着物の種類
着物は、日本の伝統文化のひとつです。着物は長い間歴史の中で受け継がれてきました。
最近は、普段洋服を着ていますが、今も着物がずっと残っているのは、着物が綺麗だからという理由だけではないのです。

着物は、元々日本の文化に溶け込みやすく日本人向けに作られたということもあり日本人の身体、顔立ちにとても合います。
四季のある日本の風土に合っているんです、そんなわけで、着物についてまとめてみましたので、是非参考にしてみてくださいね。


街でめったに見かけることがない着物姿。粋に着物を着こなしている人をみると、「素敵!」と思いませんか?

成人式や結婚式などで着物を着るのは一大イベントですが、もっと気軽に着られる着物でお出かけしてみるのも楽しいものです。

着物には種類や格があり、どんなシチュエーションで着るのか、どんな帯と組み合わせると良いのかが決まっています。

プライベートで着て楽しむならさほど気にする必要はないですが、知識をつけておくと着物関係の買い物をするときなどに便利。これから着物にチャレンジするなら知っておきたい着物の種類についてご紹介します。


1: 生地の格

格上の「染めの着物」

染めの着物とは、白い着物生地に手書き・絞り・型染めなどで後から柄を染めたもの。振袖や留袖などのフォーマルな着物は染めの着物です。

格下の「織りの着物」

織りの着物は、色が付いた糸を織って模様をつけたもの。つむぎやウールの着物がこれにあたり、カジュアルな普段着として使われます。

帯の格

帯の場合は着物と逆に、織りの帯が格上、染めの帯が格下になります。染めの着物には織りの帯が、織りの着物には染めの帯が似合うと考えられています。

2: 着物の種類

黒留袖

既婚女性の最もフォーマルな着物。黒地の着物の裾まわりに模様が染めてあります。背中・両脇・両袖の5箇所に家紋を入れます。結婚式で新郎新婦の母や仲人などが着るものです。

振袖

未婚女性の最もフォーマルな着物。袖丈が長いほど格式が高いとされます。成人式や結婚式のほか、パーティーなどでも着られます。

色留袖

黒留袖の色違いバージョンで、未婚既婚を問わずに着ることができるフォーマルな着物。紋の数が少ないものもあり、少ないほど格が下がります。

訪問着

色留袖の次にフォーマルな着物。反物を裁断してから染めているので、袖や方の部分から裾まで一続きの模様が入っています。紋を入れることもでき、紋があると格式が上がります。

付け下げ

訪問着よりも少しだけ格が劣ります。ややフォーマルなオシャレ着です。反物のままで染めるのが訪問着と違うところ。

色無地

単色の無地の着物です。紋をつけると訪問着と同格になり、紋がなければオシャレ着として着られます。シンプルなだけに、帯との組み合わせで着こなしの幅が広がります。

小紋

全体に柄が染められたもの。カジュアルなオシャレ着です。華やかな帯と組み合わせれば、ちょっとしたパーティーにもむいています。

つむぎ

織りの着物。カジュアルで気軽に着られる着物です。




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帯の種類

帯にも「格」があります、着物との格を揃えてコーディネートしましょう。

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日本の茶道
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茶道の歴史

初めて中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれている。

茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。当時中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の半発酵茶と考えられている。この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色である。 当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。

鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。

室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。

わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。

江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態:家元制度が確立した。また、表千家七代如心斎、裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた(禅の極端化にも共通する過度の精神主義であるし、「粋な自分」を誇示する、本来の茶道とは外れた行為でもある)。

他方でこのような遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されるようになる。この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのである。

江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた。同時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶に改めて煎茶の作法を定めたのが煎茶道である。煎茶道は漢詩の文人文化を中心に広まり様式確立されていった。煎茶を好んだ著名人として江戸初期の石川丈山、中期に上田秋成、後期には頼山陽の名が挙げられる。

明治時代になると、封建制度が崩壊し、諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥るようになった。そうした中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移して茶道再興に努めた。努力の甲斐あって有力財界人の関心を呼び、茶道が女子の教養科目として組み込まれた。このため茶道は、本来のわび茶とは別の「女子の教養」としての要素も獲得し、今では美しい着物姿での華やかな茶会が当たり前になっている。また明治の同時期に鳥尾得庵、田中仙樵(後に大日本茶道学会を創設)は、利休が千家三流派など各流派へ茶道を分けたのではなく元々一つの流であったと唱え、多くの流儀の茶人達の旧幕時代からの伝承を一堂に集めて研究し、その成果を一般人へ発表することで日本の茶道を再び創り出そうとした。戦後は海外にも茶道は広まり、茶道の大衆化は世界的レベルとなっている。




日本文化の総合芸術

茶道は、抹茶を飲み楽しむ事に様々な文化が加わって発展ました。
つまり、茶室や庭など住まいに関する空間、茶道具を選んだり鑑賞したりする工芸、そしてお茶会(茶事〔ちゃごと〕)に出てくる懐石料理や和菓子などの食、客人を気持ちよくもてなすための点前〔てまえ〕作法が融合した総合芸術です。

さらに、茶道は禅宗(※)と深く関わり「わび・さび」という精神文化を生み出しました。
「わび・さび」とは、わびしい、さびしい、という満たされない状態を認め、慎み深く行動することを言います。 茶道においては、この「わび・さび」の精神を大切にし、茶室という静かな空間で茶を点〔た〕てることに集中することで心を落ち着かせます。その事によって自分自身を見直し、精神を高めます。
また、茶道では「一期一会」という言葉があります。これは「人との出会いを一生に一度のものと思い、相手に対し最善を尽くす」という意味の言葉です。
茶道ではこれら精神にのっとってお茶をたてる事を大切にしています。

※禅宗…中国から伝わった仏教の一つ。座禅の修行で有名です。

起源・歴史禅宗との深い関わり

茶道はもともと唐(618~ 907)の時代の中国から伝わったと言われています。 茶道の精神は禅宗の考え方に基づいており、鎌倉時代、日本全国に禅宗が広まるのと共に茶道も全国的に広まりました。 そして、室町時代の華やかな東山文化のもと、茶の湯が成立しました。その後、安土・桃山時代に千利休〔せんのりきゅう〕が侘茶〔わびちゃ〕を完成させ、 これが現在の茶道の原形となりました。千利休の死後、茶道は子孫に受け継がれ、 表千家〔おもてせんけ〕、裏千家〔うらせんけ〕、武者小路千家〔むしゃのこうじせんけ〕の、いわゆる三千家の流派が生まれました。 流派としてはこの三千家を中心に多くの流派が生まれ、現在では日本国内のみならず、海外からも注目されています。

礼儀・作法・形式・心得点前の手順

茶を点てること、そしてその作法の事を点前と言います。

その手順は

(1)茶碗に抹茶を入れて釜の湯を注ぎ、茶筅〔ちゃせん〕(竹製のお茶を点てるための道具)でかき回し泡立てます。
(2)手で茶碗を取り、左の手のひらにのせ回し飲みます。茶碗には正面があり、運ばれてきたときに向けられた側が正面になります。 お茶をいただくときに、この正面を避けるため、茶碗を回して飲みます。
(3)飲んだ後を指先でぬぐい、指は懐紙〔かいし〕(茶席で、菓子を取り分けたりするのに用いるもので、たたんでふところに入れておく紙)で拭きます。

礼儀作法だけでなく、茶碗などの茶道具を始め、茶室や茶庭などの鑑賞、客人との心の交流なども大切にします。




華道
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華道とは、四季折々の樹枝・草花などを切って花器に挿し、その姿の美しさ、いのちの尊さを表現し観賞する芸術です。 茶道などの他の諸芸と同様、礼儀作法を大切にする日本の伝統的な芸術です。

特徴生活様式に根付いた芸術

華道では、草木や花を人間と同じいのちのあるものとして見つめ、その美しさを花瓶の上で表現します。
日本の伝統的な芸術である華道は、師から弟子へ伝承されてきました。 「相伝するのにふさわしくない者に相伝するのは、道の廃れる要因である」という考え方から、師は弟子へ厳しく稽古を付けます。それは、花の技術だけではなく、人間的な面・生き方といった思想的なものにまで及びます。この点では、茶道など日本の伝統的な諸芸とも通じています。 現在華道の流派は、華道家元である池坊を中心に全国に2000~3000程あります。

起源・歴史書院造の完成と共に

花を飾る文化は太古の時代、仏前へ草花をお供えする事(供花)から始まりました。
やがて仏教の渡来と共に供花と結びつき、人々の生活において様々な場所に草花が飾られるようになりました。 その後、室町時代の華やかな東山文化の下、床の間がある書院造りの建築様式の完成によって、花は決められた方法に従って生けられ、床の間に飾られるようになります。日本の生け花は正面から見て最も美しく見えるように生けていきます。これは、床の間に飾って鑑賞する際に最も美しく見えるようにする為です。この頃から、草花には人間と同じいのちを持つものとする思想が生まれ、華道が完成しました。江戸時代中期以降、庶民が手軽に生けられる「生花(生け花)」が広まり、様々な流派が生まれました。 現在では、日本の伝統文化として海外でも注目されている芸術の一つです。

