編集部からのお知らせ

【無料公開】松田直樹との最後の3日間 松本山雅FC代表取締役社長 大月弘士氏インタビュー

2014/11/02

松本山雅、大月弘士社長のインタビュー再掲にあたって

 松本山雅が今季のJ2で2位以内を確定させた11月1日、私はスペインのバルセロナでその報に接した。初めてバルセロナを訪れたにもかかわらず、TwitterのタイムラインでJ2の各会場の途中経過に見入っていたのである。結果については周知のとおり。山雅は2−1でアウエーの福岡戦に勝利し、千葉と磐田が2−2で引き分けたため、山雅の来季のJ1昇格がここに決した。

 個人的には、これほど早い段階で山雅がJ1に昇格してしまうとは予想していなかった。それでも、クラブ関係者およびファン・サポーターの皆さんには、あらためて「おめでとうございます」と申し上げたい。そして、天上でこの光景を見つめていたであろう、松田直樹さんに対しても。

 昇格が決まった瞬間、3年前に突然の死を迎えた松田さんのことを思い出した人は少なくなかったと思う。実際にサポーターの間でも、松田さんにJ1昇格を報告するゲートフラッグが掲げられていたようだ。そこで今回、彼の死から7週間後に徹マガ通巻69号として配信された、松本山雅の大月弘士社長のインタビューを公開することとしたい。

 今回の山雅のJ1昇格に関して、3年前の松田さんの死と直接結びつけることについては、個人的にいささかの抵抗がないわけではなかった。しかし一方で、この機会にあらためて故人を偲ぶ人も少なくないのではないか、という判断もあった。そして大月社長の当時の証言からは、松田直樹という偉大な存在を失った戸惑いと、それでもクラブとして前進していかねばならぬという不退転の気持ちが見て取れることにも気付かされた。

 あの時の危機的な状況に対して、クラブが正面から向き合うことができたからこそ、今回の快挙につながったのではないか──。3年前の大月社長のインタビューを読み返してみて、そんな想いを新たにした次第だ。山雅のJ1昇格が決まった今だからこそ、皆さんにもあらためて読んでいただければ幸いである。(徹マガ主筆:宇都宮徹壱)


(C)Tete_Utsunomiya

 9月10日発売の『サッカー批評』(今号より季刊から隔月刊になった)で「松田直樹が松本山雅FCに残したもの」という原稿を発表している。

 8月4日に亡くなった松田直樹氏については、「元日本代表」や「元横浜F・マリノス」という視点からの報道があまりにも多かったことに、私はかねてより少なからぬ違和感を覚えていた。そこで編集者と共に松本に1泊2日の取材を敢行。クラブ関係者やサポーターからさまざまな証言を得て、一気に原稿を書き上げた次第である。

 原稿の内容については一定の満足はしている。ただ(いつもの悩みどころなのだが)、なにぶんにも紙幅が限られているため、原稿に落し込めるインタビュー内容は非常に限られたものとなってしまった。とりわけ松本山雅FC代表取締役社長で、松田氏の最期を看取ったひとりである大月弘士氏の証言は非常に興味深い内容であり、そのまま私のPC内に眠らせておくのは非常にもったいないと感じていた。

 そこで今回、クラブ側と『サッカー批評』編集部のご厚意により、大月氏のインタビューを当メルマガにて再現することと相成った。奇しくも今号の徹マガの配信日9月22日は、松田氏の四十九日に当たる。最後の3日間の出来事について、最も身近にいた大月氏の証言に耳を傾けながら、あらためて故人を偲ぶことにしたい。(取材日:2011年8月23日)


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JFLへの戸惑いと不安

――松田直樹が倒れた8月2日のお話を伺う前に、松本山雅が彼を獲得するに至った経緯について、あらためてお聞きしたいと思います。というのも、ワールドカップ出場経験があり、なおかつ横浜F・マリノスという名門クラブで16シーズンにわたりプレーしていた彼が、なぜにJFLの松本山雅を移籍先に選んだのか、その理由をご存じない方が意外と多いものですから

大月 最初に松田直樹の獲得を提案したのは加藤GM(善之、現在は監督を兼任)でした。JFLに来てくれるかわからないけども、一度オファーしてみないかと。正直ダメモトでも、われわれはチャレンジャーなので挑戦してみてはどうかと加藤GMに伝えました。最初に会ったのは12月20日でしたね。新横浜プリンスで松田直樹と田邊(伸明)代理人と私と加藤GMの4人で話しをさせて頂きました。

――当時の松田は、JFLや松本に関する知識はほとんどなかったと思います。どのようなアピールをされたのでしょうか?

