1 非難と罵声
春の陽気。
うららかな太陽に日の光は、俺の体を強かに温める。
黒い学ランが熱を持ち、俺の体を包み込んでいった。
気持ちがいい。
風が吹いた。
鼻孔をくすぐる微かな花の匂い。
桜だろうか。
校門前にはたくさんの桜が咲いている。
俺も高校二年生になった。
すでに授業は始まっていて、始業式は一週間前の出来事だ。
俺は窓際の席で太陽の光を浴びて、うつらうつらしていた。
「――田! ――田!」
何か教師が叫んでいる。
だが、俺の耳には入らない。
目を閉じようとした時、横の幼馴染。
男だけど。
渡瀬秀が俺の肩をつついてきた。
「久志、呼ばれてるぞ」
俺の意識が戻ってこようとした時、何度目かの叫び声が俺の耳に届いた。
「朝田久志! 聞こえんのか!?」
数学の教師が顔を真っ赤にして怒っていた。
「……」
一度は目を教師に向けたが、それだけだ。
すぐに校庭に目をそむけた。
「チッ……!」
教師らしからぬ舌打ちをして、授業が再開された。
他の奴が問題を当てられている。ご愁傷様だ。
「ハァ……。久志。もっと真面目に受けろよ」
幼馴染の秀はおせっかいを焼いて、授業に戻っていった。
秀はいい奴だ。良い奴で、あまり好きじゃない。
「いや……」
こう思うだけで、あっちはそう思っていないだろう。
持つ者と持たざる者。
隔絶した何か。
俺と秀の間には、確かに何かが横たわわっている。
それは俺に彼女がいないとか、俺の成績が悪いとか。
俺は運動がそこまで得意じゃないとか、思い切りが良くないとか。
もっというなら、もう一人の幼馴染を――。
「ふん」
何をいまさら。
杏奈も秀の方が良いに決まっている。
文武両道、才色兼備。
そんな秀を誰もが羨みつつ、妬む。
空手だろうが柔道だろうが、ドンとこいみたいな奴だ。
喧嘩だって強いだろうし、何やっても最強だ。
そんな奴にどうやって勝てっていうんだ。
無理だろう。
それ以外で勝てって言うなら、勉強やれとか言うんだろ?
こいつ、学年でいつも遥か上位に君臨するお方だから。
俺では到底不可能な位置にこいつはいる。
最初から決まっている格付け。
俺は底辺で、秀は最上位。
ただそれだけの事だ。
教師もさじを投げる俺の態度。
周りの評価。
うんざりする。だが、これも俺が招いた結果。
甘んじて受けなければならない事くらい、俺だって分かっている。
授業を聞き流しながら、ふと校門前に目を向けてみた。
一人の男がいた。
男、だと思う。
流石に遠すぎて判断がつかない。
でも体格は男に見える。髪の量や長さを見ても、あれは十中八九、男だ。
男は鉄格子上になっている校門の前に立っている。
桜の花びらが舞って、何とも異様な光景となっていた。
男はガンガンと頭を校門に打ち付けていた。
「なんだ、あいつ」
あれが不審者じゃないなら、どこ探しても不審者なんていない。
初めて一目で不審者だという事が分かる奴だ。
頭を打ちたいなら、自分の家の壁でも使っていればいいものを。
あれではすぐに警察の御用だ。
校舎の方から、誰か出てきた。
体育教師の一人だ。
ガタイのいい男の先生が、対応に向かうようだ。
それと数人の先生。
「終わったな、あのおっさん」
独り言をつぶやき、ことの行く末を見守る。
ここからでは何を言っているかなど知る由もないが、大方何をやっているんだ、なんて聞いているのだろう。
そんなこと聞いても意味ないのに、聞くしかないんだよな。
だって、あいつ、頭を打ってるだけだもん。
アホだ。
クスッと笑いそうになった。
これは楽しい。
人一人の人生が終焉に近づこうとしている。
昨今、この日本は不審者に厳しい。
凶悪な犯罪が連続したことが原因で、怪しい奴には制裁を加えるような感じだ。
だいたい見た目が気持ち悪ければ、SNSに自分の姿をアップロードされても不思議ではない世の中だ。
