歴史修正主義のウソを暴く

法律家を目指す(元)在日韓国人3世のブログ。


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金学順(キム・ハクスン)さんは初めて名乗り出た元「慰安婦」ということで注目を浴びたせいか、小林よしのりなどの歴史修正主義者やネトウヨから攻撃のターゲットにされ、証言内容のほとんどが歪めて伝えられています。

今回は、その金学順さんの記者会見の様子が掲載された1991年8月15日付けの韓国紙「ハンギョレ新聞」を引用し、金学順さんの正確な証言を紹介していきたいと思います。

日本語の翻訳は、以前『薫のハムニダ日記』の薫さんに私がお願いしてしてもらったものです。

▼1991年8月15日付けの『ハンギョレ新聞』
金学順さん

従軍慰安婦の惨状を伝える
国内居住者で初の過去告白 金学順さん

花のように美しい17歳のときに5ヶ月余りに渡って日本軍人たちの従軍慰安婦として過ごした金学順(67・ソウル錘路区忠信洞1・写真)さんが14日午後、韓国女性団体連合事務所で当時の惨状を告白する記者会見を開いた。日帝の支配下で従軍慰安婦生活を強要された韓国人のうち、解放後、韓国内で暮らしながら自らの惨憺たる過去を明らかにしたのは金学順さんが初めてだ。

「これまで言いたくても勇気がなくて口を開くことができませんでした。でもいつかは明らかにしなければならない“歴史的事実”なのだから、打ち明けることにしました。話すことにしてむしろ良かったと思います」

皴が深く刻まれた老人となった金学順さんは、50年前の思い出したくもない過去が胸に突き刺さるかのように、しきりに目頭を押さえながら口を開いた。

「今でも“日章旗”を見ただけで悔しくて、怒りが込み上げます。テレビや新聞で最近も日本が従軍慰安婦を連行した事実はないという話を聞いたときは、胸がつぶれそうになりました。日本を相手に訴訟でも起こしたいという心情です」

現在、1カ月に米10kgと3万ウォンの支給を受けながら生活保護対象者として暮らしている金学順さんの人生は過酷なものだった。

1924年に満州吉林省で生まれた金学順さんは父親が生後100日後に亡くなり、生活苦に喘いだ母親により14歳のときに平壌の妓生券番に売られていった。3年間の券番生活を終えた金学順さんが最初の仕事だと思って券番の養父について行った場所は、中国北部の日本軍300人余りがいる小部隊の前だった。

「私を連れて行った養父も当時、日本の軍人たちからお金も受け取れず、日本軍が武力で(おどして)私を奪ったようでした。その後、5ヶ月間の生活は、ほとんど毎日4~5人の日本の軍人を相手にすることがすべてでした」

金学順さんがいた場所は小部隊の前に建てられた仮設の建物で、10代の朝鮮人女性が5人一緒にいた。米と副食は部隊から支給され、24時間監視状態に置かれた。何度も脱出を試みた金学順さんは、その度に日本の軍人たちに見つかって殴られたと吐露した。当時、朝鮮と中国を行き来しながら商売をしていた朝鮮人、チョ・ウォンチャン(31)氏が折りしも慰安所に立ち寄った際に、彼に哀願してようやく逃亡することに成功した。その後、チョ氏と共に満州へ行き、中国・上海などを転々としながら暮らしたが、解放後はチョ氏とソウルに定住した。息子と娘を1人ずつ生んで暮らしていた金学順さんは、朝鮮戦争直後に息子と娘を失い、53年には夫までも亡くなり、家政婦、日雇い仕事などをしながら苦労して生きてきたと声を詰まらせながら語った。

金学順さんは最近、就労事業をしながら知り合った被爆者のイ・メンヒ(66・女性)さんと韓国挺身隊問題対策協議会の誘いで事実を明らかにすることを決心したという。

金学順さんは「政府が日本に従軍慰安婦問題に対して公式謝罪と賠償などを要求すべきだ」と力を込めて話した。

一方、挺身隊問題対策協議会は「金学順さんの証言を契機に生存者、遺族たちの証言を通して歴史の闇に埋もれていた挺身隊の実情が明らかにならなければならない」と強調した。

<キム・ミギョン記者>

종군 위안부 참상 알리겠다
 국내거주자중 첫 과거폭로 김힉순씨

17살 꽃다운 나이에 5개월여 동안 일본 군인들의 종군 위안부를 지낸 김학순(67‧서울 종로구 충신동 1‧사진) 할머니가 14일 오후 한국여성단체연합 사무실에서 당시 참상을 폭로하는 기자회견을 가졌다. 일제강점 아래 종군 위안부 생활을 강요받았던 한국인 중 해방 이후 국내에 살면서 자신의 참담한 과거를 폭로한 경우는 김학순씨가 처음이다.