大月 私たちのサポーターが作ったプロモーションビデオがあったものですから、それを持参しました。試合の時のサポーターがたくさん映っている映像です。「JFLは松田さんにとって想像もつかないような下のリーグかもしれないけれど、その想い、サポーターの熱さ、そしてクラブがこれからJ2に上がろうとしているエネルギーは、J1のクラブには決して負けない」ということを伝えました。

――その時の彼のリアクションは?

大月 最初は戸惑いの表情でした。ただ、ファンが多いことは聞いていたらしく、浦和レッズに(09年の天皇杯で)勝ったということも知っていたようです。その上で、オファーしてくれたことはすごい嬉しい。自分にとっては初めてのオファーだったと。

 けれどもJFLに行くことについては正直、不安な様子でした。その後もお話をさせていただいたんですが、ずっと彼も悩んでいたんですね。ウチの提示した金額もあったんですけど、それ以上に自分の心の整理に時間がかかったと思うんです。

――それでタイムリミットはいつに設定していたのでしょうか?

大月 (12月)27日です。そしてら向こうから電話がかかってきて、ちょっと待ってくれないかと。一度松本を見て、どういうところか確かめたいと言うんですね。たまたま29日なら来れるということで、私と副社長の八木(誠)と加藤GMの3人で松本駅まで出迎えました。TBSのドキュメンタリー番組「バース・デイ」でも映っていたと思います。

――それから練習場などを案内したわけですね。どんな感じだったんでしょうか?

大月「こういうところでやるんですか?」とか「用具係はいますか?」とかいろんな事を聞かれました。ここの練習場(松本市営サッカー場)は、今年人工芝になったばかりで、そのころはまだ工事中だったんです。「ハイ、わかりました。もういいです」という感じで、その時は正直ダメかなと。いろんな質問をされましたが、ウチではあまりにも(J1と比べて)環境が違いすぎると感じていたので。

――まあ選手にしてみれば、練習環境はクラブ選びの重要なポイントですからね。とはいえ、マリノスタウンと比べられると厳しいですよね(苦笑)


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「今日を持ちまして松本山雅に入ることを決心しました」

――いずれにせよ松本の第一印象は、決して芳しいものではなかったようですね。それからどうなりました?

大月 最後にアルウィンを見せたんです。そしたらピッチに一歩足を踏み入れた瞬間、松田くんの表情がガラっと変わったんです。そして「ここ、すごくいいですね」と。何がいいかというと「スタンドの近さ」だと言うんです。「ここはJFLだけれども、これだけサポーターとの距離が近いスタジアムが俺は好きだ」と。「自分がここに来れば、サポーターも増えると思う」とも言ってくれましたね。すごくいい笑顔で。

――なるほど。やはり決め手はアルウィンでしたか!

大月 その後、ホテルでお茶を飲みながら、こちらの熱意を伝えました。松本山雅は松田直樹が必要なんだ。マツがいなければできないことがたくさんあるんだ。昇格するための請負人として来てほしいし、さらにサポーターを増やすために松本の宝になってほしい、と。結局、年内まで(返事を)待ってくれと言われたんですけど、大みそかになっても連絡が来ないから、もうダメだと思ったんです(笑)。

――ううむ、去年の大みそかにそんなドラマがあったとは知りませんでした(笑)

大月 そしたら、12月31日の夜の10時に私の携帯電話が鳴ったんです。それも間が悪くて、最初は加藤GMに電話したらお風呂に入っていたらしくて(笑)。で、私も年越しで午後6時くらいから呑んでいて、少し眠っていたんです。そしたら女房が「松田直樹って人から携帯に電話入っているよ」って(笑)。慌てて出たら「今日を持ちまして松本山雅に入ることを決心しました」と言ってくれました。

――まさに年が明ける2時間前だったんですね。ところで松本への入団が発表される直前に「松田、セレッソ大阪入り」という報道があったと思うんですが

大月 こっちも驚きましたよ。すぐ田邊さんに電話したら「大丈夫だから」と。ウチも心配だから「今すぐ東京行くから契約させてくれ」と言ったんです(笑)。そしたら「いや大月さん、9日の記者会見の2時間前に集まって契約しても大丈夫ですから」と言われて。そうなると信じるしかないですよね(苦笑)。

