつもりはないが、領土を守る必要があればトラブルが起きることを恐れない」と語ったのである。

すなわち、尖閣はあくまで「中国の固有の領土」であり、「一歩も譲らない」との宣言である。報道によれば、この記者会見の前におこなわれた両者の会談は激烈なものだったようだ。

ヘーゲル国防長官に対して、常国防相は領土主権を「核心的利益」と主張し、「中国側からは挑発しない。しかし、必要ならば武力で領土を守る準備はできている」と、“恫喝”を忘れなかったというのである。

そして、東シナ海での日本、あるいは南シナ海でのフィリピンなどの動きを非難し、アメリカによる台湾への武器売却まで厳しく批判したという。つまり中国は、領土・領海に対する野心を、もはや「隠さなくなっている」のである。

尖閣をめぐる日中両国の紛争が、世界の“ビッグ2”アメリカと中国との激突に繋がるかもしれないという懸念によって、この問題が国際社会の大きな「焦点」に浮上したのは当然だろう。

私は、二つの超大国が、“日本をめぐって”激しく応酬していることを肝心の日本人はどう見ているのだろうかと、思う。一般のアメリカ人にとっては、極東の一地域で“日本のために”アメリカの若者の血が流されることを良し、とする人は少ないに違いない。

それでも、「アメリカは日米安保条約に基づき日本を守る」と宣言してくれている。この明確なアメリカの立場表明によって、中国が尖閣に対して露骨な動きをすることが難しくなったのは確かである。

それは、ヒラリー・クリントン国務長官が「日本の施政権を損なおうとする行為」に反対を表明し、中国の動きを牽制した昨年1月につづく、痛烈なるアメリカの意思表示だった。当ブログで何度も指摘してきた中国による「闇夜に乗じての尖閣上陸」と「建造物の建設」という“既成事実化”の戦略が「足踏み」したのは間違いない。

しかし、ワシントンで活発化する中国ロビーの動きと、大量保有する米国債の“人質作戦”が中国に功を奏し、尖閣が将来、日米安保条約第5条の「適用対象外」とされる可能性もまた否定できない。

日本は、その時の対応をきちんと考えておかなければならない。日本には、中国の代弁者である“親中派”のメディアや評論家が圧倒的に多い。彼らは“親中”を“親中国共産党政権”と勘違いしている人たちである。

言論や思想の自由を許さず、中国人民の人権を犯しつづけている中国共産党独裁政権のシンパを“親中派”として仰ぎつづけている日本のメディアの滑稽さに、アメリカ政府も気づいている。

そんな日本が、それでも、アメリカの若者たちが血を流してまで守る価値があるものかどうか、ひとたび尖閣紛争が起こった時は、きっとアメリカでも議論になるに違いない。

私たち日本人は、単なる中国共産党の代弁者に成り果てたメディアや言論人の言うことををきちんと見極め、自分たちの生命・財産、そして領土を守るために、毅然と対応してくれる人々を心から応援すべきだろうと思う。

3日前(4月6日)、アメリカの「ボイス・オブ・アメリカ」の中国語版サイトが注目すべき記事を掲載している。この記事の中で、アメリカのアジア太平洋外交を研究する香港大学のレイエス客員教授が、「東シナ海の小さな島(※尖閣のこと)をめぐる海洋領土紛争はより一層リスクが高まっている」と指摘しているのだそうだ。

その中で、レイエス教授は「ロシアのクリミア併合のような事態はアジアでも十分考えられる」と語り、もし本当に日本と中国が軍事衝突した場合、「アメリカは、日本が希望するように日本を支持できるのかどうか」と、疑念を呈したという。

ウクライナの危機が、クリミア半島から今度は国土の東部全域に広がる中、東アジアで同じことが起こらない保証はどこにもない。いや、現実に「アメリカは果たして日本を守れるのか」「クリミアのようになってからでは遅い」という懸念が湧き起こっているのである。

中国の台頭は、戦後日本を支配してきた「空想的平和主義」の時代の終焉を示している。「ヘーゲル国防長官vs常国防相」の昨日の激論は、平和ボケした日本人にそのことを告げている。そして同時に、覇権主義を剥(む)き出しにする中国と向き合う本当の「覚悟」を、私たちに求めているのではないだろうか。

カテゴリ: 中国, 国際

「戦争」に思いを馳せる季節

2014.04.06

私にとって4月の桜の季節は、1年のうちで8月と共に「歴史」に思いを馳せる時期でもある。今から69年前、1945(昭和20)年4月は、日本にとって危急存亡の時だった。そして、多くの青年が若き命を散らした。

硫黄島が陥落し、いよいよ沖縄に米軍が上陸を開始したのは、昭和20年4月1日である。この時期、沖縄を取り囲む米機動部隊に対して、日本の航空特攻が熾烈さを増していた。「沖縄を助けなければ」と多くの若者が東シナ海で、あるいはその上空で命を散らしたのである。

この時期の日米両軍の攻防は、やはり日本の歴史がつづくかぎり、忘れてはならないものだろう。将来に対して多くの希望を持っていた若者が、家族と故郷を守るために、自らの命を捧げなければならなかったからだ。

子孫を残すこともできず、この世を去っていく「無念」と、諦(あきら)めなければならなかった将来への希望の「重さ」は、後世の私たちがいかに頭の中で想像しても、し尽くすことができるものではない。

文庫も含めると8冊の戦争ノンフィクションを上梓している私は、昨日の4月5日、戦艦大和に座乗して沖縄への水上特攻を敢行した故伊藤整一・第二艦隊司令長官の「墓前祭」に先立つ記念講演で、福岡の柳川に招かれた。

伊藤中将(死後、大将に昇進)生誕の地は、柳川市に隣接する旧三池郡高田町である。私は、長い間、伊藤長官のお墓参りをしたいと念願していた。

伊藤長官率いる第二艦隊は、この時、およそ4000名の兵たちが東シナ海の蒼い海に没した。戦艦大和の水上特攻への是非をめぐる議論は、いまだに多くの歴史研究家の間で戦わされている。しかし、一丸となってこれだけ多くの若者が沖縄を助けようと心をひとつにした事実は、日本の歴史がつづくかぎり消えない。

私は、その指揮官であった伊藤長官のお墓に手を合わせたいという思いを持っていたのである。講演に先立って、私はその念願をついに果たすことができた。たまたま地元にいた古くからの知人にお願いして、墓所に案内してもらったのだ。

伊藤長官の墓所への案内板もない中を、知人は、私を案内してくれた。小雨の中、やっと辿り着いた墓所には、昭和33年に建てられた記念碑と共に、伊藤長官の立派な墓石があった。

「ああ、やっと来ることができた」と私は思った。広島県呉市にある海軍墓地(長迫公園)には、戦艦大和の慰霊碑が建っている。何度もそこに行って手を合わせている私は、ついに伊藤長官の墓参の願いを叶えたのである。

映画『連合艦隊』では俳優の鶴田浩二が、『男たちの大和』では渡哲也が伊藤長官を演じている。妻と娘を愛した伊藤長官は、軍人としてだけでなく、家庭人としての優しさと、さらに部下への分け隔てのない接し方や、高潔な人柄が今も語り継がれている。家族に宛てた遺書の中で「大きくなったら、お母さんのような婦人になりなさい」と娘たちに語りかけた文面は、あまりに有名だ。

墓所の20坪近い広さといい、そこにあった慰霊碑といい、それは立派なものだった。だが、せっかくのこの墓所も、案内板も何もないため、地元の人でさえ、辿り着くのは極めて難しいだろうと思った。

案内してくれた知人は、「この墓所は、旧高田町(現・みやま市)の行政区ではなく、ぎりぎりで大牟田市の方に入っているんです。大牟田市の方はあまり伊藤中将への関心がないので、案内板も掲げられておらず、こんな有様です」と教えてくれた。案内板さえ出ていない理由はそういうことだったのか、と思った。

この時、沖縄を守った陸軍の牛島満・第32軍司令官も、同じように温厚で高潔な家庭人であり、さらには後進を数多く育てた教育者として知られる。

私は、先人の事績や思いが消えつつある現状を憂う一人である。それを残すために、今も新しい戦争ノンフィクションに挑んでいるが、時間の厚い壁に跳ね返されている。拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズを取材していた数年前までとは、まったく状況が変わっていることを感じざるを得ない。

ここ数年、私は先の大戦の最前線で戦った大正生まれの元兵士を数多く見送った。大変お世話になった方で、いま現在、病床に伏している方も少なくない。

貴重な証言が消えつつある今、柳川での伊藤中将の墓前祭の講演を私はそんな思いでさせてもらった。断たれていった希望、消えていく命、若者の無念――当時の若者が置かれた状況と彼らが辿った運命を忘れないでいたい。そして、あの時代の毅然と生きた日本人の真実の姿を後世に伝えたいものである。

明日4月7日は、戦艦大和以下の第二艦隊が東シナ海に没し、伊藤整一中将ら約4000名の69回目の命日である。いよいよ来年は大和沈没「70周年」を迎える。

東京に帰ってきたら、雨で桜はかなり散ってしまっていた。桜の季節が終われば、東京は「夏」に向かって真っしぐらだ。環境破壊で、「春」と「秋」が消えつつある日本。たとえ気候は変わっても、先人が持っていた毅然とした気質だけは失いたくない。東京の夜桜を見ながら、私はそう思わずにはいられなかった。

カテゴリ: 歴史

なにが「袴田巌」を死刑から救ったのか

2014.03.28

日本列島を駆け抜けたビッグニュースだった。「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」「証拠が捏造(ねつぞう)された疑いがある」。村山浩昭裁判長の痛烈な文言と共に、48年という気の遠くなる年月を獄中で過ごした袴田巌死刑囚(78)の再審請求が認められ、史上初めて「直ちに釈放」された。

3月27日午後5時20分、東京拘置所から釈放された袴田死刑囚の姿は、自分に起こっている“現実”をきちんと理解できているのかどうか、判断しかねているように私には見えた。

拘禁症による心神耗弱と糖尿病の悪化という病状は、その姿が如実に物語っている。 1966(昭和41)年に静岡県で一家4人が殺害、放火されたいわゆる「袴田事件」は、再審の厚い壁が「ついに破られた」のである。

私は、「ああ、“裁判員制度”が袴田死刑囚を解き放ってくれた」と、その袴田死刑囚の姿を見ながら思った。すなわち「司法制度の改革」が、長い拘禁生活下にあった袴田死刑囚をついに解き放った、と思ったのである。

これには、少々の説明を要する。袴田死刑囚と「裁判員制度」とは表面上、何の関係もないからだ。今回の決定の最大の要因は、袴田死刑囚の姉・秀子さん(81)が申し立てた第二次請求審で、新たに実施した「DNA型鑑定」の評価によるものだ。

しかし、私はそれと同等、いやそれ以上に、「裁判員制度」こそが、袴田死刑囚釈放の“主役”だったと思う。

現場近くのみそ工場タンクから発見され、確定判決が「犯行着衣である」と認定した5点の衣類のDNA型鑑定結果を、弁護側は「これは、再審を開始すべき明白な新証拠に当たるものだ」と主張した。

半袖シャツに付着していた「犯人のもの」とされる血痕について、2人の鑑定人が袴田死刑囚のDNA型と「完全に一致するものではなかった」とした。しかし、検察側の鑑定人は「検出したDNAは血痕に由来するか不明」と信用性を否定したため、検察側は「鑑定試料は経年劣化している。鑑定結果は到底信用できない」と訴えた。

ここで起こったのが、600点の証拠の「初開示」という出来事だった。これは、袴田事件にとって「画期的なこと」だった。この第二次請求審で、静岡地裁の勧告を受けた検察側が、袴田死刑囚が供述した録音テープ、関係者の供述調書……等々、600点に及ぶ新たな証拠を弁護団の前に「開示」したのである。

