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厚田雄春の手帳

堀 潤之=文


小津安二郎が54本の映画作品以外にも32冊の日記帳を後世に遺したように、彼のキャメラマン厚田雄春も55冊に及ぶ手帳を遺している。その内訳は、敢えて分類するならば、日記帳35冊、撮影時のメモ13冊、その他の雑記帳7冊である※1

手帳

1953年から書き連ねられた小型の日記帳は、途中66年、70年を欠いて、厚田が松竹に在籍した最後の年の1972年のものまでが残存している。日記は1953年から始まり、それ以前の記述は幾つかの作品の撮影時のメモしかない。つまり、小津との助手時代や、清水宏とよく組んでいた1930年代末や、シンガポール時代や、佐々木康との組合せが目立つ戦後すぐの時代に関しては、手帳から得られる情報は残念ながらほとんどないことになる。『東京物語』の年として記憶される1953年から小津が逝去する1963年までの日記の記録は、映画作品で言えば、『東京物語』から『秋刀魚の味』に至る小津の全松竹作品7本に加えて、『残菊物語』(1963)などの大庭秀雄作品6本、『危険旅行』(1959)などの中村登作品9本、『あなた買います』(1956)『黒い河』(1957)の小林正樹作品2本を含めた36本の撮影を担当した時期に相当していて、生涯で90本の映画に撮影監督として参加した厚田雄春の円熟期における生と仕事を余すところなく我々に告げてくれる。ただし、6月頃で記述を止めている年があったり、詳しいものが2冊ある年があったりと、記述の密度は一様ではない。小津の逝去した1963年12月12日前後、日記への記載は何もない。そして、日記は小津の死を境に勢いを失っていく。小津の死の翌年、1964年には3冊の詳細な日記があるが、どれも年の半ばで中断されている。65年の1冊の日記も、同様だ。66年は日記が存在せず、67年以降の存在する日記にも、ごくわずかの記載しかなされていない。

東京物語撮影開始日の日記小津の死の翌年の日記
図1 『東京物語』撮影開始日の日記(1953aより)図2 小津の死の翌年の日記(1964cより)
この記述の希薄化は、小津の死の翌年の1964年から松竹での最後の仕事である67年の『純情二重奏』(梅津明治郎監督)に至るまでに、それまでの年平均3、4本のペースから遥かに後退して、4年間で6本しか映画を撮れなくなり、ついには仕事がなくなったという不遇の事態に対応しているとも言えるだろう。

厚田雄春の日記帳を開いてみると、まず、記述の内容以前に、尖筆でびっしりと文字が書き連ねられている紙面の稠密さに驚愕させられる。丁寧に清書された、豆粒のような字が、手帳の小さな空間を几帳面に埋め尽くすさまは、どこか小津作品の端正な構図を彷彿とさせる。小津の戦後の日記が主としてその内容によって、自らの映画を反復するかのように、ゆるやかな日常生活の流れの痕跡をとどめているとすれば、厚田の手帳は内容以上にその特異な稠密さによって、定まったフレームの中を厳密に制御したいという欲望を露呈しているようにも思える。