それは自分の顔が気持ちわるいと、全世界に公言されてしまった事と同義だ。
そんなことになれば、生きていくのだって恥ずかしくなる。
周りの人間が常に自分の事を監視しているような感覚に陥る。
そんなはずはないのに。
考えを戻した。
今はあのおっさんだ。
どうなることか。
未成年の溜まり場である高校に、単独で不審な行動をしていたのだ。
立っているだけで不審者情報が更新される世の中で、あいつはトップクラスでヤバい。
教師たち全員が校門前までついた。
言い争いをしている。
言い争っていればいい方だ。
一方的に教師たちが何か言っている様にしか聞こえない。
4人で校門の前に立ち、一人の男を責める。
しかし男は頭を打つことをやめていない。
この期に及んで、肝の座った変質者だ。
チラッと教室の様子を見た。
誰も気づいていない。
数学の授業にご執心だ。
教師はつまらない公式を黒板に書き殴り、生徒たちはそれを必死に書き取る。
そんな風景をどこか自分とは関係ないなんて思いながら、校門前で繰り広げられている戦いに目を移した。
体育教師が未だ頭を校門に打ち付ける男に近づいて行った。
他の教師は遠巻きにして、その様子を見守っている。
体育教師が門の隙間から腕を突っ込んで、男の胸ぐらを掴んだ。
「――! ――!」
ここまでうっすらとだが聞こえてくるような大声で何かを叫ぶ。
相当怒っている。
確かに、これで何かしら問題が起きれば、被害を被るのは学校側だ。
万が一にでも生徒に何かあったら、困るのは学校。それを考えれば、体育教師が不審者を排除しようとするのも頷けた。
しかしそれも警察が来るまでの辛抱だ。
遠巻きにしていた教師の一人が携帯を出している。
どこか電話している。
高確率で警察だ。
これで終わり。
あの頭のおかしい不審者の人生がこの場で終わる。
眺めようじゃないか。
楽しくも無いこの人生に彩りを与えるのは、他人の不幸だ。
連日、テレビで取り上げられるのは、誰かが死んだとか汚職したとか。
誰かの人生が破滅したというニュースで、何かしらハッピーな情報はあまり伝えられない。
それは国民が誰も幸せなニュースなど望んでいるのではなく、他人の不幸が蜜の味なのを知っているからだ。
体育教師が乱暴に男を引っ張った。
ガシャンと小さく耳に、男の体が校門に激突した音が聞こえた。
教室内で気づいている奴はいない。
俺だけが知る他人の不幸。
幸せだ。
俺より下がいるという事を知っているだけで、この理不尽な世界でも生きていける自信が若干だが沸く。
心の中でせせら笑い続けていた。
あぁ、気持ちがいい。
しかしだ。
あの男は何がしたかったのだろうか?
こんな事をすれば、ただでは済まない事くらい分かるだろう。
それともそんな判断もできないほど、脳みそがイッてしまったのだろうか。
そうなると、俺にうま味が無い。
異常者が異常な行動をするのは普通であり、俺の求めるのは健常者が一発で人生が終わる不幸だ。
それでもあの男の人生が大きく変わる事に違いはない。
そう思っていた。
体を強かに校門に打った男は、痛がる様子もなかったのも気づいていた。
それでもだ。やせ我慢だと思っていた。
まさか反撃をするとは。
それも噛みつき攻撃だ。
男は自分の胸ぐらを掴む体育教師の腕をつかみ、そのまま齧り付いた。
「……ァ! ……ァァツ!!」
ここまでは聞こえてこないが、体育教師は地面を転げ回り、自分の腕を押さえている。
本気で噛みつかれたのか、血が流れ出していた。
まさか、肉を食いちぎられた……?
ジャージすら食い破って、その上肉まで噛み切ったというのか。
他の教師たちが体育教師の近くでおろおろする。
そこまでの深手ではないだろうが、対処に困る傷だ。
それに体育教師の暴れ方が尋常じゃない。
全身、痙攣している。
何故……?