これによって、当時の「捜査報告書」の内容が新たに判明した。そこには、袴田死刑囚と同じ社員寮にいた同僚が「(事件時の放火による)火事をサイレンで知って表に出る時、袴田がうしろから来ていた」と話していた記述があった。袴田のアリバイを補強する話である。

また、犯行着衣とされたズボンをつくった製造会社の役員の供述も開示された。これによって、ズボンについていた布きれにあった記号「B」が示していたのは、確定判決が認定していた「サイズ」ではなく、「色」だったことがわかったのである。

「このズボンは、袴田死刑囚には到底、履くことはできない。これは彼が履いていたものではない」。弁護団のその主張が、信憑性を帯びることになったのである。

なぜ、こんな証拠が次々と明らかになったのだろうか。この背景にあるのが、2009年5月にスタートした「裁判員制度」である。国民が裁判の過程に参加し、裁判の内容に国民の健全な常識を生かすために始まった裁判員制度。この国民の裁判への参加には、大きな条件があった。

審理が長期に渡れば、裁判員の負担は、はかり知れない。そこで、審理の迅速化と、そのための徹底した要点の整理が迫られた。公判が始まる前に争点を「絞り込む」システムが裁判員制度を睨んで、でき上がった。

それが、「公判前整理手続」である。裁判員制度に先立つ2005年11月に刑事訴訟法の改正によって、この制度は始まった。公判が始まる前に、裁判官、検察官、弁護人の間で徹底した要点整理をおこなうのである。これにより弁護側が要求する証拠物件は、検察側はすべて開示しなければならなくなった。

すなわち弁護側が要求すれば、捜査官が捜査の過程でメモした警察手帳の中身から、留置場で朝、昼、晩、容疑者が「何を食べていたか」という記録に至るまで、この公判前整理手続の場に出さなければならなくなったのである。

今回の再審決定の重要なポイントは、2010年5月、裁判官、検察側、弁護側の3者協議の席上、当時の原田保孝裁判長が「検察はそこまで“捏造でない”と言うのなら、反論の証拠を開示したらどうですか」と、検察側に初めて証拠開示を迫った「瞬間」と言われている。

それが、前年(2009年)にスタートした裁判員制度と、さらにそれに先立つ公判前整理手続によるものであったことは、明らかだろう。そして、その姿勢は今回、再審開始の決定をおこなった後任の村山浩昭裁判長にも引き継がれ、厚い「再審の扉」はこじ開けられたのである。

今回の袴田事件だけではない。公判前整理手続というシステムは、刑事裁判に画期的な変化をもたらしている。これまで、なぜ日本の刑事裁判における有罪率が「99%」を超えるという“異常な”数字を誇っていたか、ご存じだろうか。

それは、井上薫・元裁判官と私との対談集『激突! 裁判員制度―裁判員制度は司法を滅ぼすvs官僚裁判官が日本を滅ぼす』(WAC)にも詳述されているが、これまでの日本の刑事司法は、極めて冤罪を起こしやすい体質を持っていた。

それは、検察が法廷に出す証拠は、有罪を「勝ち取るだけのもの」であり、それに不都合なものは「隠されて」いたのである。たとえば、A、B、C、D、Eという5種類の関係者の供述調書があり、そのうち、有罪に有利なものがAとCとDだった場合、有罪を勝ち取るために不利なBとEの供述調書は、法廷に出さなくてもよかった。

たとえ弁護人から「BとEの供述調書を出してください」という要求があっても、同じ“官”同士である裁判官から「その必要はありません」と却下されれば、それで終わりだったのだ。そもそも弁護側は、「BとEの供述調書」が存在することを知らないまま、判決が下されることが多かったのである。

しかし、日本の99%の有罪率を支えたその悪しきシステムは、裁判員制度を睨んでスタートした公判前整理手続によって崩壊した。そして、定着してきたこの公判前整理手続の習慣は、袴田事件の再審をめぐる攻防にも決定的な影響を与えたのである。

私は、ここまで検察を追い込んでいった“手弁当”の弁護士たちと支援者たちの「執念」と「努力」に心から敬意を表したい。そして、日本の司法を根本から変えつつある「裁判員制度」というものに、あらためて厚い評価をしたいと思う。

カテゴリ: 事件, 司法

愛すべき隣人「台湾」の未来と「日本」

2014.03.25

昨日は、夜、姫路で講演があったので、途中、甲子園で明徳義塾(高知)と智弁和歌山(和歌山)の試合を観戦してから姫路に行き、講演のあと、地元の人たちと夜遅くまで飲んだ。結局、ホテルに入ったのは、もう午前1時近かった。

甲子園で観た明徳義塾と智弁和歌山の試合は、激戦だった。2002年夏の甲子園決勝の再現で、しかも甲子園初の監督「100勝対決」である。

甲子園での勝ち星が史上最多の和智弁・高嶋仁監督(63勝)と史上5位の明徳・馬淵史郎監督(42勝)という、合わせて105勝の名将対決は、試合前、両監督がはからずも「3点勝負」と言っていた通りの展開になった。

1対1で延長にもつれ込んだ試合は、和智弁が延長12回表にホームランで突き放すと、その裏、明徳がスクイズで同点に追いついた。そして、この回に決着がつかなければ再試合となる延長15回、和智弁が二死満塁と攻め立てたが、明徳はセカンドゴロでピンチを凌ぎ、その裏、今度は明徳が一死満塁からワイルドピッチでサヨナラ勝ちするという幕切れとなった。

延長戦での満塁の重圧は、言葉では表現しがたい「何か」がなければ凌げない。「精神力」や「球際(たまぎわ)の強さ」という言葉をもってしても、それを表わすことはできないだろう。最後に両チームの明暗を分けたのは、その「何か」だったように思うが、それはスポーツ・ノンフィクションも手掛ける私にとっては、永遠のテーマでもある。

私は、延長10回を終わったところで姫路に向かったため、あとはワンセグでの観戦となったが、画面から少しも目を離すことができなかった。久しぶりに“死闘”という言葉がふさわしい試合を堪能させてもらった。両チームの選手たちの日頃の精進に感謝したい。

昨日、私には、ずっと気になっていたニュースがあった。甲子園とはまったく関係がない海の向こうの台湾のニュースだ。中国と調印した「サービス貿易協定」の承認に反対する学生たちが台北の立法院(日本の「国会」にあたる)の議場を占拠して6日目となった3月23日夜、今度は通りを隔てて北側にある行政院(内閣)の庁舎に突入し、学生ら32人が逮捕されたのである。

非暴力での「立法院」占拠が、一部の学生によって「行政院」への突入に発展したのは、残念だった。政府に「強制排除」への口実を与えるからだ。しかし、大半は今も非暴力のまま、立法院とその周辺での座り込みをつづけている。

ことの発端は、中国と台湾が相互に市場開放促進に向けて調印した「サービス貿易協定」である。この協定によって中国と台湾が相互の市場開放を取り決めたのである。

しかし、台湾の人々に中身を開示しないまま秘密裏に結ばれた協定に反発が起こり、さらに議会で多数を占める国民党がこれを「強行採決」しようとしたことが、学生や民衆たちによる「立法院占拠」につながった。

その非暴力の座り込みをつづける中にいる台湾の若い女性がyoutubeにアップした映像が話題になっている。国会を取り巻く群衆をバックにした学生と思われる若い女性は、日本語でこう語りかけている。

「私は台湾人です。私は若いです。そして、この国の民主は、さらに若いです。台湾の民主は、私たちの親の世代の努力と犠牲で、ヨチヨチしながら成長してきました。この国の民主の歩みは、私たちの今までの人生でもあります」

そう語る二十歳前後と思われるこの女性は、民主的なプロセスを無視した協定が自分たちの未来の労働条件を悪化させ、就職機会を圧殺することを訴えている。映像はこうつづく。

「いま台湾はかつてない危機に直面しています。でも、この時代に生まれて、ここにいられる私たちは幸せです。われわれが抵抗をつづければ、この国の未来は変わり、新しい世界は開かれると信じているからです」

「現在、私は国会にいます。死にそうになっている台湾の民主のために、力を尽くそうと思います。世界中の人々にいま台湾で何が起こっているのかを知って欲しいと思います。もし、あなたも、民主が守られるべき価値があるものだと信じていたら、私たちと一緒にその価値を守りましょう」

淡々とそう語る女性の映像を見て、私は、初めて台湾を訪れた戒厳令下の27年前の台湾を思い出した。1987年2月、初めて訪台した私は、戒厳令下で民主化を求めるうねりのような若者たちの姿を見た。5か月後、実に40年近くつづいた戒厳令が、蒋経国総統によって解除になった。

戒厳令下では、いつ、どこで、誰が連行されても、わからない。実際に数多くの台湾人が虐殺された「二・二八事件」以降、夥しい数の台湾人が警備総司令部に連行され、家族のもとに二度と帰ることはなかった。中国共産党との国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党は、50年も日本の統治下にあった台湾を「思想監視」によってしか、治めることができなかったのである。

まだ戒厳令下だった1987年前半、共産党のスパイを通報した者には、700万元の報償が与えられることを告示した「共匪通報700万元」の貼り紙が地方の空港に貼られていたことを思い出す。

その戒厳令が、若者の民主への叫びによってついに「解除に追い込まれた」のが1987年7月のことだった。私は、「ああ、この女性は、あの時の若者たちの子供の世代なんだ」と思い至った。

たしかに戒厳令解除から始まった「台湾の民主」は、それから30年近くを経た現在、新しい局面を迎えている。それは、あの頃は想像もできなかった中国の経済大国化であり、まさにその中国に呑み込まれようとする台湾の現状である。

立法院を占拠した若者は、この協定をきっかけに馬総統の「年内訪中」「初の中台首脳会談」というシナリオへの恐れを抱いているのではないだろうか、と思う。実際にこの協定が抵抗もなく通っていたら、その可能性は極めて高かっただろう。

そして、その先にあるのは、「台湾の香港化」である。すなわち台湾の中国への隷属化にほかならない。つまり、今回の「サービス貿易協定」反対は、イコール「台湾の中国への隷属化」への反対であろう、と私は思う。

そのことを考えると、私は深い溜息が出る。中国と韓国が手を携えて日本に攻勢を強めている中で、台湾は、日本に尊敬と好意を寄せてくれている貴重な隣人だ。日本のことが大好きな「哈日族(ハーリーズ)」と呼ばれる台湾人をはじめ、これほど日本の「存在」と「立場」を理解してくれる“国”は珍しい。

あの東日本大震災の時に、わがことのように涙を流し、あっという間に当時のレートで200億円を超える義援金を集めて、日本に送ってくれたことも記憶に新しい。

その台湾で、いま「中国への隷属化」に対する学生と民衆の抵抗が始まっているのである。地図を見てみればわかるように「尖閣諸島」の情勢は、中国が台湾を呑み込んだ時に、大きな変化を見せるに違いない。

中国と台湾が、ともに尖閣の領有を主張し、アメリカが中国のロビー活動によって、尖閣を日米安保条約「第5条」の「適用区域ではない」と譲歩した時、尖閣は中国の手に落ち、さらに沖縄にも、激変が生じるだろう。

そんな歴史の狭間で、台湾の学生たちが、必死の抵抗を試みている。それでも、馬英九総統は、立法院とその周辺に集まる群衆を強制排除することには極めて重大な決断が必要となるだろう。

なぜなら、「民主国家」である現在の台湾では、非暴力の座り込みを強制排除すれば、さらに大きな民衆の反発が湧き起こることは必至だからだ。これが中国では、そうはいかない。言論と思想の自由がない共産党独裁政権の中国では、たちまち民衆は排除され、厳しい弾圧を受けるだろう。

考えてみれば、この「座り込み」こそ、中国と台湾の「差」なのである。将来、今回の座り込みが、その「差」を守るため、すなわち「民主」を守ろうとする歴史的な学生と民衆による行動だったとされる日が来るのだろうか。

「この時代に生まれて、ここにいられる私たちは幸せです。われわれが抵抗をつづければ、この国の未来は変わり、新しい世界は開かれると信じているからです」。果たして、このyoutubeを通じての台湾の若き女性の訴えは、どれだけの人々の共感を呼ぶだろうか。