厚田の日記は、内容的にも、小津の日記とはかなり趣が異なる。最大の違いは、小津の日記には時間が必要最小限にしか記されないのに対して、厚田の日記には起床・就寝時間、出発・帰宅時間、集合時間、電車の時刻などといった時間の記述が溢れかえっていることだ。例えば、1953年の『東京物語』の撮影開始日の記述はこうだ。「7月25日(土) 小津組第一回撮影開始セット/No6ステージ代書屋 SN.96(笠 十朱/服部)撮影開始前10時20分/終了午后6時20分」(図1) 尾道ロケの最中の日記は次のようなものだ。「8月16日(日) 前4時出発 浄土寺附近 松本氏宅 S.N.152 情景 笠 撮影開始5時30分 6時20分 浄土寺附近 情景 汽車 三宅氏屋上 午前12時ヨリ午后1時半迄デ休憩 14時 筒井小学校 浄土寺附近 午后4時撮影終了 帰宿」 このように撮影の行程が時間単位で克明に記されている。そのため、厚田の日記は、その時期に関わっていた映画の撮影スケジュール表とほとんど同義であると言ってもいいほどだ。撮影の時期には撮影の開始・終了時間くらいしか書かれていないことが多いが、日常時の日記においては1日につき7、8回時間が記されていることも稀ではない。例えば、小津の死の翌年の1964年1月20日の日記。このとき厚田は同月31日に近代美術館で行われる対談の準備をしている。「晴 快晴だ 前9時半起床 10時朝食する 新聞を見て小憩す/正午に掃除をやる 14時に終り小憩する 16時に冷たいので/急いで浴場に行く 17時に帰り雄一をお守りする 小憩后/東京物語の撮影日誌調べ 22時半床に入る 美代子と雑談して/前1時寝床」(図2) 厚田の日記には心境、感想の類が極端に少ない。その上、克明な時刻の記録が、日記の主観的色彩を拭い取ってしまう。戦後の小津の日記が、直接的な心情の吐露を欠いているにも関わらず、彼の低徊的な嗜好を滲み出しているとすれば、厚田の日記は更に徹底した主観性の欠如によって、かえって自身の職人的な緻密さを反映しているとも言えるだろう。撮影中の小津は完璧主義者で、撮影中の厚田は小津の意を汲み取り、緊張した場の空気を幾分か和らげる役だったというイメージがあるが※2、手帳から受けるふたりのイメージは、そのような既成の像からは想像もつかないものである。

東京物語ロケハン時の雑記帳(1953b)
図3 『東京物語』ロケハン時の雑記帳(1953bより)。亡母の葬式の最中に大坂志郎が眺める墓地は今も当時のままの趣を残す福善寺で撮られた。浄土寺、灯籠(住吉神社内の常夜燈)、中央桟橋なども当時の佇まいを残している。

厚田の日記は、とりわけ撮影に携わっているときには、いわば客観的なスケジュール表のごときものに近い。とはいえ、その記述的な価値を見逃すこともできない。まず、厚田の日記には、小津の日記の欠落部分を埋める部分があり、その点で価値が高い。戦後の小津の日記は概して、時期的に野田高梧との脚本執筆の期間と連動していて、さながら脚本執筆への情熱の残余物が日記の側に横溢してきたかのような観を呈している。1949年の若干のメモを除けば、小津の戦後の日記は実質的に1951年から始まるが、その年に撮られた『麦秋』から1953年の『東京物語』に関する日記の記載は、シナリオの起稿時から脱稿時までの期間にほぼ限られている。つまり、ロケハンから撮影を経て編集・ダビングなどのポストプロダクションに至る過程は、小津の日記からは窺えない。その空隙を埋めるかのように、キャメラマン厚田の手帳の記述は、ロケハンから撮影終了までの範囲を覆っている※3。『東京暮色』(1957)、『彼岸花』(1958)、『秋刀魚の味』(1962)に関しても、小津の不足分を厚田が補完するという同じ構図が認められる(1958年の小津の日記には年頭の短期間の記述しかない)。とりわけ、『彼岸花』と『秋刀魚の味』についての厚田の記述は、克明な撮影日誌と呼びうる類のものである。3つの他社作品のうち、『宗方姉妹』(新東宝=東宝、1950)に関しては既に内側からのドキュメントが出版されているし※4、残りの2作品(大映『浮草』、宝塚映画=東宝『小早川家の秋』)を含む『お早よう』(1959)から『小早川家の秋』(1961)までの4本に関しては、小津自身の記載が映画製作の全般に及んでいるため、幾つかの重要な松竹作品の資料的な不足を補う厚田の手帳の存在は、ことのほか貴重なものと言えよう。

