遠い地平、低い視点⑤ 知らぬが仏/橋本治
朝日新聞が大変なことになってしまいましたね。とは言っても、最近じゃ一カ月もすればみんなさっさと忘れてしまうので、「大変なことになった」だけで終わってしまうのか、あるいは、辞任してもいいような社長がそのままでいるから、まだ「大変なことになっている」のままなのか、私には分かりませんが。
「慰安婦問題での誤報」やらなんやらで、「もう朝日新聞は読まない」という人がいくらでも出て来ることは予想がつきますが、それはそれで無責任なんじゃないかと私は思います。「いやだから止める」ではなくて、「このていたらくじゃだめだから、もっとしっかり購読して経営を支えて、建て直しを監視してやる」くらいのことをしなくちゃだめなんじゃないですかね。現場の意気は阻喪していて、そこに「部数減」なんてことが起こったら、デフレのスパイラルみたいな言論の危機も起こっちゃうような気もするので、「支えてやる」という前向きな支援は必要じゃないですかね。もっとも、そんなことを言って、私は朝日新聞を購読してませんがね。
昭和の終わりくらいから私は朝日新聞を購読してないんですが、それは「朝日嫌い」というものではなくて、他の新聞に比べて朝日新聞には書籍の広告が多いからです。それで「業界人必読の新聞」にもなってしまうけれど、毎日それだけの量の新刊広告に付き合わされていると、「今の流行はこういうものだから、こういうものを書かなければだめだ」という気分になって来たりするんですね。だから私は「そんなものに影響されたくない」と思ってやめちゃっただけです。別に「中身が嫌い」というわけではないです。
「中身云々」を言う前に、私はどの新聞を読んでもピンと来ない。自分とは違う他人に向けて書かれているものを、横から目を細めて読んでいるような気になる。もっとはっきり言えば、新聞は読者である「真面目な善き人」に向けて書かれていて、私はあまり「真面目な善き人」ではないのでピンと来ないということです。
朝日新聞だけではない。どの新聞にもそれぞれに想定される「真面目な善き読者像」というものがあって、私はそのどれにも馴染まない。「なんか違う」という気がしていて、その感じは私が学校教育の中で感じていた違和感に近い。でも、そこまで広げると事は大事になりすぎる。今や「イスラム国」を典型として、「私(達)は間違っていない。私(達)は世界のあり方に違和感を抱いている。私(達)のあり方に従って世界を変えよ!」的な考え方が当たり前に存在していて、これを野放しにすると、辺り一帯すべてが修復困難なメチャクチャ状態になってしまう。そうなるのはいやだから、違和感は違和感として、「それを感じる自分のあり方はどんなもんかな?」と考える方向へ行ってしまう。
そういう私だから、日常的に「情報を収集する」なんてことはしない。ただぼんやりしている。それでも「情報社会」だったりするので、ぼんやりなりに知ってしまうことはある。私は「従軍慰安婦」なるものが問題になっていることは知っていたが、なにがどう問題になっているのかを知らなかった。でもいつの間にか「朝鮮人の女性が従軍慰安婦として日本帝国軍人に強制連行された」ということを問題にしているんだな、ということが分かった。分かったけれども、そこでまた疑問が生まれた。「軍人が慰安婦にする女を強制的に連行する」とは言うが、そうして連れて来られた女達を、誰が管理するんだろう?――という疑問ですね。
軍人に、連れて来た女の管理なんか出来るんだろうか? 軍人に慰安所の経営なんて出来るんだろうか? 「慰安婦=セックス奴隷」にしてしまうと、連れて来られた女達が裸のまま鎖でつながれているようにも思われてしまうけれど、風俗産業に長い歴史を持つ日本でそんな不粋なことが起こるんだろうか? 官僚でもある軍人は、自分で慰安所の経営なんかしないで、民間に丸投げして幾分かの上がりを着服するというもんじゃないんだろうか? 私はそんなことを考えて、大揉めの「従軍慰安婦問題」の中から「女郎屋」という単語が飛び出して来るかどうかを見ていた。売春業者の女郎屋は江戸時代以来健在で、戦後十年以上過ぎなければ売春防止法も制定されないからなおも健在なままで、慰安所という名の売春施設の運営を担当するのは、伝統ある女郎屋以外考えられない。だから、女郎屋が登場しない慰安婦問題は、ある種のプロパガンダの可能性はある。でも、そんなことを白熱する議論の場で口にしたってはじき飛ばされるだけだから、私は「知らない」ということにしていた。
知らなくても分かることはあるし、知らないからこそ見えて来るものもある。真面目な善き人達はあまりそういう考え方をしないけれど。
(はしもと・おさむ 作家)
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