戒厳令の解除へと導いた彼らの親の世代の奮闘をこの目で見たことがある私は、台湾という愛すべき隣人の動向を、心して見守っていきたいと思う。

カテゴリ: 中国, 台湾

「治に居て 乱を忘れず」と生命の尊さ

2014.03.22

18日に高知で桜の開花宣言があったが、さすがに西日本は温かくなっていることを実感した。本日、私は次の作品にかかわる海軍の元兵士にお会いするため、山口県岩国市にやって来た。

昭和19年12月30日に米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没した駆逐艦・呉竹(くれたけ)の生き残りのお二人である。“輸送船の墓場”と呼ばれた台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で沈んだ「呉竹」には200人近い乗組員がいたが、今日、話を伺った元機関兵(89歳)と元通信兵(86歳)を含む29人だけが漂流の末、生き残った。

沈没後70年近く経った今では、その29人も生存者は「数名」となった。呉の海軍墓地で毎年9月23日の慰霊祭に訪れる呉竹の元乗組員は一人減り、二人減り、昨年は、今日お会いした「二人だけ」になったそうだ。

私は今、この呉竹に乗り、若き命をバシー海峡で散らした京都帝大法学部出身の海軍少尉の人生を追っている。しかし、この人物のことを知る関係者があまりに少なく、取材に苦戦を余儀なくされている。

戦争ノンフィクションは、取材対象者の多くがすでに亡くなられているケースが多い。苦戦はもとより承知しているので、負けずに取材をつづけていこうと思う。

本日の二人の貴重な証言によって、呉竹が沈没した時のようすや、九死に一生を得た兵士の“生と死”を分けたものは何だったのか、興味深い話を伺うことができた。今後の取材の展開が楽しみだ。

さて、私は、昨日、旧海軍兵学校のあった江田島を訪れた。もう何回目かの訪問だが、今回はこれまでとは違った趣きがあった。今回は、海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式に招かれ、初めて伝統の式典を目の当たりにしたのである。

私は、これまで戦争ノンフィクションを文庫も含めて8冊ほど上梓している。そのため、幹部学校その他に講演に呼んでもらうことがある。その関係で、今回招待してくれたようだ。

有名な卒業式だけに、マスコミも含め、多くの参列者があった。安倍首相の夫人、昭恵さんやアメリカ海軍の第七艦隊司令官、チリの特命全権大使……等々、多くの関係者の参列の中で厳粛な卒業式が執りおこなわれた。

海軍兵学校は、帝国海軍のエリート士官養成学校である。明治21年に設立された同校から、規則の厳しさだけでなく、カッターをはじめ過酷な訓練が現在まで脈々と受け継がれている。

現在の幹部候補生学校は、防衛大学や一般の大学・大学院を卒業した人を対象にしている。今回は、1年間、ここで一般幹部候補生課程を勉強し、修了した者が174名(うち女性が19名)、そのほかにすでに現場でパイロットとして任務についている人たちを対象にした飛行幹部候補生課程を修了した48名(うち女性3名)、合わせて「222名(うち女性22名)」が卒業していった。

聞けば、今では、防衛大学出身者と一般大学出身者が数の上で“半々”になっているというから興味深い。彼らが御影石の伝統の大講堂で、卒業証書を一人一人、受け取っていったのである。

アメリカ海軍の第七艦隊司令官の祝辞も含め1時間40分にわたって、式典はつづけられた。私は、どの学校の卒業式とも異なるこの厳粛さは「どこから来るのか」と、式典の間、ずっと考えていた。

私は、それは「命」、すなわち「生と死」ではないか、と思った。そこが一般の学校の卒業式と根本的に異なるところだ。ここに参列している父兄たちは、言うまでもなく晴れの日を迎えたわが子たちの大いなる未来に期待をかけているだろう。

無事、海上自衛隊の幹部として最後まで職責を全うしてくれることを親たちは祈っている。しかし、激動のこの21世紀に今後30年、40年、日本を取り巻く情勢が平和であってくれる「保証」はどこにもない。

いや、太平洋に覇権を確立しようとしている中国と、まず「尖閣」、その次は「沖縄」をめぐって、どんな形であれ、紛争が勃発する可能性は決して小さくない。その時、最前線に立たなければならないのは、咋日、卒業証書を受け取った彼ら、彼女らである。

私は、これまでの戦争ノンフィクションで、海兵68期から72期の人たちを中心に取材をさせてもらったことがある。その時、これらの期のあまりの戦死者の多さに愕然とした。彼らは、同じようにこの講堂での卒業式を経て、巣立っていった人たちである。

独特の厳粛さが漂うのは、やはり先輩たちが流した血と涙、大海原に消えていった若き命の尊さではないか、と思う。すなわち「命」というものに対する哀惜(あいせき)が、見る者に独特の感傷をもたらしているのではないだろうか。

私は昨日、この伝統の卒業式をそんな思いで見守っていた。そしてその翌日である今日22日に、バシー海峡から奇跡の生還を遂げた元兵士とお会いしたのである。

日本がいつまでも「平和」であって欲しい、と願うのは国民誰もに共通するものである。しかし、その平和を維持するためには「強さ」が必要であることは言うまでもない。

それを最前線で命をかけて示すのが、彼ら、彼女らなのである。呆れるような「空想的平和主義」に基づく幻想論を振りまき、これに寄って立ってきた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)は、今もつづいている。そんな中、日本を守るために毅然と最前線に立とうとする若者たちがいる。

卒業式が終わったあと、目に涙をためながら、私たちの前を敬礼と共に行進し、遠洋航海へ旅立っていった卒業生たち。私は、この若者たちに幸いあらんことを祈らずにはいられなかった。それは同時に、日本の未来の「幸福」を意味するものでもある。

「治に居て 乱を忘れず」――私の頭の中に、この言葉が今日ほど強く印象づけられた日は、かつてなかった。

カテゴリ: 歴史

北朝鮮拉致問題と横田夫妻

2014.03.18

どれほど「長かった」だろうか。横田滋(81)、早紀江(78)さん夫妻が、孫であるキム・ウンギョンさん(26)との面会を果たした17日の記者会見を見て、私は、この夫妻の辛抱と忍耐の凄さをあらためて思い知らされた。

2002年9月、電撃訪朝を実現した当時の小泉首相は、金正日との初の日朝首脳会談をおこない、「日朝平壌宣言」に調印した。金正日は日本人拉致を正式に認め、拉致した日本人のうち「5人が生存、8人が死亡」とした。そして、生存者5人の帰国が実現した。

「死亡した」とされためぐみさんには、15歳になる子供のウンギョン(当時は、「ヘギョン」とされていた)がいることが明らかにされた。しかし、横田夫妻は、あきらめなかった。めぐみさんの不自然極まりない「死亡情報」を認めず、「これで拉致問題は幕引き」とする北朝鮮と真っ向から闘ったのである。

苛立った北朝鮮は、翌月の2002年10月、日本から新聞とテレビ3社を呼び寄せ、「おじいさん、おばあさんに会いたい。どうして私に会いに来てくれないの?」とウンギョンさんに言わせ、揺さぶりをかけた。メディアを通じて、孫に直接呼びかけられた横田夫妻は、すぐにでも飛んでいきたい思いを「堪(こら)えに堪えた」のである。

「もし、会いに行けば、めぐみの死を認めることになる」。夫妻の決意は固く、可愛い孫に会いに行くことを我慢する日々がつづいた。めぐみさんの「死」を既成事実化して、日本との「国交正常化」と「巨額の(戦時)補償」を目論んだ北朝鮮の意図は、こうして横田夫妻の忍耐によって頓挫する。

この間の横田夫妻の揺るぎない姿勢に心打たれた日本人は少なくなかったと思う。「拉致問題の決着」をはかる北朝鮮の戦略に乗らず、「めぐみを必ず日本に連れ帰る」「拉致問題の幕引きは許さず、拉致被害者全員の帰国を実現する」という“大義”を忘れることのなかった夫妻の意志の強さには、本当に頭が下がる。

あれから12年近い歳月を経て、やっと実現した孫・ウンギョンさんとの面会。26歳になったウンギョンさんとの待ちに待った面会でも、やはり横田夫妻は毅然とした姿勢を崩さなかった。北朝鮮に出向くことはせず、面会が実現したのは、モンゴルのウランバートルだったのである。

そして、ウンギョンさんと夫、生後10か月の娘(横田夫妻から見れば、ひ孫)との初めての面会で、夢のような数日を過ごした横田夫妻は、「祖父母と孫として会いたいと思ったことが静かに実現した」と喜びを語ると同時に、めぐみさんの安否に関する話は「特になかった」「行く前と変わらず、分からない」とした。

この面会が「拉致事件の決着」ということに利用されることを、横田夫妻は断乎、拒否したのである。どんなことがあっても、めぐみさんの死を認めたととられる恐れのある発言を夫妻は一切、しなかった。

叔父の張成沢を処刑し、中国からも愛想を尽かれつつある金正恩が、日本へのシグナルとして出してきただろう横田夫妻への譲歩。それでも、一歩も譲ろうとしない夫妻の姿勢を日本の政治家たちは学ぶべきだろう。すなわち、どんな揺さぶりがあろうと、彼(か)の国には、「半歩も譲ってはならない」ということである。

私は、北朝鮮拉致問題ほど、うわべだけの正義を振りかざすメディアや政党に打撃を与えた事件はないと思っている。朝鮮労働党と友党関係にあった当時の日本社会党が、拉致問題でなんの力も発揮せず、それどころか兵庫県出身の有本恵子さんのご両親が社会党に相談にいって、逆に朝鮮労働党にその情報が筒抜けになって有本さんの生命が危機に陥ったことがのちに明らかにされた。

痛烈な「家族会」の批判にあって、衆院議長まで務めた日本社会党の元委員長、土井たか子氏が落選し、政界引退を余儀なくされたことも思い出される。また北朝鮮を“地上の楽園”と讃美し、一貫してこの「凍土の共和国」の応援をつづけた戦後ジャーナリズムの欺瞞(ぎまん)も満天下に晒された。

本当に守るべき“人権”、そして、真の意味の“正義”を考える上で、家族会と横田夫妻が果たした役割は実に大きかったと思う。

「夢が実現した奇跡的な日だった。たくさんの人に感謝している」。12年という気の遠くなる我慢の歳月の末に孫との面会を果たした早紀江さんのこの発言は、毅然と生きようとする日本人と、その将来に大きな勇気を与えるに違いない。

そして同時に、北朝鮮がどんなアプローチをかけてこようと「その戦略に乗ってはならない」ことを改めて肝に銘じよと、横田夫妻は私たちに告げているのではないだろうか。

カテゴリ: 北朝鮮

「震災3周年」ぎりぎりの闘いはどこまで

2014.03.09

昨日、東北新幹線に乗って、この3年間、通い詰めていた「福島」を通り越して青森の弘前まで講演にやってきた。「人づくりフォーラム in弘前」というイベントの講演である。日本人の生きざまと教訓について話をさせてもらった。

弘前といえば、日本の新聞の父と呼ばれる「陸羯南(くが・かつなん)」や、孫文が最も信頼を寄せ、辛亥革命に大きな力を果たした「山田良政・純三郎兄弟」、さらには、満洲国皇帝・溥儀が“忠臣”と称えて尊重した「工藤忠」ら、多くの“傑物”を生んだ土地である。

私自身も若い頃、山田良政・純三郎兄弟の甥にあたる故・佐藤慎一郎翁に中国問題について、いろいろと教えてもらった時期があり、佐藤先生の「故郷・弘前」には、少なからぬ因縁がある。

今回は、2時間にわたって弘前の人を前に講演をさせてもらったので、佐藤先生にいくばくかは恩返しができたかもしれない。

さて、ここのところ、「震災3周年」に向けての記事や番組が洪水のごとく溢れ出している。かくいう私も、本日、『記者たちは海に向かった―津波と放射能と福島民友新聞―』(角川書店)を出版した。