礼儀・作法・形式・心得花は人の心

「花は人の心である」という言葉があります。
つまり花を生ける時、花をみつめて感じる感情、あるいは理想とする美しさを花に探し求め、花に託して表現するという事です。

花を拝見する場合、以下の作法に則って拝見します。

(1)拝見する場合は、床の間から畳一帖へだてた位置に座り、花へ一礼して拝見します。
(2)全体の構成、花材のとりあわせ、花器、花台までをよく拝見して、花を生けた人へ感謝の一礼をします。

自由花の場合、拝見する特別な作法はありませんが、あらたまった席で拝見する場合は生けた人に対して挨拶して拝見するのが礼儀とされています。




書道
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書道とは、日本古来の筆記用具である、毛筆と墨を用いて、漢字や仮名文字を芸術的に表現する日本の伝統芸術の一つです。

特徴毛筆と墨で書く

書道は漢字や仮名文字を毛筆と墨で書きます。
精神を集中させ、心の内面を書体によって表現する事を目的としています。 同じ文字でも強さやしなやかさ、太さ等の違いが生まれ、その文字の整い具合や、筆の運び方、墨の濃淡、全体の配置の美しさ、そしてその文字の持つ意味といった観点で鑑賞します。
現在でも、正月二日には、めでたい言葉や詩歌を書く「書初め」の儀式が広く行われています。 ワープロやパソコンが普及している現代では、毛筆を使う機会が減少していますが、書道教室に通ったり、通信教育などを通じて書道は人々に嗜まれています。

起源・歴史不可欠の教養として

書道はもともと中国で発達したもので、日本には6~7世紀頃の奈良時代に、筆・墨・紙の作り方と共に伝わりました。
筆と墨を使って文字を書く事は、貴族や武士にとって不可欠な教養とされ、時代と共に一般の人々の間にも広まりました。 現在でも、冠婚葬祭の行事や年賀状など、墨と筆を用いて字を書くというように、日本人の生活に根強く溶け込んでいます。

礼儀・作法・形式・心得基本所作

書を習得するには筆法・姿勢など基本をきちんと学ぶ必要があります。
すずりのくぼみの部分に水を少し入れ墨をすると、墨がだんだん溶けて墨液ができ、この間に精神を集中させます。筆に墨をつけ、親指、人差し指と中指で筆の中ほどを持ちます。この時、筆は鉛筆で書くときよりもまっすぐに立てて書きます。姿勢は、背筋を伸ばし、左手で用紙を軽く押えます。

三種類の書体

文字の書体は、以下の三種類があります。

楷書〔かいしょ〕…一点一画をくずさず、きちんと書く書き方。
行書〔ぎょうしょ〕…楷書の点・画をくずした書き方。
草書〔そうしょ〕…行書をさらに崩し、点・画を略した文字




香道
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香道とは、一定の作法に基づいて香木をたき、その香りを鑑賞して楽しむ日本の伝統芸能です。
茶道や華道と同時期の華やかな東山文化のもとに成立しました。現在、「御家流〔おいえりゅう〕」と「志野流〔しのりゅう〕」の二つの流派があります。

特徴古典文学との結びつき

香道では、香りを「嗅ぐ」という表現は使わず、「聞く」といいます。
香元が、点前〔てまえ〕(香をたく一連の動作)をし、その香炉が客の間をまわり、客は香りを味わうというものです。香道の作法や香席の流れは茶道と似ていますが、一点だけ茶道との大きな違いがあります。それは「香りを当てる」というゲーム的要素があるということです。 ただし、「香りを当てる」ことが第一目的ではなく、香りそのものを味わい楽しむこと、そして香りによって浮かぶイメージのなかで感性を磨き、自分を高めることを目的としています。

香道の席(香席)で行われる「組香〔くみこう〕」というものがあります。組香は、2種類以上の香を使って一つのテーマを表現し、鑑賞するもので、テーマは和歌や古典文学に基づくものです。客は香りで表現された古典文学の世界を鑑賞し、香りを聞き分けます。

つまり、香道は香りを楽しむことを基本に、香りにまつわる古典的な詩歌や文学作品とも深く結びついていると言えます。

起源・歴史貴族の遊びから芸道へ

今から約1400年前の推古天皇の時代に一本の香木が漂着したのが日本で初めての香木の渡来です。
その後、仏教の伝来とともに香木は日本に伝わり、仏教儀式には欠かせないものとして、香木は発達しました。8世紀ごろ上流階級の貴族の間で自分の部屋や衣服、頭髪などに香をたきこめる「空薫物(そらだきもの)」の風習が生まれ、その流行に従って薫物合〔たきものあわせ〕という遊びが盛んになりました。二種類の薫物を調合して、その技術や匂いの優劣を競うものでした。そして、室町時代の華やかな東山文化の下で一定の作法やルールが作られ香道として完成しました。江戸時代に入り、香道は貴族だけのものではなく、一般の町民・庶民の間にも広まり香道は日本の伝統芸術として確立しました。

礼儀・作法・形式・心得香席でのマナー

・香炉の扱い方
香炉が自分の所へ回ってきたら、左手の上に水平にのせ、右手で軽く覆い、親指と人差し指の間から香りを聞きます。

・香の聞き方
背筋を伸ばし香炉を傾けないようにし、深く息を吸い込むようにして3回香りを聞きます。これを三息〔さんそく〕と言います。 吸った息は脇へ軽く逃がします。一人があまり長く聞き続けていると末席まで良い香りが保てないので、一人三息は必ず守らなければなりません。

・香席に入る時は、
香木の香りと混ざるため、香水・オーデコロン等匂いのあるものをつけてはいけません。身だしなみとして指輪、時計等もはずして香席へ入ります。服装は、男性はネクタイ着用、女性はスカート着用が好ましい服装です。




盆栽
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盆栽とは、陶磁器の鉢などで植物を育てながら、植物の姿の美しさを求めていく日本の伝統的な芸術です。
盆栽の種類としては松類が代表的ですが、花物・実物・草物・葉物など様々な種類があり、いずれも数10センチで実際の草木のミニチュアのようなものです。

特徴鉢の中の自然美

盆栽は、陶磁器で作られた鉢(盆)の中で草木を栽培する(栽)という意味です。草木が生育する過程の中で培養したり、姿を整えたりして、自然美をつくりだし、その美しさを鑑賞する芸術です。 盆栽の中には、代々受け継がれているものもあり、そのような盆栽は、数10センチの草木でありながら、自然の大樹を思わせるような存在感のあるものばかりです。現在盆栽は、わずかな鉢の空間の中に壮大な自然の美を表現する芸術として、日本国内のみならず世界各国で楽しまれています。

起源・歴史世界のBONSAIへ!!

盆栽は、平安時代の貴族が小さな器に草木を植えて棚に置き鑑賞したのが始まりとされています。 その後、室町時代後期の華やかな東山文化の繁栄と共に発展し、江戸時代には大名から町民まで幅広くひろまりました。 特に、江戸時代には多くの大名の間で、盆栽ブームがおこり、各々盆栽鉢専門の焼き物師を抱え、盆栽の競技会が開催されるほどになりました。この頃から「盆栽」という言葉が使われ始めたと言われています。その後、現在まで数々の素晴らしい盆栽が受け継がれ、外国での愛好者も急増し、「BONSAI」が世界各国から認められた日本の芸術の一つとして発展しました。

礼儀・作法・形式・心得思いやりを持ってお手入れを

盆栽を鉢の中で何十年も育てていくために、様々な手入れが必要になってきます。
その中から代表的な手入れ方法を紹介します。

・剪定〔せんてい〕
ハサミや専用の道具で枝を切る作業のことです。盆栽としての骨格を決める大切な作業で、バランスよく枝を切っていきます。
植物が生長する力をうまく利用して盆栽の形を整え、かつ盆栽の日当たりや風通しをよくして成長を助ける役目もあります。

・針金かけ
幹や枝に針金をかけて、その力を利用して樹に曲がりをつけたり、不自然な曲がりを直したりする作業です。
盆栽の姿を美しく整える為に行う作業ですが、それぞれの樹の性質と個性をつかんで、樹の良い面を引き出す事が大切です。

・植え替え
鉢の中でいっぱいになった根を切って、新しい土で植えなおす作業のことです。
鉢という限られたスペースの中で根がぎっしりとつまってしまうと、樹の成長を止め、空気や水の通りも悪くなってしまうので、定期的に植え替えをして、樹の生育を助けるために行います。




和紙
日本古来の製法による紙を和紙と呼びます。和紙は手漉〔す〕きによって作られているため、非常に強く吸湿性に富み、書画のみならず工芸用にも使用されています。また、伝統によって受け継がれた各地の特徴ある和紙は、その質や柄などの素晴らしさから日本を越え世界中で認められ、愛され続けています。

また、和紙は原料別に「楮紙〔こうぞし〕」「三椏紙〔みつまたし〕」「雁皮紙〔がんぴし〕」の三種類に分けられます。この三種類を基盤に、産地や製造法によって様々な種類の和紙が生み出されています。