地面を転がりつつ、ビクビク痙攣する。自分の頭を掻きむしり、髪の毛が抜ける。
体育教師は狂乱したかのように暴れていた。
「なんだ……」
意味が分からない。
確かに痛いだろう。
ナイフで切られるより圧倒的な痛みが、体育教師に襲かかっているかもしれない。
それでもだ。
それでも、あそこまで暴れる事はないだろう。
いってぇ、と腕を押さえながら、保険医が来るのを待てばいい。
それとも自分で移動するのもアリだ。
あんなパワー系池沼放っておけばいい。
その内警察が来る。
しかしだ。
しかし。
さっき電話をかけていた教師が、また電話をかけ直した。
あれは119通報しているのだよな?
決して110通報をしているのではないよな?
教師は頭をひねり、落ち着きをなくしながら、再度電話をかけ直す。
何をしているんだ。
早く救急車なり呼んでやった方が良いだろう。
あの体育教師の暴れ方は、異常だ。
弓なりに体を反り、筋肉が異常に収縮している。
頭が痛いのか、それとも腕が痛いのか分かったものではない。
体育教師は狂ったように頭を地面に打ち付ける。
それはまるであそこに佇む、異常者のように。
ふと、体育教師の体がぴたりと止まった。
なんだ。
何でもないのか。
良かったというほどでもないが、驚かせてくれる。
だが、そこからだった。
見ものなのは。
見ておくべきだったのは。
体育教師は周りの教師に見守られながら、ゆっくりと立ち上がった。
遠すぎて表情はうかがい知れない。
それでも普通に立ちあがった。
普通じゃないのは、ここからだった。
いや、今この瞬間からこそが。
これこそが日常と化す。
今までの日常は非日常となり、非日常こそが日常へと変化する。
体育教師は近くにいた女教師に襲い掛かった。
女教師は若く、今年から配属されたばかりの新人だった。
それくらいしか関わっていないので、情報が無い。
兎に角、体育教師は女教師に襲い掛かった。
何を言っているのか分からないかもしれない。
俺も何を見ているのか分からない。
体育教師は女の首筋に噛みついている様に見えた。
出血が激しい。
女教師の細いうなじから、血がだらだらと流れ出す。
真新しい黒いスーツが、赤黒く変色する。
他の教師が必死に引きはがそうとしているが、焼け石に水のようだ。
まったく引きはがせていない。
「は……?」
何をしている。
何をしているんだ?
あの出血量は、もう駄目じゃないか。
それにあの体育教師、確実におかしい。
喰っている。
女を喰っている。
もちゃもちゃ。ぐちゃぐちゃ。
ここまで聞こえてくるかのようだ。
それを見た周りの教師が凍りついた。
体育教師は一心不乱に女教師を食べる。
今はお昼前だから、腹が空いていたんだろうな。
なんて、適当な感想が出た。
校門前は血で染まり、女教師は確実に死んでいた。
内臓が外に飛び出し、腸が引きちぎられる。
あれで生きているというなら、現代医学も真っ青だ。
周りの教師が体育教師から逃走を始めた。
一目散に学校を目指して、逃げ帰ってくる。
俺は勢いよく立ちあがった。
「な、なんだ……!」
数学の教師が苛立ち交じりに俺の方を向いてきた。
誰も殺人事件に気付いていない。
「渡瀬が腹が痛いそうなので、一緒に保健室に行きます」
ざわざわと教室内がどよめく。
何を言っているんだ、あいつは。そんな感じだ。
渡瀬秀。つまり幼馴染である秀は、隣で驚いたような顔をした。
チラッと視線を校庭に向けた。
秀は分かったような顔をしてくれた。
あの死体を見れば、誰だってそうなる。
それに秀の行動は分かる。
俺がここまでお膳立てしたんだ。
活用してくれなくては、本当に困る。
このままでは俺はただの頭のおかしい奴だ。
「す、すみません。久志に連れて行ってもらいます……」
