Prologue
堕ちた妹 禁忌の契 〜 スライム・ビューティー アリサ 〜
「あ、お兄ちゃん」
お兄ちゃんがT字路の角を曲がっていくのがチラリと見えた。
そっか。たしか今日は、クラブがお休みの日だったっけ。
思わず私は駆け出していた。……嬉しい。久しぶりにお兄ちゃんと一緒に帰れる。
私は駆け足で角を曲がり、その先にいるはずのお兄ちゃんに声をかけた。
「お兄ちゃん、一緒に帰――」
見間違いじゃなかった。確かに、それは私のお兄ちゃんだった。
角の先は交差点になっていた。お兄ちゃんはそこで赤信号が変わるのを待っていた。隣に女の子を連れて……。
それを見た瞬間、私は立ち止まってしまった。
胸の奥がキュゥゥと苦しくなった。突然、時間がゆっくりになったように感じた。
「……ん?」
「……!」
お兄ちゃんが振り向こうとしている。
そう気付いたとき、私はとっさに自販機の陰に隠れてしまった。
「アリサ……?」
「あれ……?いま、たしかに……」
お兄ちゃんの声が聞こえる。けれど、私は返事をできなかった。
胸が切ない。何か重たいものが、ズンと伸し掛かって来てるみたい。
どうしてしまったんだろう?この自販機の陰から、一歩も踏み出せない。信号が青になった。
「どうしたの?」
「いや、気のせいだったよ」
「ほら行こう?ここ、すぐに変わっちゃうから」
「うん」
お兄ちゃん達の声が聞こえる。
お兄ちゃんが私を探している。返事をしなきゃ。お兄ちゃんが行ってしまう。
お兄ちゃん達が歩き出した。……でも私は動けなかった。
自販機の裏で、お兄ちゃんの声が遠ざかっていくのをただ聞き続けるしかなかった。
「あはは」
二人の楽しそうな声が、僅かに聞こえた。お兄ちゃん、笑っているんだ……。
私は、張り裂けそうな胸に手を当てた。心臓が不規則な鼓動を刻んでいた。切ない……苦しい……。
……二人の声が聞こえなくなったとき、私は、やっと自販機の陰から出ることができた。
そして、自分が泣いていることに気付いた。
信号がまた赤になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「はいどうぞ……?」
「ハーブティーだけど、アリサちゃんのお口に合うかしら」
お姉さんが温かいお茶を出してくれた。
「いただきます」
口に近づけると、爽やかな香りがした。
「レモンの香りがする……」
「フフ、そうでしょ?だからレモンバームっていうのよ」
「でも、酸味はないから安心してね?」
「あ……ほんとだ、酸っぱくない。これ……すごく美味しいです」
「そう、良かった♪」
温かい湯気を吸い込むと、爽やかな香りが鼻腔を満たした。
温かい……お姉さんの注いでくれたレモンバームが染み渡っていく。
体がじんわりと温かくなって、なんだか、とてもゆったりとした気分になれた。
「フフ、まだまだあるから、おかわりしてね?」
「私もハーブやってるから。自分で作ったの、アリサちゃんに飲んでもらえて嬉しいのよ」
「はい、いただきます」
しばらくの間、お姉さんが作ったお茶やお菓子をご馳走になった。
「……落ち着いた?」
「……はい。ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「……そう、それならよかったわ」
「でも、さっきはお姉さん、ほんとにビックリしたのよ?だってアリサちゃん、あんなところで一人で泣いてるんだもの」
「…………」
あの後……私は公園のベンチにいたところを、お姉さんに声をかけられた。
このお姉さんは、学園からの帰り道によく一緒に帰っている人だ。
最初は挨拶するだけだったが、思い切って話しかけてみると、とても話が合った。自分の知らないことをたくさん教えてくれた。
とても綺麗なお姉さんだ。モデルさんみたい。
普段何をしている人なのかは詳しく聞いていないけど、お姉さんは優しくて、悪い人には見えなかった。