楮紙
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楮を主な原料として生産された和紙は、強度に優れ障子、公文書、絵画、書道などに使われています。どこでも栽培できるという楮の特徴から、各地で生産されている最もポピュラーな和紙です。
原料となる楮はクワ科の落葉低木です。西日本の山地に自生し、繊維作物として各地で栽培されています。楮の繊維の長さは15~20ミリで強度に優れ、美しく、しなやかな仕上がりとなります。
主な和紙に、内山紙・越中和紙・因習和紙・石州和紙・阿波和紙・土佐和紙・大洲和紙などがあります。


三椏紙
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三椏紙は薄くて吸水性に優れているため、紙幣、印刷、エッチング、はがき、製本などに適しています。
原料となる三椏はジンチョウゲ科の落葉低木で、日本では暖地で栽培されます。高さ約2メートル。枝が三つに分れていることから、この名前がついたと言われています。三椏の繊維の長さは4~5ミりです。非常に滑らかで、吸水性に優れ豊かな光沢のある仕上がりになります。主なものに図引紙があります。また、現在の日本の紙幣は三椏を原料に作られています。
日本では17世紀につくりはじめられたと考えられ、江戸時代には駿河(静岡県中部)・甲斐(山梨県)で駿河半紙が多く作られ、明治期には高知県で柳紙、愛媛県で改良半紙などがつくられました。


雁皮紙
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雁皮紙は虫害に強く、耐久性も備えているので印刷、エッチング、日本画、写経などに使われます。
原料となる雁皮はジンチョウゲ科の落葉低木で西日本の山地に自生します。高さ約2メートルで、新枝・葉に絹糸状の毛があり、夏、梢上に半球状に並んだ黄色の小花を開きます。栽培が困難で自生のものに頼らざるをえなく、ごくわずかしか生産できません。
楮紙と混ぜて漉くことも多く、繊維の長さは4~5ミリです。虫害に強く耐久性に優れており、表面が滑らかで書きやすい仕上がりになります。
主なものに越前和紙・名塩和紙・加賀雁皮紙などがあります。




祝日・休日
祝日とは政府が定めた「日本国民の祝祭日」のことです。一方休日とは、業務・営業・授業などを休む日のことです。前者が一年の行事としてあらかじめ決められているのに対し、後者は個人が「お店を休む日」など自由に決めることができます。
1999年には休日法の改正によって、ハッピーマンデー制度が制定されました。これにより、土・日・月と休日を連続させるために、いくつかの祝日が月曜日に移行しました。
2005年4月現在、国民の祝日・休日は計15日あります。
「元日(1月1日)・成人の日(1月第二月曜)・建国記念の日(2月11日)・春分の日(3月の指定日)・みどりの日(4月29日)・憲法記念日(5月3日)・国民の休日(5月4日)・こどもの日(5月5日)・海の日(7月第三月曜)・敬老の日(9月第三月曜)・秋分の日(9月の指定日)・体育の日(10月の第二月曜)・文化の日(11月3日)・勤労感謝の日(11月23日)・天皇誕生日(12月23日)」




演劇・舞踊
「演劇」とは、俳優が舞台の上で脚本に従い、言葉と動作によって表現したものを観客に見せる芸術の事です。 俳優の動作・台詞〔セリフ〕まわし・脚本・音楽・装置・照明など、あらゆる要素が鑑賞の対象となる総合芸術です。

「舞踊」とは、音楽に合わせた身振りや手振りによって感情や意思を表現する芸能の事です。

「演劇・舞踊」は、日本古来から続いているものや、大陸から伝わったものが発展・融合して成立したものまでその個性は豊かです。 舞台芸術として、お座敷芸として、郷土舞踊として、その性質は様々ですが、人々の娯楽として、現在に至るまで人々の心を楽しませています。

日本文化いろは事典では、演劇・舞踊を 「い」特徴、「ろ」起源・歴史、「は」形式・構成・流派など という内容でご紹介しています。



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日本芸能の一種目。 通常は猿楽能〔さるがくのう〕を指します。
能専用の屋根のある舞台上で、シテと呼ばれる俳優が歌い舞う音楽劇です。
伴奏は地謡〔じうたい〕と囃子〔はやし〕で構成されています。
能面と呼ばれる仮面を使用する点が一番の特徴で、歌舞伎に次いで、世界的に知られている日本の舞台芸術です。

特徴和製ミュージカル

わかり易く言えば、和製のミュージカルです。能の物語は約250程あり、主人公のほとんどが幽霊です。 物語のテーマは、神仏への信仰、戦のはかなさ、乙女の恋心、女性の嫉妬、親子の愛情、妖怪退治など様々です。 能では、登場人物がシテ方(主役)・ワキ方(主役の相手役)・狂言方(狂言を演じる人)・囃子方(囃子を演奏する人)などに分けられます。
能の演技は、ゆったりとした動作で、喜怒哀楽の表現を最小限にし、笑い声や泣き声はなく、ジェスチャーで表現することが多いようです。
屋根のある能専用の能舞台は、地謡や囃子方が座る舞台奥の屋根に傾斜がつけられていて、音が前に響き易くなっていたり、舞台中央の床下には壺が埋め込まれ、足でとーんと床を蹴れば深い余韻を残したりと、随所に工夫されています。

起源・歴史田楽と猿楽の融合体

農民の間で生まれた田楽と、散楽から発展して寺社の祭礼と結びついた猿楽が融合し、能が誕生しました。能は、南北朝時代から室町時代初期にかけて発達しました。能の発展に大いに貢献したのが、観阿弥〔かんあみ〕・世阿弥〔ぜあみ〕親子で、「すぐれた面」・「リズムを主体とした舞」を取り入れ、能を舞台芸術 として確立させていきました。豊臣秀吉も大の能好きで自ら舞台に立つほどだったそうです。江戸時代中期に、徳川幕府の保護のもと現在の能の形が完成しました。その後の明治維新により一時は断絶しかけましたが、政府や皇室、財閥などの後援で復興し、現在まで日本の代表的な伝統演劇として存在しています。

形式能といえば能面

能の一番の特徴といえば、能面です。

能面は基本的に顔よりも少し小振りに作られていて、「かぶる」と言わず「つける」といいます。
顔が面から少しはみ出していても不自然でなくピッタリとフイットしているように作られています。

能面の種類は200以上ありますが、6種類に大別することができます。

※翁〔おきな〕系
御神体そのものとして使われる面。

※尉〔じょう〕系
神が仮の姿に身を変じてこの世に登場する老人の姿の時に使われる面。

※男性系
王朝の物語に登場する男性の主人公に使われる面。

※女性系
喜怒哀楽の表情がはっきりしない、中間表情をしている面。 面を照らしたり(あおむける)曇らせたり(うつむける)することで喜びや悲しみの表情を出します。

※鬼神系
邪悪、悪霊、汚れ、邪心等を追い払う怒りの表情をしている面。

※怨霊系
戦で無念の死を遂げた武将、殺生をして死後成仏できない亡者、嫉妬に狂う女性の表情などの面。




狂言
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日本芸能の一種目。
猿楽の滑稽な部分を劇化した最古の喜劇です。
能と併せて行われますが、能とは異なり、物まねの要素を含んだ写実的なセリフ劇です。

特徴滑稽な笑いの世界

狂言は能とほぼ同じ頃に発生し、セットで交互に演じられ発展していきました。
交互に演じる事によって、能の「幽玄の世界」とは正反対の「笑いの世界」へと観客の心を和ませてくれます。
狂言の登場人物は身近な親しみある普通の人々です。殿様や大名も出てきますが、だいたい家来にバカにされたり、ドジだったりします。狂言の主役を演じる人を能と同じく「シテ」と呼びます。また、シテの相手役を勤める脇役を「アド」と呼びます。
日常的な話し言葉を使っているので内容もわかりやすく演じられています。

起源・歴史祖先は散楽

奈良時代に中国から渡来した「散楽〔さんがく〕」が、平安時代に「猿楽〔さるがく〕」となり、猿楽本来の笑いの要素がセリフ劇となり、南北朝時代に「狂言」が生まれました。そして能と併せて発展し、能とは全く対照的な、日常的なできごとを笑いを通して表現するセリフ劇として庶民の間に広まりました。室町時代の後期に大蔵流〔おおくら〕・和泉〔いずみ〕流・鷺〔さぎ〕流が成立します。 現在では和泉流、大蔵流の二流が活動しています。

形式能とは対照的

能とは違って、一般に面は用いず、素顔で演じられます。
セリフが主体で、時には激しい動きを見せるなど、演劇に近いものです。 ほとんどが、3~5人の登場人物で、30分くらいの上映時間のものです。 能の多くが過去の世界を扱うのに対し、狂言は現実社会の人々が登場人物なので素顔で舞台に立つのが一般的です。面は能面ほど発達せず、神・鬼・精霊・老人・動物等の20種類ほどしかありません。しかしそれらの面は喜怒哀楽の表情が豊かなものです。


