社会

未曽有に学ぶ 語り継ぐ関東大震災 91年の節目に(下)

 火炎に巻かれた人々の激しく損傷した遺体が東京や横浜の街に折り重なった。1923年9月1日の関東大震災で、1カ所としては最悪の3万8千人が亡くなった東京の陸軍被服廠(しょう)跡ではそのまま火葬が行われ、遺族は誰のものか分からない遺骨の山に手を合わせた。その一方、どこで被災したかはっきりしない犠牲者を手厚く供養した人たちもいる。彼らが思いを寄せたのは、海岸に次々と漂着した身元不明の遺体。迫る猛火から逃れようと飛び込んだ川で溺れ、あるいは乗っていた船に火が燃え移った。水辺でも助からない無数の命があった。

 苦難に満ちたあの日から91年となった1日午前、小雨の降る中、住職の和田大雅(71)が境内の石碑に向き合った。

 京急線金沢八景駅から約600メートルの龍華寺(横浜市金沢区洲崎町)。次第に雨は上がり、数は少ないものの手を合わせ、線香を上げる人の姿があった。

 読経を終えた和田が思いをはせる。「亡くなった方々はさぞかし不本意だったろう。今生きている私たちは命の大切さをかみしめなければ」

 この日、あらためて見つめた「震災殃死(おうし)漂流者供養塔」。向かって左側に立つ石碑に、その由来が彫られていた。

 〈死屍(しし)ハ累々トシテ金澤一帯ノ海岸ニ漂着シソノ数實(じつ)ニ男女共四十有餘(ゆうよ)ノ多キニ至リヌ〉

 地元の人々は仕方なく海の近くに埋葬したが、当時政財界で名をはせ金沢に別荘を構えていた大橋新太郎の妻、須磨子がそれを知って心を痛め、遺体を掘り起こして荼毘(だび)に付した。震災翌年の1924年7月のことだった。

 〈死者ハ皆親アリ子アリ又(また)配偶者アルモノナリシカ一且ノ災害ニヨリテ無縁ノ霊トナリヌ誠ニ慘痛(さんつう)ノ極ミト謂(い)フヘシ〉

 

 ■受け継ぐ 

 須磨子について「被災した称名寺鐘楼の再建なども進め、地域に尽くした」と語るのは、郷土史研究家の酒井宣子(80)。漂着遺体については自身の父から「リヤカーに載せて運んだ」と聞かされた。ただ、横浜方面からの遺体が平潟湾に100体ほど打ち上げられたと記す資料も残っており、詳細はつかめていない。

 なぜなら、灰燼(かいじん)に帰した横浜の中心部から南へ10キロほど離れた洲崎も深刻な被害を受けていたからだ。津波や大火はなかったとされるものの、多くの家屋がつぶれ、14人が死亡したとも伝えられている。犠牲になった地元の学童の追悼会を行ったのも、震災から2カ月が過ぎてからだった。住民はそれでも、横浜や横須賀から避難してきた人々のために炊き出しを行ったという。

 節目の1日に供養のため夫(82)と龍華寺を訪ねた女性(77)も、当時の教訓を親に教えられてきた。だから「寺に来たときは必ず供養塔に線香を上げている。子や孫には海岸に遺体が漂着したことも語り継いできた」。碑に込めた先人の思いは、90年の時をへた今も静かに受け継がれている。

 ■人々の心 

 京急線大森海岸駅(東京都品川区)から北へ約500メートルにある「大震火災殃死者供養塔」は、より苛烈な東京の状況を浮かび上がらせる。

 〈灼熱(しゃくねつ)は全市に漲(みなぎ)りたれば永代兩國(りょうごく)吾妻の橋畔に避難せる幾十万の民衆は橋梁(きょうりょう)の焼失と共に前後を亡じ河中に潜みたるも無慙(むざん)や濁流に漂い溺死せる者五千餘(あまり)の多きに達し累々たる屍体は二旬に亘(わた)りて各所に漂流せり〉

 「永代」や「吾妻」はいずれも隅田川に架かる橋。近くの「人助け橋」(新大橋)であったような奇跡は起きず、多くの犠牲者が出る痛ましい現場となった。大森海岸の遺体は、その辺りから流れてきたと考えられている。

 〈吾(わ)が大井町の海岸に漂着した者實に三十七體(たい)に及ぶ而(しか)して此(こ)の遺骸は一人として引取る人もなく憫(あわ)れ果なき有様なりき依(よっ)て東京市震災記念堂に合葬したるも無縁となりて千秋を弔ふ者だになきは遺憾の極みなり〉

 供養塔はその一人一人の詳細を刻む。漂着した日付と場所、推定年齢、性別。37人の内訳は、男性20人、女性17人。最後に流れ着いたのは、震災から4週間後の9月28日だった。

 「漂着遺体のために碑を建てたのは、漁業組合や町会など地域に根差した人たちだった。だからこそ復興も早かったのだろう」と、当時の人々の心を読む名古屋大教授の武村雅之(62)。「果たして、今の都会で同じようなことができるだろうか。被害を減らす取り組みももちろん大切だが、復興が可能な世の中や人間関係を築いておくことも、教訓として忘れてはならない」

 =敬称略

【神奈川新聞】