東京物語ロケハン時の雑記帳(1953bより)
図4 『東京物語』ロケハン時の雑記帳(1953bより)。老夫婦が途中で立ち寄る大坂のショットのためのもの。

ただし、厚田の日記の記述的価値を計測するのに、小津という主軸だけをもってするのは片手落ちであろう。確かに、戦前に小津組で『若人の夢』(1928)から『淑女は何を忘れたか』(1937)に至る長い助手時代をくぐり抜け、一本立ちした後は小津の全松竹作品を手がけた厚田の撮影監督人生は、小津という巨大な存在抜きには考えられない。そうはいっても、厚田は15本の小津映画の撮影監督であるだけでなく、清水宏、佐々木康、中村登、大庭秀雄、小林正樹といった松竹を代表する監督たちと共に、ミュージカルからサスペンスに至る75本もの映画を撮った男である。「よその組へ行くと、小津組ではできないようなことをして勉強することにしてます」と厚田は語っている※5。撮影監督としての厚田の力量の総体は、小津の作品だけからでは十全に浮かび上がってこない。あらゆる細部に至るまで完璧に統御しようとする専制的な小津像が蔓延する中、その神話に沿うようなかたちで半ば自らを茶化しつつ「キャメラ番」と称する厚田は、実は小津へ盲従していたわけではなく、彼なりに細やかな工夫を凝らし、作品に創造的に貢献していた。その意味において、小津作品における厚田の貢献をより丁寧に読み解く必要性はなお残っているが、その十全な読解に向けても小津以外の監督たちとのコラボレーションの経験を無視することはできないだろう※6

その際、日記以外に遺されている13冊の撮影時のメモ帳が注目されよう。その中には、『東京物語』ロケハン時の雑記帳(図3、4)や、野村芳太郎の『青春ロマンスシート・青草に坐す』(1954)、『大学は出たけれど』(1955)などの構図スケッチ、そして『彼岸花』(1958)の色分けされたシーン表などの他、日記帳の残存していない時期にあたる1951年の美空ひばり主演、瑞穂春海監督の『あの丘越えて』のメモや構図スケッチ(図5)などがある。構図もキャメラ位置も小津自身が決定した小津作品に関する厚田のスケッチはないに等しいので、他監督の下でのこれらの構図スケッチには希少価値がある。一気呵成に押し出されたかのような走り書きの不定形なスケッチは時に解読困難だが、それだけに日記の几帳面な稠密さと好対照をなしており、厚田自身のイメージの迸りの瞬間を垣間見せるとともに、彼の空間把握の一端を窺わせる。

あの丘越えての構想スケッチ1954年2月10日、11日に厚田が見た映画(1953cより)
図5 『あの丘越えて』の構想スケッチ(1951より)図6 1954年2月10日、11日に厚田が見た映画(1953cより)

その他には、7冊の雑記帳がある。その内の2冊は通常の小型の手帳より更に一回り小さい手帳であり、備忘録的に使われていたようである。残りのうちの1冊には、ジョージ・シドニー監督『世紀の女王』(1944)の感想が、「主要人物 クレーンの台に乗せてキャメラと同時移動撮影。バックの人物より高くなっている」のように書かれている。他には、1953年後半から54年初頭にかけて厚田が見た50本強の映画がリストアップされている手帳がある。ほとんどはタイトルと会社、監督、撮影監督が記されているだけだが、寸評が記されている映画もある。例えば、レスリー・キャロン主演のチャールズ・ウォーターズ監督『リリー』(1953)に関して、撮影監督ロバート・プランクの「ハーフトーンの効果 感銘」したと書かれていたり、『シェーン』のジョージ・スティーヴンス監督がキャメラマンの出身であることが付記されていたりする(図6)。日本映画と外国映画は分け隔てなく見ていたようだが、当時の封切りの状況を反映して、外国映画ではフランス映画やイタリア映画はごくわずかしかリストにない(デュヴィヴィエ『アンリエットの巴里祭』、ロッセリーニ『ストロンボリ』などを見ている)。厚田所蔵の『陽気な渡り鳥』の脚本の表紙には、何者かによる「ジョー・マクドナルド/日本のリー・ガームス/厚田雄春大先生」なる落書きも記されており、彼らの他にもウィリアム・ダニエルズやヴィクター・ミルナーの撮るハリウッド映画を通じて、撮影技術を貪欲に学んでいった厚田の姿を思い浮かべることができるだろう※7