歌舞伎
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江戸時代に大成した日本の代表的演劇。
鎌倉・室町時代に大成した能楽、江戸時代に大成した人形浄瑠璃と並んで、三大国劇と呼ばれています。
女優の代わりに男性が女形を演じ、舞踊劇・音楽劇などの要素も含む演劇です。

特徴傾き者の演劇

歌舞伎の語源は「傾く〔かぶく〕」から来ています。
「傾く」とは派手な服に身を固めて、街を闊歩〔かっぽ〕した人々を「かぶき者」と呼んだことから生まれた言葉です。 もともと歌舞伎は江戸時代当時の現代劇であり、老若男女の一般大衆向けの大衆演劇として発展しました。 当時の風俗や習慣を劇中に取り入れていたので、誰もが理解でき、大衆の人気を得ました。 動的かつ、非常に華やかな衣装・舞台が特徴で、面は用いず、隈取〔くまとり〕と言う、様々な色・模様の線を顔に描いて演じます。

起源・歴史出雲の阿国

1603年頃、出雲大社の巫女・阿国が京都で念仏踊りを興行したのが初めとされています。
当時珍しい輸入品などを身につけ男装して踊ったため、異様奇抜なおどりという意味で「かぶきおどり」と言われました。 しかし風俗を乱すとの理由で1629年に女歌舞伎は禁止され、その後に登場した少年俳優による若衆歌舞伎も同様の理由で1652年禁止されました。それ以後は成年男子によって演じられるようになり、現行の歌舞伎の元となりました。 その後、江戸時代にできた古典歌舞伎、近代以降に新劇の要素を取り入れてできた新歌舞伎、そして現代に登場したスーパー歌舞伎へとそれぞれ時代の変化に伴って、新しいものへと進化を続けています。
現在では、海外でも積極的に公演されるようになり、世界的に日本の伝統芸能として浸透しています。

構成「歌」・「舞」・「技」

歌舞伎の要素は文字通り、歌=音楽、舞=舞踊、伎=演技・演出です。

・歌
歌舞伎音楽は、三味線音楽と共に発展しました。 大きく分けて「唄い物」と「語り物」に分けられます。
前者の代表的なものは「長唄」で、後者は「義太夫節」です。

・舞
歌舞伎舞踊は、その演目ごとに多くのレパートリーがあります。
どの舞も、その動作の美しい身のこなしが基本となっています。

・伎
感情表現の一つ一つを大げさに誇張して表現するのが基本的な演技術です。
演出・演技ともに「美」を追求しています。

歌舞伎はこの三要素の集大成というべき総合芸術として完成しました。



車人形
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車人形とは、人形遣いがロクロ車に腰をかけて、文楽人形と同等のものを一人で操れるように工夫した珍しい人形芝居です。人形遣いが、ロクロ車と呼ばれる台車に腰掛けて人形を遣うので車人形と呼ばれています。

特徴一人で操る人形劇

三人で一体の人形を操る文楽では、とても繊細で優雅な動きの演技が特徴ですが、一人で一体の人形を操る車人形は、力強い演技が特徴です。また、人形も大型で舞台装置も大掛かりなものになります。 文楽では、人形の足は空中に浮き、人形遣いが足踏みを足音を演じる表現方法を用いますが、車人形では人形の足が舞台を直接踏んで演技をするため、重力に縛られず、命を吹き込まれたかのように可憐で生き生きとした演技が可能です。 現在、東京都の無形文化財に指定されています。

起源・歴史郷土に根付いた芸能

車人形は、江戸時代末期に現在の埼玉県飯能市に生まれた山岸柳吉(初代西川古柳)によって考え出されました。 その後、近郊の神楽師(神事芸能を専業とする人)を中心に広まり、農山村の人の娯楽として親しまれてきました。 全国で車人形を受け継いでいるのは埼玉、奥多摩そして八王子の合わせて三座のみです。

操り方ロクロ車に腰掛けて

「ロクロ車」とは、前に2個、後に1個の車輪がついた箱型の車です。 人形遣いは、このロクロ車に腰掛けて、一人につき一体の人形を操ります。 人形の足のかかとについている『かかり』を足の指に挟み、左手で人形の左手と頭を、右手で人形の右手を動かします。 他の人形芝居と違って人形の足が直接舞台を踏みしめることができるので、力強い演技やテンポの速い演目を行うことも可能です。


浄瑠璃
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三味線音楽における語り物の総称です。室町時代に成立して、江戸時代に最盛期を迎えました。
人形芝居や、歌舞伎の音楽、あるいは純粋な語り物として広く庶民に愛好され、日本音楽の一大ジャンルを形成しました。

い:三味線伴奏で語る

浄瑠璃とは、三味線伴奏による語り物です。語り物とは、三味線で拍子を取りながら語って聴かせる物語の事を指します。江戸時代に入ると、浄瑠璃は多くの流派に分かれ、浄瑠璃は歌舞伎・人形劇などの劇場音楽として発展しました。現在は、「浄瑠璃」といえば、有名な一派である義太夫節〔ぎだゆうぶし〕を指すことが多いようです。また、浄瑠璃と人形劇を組み合わせた人形浄瑠璃の1つである文楽も有名です。

ろ:もとは浄瑠璃姫のロマンスのお話

もともと浄瑠璃は、扇や鼓〔つづみ〕で拍子を取ったり、琵琶の伴奏で語られていましたが、16世紀の室町時代に三味線の伝来とともに、三味線が浄瑠璃の伴奏に使われるようになりました。この時代に誕生した語り物の中に、牛若丸と浄瑠璃姫のロマンスを題材にした物語があり、人気を集めました。この物語の浄瑠璃姫の名前にちなんで、その後にできた語り物を浄瑠璃と呼ぶようになりました。また17世紀の江戸時代初期には、人形劇とも結び付き、人形浄瑠璃として人気を集めました。

は:上方の義太夫節、江戸の清元節・新内節

浄瑠璃は、語り手によって節〔ふし〕の語りまわしが違ったことから、演奏者の名前をつけて「○○節」という名前でよばれるようになりました。 代表的なものは上方(関西)で発展した「義太夫節〔ぎだゆうぶし〕」、江戸で発展した「清元節〔きよもとぶし〕」、「新内節〔しんないぶし〕」などがあります。

※義太夫節
人形浄瑠璃(文楽)の伴奏として演奏されます。登場人物の感情表現がはっきりしていているのが特徴です。
低音の力強い太棹三味線を、大きめの撥〔ばち〕で演奏します。

※清元節
高音で一音一音を延ばし細かく節に変化をつける派手で粋な曲節と、甲高い声を裏声で聞かせるのが特徴です。
演奏には、常磐津のものよりやや細めの中棹三味線を用います。

※新内節
初期は、歌舞伎に用いられていましたが、後に江戸の遊郭を中心に座敷浄瑠璃として流行しました。
演奏には、中棹三味線の中でも太めのものを用い、筝〔こと〕の義爪やごく小さい撥で細かく弾きます。



文楽
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文楽は人形浄瑠璃を受け継いだ、日本の伝統的な人形劇の事を言います。
もともと、江戸時代後期に人形浄瑠璃を蘇らせた植村文楽軒〔うえむらぶんらくけん〕と言う人物が創った劇場の名前だったのですが、いつの間にか芸能そのものをさすようになり、現在では正式名称となっています。

特徴一体の人形を三人で

文楽は、太夫〔だゆう〕・三味線・人形遣いの「三業〔さんぎょう〕」で成り立つ三位一体の演芸で、男性によって演じられます。 客席の上手側に張りだした演奏用の場所を「床」と呼び、太夫と三味線弾きが、ここで浄瑠璃を演奏します。 江戸時代後期までは、「操り浄瑠璃」または「人形浄瑠璃」と呼ばれていました。つまり浄瑠璃にあわせて演じる、操り人形芝居ということです。 文楽が諸外国の人形劇と違うところは人間の微妙な心の動きを描くところです。 そのために、人形の表現を多彩で豊かなものにする必要があり、一体の人形を3人で操ることによって細かな心情を表現しています。

起源・歴史歌舞伎の人気を超えた!?

16世紀末に人形舞わしの芸が、浄瑠璃と一緒に演じられるようになったのが、文楽の起源と言われています。 その頃は人形遣い一人で人形を操っていました。その後、竹本義太夫という人物がたくさんの浄瑠璃を統合し、大阪に竹本座を創設、「近松門左衛門」の作品を上演し、人気を集めました。特に「曽根崎心中」などは文学的にもすぐれた内容を持ち、演劇的に飛躍的な向上を得ました。その後もたくさんの作品が上演され、文楽人気は歌舞伎を圧倒していました。しかし、江戸時代後期には、その人気にも陰りがでてきました。そんな中、植村文楽軒という人物が、大阪の松島に文楽座という劇場を作り、人形浄瑠璃は「文楽」と呼ばれるようになりました。

構成・演目三位一体の芸能

文楽の演技は浄瑠璃語り、三味線弾き、人形遣いの三者で成り立っています。

※太夫
浄瑠璃を語る人のことです。いかにして浄瑠璃の内容を的確に表現し、登場人物の心を伝えるか、というのが使命です。
文楽では登場人物のすべてのセリフはもちろん、その場の情景から、事件の背景までを大夫ひとりで語ります。

※三味線
太棹三味線を使用します。演奏用の撥〔ばち〕は象牙で、厚く重いので重量感のある力強い音色を響かせます。
三味線は伴奏とは違い、情景を描き出し、心情を表現する事を大切にします。

※人形遣い
文楽では3名で人形を操ります。
主遣いが左手で首、右手で人形の右手を操作、左遣いが右手で人形の左手を操り、足遣いは両手で人形の両足を操ります。

時代物・世話物・景事

文楽の演目は「時代物」・「世話物」・「景事〔けいごと〕」の三つに分けられます。

※時代物
公家や武家社会に起こった事件や物語を題材にしたものです。江戸時代よりも前、平安から戦国時代にかけてが時代の背景となっています。
代表作:義経千本桜〔よしつねせんぼんざくら〕 etc.