津波で命を落とした若き記者と、そのことで大きな心理的打撃を負う同僚・先輩たち、さらには、新聞発行の危機に立ち向かった新聞人たちの感動的で、かつ凄まじい闘いを描かせてもらった。

なんとか3周年に間に合わせたいと思い、執筆、そして校了作業に没頭し、ブログの更新もできなかった。やっと今日、出版にこぎつけ、さっそく産経新聞に著者インタビューも出してもらった。

震災からの3年。やはり感慨深いものがある。この間、いったいどれほど福島に通っただろうか。もちろん宮城も岩手も行かせてもらったが、私にとっては、圧倒的に「福島」である。

前著の『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』につづき、激震と津波、そして放射能汚染という“複合汚染”に見舞われた「福島」は、私にとって、時が経とうと、避けて通ることができない地なのである。

前著では、福島第一原発の壁の“内側”を描き、今回は壁の“外側”を地元紙の福島民友新聞に焦点を当てて、書かせてもらった。あの放射能とのぎりぎりの闘いで、瓦礫の下で助けを呼びながら息絶えた犠牲者は、1か月以上も捜索の手が入らず、DNA鑑定でしか家族のもとに帰ることができなかったという惨(むご)い運命を辿っている。

その悲劇を記述するたびに、人々の心の奥に残した傷痕の深さを思う。しかし、同時に私はマスコミの報道に疑問も感じている。大名行列のごとく“節目”にだけやって来て、地元の人間への形式的な同情論を口にするテレビ番組に接すると、反発を覚えてしまうのも確かだ。

被災者への多額の補償が今もつづく中、単なる同情論だけではすまない矛盾や問題点があちこちに現われている。今後は、それも地道に報じていかなければならないだろう。3周年は、私にとっても単なる“通過点”に過ぎないのだと、今更ながら肝に銘じている。

カテゴリ: 原発, 地震

「命を守る東京」へ舛添都知事への注文

2014.02.15

舛添要一氏が都知事選で圧倒的な勝利を収めてから、1週間が経った。都民の一人として、舛添都知事には、都民の生活に直結した都政を是非、お願いしたい。

東京は人口過密化による居住環境の悪化が切実で、住人の高齢化による高齢者ホームの問題や待機児童問題など、それこそ難題が山積している。「少子化」をいくら嘆いても、子供を育て、老人が幸せに過ごすことができない環境でそれが「解決」されるはずもなく、これらの大問題に対して、新都知事がひとつひとつをどう解決していくか、注目したいと思う。

その意味で、都知事選の争点が「原発ゼロか、否か」といった“国政問題”になりかかった時、私は都民の一人として「もっと都民にとって切実な問題」を議論して欲しい、と思ったものである。

私は、「命を守る東京」というキャッチフレーズを新知事には掲げて欲しいと思っている。都知事の最大の使命と責任が、「都民の生命・財産」をいかに守るか、というものであることは論を俟(ま)たないだろう。その観点から、是非、都知事に注文したいことがある。

それは、やがて来るであろう「東京直下型地震」への対策だ。数多く注文はあるが、今回は、「瓦礫の下の都民の救出」という観点で注文してみたい。私は、これまで阪神淡路大震災や東日本大震災など、地震取材をやってきた経験がある。

多くの被災者に話を伺っており、実際に瓦礫を前にした経験から、私には思っていることがある。激震によって家屋が倒壊した時、その瓦礫の中から生存者を救出することは極めて難しい。なぜなら、取り除かなければならない家屋の「重さ」は凄まじいものだからだ。

私は、これまでの震災で、自宅の前で「茫然と立ち尽くす」被災者の姿を数多く見た。それは、文字通り、「何もすることができず」、ただ「立っている」のである。崩れた家屋の重さは人間の力でどうこうできるものではない。

たとえ自衛隊員が“素手で”やって来ても、圧倒的な瓦礫の前では、同じように立ち尽くすしかない。この時、主役になるのは、あくまで「重機」である。いわゆる瓦礫や土砂の除去に威力を発揮する“タイヤショベル”だ。

私は東京直下型地震で首都が壊滅的な被害を受けた時、「救出」は自分たち自身でやらなければ、瓦礫の下になった人々の命を助けることはできないと思っている。

それは、東京の人口があまりに多く、エリアも広大すぎるからだ。東京都民は、1329万人もいる。おそらく全国から、あるいは国際的にも数多くの“救出の手”が差し伸べられるだろうが、それでもほとんど自分たちのところにやって来てくれると思わない方がいい。

1329万人という数字は、それほど膨大だ。激震で倒壊家屋の下になった人々を救出するのは、その地区の住民自身であり、そして、それには、「重機が不可欠」なのだ。災害における人命救助の目安とされる「72時間」以内に、残念ながら外部から運ばれてきた重機が自分たちのところにやって来てくれる可能性は「極めて小さい」と言わざるを得ない。

では、どうしたらいいだろうか。それは、日頃から「近くに重機を置いておく」しかないのではないか、と思う。そして、それを動かせる人を住民の中から「登録」しておき、その人たちに防災の日に必ず試運転してもらい、「もしもの時」に備えるのである。

都の建設局の2013年4月の調査によれば、東京には、1万か所を越える数の公園がある。国営公園や都立公園、区市町村立公園が7688か所、区市町村が設置する児童遊園などの都市公園以外の公園も3529か所ある。合わせれば、実に計1万1217か所もの公園が東京には存在するのである。

これらの公園に、タイヤショベルなど重機を置いておくことはできないだろうか。その防災倉庫の中には、もちろんツルハシやスコップもできるだけ置いて欲しいと思う。重機が、1台100万円するなら1万台で100億円、1台200万円なら、1万台で200億円ということになる。

大変な出費には違いないが、「もしもの時」に備えるためなら、きっと都民も賛成するだろう。そして1万台もの重機が“備蓄”されるなら、日本中どこで大きな地震が起ころうと、これらを運べば、沢山の人たちの救出に役立つだろう。オリンピックの施設を建設するだけでなく、こういう災害対策にも、是非、新都知事には頑張って欲しい。

私は、都内の住宅密集地を歩くたびに、「ここが激震に見舞われたらどうなるだろうか」と考えてしまう。そして、これまで取材してきた被災地の悲惨なようすが思い浮かぶ。舛添知事には、是非、「命を守る東京」というキャッチフレーズのもとに、都民の「生命」を第一に考え、そのために手腕を発揮して欲しいと思う。

カテゴリ: 地震

都民は、ついに煽られなかった

2014.02.09

あまりにあっけない結果だった。注目の東京都知事選は、投票が締め切られた2分後、舛添要一氏が「午後8時2分」に支持者と共に「万歳」をするという幕切れとなった。

都知事選は、日本の選挙の中で唯一、“制御のきかない”選挙である。有権者1082万人という想像を絶する規模であり、世論調査なども、ほとんど参考にならない。知名度が最大当選要因と言われる所以である。

それだけに、これほど圧倒的な差がつく都知事選となるのは意外だ。私は多くの国民と同じく細川護煕氏が「どこまで票をとるか」に注目していた。

それは、小泉元総理が、「この戦いは、原発ゼロでも日本が発展できるというグループと、 原発なくしては発展できないというグループとの争いだ」と言って、細川氏を担ぎ出したからである。

つまり、「脱原発」というワン・イシューで小泉氏が細川氏を擁立し、選挙演説でも圧倒的な聴衆を集め、一時はブームになるかと思われたからだ。

しかし、都知事選なのに「なぜ原発なのか」という冷ややかな見方は最後まで払拭(ふっしょく)されなかった。都知事選に原発問題を持ち込んだことに、「都民をバカにしているのか」という声を、私は何人もから聞いた。

東京には、人口の過密化による居住環境の悪化、住人の高齢化による高齢者ホームの問題、待機児童問題など、喫緊(きっきん)の課題がそれこそ山積している。そんな中で、選挙に「原発」を持ち込み、しかも、「この戦いは、原発ゼロでも日本が発展できるというグループと、 原発なくしては発展できないというグループとの争いだ」と“レッテル化”したのである。

今回、細川氏が「3位」に終わるという選挙結果に一番、驚いたのは、その小泉さん本人だったと思う。それは、郵政選挙で成功したワン・イシューのこの選挙手法、つまり、 “レッテル選挙”が「通用しなかった」ことだ。

それは、小泉氏に煽られるほど都民は「愚かではなかった」からだろう。そして、そもそも小泉さんは完全に勘違いしていたことがある。それは原発問題を都民は「それほど単純に見ていない」ということだ。

多くの国民、都民は、将来的には、原発がなくなって欲しいと思っているに違いない。私は、あの福島原発事故の真実を描いたノンフィクション作品『死の淵を見た男』を一昨年上梓した。

あの過酷な事故は、福島の浜通りに生まれ育った現場のプラントエンジニアたちが、命を賭けて、汚染された原子炉建屋に突入を繰り返し、ぎりぎりで格納容器の爆発を回避したものである。

官邸や東電本店からの「海水注入中止命令」にも逆らい、吉田昌郎所長のもとで踏ん張った彼ら福島の男たちがいなければ、日本は実際にどうなっていたかわからない。

つまり、一歩間違えたら、日本そのものが崩壊する危険性を持っているのが原子力エネルギーである。それだけに、「脱原発」ができるなら、本当にありがたいと思う。

だが、現実には、原発がストップした震災以降、液化天然ガス(LNG)の輸入による火力発電に頼らざるを得ず、消費税にして2パ―セント分にあたる年間4兆円近い輸入増によって「円」が外国に流出している事態がつづいている。

震災以降、すでに日本の貿易赤字の累計は「20兆円」を超えている。また火力発電による環境破壊の問題も懸念される。現在、想定されている自然エネルギーでは、「エネルギー問題」を解決できそうもないからこそ、国民は悩んでいるのである。

また、資源小国である日本で、もはや原子力への人材確保が見込めなくなり、安全な「第四世代の原子炉」が生まれる可能性が極めて小さくなったことも残念だ。

そんなエネルギー問題に対して、小泉氏は、「即、原発ゼロだ」「イエスか、ノーか」という“土俵”をつくった。しかし、都民は、そんな単純な土俵には乗って来なかったのである。

その意味で、今回の都知事選は、レッテル選挙で有権者が「煽られないこと」を示した点で、極めて注目すべきものだったと思う。舛添要一氏が都知事に相応(ふさわ)しいかどうかは別にして、この点においては、有意義な選挙戦だったのではないだろうか。

カテゴリ: 政治

ついに“デッドライン”を越えてしまった中国

2014.02.02

「ああ、中国はついに“デッドライン”を越えてしまったなあ」。私は最近、そんな思いがしている。中国というより「中国共産党」と言い換えた方がいいかもしれない。「ついに中国共産党は“デッドライン”を越えてしまったなあ」と。

1月16日付のフランスの「ル・フィガロ」に駐フランス中国大使が「日本の首相の靖国参拝が中国に衝撃を与えた理由」と題し、「ヒトラーの墓に花をたむける人がいると想像してみて欲しい」と批判した。

4日後の1月20日、今度は程永華・駐日中国大使は、四谷にある上智大学の講演会で、靖国参拝について「日中関係にとって致命的な打撃だ。最後のレッドラインを踏み越えた」と言ってのけた。

そして1月29日には、国連安保理の公開討論会で中国の劉結一・国連大使が約50カ国の大使を前に「歴史を変えようとする試みは地域の平和を揺るがし、人類の平和的発展に挑戦するものだ」と日本を激しく非難した。

そして昨日(2月1日)、ドイツで開かれているミュンヘン安全保障会議で、中国全国人民代表大会の傅瑩・外事委員会主任委員が「最も重要なのは日本が第2次大戦の犯罪を否定していること。歴史教育の失敗だ」「日本が大戦で起きたことに誠実に向き合えば、周辺国と和解できる」「(尖閣の)主権は放棄しない」と熱弁を振るったのである。