「……そうか。それなら行ってくると良い」
数学教師はそれっきり興味が無くなったのか、数式の続きを書き始めた。
今はそんな事をしている場合ではないのに。
出ていく前に体育教師を見た。
校舎に向かってきている。
それだけ確認して、教室を出た。
すぐに廊下を二人で駆け出す。
「どうすんだよ、秀……!?」
「とにかく、杏奈だ。話はその後」
秀は分かってくれていた。
まずは幼馴染である杏奈の身が最優先だ。
杏奈たちのクラスは美術の時間だったようで、教室はもぬけの殻だった。
すぐに美術室に向かう。
道すがら、ロッカーの中からT字型のほうきを一つ拝借しておいた。
何を思ったのか分からないが、必要だと思ったからだ。
最悪を考えれば、これを使うときも来るかもしれない。
すぐに美術室には着いた。
運よく先生はおらず、生徒たちがにぎやかに絵をかいていた。
目的の杏奈は画材を広げ、教室の中央で絵を描くのに勤しんでいた。
俺は教室の前で待ち、秀が杏奈に会いに行った。
それが普通。
幼馴染とはいえ、付き合っていない方が会いに行くのもおかしい。
内心かなり焦りながら、二人が出てくるのを待つ。
体育教師がいつ校舎に入ってくるか分からない。
それから三十秒程度待っていると、茶髪をセミロングで切りそろえた杏奈が秀と一緒に出てきた。
紺色の制服に身を包み、胸元が押し上げられるその大きな胸。
一瞬、何を考えているのか分からなくなった。
今はそんな場合じゃないだろう。
杏奈は俺が持つほうきに目がいった。
「掃除でもするの?」
「無駄口叩いてる場合じゃない」
秀、と呼びかける。
秀もあぁ、と返すだけで走り始めた。
「どうする?」
走りながら聞いた。
そこに杏奈が口を挟んできた。
「前園が京子ちゃん殺したって本当なの? 嘘だったら二人とも後でぶっ飛ばすから」
杏奈が強気で苛立ちを隠そうとしない。
「嘘だったらそれでいいよ、杏奈。でも俺も久志も見た。今の前園は異常だ」
前園は体育教師の名前だ。新人の京子ちゃんを殺した容疑で、俺たちにマークされている。
マークというよりは、危険視だ。
殺人鬼が校舎内にいるというのは、かくも恐ろしい事なのか。
「他の奴に言わなくてもよかったのか?」
秀の聖人振りなら、全員に何かしらの情報を渡すかと思っていた。
「遅かれ早かれ情報は回る。杏奈と先に合流したかったんだ。――ほら、来た」
ピーキューという独特の放送音が鳴った後、教師が喋り始めた。
「た、高橋さんが本校を訪れました。至急、生徒の皆さんああああああ!! 来た!! 来るな!! やめて!! 食べ……! たすけ、助けて!! ゴゲッ……!」
激しい競り合いの音が、スピーカの奥から流れ出す。
放送していた主はどうなったのか。
本当なら、『高橋さんが本校を訪れました。至急、生徒の皆さんは運動場まで集合してください』となるはずだった。
これは不審者が学校に侵入したというこの学校独自の暗号だ。
この訓練は何回も繰り返されている。
「まずいな……」
秀の一言には、すべてが込められていた。
顔を見合わせ、取るべき行動を取る。
「昇降口に行くか!?」
「駄目だ! すぐに全校生徒が殺到する!」
「なに、なに、なんなのよ!?」
校内がざわつき始めた。
今も激しい雑音がスピーカの奥から流れ出している。
これはもう間違いない。
体育教師の前園は確実に暴走している。
俺たちはまだ犯人を知っているからまだましな方だ。
他の生徒たちは誰か不審者が、校内に侵入し、無差別に人を襲っていると考える。
この状況で冷静な対応ができるほど、俺たちは訓練を積んでいない。
「屋上に行くぞ!」
秀の決定に俺と杏奈は従わざるを得なかった。
秀なら大丈夫。
