社会
「未曽有に学ぶ」語り継ぐ関東大震災 91年の節目に(上)
10万5千人余りが命を奪われた1923年9月1日の関東大震災の廃虚の中で筆を執った「震災画家」がいた。火災旋風や押し寄せる津波、救護場面などを描いた徳永柳洲(りゅうしゅう)(本名・仁臣、1871~1936年)。手掛けた作品の多くは、東京都墨田区の復興記念館と隣接する慰霊堂に飾られ、未曽有の災禍を今に伝える。所在不明だった3点が神奈川大などの調査で慰霊堂の収蔵庫から見つかり、修復作業を経て今夏に初公開された。長い眠りから覚めた震災画は何を訴えるのか。
■3点に光
迫る火炎を背に、おりの中の猛獣に銃口を向ける人々。身の危険を感じてか、1頭のトラが立ち上がらんばかりに身を上げ、クマはおりにしがみついている。
日本有数の動物園だったとされる浅草・花屋敷。銃殺を図ったのは、トラやクマが興奮して暴れ出し、火の手から逃れようと避難してきた人々を殺傷しかねないと判断されたからだ。修復された3点の中で最も大きい「花屋敷」(縦1・83メートル、横1・77メートル)は死と隣り合わせの緊迫した場面を写実的な筆致で描き出している。
これに対し、「酒匂川上空の飛行機」(縦1・47メートル、横1・55メートル)は壊滅した街並みを子細に描いてはいないが、被災地の広がりを示す。題材にされた双発の飛行機が飛ぶのは、小田原や山北方面。震災の被害は東京や横浜の大火を中心に語られることが多いが、震源に近かった神奈川県西部は激しい揺れによる家屋の倒壊と火災、土砂崩れに見舞われ、沿岸部には津波も押し寄せた。
遠方との通信のために放たれた伝書鳩(ばと)を見送る軍人がメーンの「伝書鳩」(縦1・47メートル、横1・54メートル)は、連絡手段が現代と大きく異なり、即時の状況把握が困難だったことをうかがわせる。
■いまだ謎
この3点が“発掘”されたのは2010年。数々の資料や寄贈品が眠る慰霊堂収蔵庫に、神奈川大非文字資料研究センターなどが調査に入り、資料整理や目録作りを進めた成果だった。
「棚のようなところに、掛け軸が丸められたような状態で収められていた」と発見時の状況を振り返るのは、現在は小樽商科大学術研究員の高野宏康(40)。表面の下部にあるアルファベットのサインが決め手となり、徳永の作品と分かった。
一方、徳永の作品として復興記念館に展示されてきた1点にサインがなく、別人によるものと判明。その結果、徳永の手による絵画は記念館に13点、慰霊堂に8点の計21点が展示され、眠っていた3点を含む24点が所蔵されていることが確認された。
しかし、慰霊堂などが建てられた昭和初期に管理運営を担った東京震災記念事業協会の記録には、購入した徳永の作品として25点の名称が記されている。
そのうちの1点、「隅田川端の叫喚」がまだ見つかっていないことになるが、高野は言う。「24点と書いた別の目録もあれば、戦災で4点が焼失したとする資料もあり、全体像はなお分かっていない」
■巡回展も
火災旋風などで3万8千人が命を奪われた陸軍被服廠(しょう)跡に建てられた慰霊堂や記念館で、震災の記憶を後世に伝える重要な役割を果たしながら、いまだ謎に包まれている徳永の震災画。被災直後の場面は東京が中心だが、崩れ落ちたれんがの上に犠牲者が折り重なる「横浜の全滅」、荒れ狂う海が家々をのみ込む「鎌倉の海嘯(かいしょう)」、根府川の列車転覆を題材にした「熱海線鉄路の崩壊」など神奈川の惨状も描いている。
アパート暮らしをしていた新宿で被災した徳永は1人でこれらを仕上げたのではなく、仲間の画家たちと取り組み、義援金集めなどを目的とした「移動震災実況油絵展覧会」を全国各地や米国で開いた。その詳細もこれまで分かっていなかったが、富山の巡回展の盛況ぶりを伝える当時の新聞記事が残っていた。発掘された3点が掛け軸状に巻かれていたことから、運搬が困難な20点以上もの大作を巡回展の際は丸めて運んでいたことも明らかになった。
「東日本大震災の惨状を多くの人が記録したように、関東大震災当時も衝撃を受けた人たちが写真や絵画などそれぞれの技法で被害を伝えようと取り組んだ。徳永もその一人で、必ずしも特筆的な活動をしたのではない」と語るのは、災害史研究家の北原糸子(74)。「ただ、火災旋風で吹き飛ばされる人々など直接目にしているはずがない場面もリアルに描いている。写真では伝えられない状況であり、震災の被害を知らしめる効果は大きかった」とみる。
=敬称略
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「花屋敷」など修復された3点は復興記念館で28日まで特別公開中。そのほかの21点は記念館と慰霊堂に飾られているが、慰霊堂の8点は耐震改修工事の影響で8日以降は見学できなくなる。問い合わせは、東京都慰霊協会電話03(3623)1200。
【神奈川新聞】