※世話物
ちまたに起こった事件や物語などを題材にしたものです。庶民の日常がリアルに描かれています。
代表作:曽根崎心中〔そねざきしんじゅう〕 etc.

※景事
能狂言、歌舞伎などから独立したもので、音楽的で舞踊の要素がつよく、華やかでスピーディーなものです。
代表作:釣女〔つりおんな〕 etc.


獅子舞
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日本各地で、正月やお祭の時に行われる、獅子頭を頭にかぶって舞う民俗芸能の事です。
現在では日本全国地方によって様々ですが、主にお正月などの縁起の良い日に行われます。疫病退治・悪魔払いをするものとして大衆に広く信じられています。

特徴悪魔払いの儀式

日本での獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で飢饉〔ききん〕、疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれています。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞いが行われるようになりました。獅子舞が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代の初期のころに、「江戸大神楽師〔えどだいかぐらし〕」、「伊勢大神楽師〔いせだいかぐらし〕」と呼ばれる団体が全国を獅子舞を踊りながらまわり、悪魔払いをしたのがきっかけであると言われています。

起源・歴史インドから大陸を渡って日本へ

獅子舞の起源は、インド地方と言われています。 インド地方の遊牧民や農耕民の信仰で神として崇められていたライオンを偶像化させた獅子舞が生まれ、宗教行事の一つになったことが始まりと考えられています。 その後、チベット、中国、東南アジアへ伝わりました。
日本へは、中国、中国本土、朝鮮半島経由、東南アジア・台湾・琉球経由の三つのルートに分かれて伝えれられました。その後、それぞれの地域の人々によって独自の舞い方が形成され、宗教的行事や地域のお祭りに欠かせない郷土芸能として定着しました。

系統西の伎楽系と東の風流系

日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽〔ぎがく〕系と風流〔ふうりゅう〕系の二つの系統があります。

※伎楽系
獅子の頭につけた胴幕の中に二人以上の人が入って舞う、「二人立ち獅子舞」が多く、これは大陸から伎楽の一つとして伝来したもので伎楽系の獅子舞と言われています。本州中部以西の西南日本で多く見られます。

※風流系
関東・東北地方などで行われている鹿舞〔ししおどり〕と呼ばれるもので、鹿〔しし〕の頭をかぶり胸に太鼓を付けた一人立ちの舞いで、太鼓を打ちながら踊るものです。


上方舞
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上方舞〔かみがたまい〕は日本舞踊の一種です。
別名として、座敷で舞われる事が多いので「座敷舞」、地唄を伴奏とするので「地唄舞」とも言われます。

特徴一畳の限られた空間の中の舞

江戸の歌舞伎舞踊の流れに対し、京都、大阪(上方)で生まれた上方舞は座敷で行われる舞として発展しました。 酒宴席の座敷での舞として行われていたので、埃〔ほこり〕をたてぬ様に、一畳の空間でも舞う事ができるように作られています。屏風〔びょうぶ〕を立て、燭台〔しょくだい〕にロウソクを灯して舞われることが多いのも座敷で舞われていた名残です。上方舞は、能の動きを基本に歌舞伎や浄瑠璃の要素を加えたもので、優雅な落ち着いた舞が特徴です。 女性の心理を表現した演目が多く、深い心情を舞で表現しています。

起源・歴史お座敷芸として発展

上方舞は江戸時代後期に京都、大阪(上方)で生まれました。 京阪(京都・大阪)の女性の嗜み〔たしなみ〕として、祇園・北新地などの花街にて酒宴席の座敷芸として広く普及し発展しました。 関東で上方舞が行われるようになったのは昭和に入ってからの事です。

流派上方の四大流派

上方舞には代表的な四つの流派があります。

※山村流
上方歌舞伎の振付師の家系から始まりました。
大阪の花柳界〔かりゅうかい〕(芸者・遊女などの社会)や一般家庭に深く浸透しています。

※楳茂都流〔うめもとりゅう〕
明治初期に大阪で始まりました。
京阪の花街に進出。古風な舞に新しい感覚を添える活動を続けています。

※吉村流
明治初期に京から大阪に移り発展しました。
創作にも力を入れています。

※井上流
上方舞の中で特に京都で成立したものを「京舞」といいます。
今日では「京舞」といえば、井上流の別称ともなっています。
全て女舞という特徴があります。


新舞踊
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新舞踊とは日本の伝統芸術である日本舞踊(古典舞踊)をもっとわかりやすく親しみのあるものにしたものです。 日本舞踊で流れる謡曲とは違い、演歌、歌謡曲、民謡といった、現代に馴染みのある曲に、自由に振り付けを創作して踊ります。

特徴身近な曲で創作舞

新舞踊の基本は日本舞踊にあります。
日本舞踊の踊りをもとにして、カラオケで歌うような演歌・歌謡曲などの曲に合わせて踊ります。 主婦層に人気が高く、非常に親しみやすく、宴会芸、祭りの出し物などで楽しめます。 現在では全国新舞踊協会という団体も存在し、地域における舞踊文化発展・チャリティ・ボランティア等に貢献しています。

起源・歴史未だ若い舞踊

新舞踊の歴史は非常に浅く、第二次世界大戦後に生まれたものです。 当時、テレビやラジオが各家庭に普及しはじめたころ、大衆の娯楽がテレビやラジオのようなメディアから流行するようになりました。 そのひとつとして、民謡ブームや演歌ブーム、歌謡曲ブームがありました。 その流行していた民謡・演歌・歌謡曲に振り付けを創作してして踊るようになったのが、現在一般的にいわれるところの新舞踊です。 現在では多数の流派が発生し、カルチャースクールなどに習い事として通う人々もいます。

振り基本は日本舞踊

基本的には日本舞踊の踊りが基礎となっています。
一般に親しみやすい民謡・演歌・歌謡曲に振り付けを創作して踊ります。 基本は日本舞踊に沿った形の振り付けで、扇子や傘、梅や桜の枝などの、小物を効果的に使った踊りもあります。



日本舞踊
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日本舞踊とは、歌舞伎の歴史とともに歩んできた舞踊をさします。
江戸文化によって育てられてきた舞踊で、主に歌舞伎の題材からとった演目が多いのが特徴です。

特徴歌舞伎から生まれた舞踊

日本舞踊は歌舞伎舞踊から生まれ、現在120を越す日本舞踊の流派があります。
代表的な流派として、西川流・藤間流・花柳流〔はなやぎりゅう〕、坂東流などがあります。 どこの流派も、個人差はありますが、週1、2回の稽古で3年以上修業すれば、名取免許が取得できるほどに上達し、その後の努力しだいでは、師範の資格も得られます。

起源・歴史神話の時代から>

日本の「おどり」の歴史は、はるか神話時代にまでさかのぼります。
古代神話では、一種の巫女舞〔みこまい〕として神事と深く結びついていました。 現在の日本舞踊の起源には、諸説が色々ありますが、一番有力なのが、今から約400年前に巫女たちがお守りを売る客寄せの為に始めた「念仏踊り」だと言われています。この中でもとりわけ評判になったのが、出雲の阿国と呼ばれる女性です。阿国は歌舞伎の創始者としても有名ですが、もともとは、歌舞伎と日本舞踊は同じものを指していたようです。現在120を越す流派があり、男性社会の歌舞伎と違って多くの女性が活躍しています。

衣装・演目日本が誇る「着物」

日本舞踊の衣装は着物です。着物は日本の民族衣装というだけでなく、日本舞踊の表現を支えています。 人体の曲線を覆い、手足のなめらかな表現を際立たせることができます。 傘や扇子などの小物を用いて踊る場合もあります。

多彩な演目

日本舞踊にはさまざまな種類の演目があります。

長唄・・・出囃子の明快でリズム感が魅力の躍動感ある種目です。
常磐津節〔ときわづぶし〕・・・ドラマチックな演目に合わせた叙情的な演奏が特長の種目です。
清元節〔きよもとぶし〕・・・江戸で生まれた、派手で軽妙な語り節が特徴です。
創作・・・現代の舞踊家が生み出した演目。斬新なテーマのものなど様々なものがあります。