1939『桑の実は赤い』(清水)年号記載なし。八月中の一週間ほどの撮影日誌。
1942『すみだ川』(井上)
『大学は出たけれど』(野村)
年号記載なし。丁寧に書かれたシーン表、撮影メモ、構図スケッチなど。年代の特定に疑問が残る。
1951『あの丘越えて』(瑞穂)年号記載なし。各監督の下で撮影を担当した映画のリスト、『あの丘越えて』のシーンをセット・ロケ別に書き出したメモ、構図スケッチなども含む。
1952年号記載なし。数ページのみの記載。ジョージ・シドニー監督『世紀の女王』(Bathing Beauty, 1944, 日本公開1952年)の寸評。横顔のクロース・アップは邦画にはないが、アメリカ映画では多く見る旨など書かれている。
1953a『夢見る人々』(中村)『姉妹』(岩間)『陽気な天使』(斉藤)『東京物語』(小津)『蛮から社員』(堀内)年号入りの日記帳が現存する最初の年。見開きで一週間の記入ができるフジフィルムの手帳を使用している。4月と12月以外は大体毎日4、5行の記載がある。6月から10月末までは『東京物語』に携わった時期である。
1953b『東京物語』年号記載なし。ロケハン時の雑記帳。尾道、大阪のロケ候補地の地図やメモ。ロケの対象となるシーンのリストなど。
1953c年号記載なし。1953年後半から1954年初頭にかけて厚田が見た映画が50本ほど列挙されている。幾つかのものには寸評が付いている。『東京物語』のロケハン時、撮影中(1953年6、7月)の断片的なメモもある。1954aにも見た映画の記録が残っており、2本、3本一気に見ている日もある。
1953d『東京物語』後年に書かれた撮影日程表。
1954a『蛮から社員』(堀内)『青春ロマンスシート・青草に坐す』(野村)『君に誓いし』(田島)『大学は出たけれど』『おとこ大学・新婚教室』(野村)撮影終了直後など記載のない時期も多いが、概ね前年と同程度の記載量がある。年頭の3カ月は積極的に映画を見たようで、1953cのリストの他、この日記の巻末にも見た映画のタイトルが30本ほど記されている。
1954b『青春ロマンスシート・青草に坐す』(清水)年号記載なし。シーンをセット・ロケ別に書きだしたメモ、構図スケッチ、日記下書きなどを含む。
1955a『おとこ大学・新婚教室』『ひばりの娘船頭さん』(萩原)『早春』(小津)5月半ばまでの記載はわずか。6月末から心持ち字が小さくなり、より稠密な印象を受ける。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。
1955b『ひばりの娘船頭さん』『眼の壁』(大庭)2月頃までわずかな記載があるが、3月から後ろのスペースは日付に関係なく、鉛筆書きで主に1958年の『眼の壁』撮影中の日記の下書きがある。ほぼ同じ文章が1958aに清書されている。
1955b『早春』『ここに幸あり』(番匠)『晴れた日に』(大庭)『あなた買います』見開きで二週間分を記入できる手帳に、以前とさほど変わらない記述量が盛り込まれているため、字が非常に細かい。一年にわたって滞りなく、充実した仕事の記録が残っている。
1957a『東京暮色』(小津)『東京踊り』(高田)『黒い河』(小林)前年と同じタイプの手帳で、一年を通じて記載されている。10月で『黒い河』を撮り終えた後は、よく映画を見た形跡がある。小津の『大根役者』のロケハンを除いて、翌年2月からの『若い広場』まで携わる作品がなかったからであろう。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。
1957b『若い広場』(堀内)『危険旅行』(中村)『若い素顔』(大庭)『明日への盛装』(中村)見開き一週間タイプの大映の手帳。日付覧を無視して、メモとして使われている。1958年2月の『若い広場』の記載が3月の欄に、1959年5月の『危険旅行』の記載が5月の欄に、1959年8月と10月の日記の下書きがメモ覧にそれぞれある。
1958a『若い広場』『彼岸花』(小津)『眼の壁』『春を待つ人々』(中村)『お早よう』(小津)頓挫した『大根役者』のロケハンから始まり、『お早よう』のロケハンで終わる1958年は、厚田がほとんど休みなく働いた一年であり、見開き一週間の日記の記述も充実している。冒頭の見開き一ヶ月の月間予定表で、厚田の一年の働きを通観できる。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。下書きは1955bにもある。
1958b『若い広場』『彼岸花』『眼の壁』『春を待つ人々』『お早よう』内容的には同年のもう一冊の日記をやや簡略化したもの。しかし、乱雑なメモというわけではなく、丁寧に書かれている。9月以降は空白のページが目立つ。