――セレッソの話はどこから出てきたんですかね。いずれにせよ正式発表までの間、大月さんもいろいろ気を揉むことがあったと思いますが、松田自身もマリノスへの断ち難い想いを整理するのに時間がかかったのではないかと思います

大月 そうですね。解雇されたのは相当ショックだったでしょうし。彼はやんちゃに見えて、けっこう繊細な人間だと思います。あの時はわからなかったですが、今あらためて考えると、いろんなことを彼なりに考えて発言や行動をしていたように思います。

――その後、2月には横浜から松本に引っ越してきたそうですね。すぐに環境に馴染むことはできたんでしょうか?

大月 2回目に松本に来た時に、すごい雪が降っていたんですね。「こんなに寒いところでサッカーできるのかな」って、心配そうな顔でした。その時に、加藤GMと私と木島(良輔)と4人で食事をしたんです。すぐサッカーの話になって、GMに「オレは3バックの真ん中でやりたい」という話をずっとしていましたね。

 本当にサッカーが大好きなんだなあと。木島も「マツに5時間くらいサッカーの話をされて、最後はケンカみたいになった」と言っていましたよ(笑)。


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8月2日、突然電話が掛ってきて……

――いよいよ8月2日の話をうかがいたいと思います。すでに山雅ファンのみならず、多くのサッカーファンがこの日の経緯について周知していると思いますが、そこをあえて、大月さんの視点から「あの日」を振り返ってみたいと思います。まず、「松田倒れる」の第一報に接したのはいつ、どこでだったのでしょうか?

大月 倒れた直後、加藤監督から私の携帯に突然電話が掛かってきました。「大月さん、マツが意識不明でヤバいです」と。その時、私は自分の会社にいたんですけど「ヤバいから来てくれないか」ということで、すぐに車で出ました。

 するとまた電話がかかってきて「これから信大病院(信州大学付属病院)に搬送されます」と。あと5分くらいで現場に到着するところだったんですが、すぐ折り返して信大に向かいました。救急車より早く到着したので、そこで少し待っている状況だったんです。

――救急車がグラウンドに到着したのが10時10分。病院に到着したのが10時50分と記録されています。その直前に大月さんが病院へ到着されたわけですね?

大月 私は40分くらいでしたね。それで救急車が到着した時、白目を向いた松田の顔を見て「これはただ事ではない」と。到着した時には、すでに心肺停止状態でした。第一報を聞いた瞬間は「なんとか助かってほしい」という想いしかなかったんですが、彼の変わり果てた顔を見た瞬間に「いろいろ考えないといけない」と思いましたね。確かに動揺していましたが、早く冷静に判断しなくちゃいけないと。

――ドクターからは何と言われました?

大月 助かっても、サッカーはもう無理ではないかと。これはICU(集中治療室)で知ったのですが、到着してから心肺停止が10分以上続いたので、人工心肺装置を装着していたと。

――それは辛い……。その後はずっと病院内にいらしたんですね?

大月 そうです。その後、ご家族の方がお見えになって「公式発表はお母さんに確認してから発表します」ということになりました。

――16時30分に主治医が、急性心筋梗塞で非常に危険な状態であることを説明したという記録があります。この時に最初の会見が行われ、その後も何度かメディア対応があったようですが、かなり大変だったのではないでしょうか?

大月 そうですね。みなさんが松田の容体について心配しているのはわかりますし、情報として流したいというメディアの心理もわかるんですけど。最初は「30分おきに記者会見を開いてくれ」と言われたんです。

――30分おき? それはいくらなんでもって話ですよね

大月 ですので1日2回、10時と15時に容体について説明します、ということでご理解頂きました。

――相当な数のメディアが病院内で待機していたようですね

大月 ええ、一晩中待機していましたね。中継車も来ていましたし。TV局から新聞からフリーライターまで、30~40社くらいいたんじゃないですかね。で、1日目の16時30分の記者会見の時に、お姉さんのメッセージを読ませていただきました。「ご心配頂いておりますけれど、他の患者さんもいるので、今は病院に来たりせずにそっと見守って頂ければ」という。お姉さんも看護師のお仕事をされていたので、サポーターの皆さんにもご理解いただけたと思います。


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続々と松本入りする元チームメイトたち

――その後、松田の元チームメイトや友人が続々と病院を訪れました。松本にこれだけ多くの日本サッカー界を代表するスター選手が結集したのは前代未聞のことだったと思います。彼らはICUの中には入れてもらえたんでしょうか?