秀の選択なら信用できる。
秀の背中を見ながらほうきを片手に階段を駆け上った。
屋上に行く経路は一つしかない。
この学校の構造は、二つに分かれている。
今俺たちがいるA棟は、4階に図書館が鎮座しているため、屋上には登れない。
屋上があるのはもう一つある校舎のB棟だ。
そこまで行くには、二階か三階にある渡り廊下を渡るしかない。
俺たちは二階から三階に移動して、その渡り廊下を渡ろうとした。
その時。
スピーカーから流れていた音声が、プッツリと途絶えた。
その瞬間、爆発したように校内が混乱の渦に巻き込まれていたのは、渡り廊下に居ながらも分かった。
叫び声が校舎内に轟き、全員一斉に階段を駆け下りようとしている。
すぐに渋滞が発生し、火災訓練の『おはし』が守られている様子はない。
押さない、走らない、喋らない。
全ての約束が破られ、我先にと透明な殺人者から逃げようとしていた。
渡り廊下の先にある階段からは屋上に行けそうになかった。
「秀!」
「右に曲がればまだ階段はある! 遠回りだけど、そっちから行くしかない!」
殺到する下り階段をしり目に、俺と秀、杏奈は右に曲がった。
杏奈はもう真っ青だった。
こんな時に女を出すなよ。
いつもは勝気な女のくせに。
この学校は通常、三つ階段がある。
西、中央、東。
今殺到している中央の階段から屋上に上る事は断念した。
西か東の階段に移動しないと、屋上に行く事は叶わない。
人混みに逆流する事数十秒。
ただひたすら進んだ。
このまま流れに乗った方が良いんじゃないか? なんて秀の決断に違和感を覚え始めたころ、前方に一人、やばいのが立っていた。
「前園……!」
体育教師の前園が立っていた。口元は真っ赤に染まり、青色のジャージは赤く変色していた。
目が虚ろで、何も映していないように感じた。
もう三階まで来ていた。
これは、最悪だ。
歯を食いしばる。
俺たちも逃げればよかったんだ。
流れに逆らわなかったら、今前園に会う事だけはなかった。
「そんな、本当に京子ちゃんを殺したの……!?」
杏奈がその場で口を押える。
目には若干涙が浮かんでいた。
「どうすんだよ、秀!? 逃げんのか!?」
逃げの提案をしたところで、後ろから叫び声がし始めた。
阿鼻叫喚だ。
断末魔だ。
「どこに逃げるんだ、久志?」
そんな馬鹿な。
殺人鬼は目の前の前園一人のはずだ。
なのに後ろから叫び声が上がるだと!?
「い、いや、事故だ! 誰かがこけて将棋倒しになった叫び声に違いない!」
「そ、そうよ、秀! 逃げましょう!」
杏奈も強調して、逃走案を持ち上げた。
しかし秀は一歩前に進む。
「仮に逃げてもあれだけ渋滞してたら、絶対に追いつかれる。逃げるのは無理だ」
秀がボクシングのような構えを取った。いや、空手か。
秀は有段者だ。たとえ体育教師が相手でも、勝てないという事はない。
それでも――。
「やんのかよ!? 秀!」
「犠牲になった先生方の仇を取るッ!」
ダッと秀が駆けだした。
ファイティングポーズを意識しながら、前進する。
前園は虚ろな目で秀を見ている。
何も言わないのが不思議なくらいだ。
普段ならうるさいくらいキレるのに。
後ろで何もしていない俺が心配する事ではないが。
「シッ!」
秀が先制攻撃を仕掛けた。
掛け値なし、正真正銘の正拳突きが前園の顔面をとらえた。
歓声も無く、その光景を見つめる。
前園がたたらを踏んだ。秀が畳み掛けた。
コンビネーションのとれた拳が、前園の体を連打する。
顔面を中心に殴りまくる。
前園はやられっぱなしだ。
心配するなんておこがましい。
殺人鬼相手でも秀は引けを取っていない。
すげぇ。
いいぞ。
「やっちまえ、秀!」
隣では杏奈が手に汗握り、真剣な表情で戦いを見守っている。