組踊
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組踊は沖縄に古くから伝わる伝統芸能です。
音楽、踊り、台詞で構成されている沖縄独自の歌劇です。
昭和47年の沖縄本土復帰と共に、国の重要無形文化財に指定されました。

特徴沖縄ミュージカル

組踊の物語は沖縄の歴史や故事、説話等に基づいています。
また、演技・演出は、本土芸能(能や歌舞伎など)や中国、東南アジアなどの芸能要素を取り入れたもので、組踊は広くアジアの文化の影響を受けた芸能と言えます。単調なリズムにゆっくりとした動きで、見た目の美しさ、沈黙の中にある激しい心情が感じられる静の場面と、観る人の気持ちを高揚させる動の場面を巧みに使った音楽劇です。
音楽に合わせて踊り舞うというよりは、能や歌舞伎に比較的近く、ストーリーのある音楽劇、沖縄のミュージカルです。

起源・歴史使者歓迎の宴で上演

1719年、沖縄が琉球王国として栄えていた頃、中国からの使者を歓迎する宴での席で初めて組踊が上演されました。組踊を創った人は、歌人・三味線の名手であった玉城朝薫〔たまぐすくちょうくん〕という宮廷士官でした。玉城朝薫は能・歌舞伎・狂言などにも精通していた為、それらを参考にし、沖縄の史実や故事・説話を基にして、伝統的な沖縄の言葉、舞踊、琉歌と三味線音楽をとり入れ組踊を創作しました。
琉球王国の消滅以降、組踊は一般の商業演劇の中で演じられることも多くなり庶民の中に広まっていきました。

構成ウタ・サンシン

組踊は、歌三線(音楽)、唱え(せりふ)、踊り(舞踊)で構成されています。

ここでは組踊の音楽について紹介します。

組踊の音楽(歌三線)では三線を中心に演奏されます。
三線を弾く人が唄も歌い、「ウタ・サンシン」と呼ばれます。
他には箏〔こと〕・太鼓・笛・胡弓〔こきゅう〕などが使われますが、メインとなるのは、やはり「ウタ・サンシン」です。



武道・武術
武道とは、「武芸に関する道、武士の守るべき道」。武術とは、「武士が戦いのために身につける技術」。(松村明三省堂編修所『大辞林CD-ROM版』三省堂)
辞書にはその意味をこのように記してあります。すなわち「武道・武術」とは、武士のための技術であったと言えます。戦〔いくさ〕の道具や護身術としての意味合いを持っていた武道・武術は、時代の移り変わりと共に形を変えながらも、現代では庶民の間で親しまれる存在になっています。

日本古来から続いているものや、様々な武道が発展して成立した新しいものまでその個性は豊かです。その背景や理念、エピソードに至るまで、知れば知るほど奥の深い世界が広がっています。武道・武術は単なる戦いのための技術ではなく、人が心身を成長させるための「文化」と言えるでしょう。

日本文化いろは事典では、武道・武術を「い」特徴、「ろ」起源・歴史、「は」装束・ルール・形式という内容でご紹介しています。


相撲
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相撲は日本の国技として知られているだけでなく、昔ながらの日本文化を色濃く残している点でも人々に親しまれています。
現在は「大相撲」というプロスポーツとして繁栄していますが、その存在意義を時代ごとに変化させてきた歴史があります。常に人々の生活に深く関わっていたということが長く愛されてきた所以でしょう。

特徴日本文化を代表する「武」

丸い土俵の上で二人の大男が裸でぶつかり合い、強さを競う。武道・武術としての相撲は日本人の心を熱く奮わせます。それは格闘技ならではの興奮だけでなく、日本の古来からの文化を現在も色濃く残している点も大きく関係していると思われます。相撲ならではの作法・しきたりは様々な意味を持ち、古〔いにしえ〕の日本を想像させます。単に強い弱いを決めるだけでなく、そこには格式を重んじる心があるところが相撲の大きな魅力のひとつでしょう。

現在は神事としての意味合いも残しながらも、プロスポーツとして、そして国技として繁栄しており、日本文化を代表する存在として海外でも高く評価されています。

起源・歴史神々の時代から受け継がれてきた

現在日本で相撲と言えば「大相撲」という認識がありますが、それは相撲の長い歴史のほんの一部分に過ぎません。相撲は日本文化の変遷に沿うように、形や存在意義を変えながら現在まで続いてきました。

その起源は「古事記」や「日本書紀」に登場するほど古く、神話として扱われています。その当時は格闘色が濃かったのですが、平安時代には宗教文化色が増し神事として扱われるようになります。鎌倉時代前後に武家社会となると武芸として、江戸時代には芸能としてというようにその色を変えていきます。この頃には職業・スポーツとしての現在の相撲が形作られます。

このように相撲は日本の文化に合わせて成長・発展し、現在も日本の人々の文化に根付いています。

形式・ルールはだかにチョンマゲ

力士は負傷者など例外を除いては、まわし以外は着用してはならないというルールがあり、頭は髷〔まげ〕を結うというのがしきたりです。強さを表す位には、強いものから横綱、大関、関脇、小結、前頭と続いていきます。横綱は強さだけでなく風格・威厳も兼ね備える人格者でなくてはなりません。

円に生き残れ!

土俵と呼ばれる丸い円の中で競技は行われます。取組(試合)で力士(競技者)は足の裏以外の体の一部が地面に着くか、土俵の外に出ると負けになります。



空手
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「K-1」など格闘技界において中心的存在である空手は、ブームに乗り、今大きな注目を浴びています。その形態は、寸止めルールに代表される「伝統派」と、打撃によって相手を倒すことを目的とし、格闘技として知られている「実戦派」の2つに分かれています。どちらも武道としての空手の理念は共通しています。

特徴一撃必殺

元々は中国から伝わった武道である空手ですが、沖縄を経て本土に伝わってからは、沖縄の流派を基に独自の解釈がなされて様々な流派・道場が誕生しています。「伝統派」は競技空手として伝統を伝え、「実戦派」は格闘技として現在の隆盛を支えています。一撃で相手を倒す突き、目標を的確にとらえる蹴りを中心とした現在の空手は、日本古来の武道の影響を受けながら成立してきたものと言えるでしょう。

起源・歴史「唐手」から「空手」へ

正確に現在の空手が誕生したのは昭和に入ってからなので、新しい武道と言えるでしょう。しかし、その空手以前には原型があり、沖縄では「唐手〔からて〕」、「手〔てぃ〕」と言われていました。

大正時代に入って、「唐手」は本土に上陸し、柔道など他武道との交流を経て、昭和10年に「空手」と名を変え、いよいよ本土に浸透していくことになります。その際、技術の違いなどにより、細分化され流派が次々と誕生しました。

空手が競技化することに際して、その危険性が問題視されますが、「寸止め」という打撃寸前で手を止める手法が編み出されます。これに異を唱え、武術性求める団体は「実戦派」として格闘技の道を歩んでいきました。そして現在も伝統の保守と進化を続けながら、空手は新しい道を模索し続けています。

形式・ルール白の道着に黒の帯

空手着と言われる、柔道着に近いもの(若干薄地)を着用し、段位によって色が異なる帯を使用します。

「伝統派」か「実戦派」か

伝統派の競技は「寸止め」で行われます。寸止めとは、ここに当たれば有効という部位に確実に当たるという打撃が、寸前で止められます。実戦派はさらに複雑で、顔面攻撃の有無、ポイント制の導入、防具の使用など様々な競技形態があり、それぞれに独自のルールを持っています。しかし「礼に始まり、礼に終わる」という行動規範はどの流派でも同じであるようです。


合気道
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武道は力や技で相手を倒すことを目標にするものが多いのに対して、合気道は「気」をもって相手の力を「制する」、いわば「受け」の武術であるという独特なスタンスをとっています。目的も強くなることではなく、心の修練です。古流武術から出発した「気」の武術は、強さを競うより大切なことがあるという理論を持つ「人にやさしい」武術なのです。

特徴「気」を自由自在に

合気道は読んで字のごとく、「気を合わせる」武道です。自らの気と相手の気を読みあい、技を繰り出します。そして合気道と他の武道の最大の違いは「こちらから攻撃しない」ということです。攻撃してきたものに対して、それを捌き、技を返す。ですので試合もありませんし、練習でも「形」ばかりです。小さな老人が、大きな成人男性を軽々とくるりくるりと投げ飛ばすという、驚くべき姿も見られます。

心の修練を最大の目的とし、「気」という独特な観点を大切にしています。日本の武道の中でも比較的新しい部類に入る武道です。

起源・歴史柔術から生まれた総合武道

合気道の歴史は比較的浅く、明治時代から昭和初期にかけて起こった武道です。大東流柔術を修行した植芝盛平〔うえしばもりへい〕が起こした合気道は日本古来の柔術だけでなく、剣道や柔道の原理も吸収した総合武道と言えます。

植芝は独自の武道理論を掲げて大東流柔術から独立の道を選択します。独立の過程で名称も相生〔あいおい〕流合気武術、皇武道、合気武道と変えていき、昭和17年に合気道としました。その後は日本中に広まり、現在では世界各国にも普及しています。