つまり、中国は、世界に向かって「日本は異常な国である」という発信をしつづけている。私は、戦後一貫して平和の道を歩んできた日本を、ここまで罵る中国(中国共産党)の姿を見て、「ああ、これでもう中国共産党はデッドラインを越えてしまった」と思ったのである。

それは、日本人がもう中国(正確には、中国共産党)のご機嫌をとったり、へり下ったりする必要はなく、向こうから近づいて来ないかぎり、「相手にしなくていい」存在になったということである。

前回のブログで私は、中国に初めて行った頃の“日本人に優しい中国人”のことに触れさせてもらった。日本人に敬意を持ってくれて、優しく接してくれたあの頃の中国人が、私は懐かしい。

いちいちエピソードを挙げればきりがないが、1982(昭和57)年に初めて訪中し、1か月半も北京で暮らした私は、その後、90年代半ばまで毎年のように中国に行き、優しく好意的な中国人に数多く出会った。

いろいろ相談に乗ってもらったり、力を貸してくれた底抜けに人がよかった中国人を私は数多く知っているし、今も感謝している。しかし、これまでブログで繰り返し書いてきた通り、90年代の江沢民時代からの徹底的な「反日教育」は、今の30代半ば以下の中国人を「日本は憎悪の対象」としか見ない人間にしてしまった。

「教育の失敗」というのなら、本当に中国は“歴史的な”教育の失敗を犯してしまったと思う。鉄は国家なり、の言葉があるが、日本人は、中国の粗鋼生産など、インフラを整備させるためにとことん尽力し、そして、有償無償、さらに民間を合わせると総額6兆円を超える対中援助をおこなってきた。しかし、いまその私たち日本人に対して「おまえたちの役割は終わった」として、中国共産党は日本と日本人を“切り捨てた”のである。

私は、靖国参拝を「ヒトラーの墓に花を手向けることだ」と世界に向かって公言した中国共産党に対して、日本人は怒りを表現していいと思う。

靖国は、明治2年に「東京招魂社」としてスタートし、吉田松陰をはじめ、ペリー来航以来の国事殉難者およそ250万人の魂を御祭神とする。私の郷土の先輩でもある坂本龍馬も、中岡慎太郎も、武市半平太も、その中に入っている。

太平洋戦争において、子孫を残すこともできず無念の思いを呑んで死んでいった若者たちをはじめ、気の遠くなるような数の魂が祀られている神社でもある。

国の礎となって死んでいった先人たちに、後世の人間がその死を悼み、感謝の気持ちを伝え、「これから、皆さんのように無念の思いで死んでいく人が出る世の中にならないよう誓う」のは大切なことだと私は思う。先人の労苦に頭(こうべ)を垂れることは「人の道」としてあたりまえの行為だからだ。

しかし、これを「ヒトラーの墓に花をたむけること」と中国は言ってのけた。極端な言い方をすれば、「坂本龍馬をはじめとする250万人の国事殉難者」は、「ヒトラーである」と、中国に言われたのである。

後世の日本人が、国のために死んでいった先人を悼む行為を「なぜ、ここまで悪しざまに言われなければならないのか」と思うのは自然の感情だろう。

私は、多くの日本人と同じく、ここまで内政干渉、すなわち日本人の精神文化にまで干渉されることに「ノー」と言いたい。しかし、別に、彼(か)の国と同じレベルに立って、「ことを荒立てる必要はない」と思う。

ただ、これまでも繰り返し主張してきたように、中国とは「距離を置く」ことを考えて欲しい。つまり、経済的な関わりをできるだけ少なくしていって、日本人は、“脱中国”の姿勢とスピードを顕著にすべきだと思う。

あの巨大な中国市場をあきらめることは、たしかに日本の企業にとって、これほど苦しいことはないだろう。しかし、是非、そうして欲しいと思う。多くの国事殉難者をヒトラーと称して非難する国に、少なくとも膝を屈してまで商売することはやめて欲しい。

その意味で、日本経済は「臥薪嘗胆」の時代が来たと思う。要するに、“我慢比べの時代”が来たということだ。しかし、これは永遠につづくわけではない。中国共産党が、「そこまで日本は怒っているのか」と思うまで、臥薪嘗胆をつづけようということである。

中国は、よく「面子(メンツ)の国」と言われる、しかし、それより明確なのは「功利の国」だということである。自分たちが損をすることがわかっていて、それでも面子を押し通す国柄ではない。そのあたりは、“武士は食わねど高楊枝”という日本人とは根本的に異なるのである。

中国の人権活動家、胡佳(こか)氏が、つい1月26日、北京市公安当局に一時、身柄拘束された。胡氏は拘束前、別の人権活動家への有罪判決やウイグル族学者の連行をネットで取り上げたことにより、「身柄拘束された」と見られている。

昨年7月に身柄拘束されて以来、半年間も“思想改造”を受けたとされる朱建栄・東洋学園大学教授は、この1月17日になって、やっと解放された。中国の思想弾圧と人権抑圧は、国際人権救済機構「アムネスティ(Amnesty International)」の大きな懸念であり、課題になっている。

その国が、日本に対して、ここまで苛烈な内政干渉を強めている。日本は、経済で自らの“怒り”を表わせばいいだろうと思う。いや、それしか方法はないのではないだろうか。戦後一貫して「自由」と「民主主義」を追及してきた日本が、中国にここまで言われる情けなさと愚かさを日本人は噛みしめるべきだろう。

私は、日本を非難している「中国」とは、「中国共産党独裁政権」であり、反日教育を受け続けた30代半ばより若い世代が中心であることを忘れてはいけないと思っている。

もし、日本人が怒りを向けるなら、それは中国人に対してではなく、「中国共産党独裁政権に対して」であることを忘れてはならないという意味である。なぜなら、胡佳氏をはじめ、多くの中国人が今も独裁政権下で弾圧を受けつづけている。自由に物も言えない社会で彼らは暮らしているのである。

あの独裁政権が、中国人民に対して向けている高圧的で自由圧殺の姿勢を、「中国人民」だけでなく、「日本」に対しても向けてきたのだ。私は、彼ら中国人民も同じように中国共産党の迫害を受けている人たちであることを覚えていて欲しいと思う。

最近、私は講演をする度に、「門田さんは、中国への厳しい指摘が多いですね」と声をかけられることが多い。そういう時、私は、「はい。私は本当の意味の“親中派”ですから」と答えている。

日本の「親中メディア」は、中国共産党独裁政権にひれ伏しているのであって、それが「親中だ」と完全に勘違いしている。私は自分が若い頃、いろいろ助けてもらった中国人のことを今も時々、思い浮かべる。

文化大革命の地獄の十年を耐え抜き、日本人にも敬意と尊重の気持ちを忘れず、底抜けに人がよかったあの頃の中国人に、なんとか幸せでいて欲しいと思う。彼らのことを心底案じている点で、私は本当の意味での“親中派”だと思っている。

すなわち臥薪嘗胆をつづけたあとの日本人は、共産党独裁政権下で苦労し、迫害を受けている中国人たちになんとか手を差し伸べて、いつかは真の意味の「日中友好」を成し遂げて欲しいと思うのである。

カテゴリ: 中国

日本人はそこまで「憎まれる」べきなのか

2014.01.29

3月出版予定のノンフィクションの執筆で年明け以降、徹夜がつづいていた。やっと脱稿した。400字原稿用紙にして、およそ500枚。私の作品は、だいたい600枚以上が普通なので、今回はやや少ない。

この1か月、寝ても覚めても書きつづけ、ついに脱稿までこぎつけた。『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』に次ぐ、福島を舞台にしたノンフィクション第二弾である。

今回は、激震、津波、放射能と発展していった未曾有の「複合災害」で存続の危機に立った地方紙を舞台にした人間ドキュメントだ。ご期待いただければ、幸いである。

原稿に没頭していたため、ブログの更新もままならず、「おい、どうした?」と声をかけてくれる人もいた。ありがたいことだが、人間には能力というものがあり、その限界は超えられない。徹夜がつづくと、どうしてもブログ更新に手がまわらないのである。

さて、今日、パソコンを開いたら、興味深いニュースに出会った。『Record China』から配信されたひとつの話題である。『Record China』は“レコチャイ”と呼ばれ、中国関連のニュースや話題を日本語で配信するところだ。時々、おもしろい話題が出るので、私はよく読ませてもらっている。

本日、配信されたニュースにこんなものがあった。それは、中国人のネットユーザーが〈私が恨むべき日本はいったいどこにあるの?〉と題するコラムが、中国のインターネット上で話題となっていることを報じたものだ。

その内容は、いくつかの点で興味深かった。このブログを書いた中国人は、仙台の東北大学で勉強をした人だそうだ。その時、「日本の子どもたちと交流する機会を持った」という。中国人には、日本人に対してわだかまりがあり、日本人と言うのは「憎むべき人間」という意識を植えつけられている。それを前提に、以下の引用させてもらう原文を読んで欲しい。

〈しかし実際、彼らは清潔で礼儀正しく、とても純粋で嫌いになれるような人物ではなかった。私が憎むべき「日本」は仙台にはない。私が憎むべき「日本人」は彼らであろうはずがない。しかし、“あの”日本はいったいどこにあるのか?
 よく「日本に行ったことがある中国人は、日本への印象が変わる」といわれるが、私にとってはまさにその通りだった。彼らの礼儀正しさなどはもちろんそうだが、私が気付いた最も重要なことは、彼らも「人」であるということだ。
 おかしな話かもしれないが、私は日本を訪れる前、日本には変態侵略者のキャンプがいたる所にあると思っていた。しかし、実際は我々と同じように静かに暮らす人々がいるだけだった。彼らも私たちと同じように、両親がいるし、子どもがいる。恋愛もするし、失恋もする。喜んだり悲しんだりもする〉

以上が、まず前段である。私は、1982(昭和57)年から、もう30年以上も中国の変化を見つづけているが、このコラムは非常に興味深い。まず耳目を引くのは、「私が憎むべき日本人」という見方である。中国で江沢民時代に始まった反日教育は、普通の中国人に、そこまで憎しみを抱かせているという点だ。

私が最初に中国に行った1980年代前半、中国は文革の後遺症に喘ぎ、国全体が疲弊してはいたものの、人々はなんとか少しでも貧しさから抜け出そうと考え、日本人にも敬意を持って接してくれた。「軍国主義と今の日本人は違う」という鄧小平の教えが徹底されていたからでもある。

少なくとも、その頃は「私が憎むべき日本人」という見方はなかった。だが、その後の江沢民時代に、日本と中国との信頼関係が徹底的に破壊された。引き金を引いたのは、皮肉なことに日本のメディアである。朝日新聞が、それまで何も問題にされていなかった靖国参拝を外交問題化し、中国の『人民日報』を使ってまで、反対の大キャンペーンをおこなう論陣を張った。1985(昭和60)年8月のことである。

中国は、これをきっかけに靖国参拝を外交カードとして利用するようになり、やがて江沢民の登場で、苛烈な反日路線を展開するようになった。国全体が「反日」に染まり、徹底した反日教育によって、日本人というのは、「憎悪すべき存在」ということが植えつけられていくのである。

そして、上記のコラムの中にある〈私が気付いた最も重要なことは、彼らも『人』であるということだ〉というところまで来たのである。日本人は、もはや「人ではない」ほど憎まれているわけだ。私は、日本人に好意的だったかつての中国人を思い出しながら、このコラムを読んだ。

そして、この筆者による〈私は日本を訪れる前、日本には変態侵略者のキャンプがいたる所にあると思っていた〉という部分で、思わず笑ってしまった。そして、同時に哀しくなった。そこまで、「日本人を“人間”だと見てはいけない」という考え方が、中国では蔓延しているのである。コラムはこう続いている。

