復興が「早すぎた」弊害も大きい
「復興が遅れている」「風化が進んでいる」
去年の3月も、一昨年の3月も、その前の年の3月も報道で繰り返された言葉です。来年も再来年も繰り返されていくでしょう。
「福島を忘れない」「世界は福島に注目している」
これもまた、政治的な議論や文化イベントの場で何度も繰り返されてきた言葉です。
これらは情緒的な言葉です。何かを言っているようで、論理的には何も言っていない。
もちろん、「情緒的だからそれはダメなんだ、言ってはいけないことなんだ」と全否定するつもりはありません。しかし、その言葉を吐いた時に「さて、本当にそうだろうか」と反芻する必要があります。
「復興が遅れている」——。
本当にそうでしょうか。確かに復興が滞っている部分があるのは事実です。しかし、あらゆる「復興」の全てが「遅れている」と言えるのか。
例えば震災直後の仮設住宅の建設や予算策定は、現状に不足点は多々あることは認めた上で、これだけの災害規模であることを鑑みれば、概ね可能な限り「復興は早急になされた」と見ていいでしょう。
中長期的な復興についても、NPO活動や一次産業の立て直しなどに様々な人材・資金が回り、少なくとも、震災前の福島はじめそれぞれの被災地には無かった文化を根付かせ始めています。確実に「復興が進んでいる」部分が少なからずあります。
むしろ、私には復興が「早過ぎた」弊害も大きいように見えています。
例えば、復興予算が一番わかり易い。本来、復興予算は震災から5年間で19兆円を使うという前提で用意されていました。しかし、実際はこの19兆円の大方が早々に消化されてしまい、6兆円が追加されました。つまり、25兆円の予算になりました。
日本の予算規模を見ると、平成26年度一般会計予算は約95.9兆円ですから、その4分の1にあたります。
さらにそのうちで私たちが払う税収は50兆円ほどですから、その半額である25兆円という予算の規模が相当なものであることはわかるでしょう。にもかかわらず、5年を待たずしてその合計25兆円の大規模予算も急速に減っていってしまったわけです。
なぜそのような現象が起きてしまったのか。様々な要因があるでしょう。ただ、その根底には強迫観念的に「復興が遅れている」と多くの人が認識し続けた、あるいはそう言い続けなければならない状況が存在していたことを理解する必要があります。
復興予算の問題とは何か
復興予算の問題にそって説明しましょう。
行政の予算消化システムはこうなっています。社会の変動に応じて何らかのニーズが生まれると、何か大きな政策の方向が決まる。すると、「復興予算」がそうですが、ある目的のために大きな予算がつく。
行政はその予算を効率よく消化できるように「何か使い道はないか」と、役所の内部で大型プロジェクトを立ち上げたり、外部の行政関連組織や企業、研究機関などに情報発信をして予算の使い道を探したりします。
その一部は道路や大型施設の建設や組織の立ち上げの費用になるし、一部は一次産品の販売促進や企業・観光客などの誘致を目的としたフェア・PRキャンペーンなどの企画・運営に用いられる場合もあります。
もっとも、そういう「ハードウェア的な使い方」ばかりしていると「ハコモノ」「客寄せイベント」と批判的に見られることとも起こりがちです。「無駄な公共施設はこれ以上いらない!」「有名人よんできたり、派手なだけで後に何も残らない打ち上げ花火みたいなことやっても仕方ないだろう」という批判をされるわけですね。
なので、復興予算はそういったハードウェア的な使い方だけではなく、創業支援・起業家育成や女性・高齢者の雇用促進、市民活動の支援などを目的とした助成金のようなソフトウェア的な部分に予算が意識的に使われてきた部分もありました。
もちろん、復興予算の場合は防災・防犯の強化や賠償金の受け取りを促すための司法サービスの整備などにまわる部分もそれに含まれるでしょう。
いずれにせよ、行政の予算は、新しいプロジェクトや助成金制度などを通して、地域に出て行くことになります。それを引き受けながら具体的なハードウェア・ソフトウェアを地域につくっていくのが、行政関連組織や企業、研究機関です。
彼らはただ黙っていれば予算を引き受けられるわけではありません。色々な書類を整えて、自分がいかにいいものを安く作って納品できるのか示して「入札」をしたり、自分がどれだけ新しく、社会のニーズに合った活動を展開できるのか企画をたてて助成金に応募したり。そうやって、多くの場合は厳しい選考を受けて、やっと予算の分配を受けるわけです。
しかし、復興予算について言えば、そのように分配をしているうちに色々な問題が起こってきました。最も象徴的なのが復興予算の流用・目的外使用問題でしょう。
復興予算は言うまでもなく被災地・被災者の状況改善のために使われるべきものですが、そうではないところに予算が流れていっているということが報道機関の調査や国会議員の指摘などで2012年度の下半期ぐらいから指摘されはじめました。
例えば、復興予算の一部は何十億円という単位の被災地以外の税務署の耐震工事や、「くまモン」や「ふなっしー」などのゆるきゃらブームに乗る形で被災地とは関係のない自治体のゆるきゃらの作成費用などに用いられた。
これは批判されるべきことでしょう。もし耐震工事やゆるきゃらづくりによる地域活性化をしたいのならば、被災地・被災者のための予算とは別に、そういった目的の予算をとるべき話です。
ただ、その上で、「だからとにかく復興予算の無駄使いが起こらないように統制をしろ」「そもそも、復興予算はそんなに必要なかったんだ」という議論になりがちですが、そう単純な話ではないことも認識すべきです。
上記のような明らかに流用・目的外の例は、当然、問題として指摘・改善される必要があります。白か黒かでいったら「黒」の事例です。ただ、復興予算の獲得競争の現場には「グレーの事例」や「白なのに埋もれてしまった事例」が数多あります。復興予算の分配について考える際には、このことを知っておく必要はあるでしょう。
予算分配は「白」か「黒」かだけではない
どういうことか。「グレー」というのは、「確かに被災地でやっているんだけども、それ本当に被災地・被災者のためになるんだろうか」というような、言ってしまえば「それ本当にできるのか」「あなたの趣味を、復興にかこつけてやろうとしているだけだろう」というような実現可能性や効果の有無が曖昧なもの。
あるいは、そういうネガティブなものではなくても、「これ、企画もよくねられていて、本当に被災地・被災者のためになりそうだな。でも、この事業者の所在地は被災地の外だから、募集要件から微妙にずれるんだよな」というような、何かが足りてなくて残念なものを指します。
「白なのに埋もれてしまった事例」というのは、「この企画はすごくいいな。ぜひやってもらいたい。でも、いい企画を出してくるだけあって、この応募者は普段から様々な活動を熱心にやっている。その結果、もとからやっている仕事が忙しすぎて、書類も不足があるしうまくいかなそうだ」というような、本当は行政が一番届けたいところなのに、届けきれないような事例です。
私は、自分自身で大学の予算獲得にむけた助成金申請に関わっていたり、逆に選ぶ側として、地方自治体や地域企業・NPO向けに国が助成金・補助金をつける際の審査委員をやっていたり、あるいは、実際に予算を獲得した組織にアドバイザーとして入ったり、といったこともしています。
そのときによく実感するんですが、復興予算の分配の現場では、どうしても「白」だけではなく、この「グレー」や「白なのに埋もれてしまった事例」が大量に発生してしまいます。
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