1958c『彼岸花』『秋日和』(小津)年号記載なし。『彼岸花』のシーン表、セット・ロケ別のシーン一覧表、日記用のメモの他、『秋日和』のシーンを大雑把に書き出したメモなどを含む。
1959a『お早よう』『危険旅行』『若い素顔』『明日への盛装』『朱の花粉』(大庭)冒頭に月間予定表あり。この年も多忙な一年であり、6月や8月に大きな空白はあるが、撮影過程が詳細に書き込まれている。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。下書きは1957bにも混じる。
1959b『お早よう』『危険旅行』冒頭に似たような月間予定表があるが、5月までしか記載がない。本文も日記としての記載は5月末で終わっており、末尾のメモ欄に下書きなどがある。
1959c『朱の花粉』年号記載なし。11、12月の日記の走り書きを含む(1959aには清書されていない)。『朱の花粉』のシーンの抜き書きなどもある。
1960a『朱の花粉』『いろはにほへと』(中村)『秋日和』見開きの左側に一週間分を記載する手帳。4、5月は記載がなく、7月頭で中断。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。
1960b『秋日和』ほぼ同じタイプの手帳。『秋日和』に携わった6、7、8月の記述を含む。
1960c『秋日和』年号記載なし。色分けされたセット・ロケ別のシーン一覧表など。
1960d『秋日和』年号記載なし。メモ、日記下書き。
1961a『河口』(中村)冒頭に月間予定表あり。この年の仕事は、年頭に大庭組の仕事がキャンセルになり、4月半ばからの『河口』と『千客万来』のみ(後者についてはこの手帳には記述なし)。見開きで一週間の記述は撮影半ばの6月上旬で中断。この年は年号入りの日記帳が3冊ある。
1961b『河口』『千客万来』見開きの左側に一週間分を記載、右側には見た映画などが書かれている。同じく6月上旬で中断し、12月15日の『千客万来』撮影完了まで記載なし。
1961c『河口』見開き一週間タイプ。月間予定表には5月まで、日記は4月中旬までのみ。
1961d『河口』年号記載なし。『河口』のシーンが書き出されたメモや、日記下書きの断片を含む。
1962a『愛染かつら』(中村)『秋刀魚の味』(小津)『咲子さんちょっと』(酒井)見開き一週間の日記に、一日八行くらいびっしりと書き込まれている。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。
1962b『愛染かつら』『秋刀魚の味』『咲子さんちょっと』1962aを簡単にした内容が、見開きの左側に一週間の手帳に、びっしり書き込まれている。
1962c『愛染かつら』年号記載なし。色分けされたセット・ロケ別のシーン一覧表など。
1963a『あの人はいま』(大庭)『結婚式・結婚式』(中村)『残菊物語』(大庭)見開き左側に一週間の記述。撮影中の記述が手薄。小津の死から一週間ほど記述が途切れる。
1963b『あの人はいま』『結婚式・結婚式』年号記載なし。同年の日記のための下書きなど。
1963c1月前半のみ。
1963d年号記載なし。メモ、スタンプなど。
1964a『渚を駆ける女』(酒井)見開き左側に一週間分を記載する手帳で、7月上旬までの断続的な記載。この年は年号入りの日記帳が2冊ある。
1964b『渚を駆ける女』冒頭に7月上旬まで記載の月間予定表がある。縦開きの手帳で、見開きの半分に一週間分を記載するタイプ。7月上旬まで断続的な記載がある。
1964c年号記載なし。見開き一週間で、一日7、8行。二月上旬まで詳細に書かれた日記。
1965a見開き左側一週間の手帳で、7月上旬までの記載。
1965b『若い野ばら』A5サイズ。色分けされたセット・ロケ別のシーン一覧表など。
1966『横堀川』(大庭)年号記載なし。5ページのみの記載で、内容は『横堀川』のシーンが書き出されたメモなど。
1967a1月中の3日分しか記載がない。
1967b2月末などにわずかな記載。
1968a1月はじめと、2月はじめの計十日分ほどしか記載がない。
1968b記載なし。
1968c見開き2週間。一日1、2行で、6月末まで。
1969a5、6月を中心に、約2カ月分ほど記載がある。
1969b2月中旬の数日のみ。
1971見開き2週間。サイズは通常より縦に長い。3月末から4月まで。
19721月中の3日分しか記載がない。
不明金額計算やメモに使われた白いミニ手帳
不明金額計算やメモに使われた緑のミニ手帳
不明わずかな記載のみ。
不明「マージャン実戦手帖」。記載なし。