〈(自分の見る日本人は)小さい子どもが泣きながら母親に甘えていたり、女学生が手をつないで歩いていたり、サラリーマンが険しい顔でたばこを吸っていたりする姿を見ていると、「自分たちと何ら違いがない」という実感に包まれる。彼らの祖先が中国に悪いことをしたからといって、彼らがその罪をかぶらなければならないのか? 彼らの幸せは奪われるべきなのか? そんな道理はあるはずもない。
 中国では日本について、まるで奇怪な場所であり、宇宙人が住む街であるかのように紹介されている。彼らは日本に行ったことがないと思われる。彼らにとっての日本は地図の上の1ピース、ニュースの中のたった2文字に過ぎない。
 たとえ誰かから批判されても、これだけは言いたい。私が出会った日本人はみな素晴らしかった。日本社会には文明と秩序が根付いている。私はそこで温かい援助を受け、心からの笑顔を見た。私は日本でばかにされたと感じたことはなかった。自分の生活がしっかりしていれば、他人を恨む必要はないのだ。自分が他人を尊重すれば、他人も自分を尊重してくれる。日本に対する“妄想”は日本に行ってなくなった〉

この中で、〈中国では日本について、まるで奇怪な場所であり、宇宙人が住む街であるかのように紹介されている。彼らは日本に行ったことがないと思われる〉〈(自分は)日本に対する“妄想”は日本に行ってなくなった〉というものに、溜息をつく日本人は多いのではないだろうか。

匿名の、さらにネット上のコラムに一喜一憂する必要もないかもしれない。しかし、これが中国のネット上で話題になっているなら、それも興味深い。30年以上前から中国に行っている私は、ここまで「反日教育」を人民に繰り返した共産党政権に対して、本当に溜息が出る。

素朴な人が多く、底抜けに親切にしてくれた80年代初めの中国人は、どこに行ってしまったのだろうか、と思う。中国人は、一方に走り出したら、もう歯止めはきかない。あの狂気の文化大革命を見れば、わかる。年配者であろうと、功労者であろうと、徹底的に貶め、辱め、葬り去った狂気をあの国と人民は持っている。

その国が、これほどの憎悪を日本に抱き、さらにそれを増幅しつづけていくことに、日本に本当に友好的で素朴だった「あの頃」を知っている私には、哀しさと寂しさしか、こみ上げてこないのである。

そして、このコラムが書くように〈彼らの祖先が中国に悪いことをしたからといって、彼らがその罪をかぶらなければならないのか? 彼らの幸せは奪われるべきなのか?〉という部分に改めて恐怖する日本人は少なくないだろう。彼らが日本に向けた核ミサイルを多数、保有する国であることを忘れてはならない。

カテゴリ: 中国

「靖国参拝」から見る“マスコミ55年症候群”

2014.01.07

今日は、時事通信と内外情勢調査会の恒例の「新年互礼会」が午後5時から帝国ホテルであった。私は、講師として内外情勢調査会で講演をさせていただいているので、今年も顔を出させてもらった。

会場に入っていったら、すでに安倍首相のスピーチが始まっていた。今日は元赤坂の迎賓館で来日中のトルコのエルドアン首相との首脳会談があるはずだ。その直前にわざわざ帝国ホテルまで恒例の首相スピーチをしに来たようだ。首相は、立錐の余地もない富士の間の聴衆に、「経済」を強調するスピーチをおこなった。

「経済最優先で、日本の経済を力強く、さらに成長させていきたい」「やっと掴んだデフレからの脱却のチャンスを絶対に手放すわけにはいかない」「賃金の上昇が更なる消費の拡大につながる。これで企業の収益がアップし、更に設備投資にもまわっていく。すなわち経済の好循環を実現できる。今度の通常国会は、好循環を実現するための国会としていきたい」

話題の「靖国参拝」には触れず、ひたすら経済をさらに回復させていくことを安倍首相は強調した。時にユーモアを交えて会場から笑いをとり、10分近く首相はスピーチした。

私は、昨年とは随分違うなあ、と思った。政権発足直後だった昨年の新年互礼会では、「大型の補正予算の一日も早い成立と執行が最大の景気対策。野党には是非、協力してもらいたい」と大いに意気込んでいた。気負いがそのまま聴く側に伝わってきたものである。

しかし、安倍政権は、2013年の株価を1年間で56・7%も上昇させることに成功した。デフレからの脱却を、公約通り、実現させつつある。今日の挨拶には、そのことへの自信が溢れていたように思う。

昨年のスピーチを「気負い」という言葉で表わすなら、今年は「余裕」だろう。私は、会場でスピーチを聴きながら、そんなことを考えていた。

そして、私は、この自信が年末(12月26日)の靖国参拝につながったことを想像した。「この首相の自信が、中国と韓国をいかに恐れさせているだろうか」。思わず、私はそこまで考えてしまった。

国民の大多数は、すでにわかっているように、中国と韓国は、日本が何をやっても、日本への非難はやめない。それでしか、それぞれの国内での反発を抑えられないからだ。小泉首相の最後の靖国参拝以来、日本の折々の首相は、7年間も参拝を回避したが、それで中国や韓国との関係は少しでも改善されただろうか。

そんなことは全くない。どんなことをしても、日本への憎悪を政権の糧(かて)とする中国・韓国の非難は収まることはないのである。

いまマスコミに衝撃を与えているのは、靖国参拝の国民からの支持が6割から7割に達している、ということだ。調査結果の中には、実に「8割」を超えているものもある。今日の会場では、その話に花を咲かせている人もいた。

マスコミ各社は、あれだけ力を入れて首相の「靖国参拝」を叩いたのに、なぜこれほどの支持を受けているのか、おそらく理解できないのではないか、と思う。

それは、私は、“マスコミ55年症候群”のせいだと思っている。マスコミ55年症候群とは、私の造語だが、要は、保守合同と社会党の左右再統一でできたいわゆる「55年体制」というのが、恐ろしいことにマスコミには、まだ「続いている」のである。

マスコミ以外の人には理解できないかもしれないが、日本社会党が消滅した1996年以降も、また自民党が単独では政権が維持できなくなり、公明党との連立をしなければいけなくなって以降も、マスコミの中は、いまだに「55年体制」がつづいている。これは、その思考法において、という意味である。

つまり、マスコミでは、いまだに55年体制における左右の「イデオロギー」が、判断基準なのだ。もっと簡単に言えば、「右か」「左か」、つまり「右翼か」「左翼か」ということだ。

そんな判断基準は、国民の間ではとっくに終わっている。靖国参拝を支持している国民は、別に右翼ではない。普通の国民である。普通の国民は、ペリー来航以来、吉田松陰や坂本龍馬を含む国事殉難者およそ250万人の魂を祀った神社に、後世の人間や国家のリーダー(今は安倍首相)が参拝に行くことは、何もおかしいものだとは思っていない。

なぜなら、国のために子孫も残さないまま若くして無念の思いを呑んで逝った先人たちのお蔭で、「今の平和と繁栄がある」という感謝の気持ちの大切さを知っているからである。例えば、太平洋戦争の主力となった大正生まれの若者は、実に同世代の7分の1にあたる200万人が戦死している。

その人たちの魂に対して、後世の人間が感謝の気持ちを捧げ、頭(こうべ)を垂れることは、当たり前のことであり、他国にとやかく言われるものではない。それは、「右翼」「左翼」などと、左右の判断基準であれこれ言えるものでは「ない」のである。

つまり、国民は、55年体制の基準などからは、とっくに脱却している。先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛するのは、どう考えても日本人にとって“普通のこと”である。しかし、それが、“マスコミ55年症候群”にかかればたちまち「右翼」とされてしまうのである。

この症候群の特徴は、左右のイデオロギーという唯一の判断基準しか持たないため、靖国参拝をする人やそれを支持する人は、「戦争をしたい人」であり、「国家主義者」であり、「右翼」とされてしまう。彼らがレッテル張りばかりするのは、判断基準がひとつしか存在しない、その症候群のせいである。

ベストセラー『永遠の0』の作者、百田尚樹さんは、よく「右翼だ」と批判されている。私は雑誌で百田さんと対談もしたことがあるが、彼はもちろん右翼などではない。先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛する普通の人である。

それを右翼という表現しかできない“55年症候群”の人が、マスコミ以外にも少なくない。そして、その人たちは盛んに自分と考え方の異なる人にレッテル張りをおこなっている。彼らにとっては、靖国参拝支持者の多さは、日本国の「右傾化」としか捉えられないのである。

今回の世論調査でわかったことは、そんな左右の判断基準を国民はとうに「超えている」ということである。マスコミも、左右のイデオロギーを唯一の判断基準にする“55年症候群”から、早く解き放たれたらいかがだろうか、と思う。そして私も、先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛する人間でありつづけたいと、心から思う。

カテゴリ: 政治, 歴史

激動の2014年で問われる「意識」

2014.01.04

2014年が明けた。このお正月も締切が迫る単行本執筆に明け暮れた。そんな中で、ほっと一息、つかせてもらったのは、いつもの箱根駅伝である。

今年も、年明けに相応しいアスリートたちの激走を見せてもらった。王者・東洋大学が「その1秒を削り出せ」というスローガンの下に、一人一人が「1秒」を縮めていったさまが圧巻だった。

設楽兄弟という大学陸上界を代表する二枚看板を擁しながら、今シーズンは出雲、全日本とも駒澤大学の後塵を拝し、2位。大会前、優勝候補の筆頭は、言うまでもなく駒澤で、東洋はチャレンジャーの立場にあった。

しかし、総合力で引けを取らない東洋がどう巻き返すか、注目を集めていた。その東洋のスローガンが「1秒を削り出せ」だった。

勝つための努力は、どのチームもしている。しかし、土壇場で発揮される底力は、単なるアスリートとしての能力だけでは、はかれない。野球でいえば、“球際(たまぎわ)の強さ”という言葉で形容される勝負強さがそれである。

59秒差で復路に挑んだ駒澤は、9区にエース窪田忍を配していただけに、「逆転」に少なからず自信を持っていただろう。しかし、それを打ち砕いたのが、窪田が登場するまでに差を3分40秒に広げた東洋の6、7、8区の快走だった。

6区・日下佳祐が区間4位の走りで1分17秒まで駒澤との差を広げると、7区・服部弾馬、8区・高久龍の連続区間賞で、どんどん差を広げていったのである。

これで勝負は決した。それぞれが「1秒を削り出す」走りとは、こういうものか、と思わせてくれた。意欲ある強豪校が力を伸ばし、一方で伝統校が闘争心を失い、転落していくのが勝負の世界というものだが、東洋には昇竜の勢いがあった。雪辱を期す駒澤との来年の激突が今から楽しみだ。

私は、勝負の世界の厳しさを毎年、お正月に見せてもらって気持ちを新たにする。2014年は、間違いなく激動の年になるだろう。

前回のブログで書かせてもらった安倍首相の「靖国参拝」は大いに反響があった。この年末年始、あちこちで、私のブログへのご意見をいただいた。

私は、「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人を祀った神社に、先人の労苦と努力に思いを馳せ、後世の人間が感謝の気持ちを捧げるのは、当然のことだと思っている。アメリカではアーリントン墓地へ、中国では八宝山革命公墓へ、また韓国では毎年6月6日が「顕忠日」であり、戦没者・殉国者に敬意を払う日となっているのはご承知の通りだ。

無念の思いを呑んで、子孫も残さずに多くの先人が亡くなっていったのは、どの国にもある「歴史的事実」である。日本では、大正生まれの男子は、同世代の7分の1にあたる実に「200万人」が戦死している。それは、どの家族にも辿れば戦没者が「必ずいる」と言われるほどの数だ。しかし、日本では、こうして亡くなっていった先人たちに頭(こうべ)を垂れることすら干渉され、非難されている。

なぜ、どの国でもおこなわれていることが、日本だけ許されないのだろうか。これは、1985(昭和60)年に当時の中曽根康弘首相が掲げた「戦後政治の総決算」を打ち砕くために、同年7月から8月にかけて朝日新聞が靖国参拝反対の大キャンペーンを張り、“禁じ手”である『人民日報』を動かして非難の社説を書かせたことを嚆矢(こうし)とする。