「セェア!!」
一本取りに来た。
体勢を崩した前園の側頭部に、上段蹴りが叩きこまれた。
百八十度開脚したのではないかと思うほど、綺麗な上段蹴りだった。
関節が柔らかく、しなやかな蹴りが、鞭のように炸裂した。
ドゴッと音がして、前園が勢い余って廊下にはめ込まれている窓を突き破った。
窓ガラスに頭から突っ込んで、凄い音がした。
「おっしゃぁ!」
「凄い!」
何もしていない俺たちが一番喜んでいた。
ふと、昔の事を思い出した。
小学生の時に秀の空手の大会を応援しに行ったことだ。
こうやって後ろから杏奈と二人で、秀の背中を応援していた。
あの頃は純真に秀を応援していた。
ただの友達として。親友として。
はっとした。
頭を振る。
今はそれどころじゃない。
「やったな、秀」
それでもいつかあの時のように応援できれば。
それは楽しいかもしれない。
昔のように秀がハイタッチを求めてきた。
照れくさい奴だ。
それでも、今なら――。
俺がゆっくりと手を上げようとすると、杏奈が金切声をあげた。
「秀、後ろ!!」
ハイタッチを躱した瞬間、前園が動き出した。
パァンと俺と秀の手が重なり合い、音が鳴る。
それがスタートの合図かのようだった。
前園が秀に狙いを定め、無防備の首筋に噛みついた。
「ッぁああああああぁああ!!」
一拍置いて、秀が痛みに呻いた。
しかし秀は冷静だった。
右首筋をかまれたが、すぐさま右裏拳で前園の顔面を強打した。
振り返りざまに、前園の横っ腹に蹴りを叩きこんだ。
またしても前園は窓ガラスを突き破るが、すぐに復活した。
「あんな血だらけなのに、なんで……?」
その疑問は俺にもあった。
杏奈の疑問ももっともだ。
血はともかく、秀の空手の技を何度も喰らいながら、何故そんなにピンピンしている。
普通は激痛にのた打ち回るか、意識を手放したっておかしくない。
秀が痛みに片膝をついた。
首筋から血が流れ出している。
俺では前園には勝てない。
秀が勝てない相手に、どうやったらズブの素人の俺が勝てるというんだ。
武器であるほうきは手放さず、秀に腕を掴んだ。
「逃げるぞ!」
あんなやつとは戦わない方が良い。
後ろが混雑しているなら、上に行くだけだ。
「杏奈も走れよ!」
「わ、分かった」
くそ。
使えなくなってる。
もう頭が一杯一杯になってるんだ。
杏奈が特別強い訳では無いが、陸上部で全国に出場するほど素養は高い。
ある意味天才という奴だが、杏奈のキャパシティは異常に小さい。
常識外の事が起こると、すぐにオーバーヒートする。
普段はウザいくらいの奴なのに、こうやって予想外の事が起こると、すぐにしおらしくなる。
「いいな、絶対止まるなよ!」
杏奈に命令を与えておく。走るだけなら全国レベルだ。
とにかく逃げる。
今はそれだけしか考えられない。
秀の肩を担ぎ、のろのろと進む。
後ろからは前園がゆっくりとではあるが、追いかけてきていた。
やばいって。マジでやばい。
どれくらいヤバいかっつーと、命がやばい。
こんな所で死んでたまるかっつーの。
まだ俺童貞だし。
それどころじゃねーよ。だから馬鹿にされるんだよ。
杏奈が俺たちを追い越した。
走れって言ったけど、あんなに爆走しなくても良いだろ。
「久志、大丈夫だ。もう、行ける」
隣で秀がそう言った。声音はとても苦しそうだ。
だが、今はちんたらやってる場合じゃない。
秀の言葉を信じる。こいつの言うことは正しいんだ。
屋上に逃げればいい。
あそこは机が大量においてあって、バリケードになる。
扉の前にたくさん机を積んでおけば、前園は開けられない。
下に降りるよりか、はるかに安全な策だ。
俺は秀の肩から手を放し、自分一人で走る。
秀も首筋を押さえながらだが、走り始めた。