(注記1)冒頭での分類(日記35冊、撮影時メモ13冊、その他7冊)との対応を示しておく。撮影時のメモ13冊とは、1939、1942、1951、1953b、1953d、1954b、1958c、1959c、1960c、1961d、1962c、1965b、1966を指す。その他の7冊とは、1952、1953c、1963dと年代不明の手帳4冊を指す。それ以外の手帳は、日記として使われたものである。とはいえ、それらの境界は明確ではない。1953bのように明確にロケハン時に使われた手帳もあれば、1958cのようにおそらく撮影に備えて自宅でシーンを丁寧に抜き書きしたものもあれば、1954cのように日記の下書きとシーンの抜き書きが混在したものもあり、分類は便宜的なものに過ぎない。

(注記2)概要欄の「年号記載なし」という付記は、手帳それ自体に年号が刻まれていないことを示す。その場合、手帳が日記の清書のために使われているときは年代の特定は容易であるが、そうでないときは内容から年代を判断するしかない。一冊の手帳がはっきりした目的に使われている場合や(1953cの映画リストや、1958cのシーン表など)、記述量が少ない場合(1939、1952、1966など)は、ある程度の正確さで年代を特定できるが、13冊の撮影時のメモのうち、とりわけ1942は年代の特定に疑問が残っているため、この年代は暫定的なものでしかない。


※1 55冊の手帳を年代順に並べ、簡略な概要を記した本文末尾の表を参照。小津の日記に関しては、日記の全文を収めた田中眞澄編纂『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社、1993年)、それを元に小津の人生を綴った都築政昭『小津安二郎日記』(講談社、1993年)がある。また、石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』(新潮社、1995年)の巻末にも、『東京物語』執筆時の日記が再録されている。
※2 例えば、小津を巡るノンフィクションである高橋治『絢爛たる影絵』(文春文庫、1985年)の撮影風景の描写(46-47頁など)や、笠智衆『大船日記 小津安二郎先生の思い出』(扶桑社、1991年)の「ユウシュンの創った笠伝説」(142-144頁)などを参照。
※3 ただし、彼の手帳は1953年から始まるため、『麦秋』『お茶漬けの味』関連の資料はない。
※4 永井健児『小津安二郎に憑かれた男 美術監督・下河原友雄の生と死』フィルムアート社、1990年。 ※5 厚田雄春、蓮實重彦『小津安二郎物語』筑摩書房、1989年、204頁。
※6 厚田の小津以外の監督とのコラボレーションについては、同書VIII章の他、松竹大船撮影所に纏わるインタビュー集の斉藤正夫他編著『人は大切なことも忘れてしまうから』(マガジンハウス、1995年)を参照(清水宏については74頁以下、大庭秀雄については109頁以下、211頁以下)。
※7 厚田と外国のキャメラマンとの関係については、厚田、蓮實、前掲書、83-84頁を参照。

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