靖国参拝は、朝日新聞のこの“禁じ手”によって国際問題化されたのである。それまで参拝やA級戦犯の合祀について、ひと言もモノ申したことがなかった中国が、85年以降、これを外交カードに使えることを学習し、それに韓国が追随を始めたのが、いわゆる「靖国参拝問題」なのである。

「強制連行」という朝日新聞の誤報から始まった従軍慰安婦問題といい、私は、日本のひとつのメディアによって、ここまで「日本と日本人が貶められていること」に疑問を感じる一人である。このために、日本の若者が現在も、そして将来も、国際舞台で、どのくらい不利益を被(こうむ)るかを考えると、どうしても深い溜息が出てくるのである。

朝日新聞をはじめ中国・韓国と主張を一(いつ)にする日本のメディアは、年末におこなわれた各種の世論調査で、安倍首相の靖国参拝に賛成する人が6割から7割を占めたことに衝撃を受けただろう。

先人を敬い、家族と故郷を愛し、日本と日本人を愛することは自然の感情である。そのことを「いけない」と主張するマスコミや言論人が靖国参拝問題では圧倒的だったが、一般の人々は、まったくその影響を受けなかったことになる。

私は、言論の「根拠」を見極める時代が来た、と思っている。インターネットの普及によって、これまで「情報」と「意見」を独占してきたメディアの欺瞞(ぎまん)が暴かれつつある。その意味で、2014年は間違いなく激動の年である。それぞれが自分自身で独自の見解を「根拠をもって」構築することが、今ほど大切な時はない、と思う。

カテゴリ: スポーツ, 政治

安倍首相「靖国参拝」と映画『永遠の0』

2013.12.26

一昨日、映画『永遠の0』を観た。いま人気絶頂の俳優、岡田准一が扮する零戦搭乗員「宮部久蔵」の家族と祖国への思いを描いた作品である。百田尚樹さんの原作に勝るとも劣らない力作だった。私は、邦画史上に残る最高の傑作だと思った。

残してきた妻と幼い娘のために「自分の命を惜しんでいた」宮部少尉が、最後は自ら進んで特攻に赴き、後輩に自分の妻と子を見守ることを託す“壮絶な生きざま”を描いた映画である。

映画館には、戦争も、まして特攻のことも知らない若いカップルが数多くいた。途中から館内にすすり泣きが聞こえ始め、映画が終わった時には、拍手する観客もいた。珍しいシーンだった。

生きたくても生きることができなかったかつての若者の姿に対して、現代の若者が涙を流す――私は、そのシーンに強烈な印象を持った。それと共に、拙著『太平洋戦争 最後の証言―零戦・特攻編―』で取材させてもらった元零戦搭乗員たちの姿と証言が、宮部久蔵と重ね合わさった。

そんな思いを綴っていたら、いま安倍首相の靖国神社参拝のニュースが流れてきた。「ああ、やっと参拝したのか」。私は、そう思った。そして、安倍首相のコメントがどんなものになるのか、注目した。私の耳に残ったのは、以下の二つの部分だった。

「私は、(本殿だけでなく)同時に靖国神社の境内にあります鎮霊社にもお参りをしてまいりました。鎮霊社には、靖国神社に祀られていない、すべての戦場に斃れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて、すべての戦場で斃れた人々の慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りをいたしまして、戦争において命を落とされたすべての人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして、二度と再び戦争の惨禍によって、人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」

「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福をお祈りをし、そしてリーダーとして(その方々に)手を合わせる。このことは世界共通のリーダーの姿勢ではないでしょうか。これ以外のものでは全くないということを、これから理解していただくための努力をしていきたいと考えています」

私は「諸外国の人々も含めて、すべての戦場で斃れた人々の慰霊のため」という部分と、「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福」を祈ったという部分が耳に残った。

それは、『永遠の0』で描かれた宮部久蔵の姿を観たばかりだったからかもしれない。そして、同時に、これから巻き起こる中国と韓国の反発と、これに呼応した日本のマスコミの非難の大合唱のありさまを想像した。

日本では、戦場で若き命を散らしていった先人に対して、後世の人間が頭(こうべ)を垂れ、感謝の気持ちを捧げるという当たり前のことが中国や韓国という隣国の干渉によって、胸を張ってできない「不思議な国」である。

吉田松陰ら「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人の霊を祀った神社に行くことが憚(はばか)られ、中国・韓国の代弁者となってそれを非難するメディアが日本には、数多く存在する。いや、その方が圧倒的と言っていいだろう。

私には、どんな思いで戦友が散っていったかを語る大正生まれの男たちに会い続けた時期がある。玉砕の戦場から奇跡的に生還した元兵士たちの姿を戦争ノンフィクションとして残すためである。

子孫を残すこともできず、戦場に散っていった戦友たちの無念を語る老兵たちの姿は鬼気迫るものがあった。それだけに「二度と再び戦争の惨禍によって、人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」という首相の言葉が胸に響くのである。

「死ねば、神であり、仏」というのは、日本独自の文化である。「死者に鞭(むち)打つ」という言葉通り、死体を引っ張り出してきてまで「鞭を打つ」中国とは、日本は文化そのものが根本的に異なる。

私は、これまで中国人や韓国人と何度も靖国論争をしたことがある。その時、気づくのは、彼らが靖国神社について「何も知らない」ということである。

前述の通り、靖国神社は、吉田松陰ら「安政の大獄」以来の国事殉難者およそ250万人の霊を祀った神社である。当初は、「東京招魂社」と呼ばれ、この中には、維新殉難者として、私の郷土・土佐の先輩である坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太なども祀られている。

しかし、彼らは靖国神社を「戦争を礼賛する施設」あるいは、「A級戦犯を讃える神社」としてしか知らない。彼らが決まって口にするのは、「では、あなたはヒトラーを讃える宗教施設にドイツの指導者が赴くことを認めますか?」というものである。

その度に、私は、東京招魂社以来の歴史と、国事殉難者250万人の説明をさせてもらう。そして、「亡くなれば神となり、仏となる」日本の独自の文化について話をさせてもらう。

驚く中国人や韓国人も中にはいるが、大抵は、「いや、靖国は軍国主義を礼賛し、戦争指導者を讃え、戦争をするための施設だ」と言い張ってきかない。

私は、「その国独自の文化」の意味と、無念の思いを呑んで死んでいった人々のことを話させてもらうが、もはや耳を傾けてはくれない。この時、最後にいつも私が言うのは、例えば、中国人に対しては「八宝山革命公墓」のことである。

北京の中心を東西に貫く長安街通りを天安門から「西単(シータン)」を通り過ぎ、延々と西に進めば、やがて「八宝山革命公墓」に辿りつく。戦争で命を落とした兵士たちが葬られている墓地である。

ここには、抗日戦線、あるいは、国共内戦などで戦死した人々が数多く眠っている。言うまでもなく、中国で国の指導者となった人物が必ずお参りにくる地である。

革命公墓の中には、日本人が虐殺された「通州事件」や「通化事件」などにかかわった兵士たちも、もちろん入っている。しかし、日本人は、そのことについて非難したりはしない。

なぜなら、それはその国、独自の文化だからである。どう先人を追悼し、感謝の気持ちを捧げるかということは、干渉してはならない高度に精神文化に属するものであることを、少なくとも日本人は知っている。

私の伯父は前述の「通化事件」で殺された犠牲者の一人だが、中国の指導者が革命公墓にお参りすることに干渉したり、非難の声をあげたりはしない。

それが、お互いの国の文化を尊重する基本的な人間の姿だと思うからだ。だが、そんな常識は、おそらく中国や韓国には通じないだろう。彼らの側に立つ日本のマスコミによって、ただ中国や韓国の反発が増幅されて日本人に伝えられるだろう。

愛する人のもとに帰ることができなかった無念の思いを呑んだ若者、すなわち、「宮部久蔵」が数多くいたことに思いを致し、彼らに尊敬と感謝を捧げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さない思いを新たにしてくれる若者が一人でも増えることを願うばかりである。

カテゴリ: 歴史

歴代天皇3位の長寿となった今上天皇

2013.12.24

昨日、天皇陛下が、歴代天皇3位の長寿となる80歳を迎えられた。長い天皇家の歴史で、歴代3位の長寿になられたというのは、喜ばしいことだと思う。

10年前の2003(平成15)年に前立腺の摘出手術、昨年には心臓手術を受け、癌治療のために、ホルモン療法もつづけておられ、副作用の骨粗鬆(こつそしょう)症と闘っておられるという報道の中での傘寿(さんじゅ)である。

年齢が高くなるにつれ、肉体に衰えが出てくるのは自然の摂理だ。会見に臨まれた陛下のお顔は、やはり病魔と闘っていることを示す浮腫(むく)みがあるように思えた。しかし、昨日の記者会見で、陛下はゆっくりとこう述べられている。

「喜ばしいこと、心の痛むこと、さまざまなことのあった1年でした。東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で、今年は大きな台風が大島を襲い、また、少なからぬ地方が風水害の被害に苦しみました。このような中で、東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています。私どもは、これからも被災者のことを思いつつ、国民皆の幸せを願って、過ごしていくつもりです」

私はこの中で、「東日本大震災の復興がいまだその途上にある中で」と「東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています」という言葉に、陛下の日頃のお気持ちが表われているような気がした。

私には、陛下の子供時代からご結婚、そして天皇の地位について以降のことを書かせていただいた『神宮の奇跡』という本がある。

その中で、8年前(2005年)のサイパン訪問の際のことを書かせてもらっている。米軍に追い詰められて多くの民間人が身を投げたバンザイ・クリフを訪れ、陛下は皇后の右腕を支えながら、岸壁に近づき、お二人で姿勢を正して頭を下げ、じっと黙祷をされた。それは、15秒ほどの時間だっただろうか。

若き日のお二人を軽井沢で結びつけるキューピット役となった陛下の学習院時代の後輩が、このシーンを私にこう語ってくれたのが印象的だった。「そのうしろ姿に私は感銘を受けました。お二人が、長い間、なさろうとしていたことは、まさにこれだったんだとあの時、初めて気づきました」。

拙著にそのことを書かせてもらったが、私はそれ以降、東日本大震災をはじめ、国民に苦難がふりかかる度に、老いが目立つ両陛下が被災地を訪問され、必死に被災者を励まされる姿が目に焼きつくようになった。

今月、陛下の幼稚園時代からの幼な馴染であり、学習院の馬術部でも共に過ごした親友である明石元紹さん(79)が、『今上天皇 つくらざる尊厳』(講談社)を出版された。

明石さんは、拙著『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡―』の主役の一人でもあり、日頃、親しくさせてもらっている。この明石さんの本の中に、印象深い一節がある。それは、終戦後、疎開していた日光から、11歳の明仁殿下(今上陛下)が帰ってきた時のことである。

「殿下も罹災者だった。青山の東宮仮御所が焼けたのである。殿下は、たった三日だったが、皇居に泊まった。朝から晩まで、ご両親と一緒の三日間であった。このときのご両親との水入らずのわずかな時間が、のちの殿下の心に大きな決意を齎(もたら)したのではないかと想像する」(一部略)

幼な馴染でなければわからない“変化”が、それ以降の明仁殿下に生まれていたのだろう。明石さんならではの記述である。先の「バンザイ・クリフ」での行動、あるいは、「東日本の被災地には、厳しい冬が訪れようとしています」というお言葉も、明石さんが書く「殿下の心に大きな決意を齎した」というものの延長線上にあるような気がする。

私は、陛下の傘寿の会見を見ながら、世界で唯一、これほど長きにわたって「最長・最古」の皇室を守り、「天皇(Emperor)」という地位そのものを守ってきた“日本人”というものに改めて思いを致さざるを得なかった。

どの国でも歴史を見れば、時の権力者は、君主家を滅ぼし、権威に「とって代わろうとする」ものである。しかし、日本人は、気の遠くなるような長い時間、皇室を守ってきた。

それは、日本人が、なにより「秩序と道徳」、そして「伝統」を重んじる人々であることを示している。その意味で、天皇とは、日本人の誇りを象徴するものであるのかもしれない。傘寿の記者会見を見ながら、私はそんなことを考えていた。