だから、私は色々話を聞いてもらっていた。
私にはお兄ちゃんしかいないので、年上のお姉さんといると、自分にお姉ちゃんができたみたいですごく嬉しかったのだ。
だから、お姉さんは私のことを良く知っている。
私がお兄ちゃんを好きなことも……、同年代の男の子に興味がないことも……。
私が恋をしていることも……。兄弟としてではなく、お兄ちゃんを異性として好きになってしまったことも……。
……全部、お姉さんは知っている。
最近はお兄ちゃんがクラブに入ってあまり一緒に帰れなくなったから、お姉さんと帰るほうが多くなった。
「そうなの、お兄さんが女の子と……」
「…………」
「でも、お兄さん、まだその娘とは付き合ってないんでしょう?」
「そ、それはそうですけど……」
お兄ちゃんは優しい人だ。いつも周りの人を気遣っている。だから、学校の女の子にも人気がある。
けど、そのことにお兄ちゃんは気付いていない。人には気が回るのに、自分のこととなると、途端に鈍くなってしまうところがあるのだ。
周りの娘は待っているのに、お兄ちゃんは自分から行こうとしない。
だから、今お兄ちゃんの一番傍にいる異性は、私なんだ。
お兄ちゃんは、私にとっても良くしてくれる。兄弟だけど、ケンカなんて今まで一度もしたことがない。
私がまだ小さい頃に、何か悪いことをしてしまっても、いつもお兄ちゃんは笑って許してくれていた。
だから、いつしか私も、そんなお兄ちゃんを見習って、悪いことなんてしようと思わなくなった。私が良い子にしていると、お兄ちゃんはますます私を大事にしてくれた。
一緒に買い物にいくと、大抵、お店の人にはカップルに間違えられる。それぐらい、お兄ちゃんは私に優しくしてくれている。
……でもそれは、私が妹だからだ。
他の女の子と違って、私はこれ以上前に進めない。どんなに近くても、お兄ちゃんとの間には超えられない壁が立ちはだかっていて、私が近づくことを許してくれない。
だからさっきの交差点でのことは、私にその現実を突きつけるには十分なことだった。
確かに、お姉さんの言うように、あの娘はお兄ちゃんと付き合っているわけではない。ただのクラスメイトだと思う。
だけど……付き合っているとかいないとか、そんなことは問題ではないのだ。
私にとって、あの娘は“始まり”だった。残酷な運命の始まりなのだ。
時が経つにつれて、お兄ちゃんは様々な女の子と出会うだろう。
それが自然なんだ。そうなっていくべき運命なんだ。私がそれを止めることなんてできないし、それはしちゃいけないことなんだ。
今はたしかに、私がお兄ちゃんの一番傍にいる。お兄ちゃんの愛を一番受けている女の子は、確かに私だろう。
でも、それは必ず崩れるものだ。……やがて誰かが“妹”という立場から動けない私を飛び越えて、お兄ちゃんの隣にいってしまうだろう。
そしてその人は、いつか……お兄ちゃんと結ばれてしまうだろう。
「アリサちゃん……」
「親子は一生親子でいられるが、兄弟はいつしか他人になっていくものだ」……そんな言葉をどこかで聞いたことがある。
お姉さんも、それを分かっているのだろう。だからお姉さんは、私に気休めの言葉をかけようとしないんだ。優しい微笑で……“諦めるしかない”と、私に教えてくれているんだ。
こうやって、私を家に迎えてくれて温かいお茶を出してくれるのは、そういうお姉さんの優しさなのだ。
そう、思っていた。
……けれど、私の予想は外れていた。
お姉さんの微笑みは、私を諭すためのものではなかった。お姉さんは……私を導こうとしていたんだ。
お姉さんが静かに口を開いた
「そう……お兄さんに振り向いて欲しいのね?」
「でも、二人は兄弟だものね……兄弟で結ばれるなんて、できないわよね?」
「お兄さんにしたって、アリサちゃんがいくら可愛くてもそれは妹としてのことだもんね」
