生活保護のよくある質問に答えてみました(7) そもそも生活保護は何のためにあるのか

みわよしこ | フリーランス・ライター

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2013年以来、生活保護基準の引き下げを迫る政府・財務省、従う一方の厚労省という図式が明確になり続けています。

そもそも、生活保護制度は何のために必要なのでしょうか? なぜ導入されたのでしょうか?

公的扶助は「情けは人のためならず」そのもの

生活保護制度は、生活困窮者を救済するためにあるわけではありません。

もちろん生活困窮者は直接的に救済されますが、そのことによって間接的に、社会全体が大きな損失を免れます。

社会を守るから「社会保障」なのです。公的扶助を含め、社会保障制度が近代国家に存在することの理由は、そうしないと社会を守れないからです。

このことは、日本国憲法にも明記されています。

日本唯一の公的扶助である生活保護制度の根拠法は生活保護法ですが、そのまた根拠となっている憲法第25条を改めて見てみましょう。

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

国が、すべての(人)の生活のあらゆる局面について、社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上及び増進に努めなければ、すべての人の生活や健康の程度は維持されません。

著しく劣悪な状況にある人々の生活は、せめて最低ラインに引き上げておかなければ、回りまわって、すべての人の生活や健康が侵されることになります。

日本においては、それが生活保護制度です。

とりあえず「一千万人の餓死者」の発生を防止

1945年、終戦直後には深刻な食糧不足があり、一千万人の餓死者の発生が予想されていました。

1945年12月、占領軍は日本政府に対して救済と社会福祉に関する指令を発し(SCAPIN404)、これを元にして1946年に生活保護法旧法が成立、すぐに施行されました。

「一千万人の餓死者」が発生したら何が問題なのか

当たり前の話ではありますが、なぜ「一千万人の餓死者」が発生してはいけないのかを考えてみましょう。

占領軍にとっては、日本国民が

「占領のせいで、より不幸になった」

と考えるようになっては占領政策が失敗するわけですが、それ以外にも

  • もちろん人道面の問題
  • 遺体の腐敗による生活資源の減少、公衆衛生状態の悪化(たとえば川の上流や井戸の中で遺体が腐敗したら?)
  • 遺体の腐敗による疫病の流行
  • 餓死寸前の衰弱者が多数存在することによる疫病の流行

といった問題が発生するわけです。

しかしその事態は、食糧と生活物資、またはそれを購入する費用があれば防止できるわけです。占領軍にはそれを供給するだけの資力もありましたから、やらない手はなかったわけです。

生活保護法旧法(1946)は何が問題だったのか

そこで生活保護法旧法が成立して施行されたわけですが、そこには欠格条項が含まれていました。「素行不良」とか「怠惰」とかの人は保護の対象にしなくていい、ということです。

このあたりの議論は現在もありますね。「生活保護のくせに!」と言われるようなことを何かしらしている人、「働けるのに働かない」とされる人は生活保護の対象にしなくていいのでは? という。

欠格条項がなくなった背景については、主に「GHQのゴリ押し」であったという俗説がありますが、そんなことではないだろうと私は考えています。欠格条項が「ある」場合の不都合を考えてみれば、なくさなくてはならなかった理由は明らかではないでしょうか。

素行不良であろうが怠惰であろうが、生活保護が必要なのに生活保護の対象としなかったら、その人・その世帯は著しく健康を害したり死んだりするわけです。もし生活保護の対象であれば、医療を受けることが可能であるにもかかわらず、その道も閉ざされるわけです。

同じご町内に、ご近所にそういう方が一人でもいれば、地域全体の公衆衛生の状態が劣化することになります。その方に子どもがいれば、子どもも健全な育ちや十分な教育の機会を奪われることになります。それは回りまわって、社会のためになりません。

一方で、同じご町内のご近所に「生活保護のくせに!」「働けるのに働かない!」という人がいて「不公平だ」「働いている自分がバカらしくなる」といった感情を持たれる可能性もあるわけですから、そのバランスをどこで取るのかは延々と問題でありつづけているわけですが。

私は、「生活保護のくせに!」とか、働いていない他人がいたときに「働けるのに!」とか言い立てたがる人が多数いると、公衆衛生のメンタル面が著しく損なわれると思うので、その不寛容を社会教育でどうにかしたほうがいいと思いますけどね。

生活保護法新法(1950)が解決した問題と、新しく発生させた問題と

1947年に日本国憲法が成立したため、整合を取る必要性もあって生活保護法新法(1950)が成立し、施行されました。旧法の欠格条項は撤廃されましたが、日本国憲法との整合を取る目的(と言われています)で、対象が「日本国民」に限定されました。それまでは国籍を問う条項がなかったので対象となっていた在日外国人は、紆余曲折の末、1949年の通達で「自治体判断で保護の対象としてよい」とされました。2014年7月の「外国人は(生活保護)法による保護の対象ではない」という最高裁判決は数多くの誤解を生んでいますが、この通達そのもののに対して「違法である」という判断はしておらず、「従来通り(通達による自治体判断での保護)でよし」という内容です。