カテゴリ: 歴史

北朝鮮「張成沢処刑」が意味するもの

2013.12.13

ついに北朝鮮ナンバー2の張成沢氏が処刑された。12月8日、朝鮮労働党中央委員会の政治局拡大会議で、張氏が「党内で派閥を形成するために悪辣に動いた」という理由によって、すべての職務を解任され、党から除名されることが決定していた。

北朝鮮の各メディアが、名前を呼び捨てにした上で、議場から連行される張氏の写真を報じ、さらに、朝鮮中央テレビが「張成沢は、権力を乱用して、不正・腐敗行為をし、複数の女性と不適切な関係を持って、高級食堂の裏部屋で、飲み食いをしてきた」と激しく弾劾したことで、処刑は「時間の問題」と見られていた。

それでも、叔父である張成沢氏を「本当に処刑できるのか」という観測が内外のメディアにはあった。しかし、有無を言わせず、金正恩は自分の「叔父の命を奪った」のである。

血のつながった叔母である張成沢夫人の金慶喜も、甥(おい)の暴走を止められなかった。いや、彼女自身の動向もわからず、生命自体が危うい状態に置かれていることが予想されている。

私は、この処刑が意味するものは「2つ」あると思う。経済やモラル、秩序……あらゆるものが崩壊している現在の北朝鮮で、絶対的な権力を維持する方法は1つしかない。それは、「恐怖」である。恐怖による支配以外、軍や人民を統率することは不可能だ。

その意味で、今回の張成沢の粛清は「権力基盤の確立」のために大きな力を発揮したと言える。「この男は何をするかわからない。ただ“服従”するしかない」。若造を舐めていた軍の長老や実力者たちも、自分たちの“命の危うさ”を思い知ったに違いない。

なんの実績もなかったこの若き領袖は、うしろ盾である叔父の命を奪ったことで、今後、絶対的な“恐怖の支配者”として、北朝鮮に君臨するだろう。あとは、本人が暗殺の恐怖と闘うだけである。

もう1つは、今回の出来事は、日本にとって意味するものが極めて大きいという点だ。これほどの残虐性を持つ指導者が、「核ミサイルを手に入れた時」にどうなるか、ということである。

繰り返される核実験と、テポドンの発射実験によって、この独裁者が「絶大な力を発揮する核ミサイル」を実際に手に入れる時期が「刻々と近づいている」のである。

これまで何度も当ブログで書いてきたように、核ミサイルの開発には、「核弾頭の小型化」と「起爆装置の開発」が不可欠だ。巨大な核爆弾をミサイルの弾頭にして、何万キロも飛ばすことはできない。

また、小型化がたとえ成功しても、ミサイルが着弾した時に核爆発を起こさなければ核ミサイルの意味はない。その二つの開発が揃って、初めて「核ミサイル」となるのである。

専門家の分析では、繰り返された核実験によって「核弾頭の小型化は成功しているのではないか」と見る向きが多い。

となれば、残りは、「起爆装置の開発」である。高度な技術を結集しなければ核ミサイルの起爆装置開発は不可能だ。これだけは、まだ北朝鮮も「開発に成功していない」と見られている。

だが、それも「時間の問題」だろう。これほどの無慈悲なことをやってのける独裁国家の領袖が、東京をはじめ日本の主要都市に照準を定めた核ミサイルを手に入れた「時」、いったいどうなるだろうか。

私は、今年4月10日に朝鮮労働党の機関紙・労働新聞が「わが国に対する敵視政策が日本にもたらすのは破滅だけだ」と題する論評を発表したことを思い出す。「東京、大阪、横浜、名古屋、京都には、日本の全人口のおよそ3分の1が暮らしている。これは、日本の戦争維持能力が一撃で消滅する可能性を示している。日本が戦争に火をつければ、日本列島全体が戦場に変わるだろう」と、労働新聞は強く主張したのである。

「ソウルを火の海にする」というのは、北朝鮮の常套句だが、この論評を目にした時、「東京、大阪、横浜、名古屋、京都」という日本の主要5都市の名前を北朝鮮が実際に挙げたことで、私は金正恩の本気度を見た思いがした。

言うまでもなく、起爆装置が開発されれば、この5都市に照準を定めた核ミサイルが「準備」されるのだろう。うしろ盾だった叔父ですら、議場から引きずり出して処刑にした独裁者。そんな国と、日本はそのあと、どんな「対話」ができるというのだろうか。

しかし、これに対峙する日本の現状はお寒いかぎりだ。閉幕した国会で法案こそ成立したものの、国家安全保障会議(日本版NSC)はまだ創設されていない。特定秘密保護法案に対して「戦前への回帰だ」と叫ぶ日本の一部勢力を横目に、極東を中心とする世界情勢の現実は、とっくに“危険水域”に入っている。

北朝鮮のうしろ盾が「中国」であるところに、この問題の複雑さと怖さがある。中国の巨大投稿サイトでは、「小日本に核ミサイルをぶち込んで、思い知らせてやれ」という内容の投稿がよく出てくる。しかし、それは、「自分の手を汚さなくても」、この北朝鮮の若き独裁者にやらせれば、「簡単なこと」なのである。

どうしようもない飢餓状態で、この冬が越せるかどうかという状態に陥っている北朝鮮。この冬を乗り切ったとしても、来年、再来年の冬は果たして乗り切れるだろうか。その時、座して「死」を待つぐらいなら……と、金正恩がどんな手段をとるのか、誰にも予測はつかない。

いつまでも韓国の国家情報院の発表を待っているだけのお粗末な日本の北朝鮮情報の収集体制では、せっかく国家安全保障会議をスタートさせても、有益な策は打ち出せないだろう。しっかりした危機感をもとに、国民の生命・財産を守るための情報収集体制の「一刻も早い構築」を望むばかりだ。

カテゴリ: 北朝鮮

原発の「観光地化」という“逆転の発想”

2013.12.10

「門田さん、福島第一原発を“観光地化”すると言ったら、どう思いますか」。私は突然、そんなことを聞かれて仰天してしまった。しかし、言っている本人は、いたく真面目だ。そして、1冊の本を差し出された。

福島県内で次作の取材をつづけている私は、昨夜、いわき市で地元の人と飲み会をやった。その席でのことである。その人は、福島県双葉郡の富岡町出身で、弁当や給食サービスの会社を運営している藤田大さん(44)である。差し出された本は、『福島第一原発 観光地化計画』というものだ。

分厚い写真つきの本で、巻かれている黄色い帯には、「原発観光地化 あり? なし?」と大きな字で書かれている。筆者・編集人は、作家の東浩紀氏である。

「どういうこと?」と私が聞くと、「あれほどの事態をもたらした福島第一原発を逆に観光地化して、人を呼ぼうという考えです。人にどんどん来てもらえれば、地元は活性化していきます。日本だけでなく、世界中から人に来てもらえば、双葉郡も復興していくと思うんですよ」

真剣な表情でそう訴える藤田さんの顔を見ながら、私は、「ユニークな“逆転の発想”だなあ」と、感心してしまった。たしかにおもしろい考えである。

「あとづけ」を見ると、この本は「11月20日」に発売されたばかりだ。藤田さんは、この本の趣旨に賛同しており、「福島第一原発を“観光地化”」して、「世界中から人を呼び」、地元を活性化させる「夢を持っている」と、私に言うのである。

「人が離れていく」被災地の中心である原発に、逆に「人を呼ぶ」――奇想天外な考えである。私は、今日、この藤田さんと、フタバ・ライフサポートの遠藤義之専務(41)の二人に案内されて、許可者以外は立ち入りができない双葉郡富岡町の「夜ノ森地区」のぎりぎりの境界まで行ってきた。

同じ富岡町でも、その境から先は「帰還困難区域」であり、そこで検問がおこなわれていた。藤田さんと遠藤さんの二人は、自宅がこの帰還困難区域内にあり、許可なしでは二人とも自宅に行くことはできない。

しかし、それ以外の富岡町は行き来できるので、私はあちこちを案内してもらった、私の次作のノンフィクション作品は、この富岡町の“ある場所”からスタートするからだ。私はその地を見にきたのである。

昨年、拙著『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』の取材の時は、楢葉町のJヴィレッジまでが通行可能な区域だったが、富岡町まで行くことは、とても無理だった。

この1年の間に、そこから行き来ができる区域が15キロも広がり、富岡町まで来ることができるようになったことを思うと、感慨深い。

私が“初めて”見る富岡町の姿は、目を覆うばかりだった。海に近い富岡駅は駅舎ごとなくなり、鉄の改札だけが今もポツンと残っている。駅前の店舗、ホテル、飲食店は見事に地震と津波に破壊され、至るところで、津波に流された自動車が引っくり返り、あるいは土中に突き刺さっていた。

海岸に近い住宅地帯は、見事に何もなくなっていた。生い茂った草むらの中に、よく見ると建物の土台だけが残っている。かつて家族団欒(だんらん)を過ごしたマイホームが土台を残してすべてなくなっているのである。

富岡川の河口にかかる橋も、橋桁が落ちて段差が生じ、通行はいまだに不能だった。町の大半が帰還困難区域ではなくなったものの、まだ「居住制限区域」であることに変わりなく、富岡町には震災から1000日以上を経た現在も、誰も住むことができない。

今日、案内してくれたお二人は、富岡町内の元の自宅に帰ることもできず、今はいわきで暮らしている。そんな二人にとって、“地元復興”が悲願であることは言うまでもない。

共に双葉高校出身という二人から飛び出した「原発観光地化」という言葉は刺激的であり、興味深いものだった。たしかに「人が離れる」なら「人を呼べ」である。

原発事故の悲劇を二度と繰り返さないためにも、また、この東日本大震災の教訓を忘れないためにも、「現場の観光地化」という“逆転の発想”は興味深い。原爆ドームが広島原爆の悲劇を現在に伝え、ついには世界遺産に登録されたことを思えば、二人の発想は一笑に付すような類いのものではないだろう。

藤田さんが富岡町のある場所で、「ここはホットスポットですから、数値を見てみましょう」と言って、線量計を取りだした。たちまち数値は上昇し、なんと「76マイクロシーベルト」を記録した。

「ああ、70台の数値が出ましたね。私もさすがに初めてです。こんな数値が見られるなんて、門田さんも運がいいですね」と、藤田さんは言う。

「ああ、今日は猪豚(イノブタ)が出ました」と、富岡駅のすぐ近くで二人が同時に声を挙げたのは、それから1時間近くあとである。見ると、閉まったままの測量会社の駐車スペースから“つがい”と思われる二頭の猪豚が出て来て、車に乗っている私たちに近づいてくる。完全に野生化したものだ。

「同じように町なかにいても、猪(イノシシ)より猪豚の方がおとなしいですよ。猪は人間を見ると突っかかってきますから」という。放射能汚染で人がいなかった2年間のうちに、ここ富岡町では、人間に代わって野生化された動物の方が主役だったようだ。

「原発観光地化」を各方面に持ちかけ、そのプロジェクトを進め、「この地を世界中から人が集まってくる場所にしたいんです」と、二人は言う。富岡で生まれ育った二人の真剣な目と、わがもの顔で道を闊歩(かっぽ)する野生動物の姿は、あまりに対象的なものだった。

たしかにそれほどのユニークな発想でなければ、この地の復活は難しいだろう。奇抜な発想こそが、あらゆるものを活性化させる可能性がある。「人が離れるなら、人を呼べ」。どんな人でも「福島の浜通りに来てください」。そして、「その目で震災の惨状を目に焼きつけてください」。

あまりの惨状と傷跡に塞(ふさ)ぎこんだ時期を経て、今、逆転の発想で彼らのように「大反攻」を考える人がいる。私は、どんな試練にぶつかっても、決してへこたれない浜通りの男の姿を見て、心から二人を応援したくなった。

カテゴリ: 原発

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