「…………」
「フフッ、でもね……それって、アリサちゃんが難しく考えてるだけかもしれないわよ?」
「えっ……?」
「要は、お兄さんがアリサちゃんを“女”として見るようになればいいんじゃない?」
「えっ……?」
「それなら一つだけ方法があるわ。それは――」
「“快感”よ……」
「え…………?かいか……ん……?」
お姉さんの言葉に、私はポカンとなってしまう。快感……カイカン……。
そういう言葉を、人から直に聞いたのは初めてかもしれない。
「フフ……アリサちゃんが思っているより、きっと男の子って単純よ?」
「キモチイイコトされたら、その娘のこと好きになっちゃう生き物なのよ?」
「だからね、快感をあげればいいの。エッチなことをいっぱいして……好きな男の子の体に刻み込んであげればいいの」
「私なら、こんなにあなたを気持ちよくできるよ?……てね」
そう言って、お姉さんは妖艶な笑みを浮かべた。
こんな表情を見たのは始めてだった。いつも優しいお姉さんが、こんな顔をするだなんて……。
「たとえ血の繋がりがあっても、快感を与えれば男の子は堕とせるわ」
「普段はそう思っていなくても、いざとなれば、そんなことは関係なく男は興奮できる生き物なの……だからね、一番大事なのは与える“快感の量”なのよ……」
「快感の……量……?」
「フフッ、そうよ?禁忌を侵すようなことでも、それを超える大きな快感を与えて、理性を溶かしてしまえばいいの」
「一度理性が溶けてしまえば、こちらのものよ?兄弟でも親子でも、それは抗えない……いや、むしろ忌避感は逆に背徳感に変わって、男の子は更に堕ちることになる……」
「そ、そんな……こと……」
「フフ……たしかに、そんなことは普通無理よね?普通なら、快感より理性が勝つのは当然だわ」
「でもそれは、ニンゲンのレベルの快感でしょう?」
「アリサちゃん……私は今、それを超えた次元の話をしているのよ?」
「普通の女の子では与えられないような快感。男を堕とし、全てのシガラミを断ち切れる程の快楽……」
「それを操れるようになるには、あなたは“進化”しなければならない」
「“人間を超える者……ビューティー”にね……」
「え……?」
「に……人間を……超える……?……ビュー……ティー……?」
私は混乱していた……。お姉さんが何を言っているのか、分からない。
……分からないのだけれど、決して何かの冗談で言っているのではないということだけは分かった。
お姉さんが私を見ている……眼を逸らせない。私は蛇に睨まれた蛙の様に、彼女の視線に絡め取られてしまった。
「お姉さんも、そのビューティーなのよ……?進化して、人間を超える力を手に入れたの……」
「私がアリサちゃんくらいの頃に、ある方が、私をビューティーにしてくれたわ」
「それから私の人生はとても幸福になった……。この世の“枠”に囚われない生き方を自分で選べるようになったのよ」
そう囁いてお姉さんが微笑った……。私は、全身の毛が逆立つような感覚に囚われた。
頭がぼんやりとしてきた。動けない……声も出せない……。お姉さんの醸し出す妖気が、私を絡め取っていく。
「フフ……お姉さんには分かるわ。アリサちゃんの悩みは、私のようになれば乗り越えられる……」
「大好きな“お兄さん”とのことも……きっとうまくいくようになる……」
「…………!」
お兄ちゃんのことを言われて、私はハッっとして我に返った。
夢の中からふいに現実に引き戻されたような、そんな感覚だった。
「え…………えっ……?」
「お、お姉さん……そ、それって……どういう……」
私は、やっとの思いで声を搾り出した。
お姉さんが何を伝えようとしているのか、もっとよく知りたい。もしもそれがお兄ちゃんとのことに関わるようなことなら……どんなに理解を超えるような話でも、私は聞きたい……。
「ふふ、焦らないで……?すぐに分かるわ」