形式・ルール袴姿で投げ飛ばす

基本は合気道着という柔道着に近いものと、袴を着用します。

形稽古に徹して

技法は一点に力を集中させ押し倒す当身技や、関節技などを持ちます。それは自ら攻撃するのではなく、相手の攻撃を無効にしたり崩したりして、相手を抑え込むというために用いられます。

競技としては試合はなく、練習も形稽古のみです。こうすることが合気道の理念を追求することにつながるのですが、最近では競技スポーツとして確立させてはどうかといった動きも見られます。


剣道
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日本では、武家社会の時代には侍が街を闊歩していました。その侍の魂である剣術の教えを現在も引き継いでいるのが剣道です。さまざまな流派が剣術の時代から存在し、剣道になった現在もその傾向は続いています。剣道は現代の人々に当時の侍を彷彿させる武道として親しまれています。

特徴「剣」の魂を受け継ぐ

殺し合いの道具だった剣術(殺人刀〔せつにんとう〕)から、技術の習得や心の修練を目的とした剣術(活人剣〔かつにんけん〕)へ変化したものが現在の剣道です。剣道着と竹刀〔しない〕で戦う姿は、日本の人々にとってもおなじみです。海外の人々から見れば昔の日本の侍を垣間見ることができ、非常に人気も高く、競技人口も諸外国では着々と増えてきています。

剣を振るうことで精神を鍛えるという伝統的な考え方を持っています。現在はスポーツとしても確立されていますが、その内には、武士が剣を振るい、剣の理法を学ぶという剣道の「道」の概念もしっかりと含まれています。

起源・歴史殺し合いの道具から人を活かす道具へ

剣道の歴史は剣術の歴史と言い換えても過言ではありません。平安時代に刀というものが登場し、鎌倉時代からの武家社会が到来すると、一気に剣術は成長していきます。室町時代後期の戦国時代を迎えると流派も乱立し、戦闘方式の変化に伴って刀法も様々なものが登場しました。江戸時代になって平和な時代が訪れると、人を殺すためでなく、人を活かす剣術(活人剣〔かつにんけん〕)へと考え方も変化していきます。この頃宮本武蔵などが理論をまとめたり、精神論が確立されたりして現代の剣道の基本精神が形作られました。

江戸時代後期から明治時代を経て、試行錯誤を繰り返しながら剣術から剣道へと変化を遂げていきました。現在も当時の理念・思想を踏襲したスポーツとして日本のみならず世界中で発展しています。

形式・ルール竹刀を振って面を打つ

剣道着と袴の上に、剣道具(面、小手、胴、垂れ)を着用します。攻撃は、竹刀〔しない〕を持って行います。

面・胴・小手・突き

竹刀で有効な攻撃を競います。有効な攻撃とは、定められた部位(面部、小手部、胴部、突部(のどもと部分))を打突することです。試合時間は5分で、3本勝負というのが原則です。2本先に有効な攻撃を相手に与えることができた方が勝者となります。



柔道
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「柔よく剛を制す」
相手の力を利用して相手を制する。そうすれば小さい者でも大きな者を倒すことができる。これが柔道の基本理念です。オリンピックのような大きな大会でも小さな日本の選手が大きな海外の選手を投げ飛ばす姿を見ることがあります。まさに基本理念を体現した結果です。

特徴柔よく剛を制す

小さい者が大きい者を投げ飛ばす。「柔よく剛を制す」という思想が示すこのアクションこそが柔道の醍醐味です。創始者の嘉納治五郎が柔術を学び、それを独自に改良し、武道としての精神的な道を確立させ、柔道が誕生しました。理念は「精力善用(※1)」と「自他共栄(※2)」というもので、社会や周囲の人たちに対して、自らの心身がどうあるべきかを示したものです。それを柔道に打ち込むことによって学ぶことが大切だと考えられています。

現在では世界中に広まり、オリンピック競技としても発展し、日本が強さを誇れるスポーツとしても有名です。

※1精力善用・・・自分が持つ心身の力を最大限に使って、社会に対して善い方向に用いること。
※2自他共栄・・・相手に対し、敬い、感謝をすることで信頼し合い、助け合う心を育み、自分だけでなく他人と共に栄えある世の中にしようとすること。

起源・歴史柔術から発展、世界へ

柔道は柔術を母体としています。創始者の嘉納治五郎が柔術の主要な二流派を修行し、それを組み合わせて、当身技、締め技、関節技、投げ技を有する「柔道」を立ち上げました。この明治初期は武士社会が崩壊した時代で、武士のたしなみであった柔術は衰退していました。そこに精神を鍛えるという基本概念を持った嘉納の柔道が登場し、大衆に受け入れられ、発展していきました。

講道館という道場を創設した嘉納は、「精力善用」と「自他共栄」という「柔よく剛を制す」の理念を改良した、柔道を行う物に対する心得を確立させました。そして技術的にも精神的にも発展した柔道が、世界に拡大していったのです。

形式・ルール黒帯は強者の証

柔道着と言われる白い生地の装束を帯で結んで着用します。帯の色は有段者であれば黒となり、それ以外は基本的に白です。

一本、技あり、有効

投げ技や固め技を駆使して戦います。その際、「一本」を取れば勝ちになります。「一本」は投げられた際、大体あおむけになるか、固められて「まいった」と発するか、30秒以上経過した時に成立します。その他にも「技あり」、「有効」などのポイント制の判定があります。

日本古来の柔道着は白色でしたが、最近では色の着いた柔道着も世界の公式の場で見られるようになりました。日本古来の「武道としての柔道」と世界の「スポーツとしての柔道」では少し概念の違いが出てきています。


弓道
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様々な武道の中でも相手が人ではないというのが珍しい、的を相手にした武道です。ゆっくりとした動作で、集中力を高めて自分の間合いで的を射る。そしてその結果を基に反省し、次回への努力が始まります。このサイクルが精神修練となります。一人の世界に集中することこそ醍醐味で、その落ち着いた所作・雰囲気が現在でも人々に愛されています。

特徴心を映すかのように

「自分」「弓」「的」が三位一体となることが、重要かつ意味がある弓道。他の武道は相手を倒すことを目標としたものであるのに対して、この弓道の相手は「自分」です。自分との戦いの中で、心身の鍛錬、技術の向上を行います。まるで心を映すかのように、心の動きが的を射抜く結果につながります。心を鎮め、集中するといった強さが必要となります。最高目標「真・善・美」という理念があり、それを追求します。

真:偽りのない射はどのようにあるべきかと思い求めること。
善:心を鎮め、平常心を保つこと。
美:人間として、心を清らかにし、礼を重んじて弓に向かい合うこと。

神事によく見られる馬上から的を射る流鏑馬〔やぶさめ〕など、昔ながらの慣習が色濃く残っています。

起源・歴史石器時代から戦国時代を越えて

弓の歴史は古く、石器時代の弓と思われるものが発見されています。これを起源として弓術は宮中や武家行事で儀式として披露されるようになっていきます。鎌倉時代になり武家社会になると攻撃用の武術として修練されるようになります。しかし戦国時代になり、槍や鉄砲などの登場によって戦闘方式が変化すると、徐々にその存在意義を失い、衰退していきます。それと同時に、精神修練用の武道として取り上げられ、確立されていきました。

明治時代や第二次世界大戦の混乱を経て、教育的・文化的価値も認められ、その地位も再び向上してきました。現在は昔の武道理念を踏襲しながらも、新しい時代に沿った、幅広い志向・愛好者層を持つ武道として展開されています。

形式・ルール弓矢を用いて的を射る

弓道衣(白筒袖)、袴、白足袋というスタイルで行われる弓道は、弓と矢を用いて的を射るというわかりやすいルールで競技が行われます。
本来は素足が原則とされていましたが、昭和40年代頃から白足袋が奨励されるようになったようです。

射法八節、流れるように

競技には「近的競技」と「遠的競技」の2種類あります。「近的競技」は28m先の直径36cmの的に当たったかどうかを競います。「遠的競技」は60m先の直径1mの的を狙い、中心に近いほど得点が高く、その得点を競います。

弓矢を用いた射術の法則を射法といい、この基本事項を正しく理解することから弓道は始まります。射法の形式は「射法八節」という8つの動作(足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心)すべてが流れるような一連の動作として行われます。心が動揺すると手元が狂ってしまうので、何事にも動じない強い心を作り上げることが、日々の鍛錬の中で要求されます。


柔術
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柔術は単なる一つの武道ではなく、現在繁栄している日本武道の父とも言うべき存在です。柔道や合気道の源流とされるばかりか、空手など様々な武術に影響を与えています。また、現在ではブラジリアン柔術に代表されるように、海外で格闘技としてアレンジされ、人気を博しています。

特徴柔道・合気道の「父」

人々によく認知されている柔道は、実は柔術の異なる二流派が合わさってできたものです。柔術には多様な流派があり、その内の投げ技中心の流派と締め技・固め技中心の流派が結びつき、柔道が確立されました。「柔よく剛を制す」の語源も柔術にあり、その影響力は多大なものがあります。