1949年の通達にあたっては「在日外国人が圧力をかけた」という事実もあります。しかし最大の原因は

「日本にいる以上は、せめて最低限度の生活と子弟への教育を保障しなければ、日本社会が将来困ることになる」

という判断だったのではないでしょうか。

だって、その人々は、日本で生活保護を利用できないからといって、おいそれと本国に帰る事が出来る状況ではなかったんです。朝鮮半島も中国も混乱と戦乱のさなか、帰るに帰れない状況にあったわけです。当時の厚生省の議論を追った論文のいくつかを見ると、「外国人の生活保護率は高い」という事実は既に明らかになっていて問題視もされていたのですが、その背景として「外国人の就労は日本人に比べて難しい」といったことも考慮されていました。

もちろん、在日外国人たちがデモや団体交渉を行ったという事実はあります。それを悪とする昨今のネット世論もあります。しかし、日本で暮らし日本で生きていくしか無い状況にある人たちが、生きるためにデモや団体交渉を行うことの何が悪なのでしょうか。私には理解できません。日本にも類似の事例は数多くありました。思い当たることが何もないという方は、室町時代・戦国時代の農村自治について調べてみてください。

ちなみに米国で大恐慌直後の1930年前後、公的扶助らしきものが導入され始めたのですが、その理由は「そうでもしないと共産主義革命が起こるぞ」でした。文字通り「共産主義から社会を守るための社会保障としての公的扶助」だったわけです。

在日外国人の生活保護を認めた通達の背後には、さまざまな意味で「そうしないと日本社会が守れない」という判断があったことは間違いないかと思われます。

「日本の行った戦争という経緯によって日本に在住している人々を生活保護の対象ともしない」という行為が、国際社会からどう見られるか。

少なからぬ在日外国人に生活保護という機会も与えず困窮させ、衰弱させ、場合によっては餓死に至らせるという行為が、日本全体の公衆衛生をどれだけ悪化させるか。

金銭の問題にはしたくありませんが、こういった「リスク」を考慮したとき、在日外国人も生活保護の対象とすることは、むしろ「安上がり」な解決だったかもしれません(私は現在も、ほぼ同じ理由で「保護の対象からはずさない方が日本全体の得」と考えています)。

「適正化」は、いつも受給者の問題ではなく国家財政の問題

生活保護の「適正化」キャンペーン、「必要な人に保護を、不正受給者には厳罰を」というキャンペーンは、昭和30年代から手を変え品を変え繰り返されています。政府が「生活保護は削りたい」と考えたら、その時その時に都合よく何か(「ヤクザが生活保護で外車!」とか)がメディアで大きく取り上げられ、大衆が「けしからん!」と大騒ぎし、それをきっかけとして締め付けや申請手続きの困難化が行われる、というパターンです。

既に多数の漏給者がいること、漏給者がそのままでいるしかなくなる可能性が強まること、そのことによって結局は社会全体がさまざまな損害を被ること(注)には、「まったく」といってよいほど注目が集められないことも、延々とそのまま引き続いています。

1970年代までの厚生省には、さまざまな世の中の流れに抗って「あるべき姿」を追求する姿勢があったようですが(参考:弁護士(元厚生省官僚)尾藤廣喜氏に対する拙インタビュー記事・尾藤氏らの著書「生存権」)、その世代がまったく行政の場から姿を消した現在、何と言われようが、政府・政権の「メインストリーム」にいない立場から声を枯らして「それはおかしい」と言うこと、少しでも認識を共有してくれる議員を立法の場に送り出す努力をすることくらいしか、出来ることはなさそうです。

なので、どんな批判、どんな中傷を浴びても、私は自分の出来ることとして発言をやめずにいるのです。

私は今のところ生活保護を利用したことがありません。生涯、利用せずに済むなら、そのほうがいいと思っています。

しかし、生活保護に対して、これほどの無理解に基づく中傷と攻撃がぶつけられ、それを政権が利用する今のありようが続くのは、決して健全な社会のありようではないと考えています。

私はもう少し健全な社会に住みたい。日本生まれの日本人として、日本がもう少し健全な社会であってほしい。そのためにも、生活保護制度は大切です。

(注)

生活保護が利用しづらくなること・生活保護基準が引き下げられることのデメリット

  • 地域消費が冷え込む
  • 生活保護まではいたらない低所得層の生活がさらに困難になる
  • 最低賃金が引き下げられたり有名無実化したりする
みわよしこ

フリーランス・ライター

1963年福岡市生まれ。大学院修士課程修了後、企業内研究者を経て、2000年よりフリーランスに。当初は科学・技術を中心に活動。2005年に運動障害が発生したことから、社会保障に関心を向けはじめた(2007年に障害者手帳取得)。著書は書籍「生活保護リアル」(日本評論社、2013年)など。2014年4月より立命館大学先端総合学術研究科一貫制博士課程に編入し、生活保護制度の研究を行う。なお現在も、仕事の40%程度は科学・技術関連。

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