二つの生涯の終わり - 「死」の「尊厳」とは?

みわよしこ | フリーランス・ライター

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2014年11月1日、不治の脳腫瘍に罹患して余命宣告を受けた女性が、米国・オレゴン州で薬物を服用して亡くなりました。

本エントリーでは、人間の生涯の終わり方と「尊厳」との関係を、二つの生涯の終わりから考えてみます。

2012年6月に迎えた、大切な二人の生涯の終わり

2012年6月、私の大切に思っている二人が生涯を終えました。

一人は、極めて治療の難しいタイプの脳腫瘍に罹患していた11歳の少女です。ご両親が私の友人だったので、娘さんの彼女も私の友人になってくれました。

その数日後、私はもう一人の生涯の終わりに接しました。98歳だった母方祖母です。

11歳の少女の生涯の終わり

彼女が脳腫瘍に罹患していること、しかも治療は困難であることは、亡くなる約1年前に判明しました。

ご両親、お兄さんを含む一家は、一家で彼女の闘病に向き合いました。

また通っていた小学校の先生方などの協力のもと、家庭生活・学校生活・病院での生活を含めて、彼女は極めて充実した日々を送っていました。

しかし脳腫瘍は徐々に進行し、2012年5月下旬には緩和治療への切り替えが行われました。

彼女は約10日を緩和病棟の個室で過ごしました。

身体は快適に清潔に維持され、苦痛は可能な限り除去され、家族・血縁者・友人知人などの来訪を受けて楽しく過ごし、亡くなる前日まで院内学級の先生の訪問によって授業も受けていました。

しかし奇跡は起こらず、生命機能を維持し続けることができず、結局は亡くなりました。

亡くなる前には、小児ホスピス医によって苦痛を感じさせないための可能な限りの努力が行われました。

彼女の生涯とその終わりは、まったく「尊厳」に包まれたものであったと思います。

98歳の母方祖母の生涯の終わり

母方祖母は90歳を過ぎるころから認知症となりましたが、徘徊などの問題行動よりも前に身体機能が失われて「寝たきり」に近くなりました。

祖母は戦中戦後の混乱の中で、また夫を早く亡くしたひとり親として、私の母親を含む4人の子どもたちを育て上げました。うち2名は祖母の存命中に他界してしまいましたが、娘である叔母と同居して献身的な介護を受け、デイサービスなどの公的福祉サービスも利用し、快適で幸福な日々を送っていました。

しかし2014年5月、肺炎に罹って救急搬送されました。

搬送先の病院では、肺炎であることが確認されただけで、ほとんど治療らしい治療が行われずに放置されていました。でも主治医は「肺炎は治ったけれども、身体が弱っている」という説明をしていたとのことでした。治ったかどうかの判断のベースとなるはずの検査や画像撮影は、ほとんど行われていないのに?

叔母の強い望みで、受け入れて治療してくれる医院を見つけて転院して、改めてレントゲン写真を撮影したところ、肺炎は治っていないままだったそうです。「全身状態を改善して治療して苦痛を軽減しよう」という方針となった矢先、祖母は亡くなりました。

医療資源が無限ではないことくらい、分かります。医療資源節約の視点から、また病院の経営という視点から、超高齢者の治療に積極的にならない医師がいることも知っています。でも、懸命に真面目に努力してきた女性の人生の終わりが、こんなふうでよいのでしょうか?

私は、なんとも釈然としない思いになりました。今も釈然としません。この祖母の葬式に列席できなかった経緯についても釈然としていないのですが、それはさておきます。中途障害をきっかけとして血縁者の付き合いから事実上排除され、それから5年後のことでもありますし。

「尊厳」は生とセットになるもの、生きていれば見出しうるもの

この二つの生涯の終わりは、私に「尊厳」と「死」の関係を考えさせるきっかけとなりました。

11歳だった少女も、98歳だった祖母も、既に回復の見込みが非常に薄い状態でした。

11歳の少女が亡くなる前日に奇跡が起こって脳腫瘍の進行を止めることができたとしても、少女には重い後遺症が残ったままだったでしょう。彼女のお父さんである友人は、「それでもどんな状態でもいいから生きていて欲しい」と願っていました。その気持ちに、私はとても共感できます。

98歳だった祖母は、既に認知症で寝たきりに近い状態となっていました。しかし近親者の声やぬくもりは理解しており、反応していました。叔母もまた「どんなでもいいから、生きていてほしい」と願っていました。その気持ちにも、私はとても共感できます。叔母が必死でそう願い、行動しつづけたからこそ、祖母はその年齢まで生きていたのです。

その後の私は、自殺したいと思ったら自殺する権利を「尊厳死」という名づけを行うことに対し、強い抵抗を感じるようになりました。

生きていれば、生の尊厳というものがあります。

本人の意思表示能力がどうであれ、その人の生の尊厳は、周囲の人が見出すことができます。

その人の生の尊厳を苦痛が損なっていれば、軽減することもなくすことも可能です。

「尊厳生」の「尊厳」を強める努力、維持する努力をしないで、「尊厳死」って?

他者が見出し維持しなければ損なわれる、最後の「尊厳」

生涯を終えようとするときには、自分自身の身体能力は意思表示能力も含めて、「健常」と呼ばれる状態からは遠くなっていることが多いでしょう。その時に「尊厳」を見出して維持することは、関わっている他者の役割です。

誰かの「尊厳死」が云々されるとき、私は

「ああ、その人の周囲の他者は、その人に対して尊厳を見出して維持しようとしない、情けない人ばっかりなんだな」

「ああ、その人の周囲の医療関係者は、どうすれば尊厳を見出して維持できるかを知ってても教えない、情けない人ばっかりなんだな」

と考えることにしています。

医療資源の有限性が問題? だったら最初からそう言ってほしいものです。

「医療資源を節約したいから、この人に死んで欲しい」と。

せめて、尊厳だ安楽だ、自己決定だどうだという話で誤魔化さないで欲しいのです。

初孫の私をそれはそれは大切にしてくれた母方祖母が、最悪といってよい医療に苦しめられて亡くなった経緯を思い返すたびに、私は

「ケチるために殺すのだと言えよ!」

と心のなかでつぶやいています。

みわよしこ

フリーランス・ライター

1963年福岡市生まれ。大学院修士課程修了後、企業内研究者を経て、2000年よりフリーランスに。当初は科学・技術を中心に活動。2005年に運動障害が発生したことから、社会保障に関心を向けはじめた(2007年に障害者手帳取得)。著書は書籍「生活保護リアル」(日本評論社、2013年)など。2014年4月より立命館大学先端総合学術研究科一貫制博士課程に編入し、生活保護制度の研究を行う。なお現在も、仕事の40%程度は科学・技術関連。

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