"그동안 말하고 싶어도 용기가 없어 입을 열지 못했습니다. 언젠가는 밝혀져야 할 '역사적 사실'이기에 털어놓기로 했습니다."

주름살이 깊게 팬 할머니로 변한 김씨는 50년 전의 떠올리고 싶지 않은 과거가 가슴 아픈 듯 연신 눈시울을 적시며 말문을 열었다.

"지금도 '일장기'만 보면 억울하고, 가슴이 울렁울렁합니다. 텔리비전이나 신문에서 요즘도 일본이 종군 위안부를 끌어간 사실이 없다고 하는 이야기를 들을 때면 억장이 무너집니다.일본을 상대로 재판이라도 하고 싶은 심정입니다."

현재 한달에 쌀 10kg과 3만원을 지급받는 생활보호대상자로 생활을 연명하고 있는 김씨의 사연은 기구하다.

24년 만주 길림성에서 태어난 김씨는 아버지가 생후 1백일 만에 돌아가신 뒤 생활이 힘들어진 어머니에 의해 14살 때 평양 기생권번으로 팔려갔다. 3년간의 권번 생활을 마친 김씨가 첫 취직인 줄 알고 권번의 양아버지를 따라간 곳이 북중국 철벽진의 일본군 3백여명이 있는 소부대 앞이었다.

"나를 데리고 갔던 양아버지도 당시 일본 군인들에게 돈도 못받고 무력으로 나를 그냥 빼앗기는 것 같았습니다. 그뒤로 5개월 동안의 생활은 거의 날마다 4~5명의 일본 군인들을 상대하는 것이 전부였습니다."

김 씨가 있었던 곳은 소부대 앞에 세워진 가건물로, 5명의 10대 한국 여성이 함께 있었다. 쌀과 부식은 부대에서 제공됐고 24시간 감시상태에서 지냈다. 몇번이나 탈출을 시도했던 김씨는 그때마다 일본 군인들에게 들켜 두들겨맞곤 했다고 털어놓았다.

당시 우리나라와 중국을 오가며 '은전' 장사를 했던 한국인 조원찬(31)씨가 마침 위안소에 들렀을 때 그에게 사정해 겨우 도망쳐나오는 데 성공했다. 그뒤 조씨와 함께 만주로가 중국 상하이 등지를 전전하면서 살다가 해방 뒤 조씨와 서울로 와 정착했다. 아들 딸 1명씩을 낳고 살던 김씨는 6‧25직후 아들 딸을 잃고, 53년엔 남편마저 세상을 떠나 식모살이, 날품팔이 등을 하며 어렵게 살아왔다고 목이 메어 말했다.

김씨는 최근 취로사업을 나갔다가 만난 원폭 피해자 이맹희(66‧여)씨와 한국 정신대 문제대책협의히의 권유로 사실을 밝히기로 결심했다는 것이다.

김씨는 "정부가 일본에 종군위안부 문제에 대해 공식 사과와 배상 등을 요구해야 한다"고 힘주어 말했다.

한편 정대협은 "김씨의 증언을 시작으로 생존자, 유가족들의 증언을 통해 역사의 뒤안길에 묻혀 있던 정신대 실상이 밝혀져야 한다"고 강조했다.

<김미경 기자> 


金学順さんは「日本軍が武力で(おどして)私を奪った」「24時間監視状態に置かれた。何度も脱出を試みた金学順さんは、その度に日本の軍人たちに見つかって殴られた」と証言されています。

否定派はひたすら「強制連行」に拘っていますが、慰安婦制度が強制か否かを考える場合には、募集時の強制(強制連行)だけでなく、慰安所での強制(性行為の強制・辞める自由が無いなど)にも注目すべきではないでしょうか?