武器を使わない武術のまさに王道である柔術は、最近では格闘技や護身術として応用されています。しかしその中には、お互いを尊重し、敬い合う「相互理解」と、自分を律し、誠実な行動を取る「自己抑制」、そして「心・技・体の調和」を習得するという基本概念もしっかり含まれています。

起源・歴史多種多様な護身術

起源は定かではないですが、成立したのは室町時代頃だと言われています。戦場で組み合ったときに勝つために成立しました。素手もしくは短い武器を持ったときの武術・護身術として武士の間に広まっていました。「組み討ち」、「小具足」、「捕手」、「捕縛」、「白打」、「拳法」、「やわら」、「和術」、「体術」、「柔術」などいろいろと呼び名はありましたが、総称して柔術と呼ぶようになりました。

その後、明治時代に入り西洋文化が盛んに取り入れられ、日本固有の文化が衰退していくのに合わせて、柔術も衰退していきました。現在柔術はブラジルなど海外にも渡り、格闘技として発展しています。

日本では古流武術としての認識が強く、根強く残っている流派もあります。

形式・ルール柔道着より身軽に

装束は柔道着と同じですが、一般的に柔術着は柔道着と比較して、ズボンや袖の丈が細長いです。

投げ・締め・固め

柔術は様々な形態の総称のため、流派ごとに大きく違います。しかし、「素手あるいは短い武器を持って、素手あるいは武器を持っている敵を攻撃し、又は防御する術」という概念はどの流派も同じです。投げ技中心の流派、締め技・固め技中心の流派など様々なものが存在しています。

世界中に広まっている現在の柔術は大会や流派によって大きく異なります。総合格闘技に参加していることが多く、柔術は今また注目を集めています。


躰道
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武道独特の直線的で静かな動きではなく、アクロバティックな動きを持つというのが躰道の特徴です。沖縄空手から生まれたこの武道は比較的新しいですが、その特徴あるスタイルで競技人口も増えてきています。その中でも女性の占める割合が多いというのも特徴の一つです。武道理念も独特で、他の武道とは一線を画しています。

特徴「旋・運・変・捻・転」

空手の突きや蹴りを基本に、体の軸(脊柱軸)を自由自在に変化させながら攻防を行うというのが躰道の基本です。その動きはアクロバティックで、旋体〔せんたい〕(コマのような動き)、運体〔うんたい〕(波のような動き)、変体〔へんたい〕(木が倒れるような動き)、捻体〔ねんたい〕(渦を巻くような動き)、転体〔てんたい〕(空中で回転する動き)という5種類の技と、運足〔うんそく〕、運身〔うんしん〕という動きを組み合わせて攻撃を行います。古来からの日本武道にない地面に伏せてからの攻撃というものもあり、独自の世界を展開する新しい武道と言えます。

「発展に終わりはない」、「常に進歩していく」という信念をもっているため、現在も研究が盛んに行われています。健康や女性にやさしいという志向もあるため、女性の競技者がたくさんいます。

起源・歴史「生死の境」で誕生した武道

沖縄の「手〔てぃ〕」(空手の基になった武術)を母体に、昭和40年に成立しましたが、誕生までには創始者祝嶺正献〔しゅくみねせいけん〕の多大な苦労がありました。

第二次世界大戦末期の昭和20年、空手の玄制流最高師範だった祝嶺は特攻隊員として、敵艦に攻撃の命令をうけ、作戦を懸命に考えたところ、「旋・運・変・捻・転」の運動法則に気づいて、現在の躰道の基本動作を編み出しました。その後、数年の創作・改良を経て、昭和28年に実験的に指導を始めました。その間、新しい武道として成立させるために基本内容・理念を整え、「躰道」を確立させました。

その後、大会を開くなど競技化も整い、世界大会を行うところまで進化しています。

ルール・形式袴姿で飛び跳ねる

空手から生まれたものなので、空手着と同じですが、下半身は袴を着用します。

最高の技で「創作」を競う

競技には、「実戦競技」「法形競技」「展開競技」の3つがあります。
実戦競技は、他武道でいうところの「組み手」です。一本、技あり、有効によって判定される点は柔道と同じです。法形競技は、いわゆる「型」です。躰道特有の10個の要素から判定されます。展開競技は主役1名と脇役5名で技を展開し、競い合う団体戦です。
競技は、基本形を工夫して独自に技を繰り出すことが大切です。創造的な武道であるので、勝敗だけを競うのではなく、自分が出せる最高の技をもって創作を競うことが重要であると考えられています。



長刀
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「長刀」または「薙刀」と書いて”なぎなた”と読みます。その字が表すように「長い刀で相手を薙ぎ倒す」武道です。しかし現在は相手を倒すことが目的ではなく、心身ともに調和を取るということを目的としています。なぎなたの競技者は主に女子が主流となっています。

特徴長い武器で相手を薙ぎ切る

競技人口の多くが女子で占められていることで有名な「なぎなた」ですが、特徴の最たるものは何と言ってもその武器の長さです。
装束や試合方法も剣道と殆ど同じですが、武器の長さが全く違います。2m以上の長い武器で相手を薙ぎ切るように戦います。

なぎなたの本来の目的は、武道訓練を通して心身を成長させていくのが狙いです。そうして修練していく中で日本の伝統を継承していくことを基本理念としています。
現在では世界10数ヶ国に普及し、「日本のなぎなた」が「世界のなぎなた」に変貌を遂げる時を迎えています。

起源・歴史女子の武道へ

なぎなたの起源ははっきりとはわかっていませんが、書物等に登場するのは平安時代中期前後です。当時はその長さを生かして、歩兵が戦場で人馬を薙ぎ払うといった役目で使用されていました。多数の敵を相手にする時や海上での戦いにその威力を発揮したと伝えられています。

室町時代末期になると、突き・刺しを得意とした槍に取って代わられ、さらに鉄砲の伝来と共に徐々に衰退していきます。戦場での役割を失うと、護身用の武術として僧兵や武家の女子に広まっていきます。その流れで明治時代以降は女子の武道として発展していきます。

形式・ルール2m以上の長い武器

装束や試合方法は剣道とほぼ同じで、防具(面、小手、胴、垂れ)を着用しますが、「すね当て」も用います。武器の長さは2.1mから2.5mという大変長いもので、これを使って攻撃・防御を行います。

演技は悠然と

競技としてのなぎなたには「試合競技」と「演技競技」があります。試合競技は3本勝負で2本先取です。制限時間内に有効な攻撃が決まるかが勝敗のポイントです。有効な攻撃とは、定められた部位(面、小手、胴、脛〔すね〕、咽喉〔のど〕)を打突することです。演技競技では技の優劣を競い合います。


居合道
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刀を鞘から抜いた瞬間に勝負が決まる。西洋の「西部のガンマン」の剣術版が居合です。刀を抜く瞬間の動きこそが勝敗を決める居合の「剣の理法」を伝え継ぎ、相手がいるのではなく、「仮想敵」を相手とする武道であるのが居合道です。

特徴敵は自分、勝負は一瞬

日本刀の操作法に由来がある居合道は、勝負を抜刀の一瞬にかけるため、修業は「死生一如(※)」「動静一貫(※)」をめざす心身鍛錬の道であり、剣道と表裏一体の関係にあります。しかし、「剣の理法の習得が人間修練の道」という考え方においては、剣を扱うことを主とする武道として確かに剣道と同じです。

しかし、居合道という武道には剣道のように実在する相手がいるのではなく、自らが仮想した相手、すなわち「仮想敵」と戦います。その相手は自分と背格好が同じと言われ、いわば己と対峙するという考え方です。

※死生一如・・・生も死も同じものであるという武士道の考え方。
※動静一貫・・・動作と静止を一貫した流れで行うこと。

起源・歴史武士の技から古武道へ

起源は室町時代にあり、応仁の乱の際にいつでも武器を抜けるようにしていたというのが「居合」の始まりでした。

その後戦国時代に入ると、林崎甚助重信がこの「居合」を「居合道」という武道として確立させました。そして武士のたしなみとして修練されるようになり、様々な流派が生まれました。
明治維新後の廃刀令や第二次世界大戦後の混乱で衰退していきますが、様々な人々の努力により復興していきます。剣道界とのつながりもあり、現在では日本古来の武道として確かな地位を築いています。

形式・ルール色を統一

一般的には居合衣と言われる上着に、袴という装束です。稽古では剣道着を使っている人も多いようです。基本的に上下とも色や素材は自由ですが、試合では色を統一しなくてはなりません。

流派を越えて

多くの流派がある居合道ですが、試合や昇段審査の時には、複数の流派の技を組み合わせた12本の技(制定居合)が用いられます。このように流派を越えて方式を制定しているのは全日本剣道連盟との結びつきの強さも影響しています。

試合は、競技者2名が真剣または模擬刀を用い、全日本剣道連盟居合と各流派の形、あわせて5本を演武して、「修業の深さ」、「礼儀」、「技の正確さ」、「心構え」などを審判員が判定して勝敗を決します。
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