「前園は……!?」
遅い。フラフラしているようにしか見えない。
その内バッタリ倒れそうだ。
廊下を左に曲がり、階段を駆け上る。
すぐに屋上への扉が見えた。
杏奈が扉を開けて、待機している。
俺、秀の順番で屋上へと入り、すぐに扉を閉めた。
そしてたくさんある使い物にならない机たちを扉の前に積んでいく。
力の限り積んでいく。
何個も扉の前に積んでいると、ガンと扉が叩かれた。
「ヒッ!」
杏奈が後ずさる。
前園だ。
もうきやがった。しつこい奴だ。
「ここはもういい。他の所も積んで、おこう」
秀が息を荒くしながら、指示を出した。
屋上には三か所出入り口がある。
同様にしておかなければ、前園が違う扉から侵入する恐れもある。
「久志が遠くの方を、頼む」
強く頷いて、すぐに作業に取り掛かった。
しかしこれはもう一つの事を意味している。
生徒たちは実質、屋上には来る事が出来ない。
秀は現状を打破するため、他の生徒たちを犠牲にしようとしている。
しかしだ。
前園のターゲットは俺たちのようだし、他の生徒が狙われる可能性は少ないだろう。
扉の前に十分すぎるほど机を積んで、秀たちのもとに戻った。
秀は座り込んで、肩で息をしている。
「ど、どうしよう、久志……」
「ど、どうったって、血を、止めるんじゃねーのか? ハンカチとかないのかよ?」
「そ、そうね。それが良いわ」
杏奈はポケットからハンカチを取り出して、秀の首筋に当て始めた。
それを見ながら、スマホを手に握った。
「なにしてるの?」
「警察呼ぶに決まってんだろうが。あんな殺人鬼がうろついている所に居れるか」
110番通報を即座に打ち込んで、スマホを耳に当てた。
すぐに応対があった。
「学校で殺人が――」
『これは録音です。ただいま110番通報が集中しているため回線が込み合っております。そのままお待ちになるか後ほどもう一度かけ直すかしてください。繰り返します――』
独特のピー音とともに、女の声で録音の声が流れた。
は?
これが普通なのか?
もっと、こう。
すぐにオペレーターとかが、応対してくれるんじゃないのか……?
「どういうことだ?」
もう一度かけ直すが、反応は変わらない。
録音の音声が繰り返されるばかりだ。
すると下から声がし始めた。
いや、背けていたという方が正しい。
本当は気が付いていた。
これが現実である事くらい。
屋上の縁へと移動して、柵に身を寄せた。
グラウンドを見る。
「そんな、バカなことが……」
グラウンドは地獄絵図と化していた。
生徒たちが生徒たちに襲い掛かる。
じゃれているんじゃない。
本当に殺している。
捕まった生徒は腹を食い破られ、血に伏せ、死亡する。
全校生徒が逃げようとしているが、それは叶わない。
多くが前園のように殺人鬼と化し、殺しを続けている。
まるでどこかのB級映画だ。
屋上から見ると、町のあちこちで火の手が上がっていた。
黒い煙が数本立ち上っている。
火災だ。
ここからでも分かるくらいの火勢で燃え上がっている。
「なんだよ、これ……」
すると、バラララとヘリコプターの音がした。
迷彩色の柄。
自衛隊のヘリ。
詳しくはないから分からない。
でもあの色は確実に自衛隊だ。
助けに来てくれた。
「おおおおい!! こっちだ、こっち! そっちじゃねーって!!」
大きく手を振って助けを求める。
ほうきも振ってアピールするが、虚しく失敗に終わった。
「ははっ、馬鹿みてーだ」
手を下ろして、苦笑いを浮かべた。
秀は余裕なさげな笑顔を浮かべた。
ハァハァと荒い呼吸を繰り返している。
脂汗もすごいし、痛みで動けないように見えた。
「……何かの任務なんだろう、な。じゃなけりゃ、あんなひどい光景を見逃すはずがない。つまり」