また、金学順さんは「テレビや新聞で最近も日本が従軍慰安婦を連行した事実はないという話を聞いたときは、胸がつぶれそうになりました。日本を相手に訴訟でも起こしたいという心情です」と語っています。

【日本が従軍慰安婦を連行した事実はないという話】というのは、おそらく1990年6月6日の参議院予算委員会で日本政府がした以下の答弁のことです。

従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話等を総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いてるというか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について、私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。

日本政府が慰安婦制度と日本軍の関与を認めようとしなかったことが、金学順さんの告発のきっかけになっています。

金学順さんの証言の中の用語を解説します。

*妓生(キーセン)=韓国の伝統芸能を身につけた女性で、日本でいうところの芸妓(芸者)です。

*「券番」=妓生たちが籍を置いた組合のことで、妓生を養成する学校でもありました。下記に「券番」の解説があります。これも『薫のハムニダ日記』の薫さんが、韓国のサイトから翻訳してくれたものです。

券番
http://100.naver.com/100.nhn?docid=24185

要約 日帝時代に妓生たちが妓籍を置いた組合。

検番または券班とも言ったが、朝鮮時代に妓生を総括していた妓生庁の後身と言える。当時、ソウルには漢城券番、大東券番、漢南券番、朝鮮券番、平壌には箕城券番などがあり、その他に釜山、大邱、光州、南原、開城、咸興、晋州などにも券番があった。

この券番では童妓に歌や踊りを教え、妓生を養成する一方、妓生たちの料亭の出入りを指揮してその花代を受け取る役割も担当した。当時、妓生たちは許可制になっており、券番に籍を置いて税金を払うようになっていた。これら券番妓生は、他の妓女たちとは厳格に区分されていた。多くの名妓が輩出され、かつて韓国歌謡界を席巻したイ・ファジャ(李花子)も券番出身だった。券番は第二次世界大戦が熾烈だった頃、日帝の強圧政策により廃止された。


*挺身隊=韓国では「慰安婦」のことを「挺身隊」と呼ぶケースがあります。

これについて否定派が「韓国は、女子挺身隊と従軍慰安婦を混同している」と非難していますが、そうではなくて、実際に「女子挺身隊にならないか」と騙され「慰安婦」にされたケースが数多く存在することと、韓国では性暴力の被害者に対し「売春婦」を示す「慰安婦」と呼ぶことにためらいがあるので、被害者に対する配慮から「挺身隊」という呼び名が定着したそうです。

最初の方で、歴史修正主義者やネトウヨが、金学順さんの証言内容を歪曲しているとお伝えしました。

その歪曲の一つが、今回ご紹介したハンギョレ新聞の報道内容を歪曲したもので、『金学順さんは「慰安婦になる前にキーセンハウスに売られた」と証言した』というデマです。

このデマはネトウヨが流しているだけでなく、『中学生にも分かる慰安婦・南京問題-聞け!「アジア」の叫び~捏造、プロパガンダ、何でもあり』 の24頁にも書かれていました。何年か前までウィキペディアにも載っていました。

「キーセンハウス」というのは、戦後、韓国にできた売春施設です。戦前や戦中に「キーセンハウス」は存在しません。金学順さんは「妓生券番に売られていった」と証言していますが、「キーセンハウスに売られた」とは言ってないことは、上記でご紹介した新聞の内容をご覧頂ければ判ります。

妓生(キーセン)が売春と無縁だったかどうかは、日本の芸者さんと同じで議論が分かれるところですが、本業は芸能です。

そもそも、金学順さんは妓生券番(妓生養成学校)を卒業しましたが、年齢が満たないため(19歳にならないと役所から妓生の許可が下りないため)妓生の営業はしておらず妓生ではなかったのです。(挺身隊編「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」43頁参照)

たとえ売春婦であっても本人の意思に反して慰安婦にすれば「強制」になりますが、「金学順さんはキーセンハウスに売られていた」というデマは、金学順さん=売春婦とイメージ操作することで「もともと売春婦なんだから慰安婦にされても文句あるまい」と言いたいがためのでっち上げであると言えます。
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