社会
「未曽有に学ぶ」語り継ぐ関東大震災 91年の節目に(中)
猛火に取り囲まれた東京と横浜で、人々は逃げ場を失った。10万5千人以上に上った関東大震災の死者・不明者のうち、両市での犠牲者は9万5千人余りと9割を占めた。それでも、とっさの機転で多くの命が救われた場所がある。横浜に「助命池」、東京には「人助け橋」。感謝の気持ちを込め、そう名付けられた奇跡の現場は-。
着物姿の男女に幼い子どもたち。崖を背に50人ほどが並んで撮影された1枚の記念写真がある。手前に写り込んだ小さな木札が、その場所が持つ特別な意味を示す。
〈紀念 助命池 有志建之〉
池のほとりで記念撮影が行われたのは、1924(大正13)年6月26日。写真が納められていた封筒にこう書かれていた。
〈大正拾弐(じゅうに)年九月一日ノ大震火災後住宅地焼跡ニ於(おい)テ避難者一同撮影セシ〉
場所は横浜市の西戸部町(現西区戸部本町)。池での「助命」のエピソードを神奈川新聞社の前身、横浜貿易新報が〈震火の一夜を池中に生きた〉の見出しで伝えている。
〈海老塚明氏邸内避難した五十餘名(よめい)の男女は猛火同邸を襲ひ邸内の樹木から堂々たる家屋も見る見る内に灰燼(かいじん)と歸(き)したが一同は同邸内なる約十坪許(ばか)りの池中に身を投じて火の粉降る終夜同水中に身を浸して一名の燒死(しょうし)者もなく孰(いず)れも無事なるを得た〉
■現存せず
海老塚家は西戸部町の旧家で、明は市会議員などを務めた有力者だった。近くの人々は、その邸宅の庭にあった池に避難し、猛火をしのいだ。まさに紙一重だった。一帯の惨状を横浜市震災誌が記している。
〈西戸部町御所山俗稱(ぞくしょう)鵯越(ひよどりごえ)の險峻(けんしゅん)の九十九折(つづらおり)の坂上に約七十名、中坂に約六十名の燒死體(しょうしたい)が晒(さら)された〉
九死に一生を得た人たちが震災翌年の1924年に松の木を7本植え、「助命池」の木札や記念の石碑を立てて謝意を示した。焦土と化した一帯では後に区画整理が行われ、今は住宅地に。池も碑も現存しておらず、海老塚家が再建に関わった近くの寺にも池のことは伝えられていない。
横浜には被害や教訓を刻んだ石碑や痕跡が数多く残るが、助命池の記録をたどった市史資料室調査研究員の百瀬敏夫(51)は指摘する。「戦災もあり、消えていったものも多い」
90年の節目を控えた2012年11月に海老塚家の親類から寄贈された資料の中にこの写真があり、当時の状況を知る手掛かりとなった。
■語る石碑
一方、東京では、圧倒的な存在感の石碑が今も奇跡のドラマを語り継ぐ。隅田川河口に架かる「人助け橋」。正式には「新大橋」で、橋そのものは既に架け替えられている。たもとにある高さ5メートルもの避難記念の碑が、生死を分けた判断と行動を刻む。
〈警官在郷軍人其(その)他有志の人々は火を導く恐ある荷物を忽(ことごと)く河中に投せしむ中には貴重の物とて泣きて拒みしも萬人(ばんにん)の生命には替え難しとて敏捷(びんしょう)果斷(かだん)なる動作は寔(まこと)に時ぎを得たる〉
1912(明治45)年に架けられたこの橋は全体が鋼鉄製だった。隅田川に架かる橋が次々と焼け落ちる中、猛火に耐え続ける。そこへ〈難を避くる數萬(すうまん)の大衆〉。橋の西側から迫ってきたのは〈狂ひに狂ひ燃えに燃え來(く)る紅蓮(ぐれん)の舌〉のような炎だった。
人々が携えていた荷物や家財道具に燃え移ると危険だと判断し、川へ投げるよう先頭に立って訴えたのは一人の巡査部長だった。だが「巡査部長は非番で私服だったから、なかなか言うことを聞いてもらえない。そこで近くの派出所の警官に協力を求めた」と、震災の石碑に詳しい名古屋大教授の武村雅之(62)。
橋の1キロほど上流には、震災で最悪の悲劇の現場となった陸軍被服廠(しょう)跡があった。武村は教訓をかみしめる。「新大橋では、巡査部長の機転がなければ皆死んでいた。家財道具があったかどうかが明暗を分けた」
被服廠跡で3万8千人もの命が奪われたのは、「炎の竜巻」とも形容される火災旋風が発生したことに加え、避難者が荷車に満載していた家財道具に四方から及んできた火が燃え移ったからだった。
【神奈川新聞】