「あちこちで、こんな事が起こってる?」
理解するだけで手いっぱいだった。
いや、理解できている奴なんているのだろうか。
「んだよ。つまり、俺たちはどうすれば良いんだよ?」
秀は座ったまま、下の状況について説明を求めた。
「下は、やばい。皆殺し合ってる。殺し合ってるっていうか、一方的な殺戮だ。どうにも前園みたいなやつ。あんまり使いたくねーけど、ゾンビみたいな奴がたくさんいる」
「ゾンビ、か……」
秀がこの世の終わりのような顔をした。
「『奴ら』は」
「『奴ら』?」
杏奈がかいがいしく世話をしながら、そう秀の言葉を遮った。
「下に、いる連、中の事だ。映画とかじゃ、ないんだから、ゾン、ビなんて呼べない。『奴ら』だ。簡単、だろ?」
途切れ途切れになりながらも、秀は懸命に話す。
「ここも、安全じゃ、ない。すぐに、移動、した方が良かった。屋上になんて――ガハッ、ゴホッ!」
秀が咳き込み、頭を抱え苦しみだした。
大声を上げて屋上の床で暴れ出した。
ついさっき見た前園のようだった。
秀が懸命にその場で止まり、四つんばいになりながらこっちを見た。
視線が錯綜する。
本気の目だった。
「殺して、くれ」
俺は一瞬、何を言っているのか分からなかった。
杏奈もきょとんとしている。
「俺も、噛まれた。『奴ら』に、なってしまう。そんなの、嫌だ……!」
ぐぁぁあと秀が苦しみだす。
本当に苦しそうだ。目を剥き、頭を抱え、髪の毛を毟る。
「頼む!! 殺してくれ!! 人間のまま死にたい!!」
必死の叫び声に俺は戸惑う。
「『奴ら』に、なりたくないんだ! 久、志ぃ!!」
涎を垂らしながら完全に人の姿を放棄したかのような形相になっている。
吐血こそしていないが、胃の内容物をすべて吐き出している。
俺は震えながら、右手に握るほうきを見た。
手が震える。
ほうき?
ほうきで人が殺せるのか?
「頼む!!」
チラリとグラウンドに目を向けた。
腹を喰われてるやつ。足を喰われてるやつ。
『奴ら』になった奴。
もうじき、秀も『奴ら』になる。
そうなれば、下のようにここも安全じゃなくなる。
それにすぐそばの扉では今も、前園が扉を叩いている。
すぐに決断しないと。
すぐに。すぐにだ。
ほうきを振り上げた。
T字型のほうきの角で、頭を叩けばいい。
思いっきり。
全力で。
しかし杏奈が俺と秀の間に立ちふさがった。
「やめて! 秀は『奴ら』になんてならない! そんな事しなくても、秀は感染してないわよ! そのほうき下しなさいよ!」
杏奈は手を広げ、絶対に秀を守るという気概を見せていた。
全国クラスの運動選手にガンを付けられて、俺が大丈夫なはずがない。
内心かなり怯えながら、震える心を叱咤した。
「秀はあんな『奴ら』にならない!」
それを何度も繰り返し、その場を離れようとしない。
「ひ、ひさし。も、う。限、界……」
秀。秀。秀。
涙を流す。
俺を罵る杏奈も涙を流していた。
「こ、ろして、くれ……!」
最後にその一言を絞り出した。
その一言は、自分のためだけだったのだろうか。
それとも恋人の杏奈を慮って? そこに俺は入っていたのだろうか?
今となっては知る由もない。
秀は苦しむのをやめた。
ゆっくりと立ち上がった。
杏奈が振り返った。
「秀……?」
終わっている。
この世界は。
「大丈夫……?」
そんな訳ない。
「大丈夫よね……?」
希望的観測は捨てろ。
杏奈の肩を掴んで、後ろに引っ張った。
「キャッ!」
杏奈は尻餅をついて、俺に非難と罵声を込めた悲鳴を。
浴びせかけた。
「いやああああああああああああああ!!」
俺は親友の頭を、殴り砕いた。
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