大月 入ってたよね(と、同席した広報の越後有希さんに)。マツと会ってたよね。

越後 会ってましたね。

大月 ほとんどの方はICUの中に入れてもらっていました。お母さんが病院に頼んで、直樹のずっと仲良くしてもらった友だちだし、遠くから来てもらっているので是非会わせてあげたいと。

越後 皆さん、練習が終わってからの遅い時間でした。やはりICUという場所なので、、最終的にはNGになってしまって、いらしたその日会えなかった人もいるんです。「他の患者さんもいるから、ご遠慮ください」と。それで次の日に改めてお見えになった方はいらっしゃいましたね。

――つまり、こちらで一泊したわけですか?

越後 そうですね。(ホテルに)泊まったり、駐車場で一晩明かしたり。それと松田くんの部屋が近所にあったので、そちらで休んでいただいた方もいらっしゃいました。関西方面からいらした方は、行きは電車で来て一晩明かして、朝5時半くらいにレンタカーを借り(向こうで)乗り捨てたそうです。

――それだけ多くの仲間たちが駆けつけるあたりに、あらためて松田直樹という人間の大きさを想わずにはいられません。いろんな選手を間近でご覧になったと思うんですけど、特に印象に残っていることは?

大月 ほとんど全員の方がマツの思い出話をしていたんですが「アイツは死ぬような男じゃない」とか「今までこんだけ俺たちに迷惑かけてきたんだから」とか。その言葉のひとつひとつから、本当に皆さんマツのことが好きなんだなと。あらためて、すごい男なんだなって思いました。

――亡くなる前に、見舞いに来た選手やサッカー関係者は、何人くらいだったか覚えてますか?

越後 30人くらいですかね。一応、こちらのほうでメモしたものがありますので、あとでお渡しします。

※見舞客リスト(越後さんのメモより)

2日:河合竜二(札幌)、田中隼磨(名古屋)、榎本哲也、中村俊輔(以上、横浜FM)、佐藤由紀彦(長崎)、城彰二、平野孝、安永聡太郎、川上直子(以上、解説者)、薩川了洋(長野監督)

3日:平野、安永(以上、解説者)、石川直宏(FC東京)、三浦淳宏(解説者)・大竹夕魅夫妻、大竹七美(解説者)、山瀬功治、田中祐介、小宮山尊信(以上、川崎)、田中隼、楢崎正剛、三都主アレサンドロ、田中マルクス闘莉王(以上、名古屋)、鈴木隆行(水戸)、河合(札幌)、小椋祥平、飯倉大樹、長谷川アーリアジャスール、狩野健太、栗原勇蔵、兵藤慎剛、松本怜(以上、横浜FM)、ハーフナー・マイク(甲府)

4日:平野、安永、名波浩(以上、解説者)、川口能活、那須大亮(以上、磐田)、榎本、中村、秋元陽太(以上、横浜FM)、吉田孝行、宮本恒靖(以上、神戸)、三浦知良(横浜FC)、熊林親吾(草津)、尾本敬(水戸)


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最期のユニフォームは緑色で

――松田直樹の死去は4日の13時6分と発表されていますが、大月さんはその時までずっと病院にいらしたんでしょうか?

大月 ずっと病院にいました。亡くなる前、ちょうど10時ごろですかね。(ICUに)入って、手を握らせてもらったのが最後でした。

――手は冷たかったですか?

大月 いや、温かかったです。それまでむくんだような顔をしていたんですけど、その日はすごいすっきりした、良い顔になってましたね。亡くなってチューブを外したら、ほんとにニヤッと笑顔になっていて。

――笑顔、ですか?

大月 ご遺体に会う時、お母さんが「直樹らしいニコッとした笑い顔になっていて」と仰っていたんです。そんなことがあるのかと思って、ご遺体に対面したら本当にそうなんですよ。ちょっと意地悪そうな、ニコッとした笑顔をマツはよくするんですけど、まさにその顔。マツらしい顔になっていました。

――お母さんのご様子を見ていて、いたたまれない気持ちになったと思いますが

大月 自分の息子の死を受け入れなければならないというのは、本当に苦しいことだったと思うんです。そんな中でも「直樹はサッカーが好きだったし、松本山雅が好きだったから」とずっと言ってくださったんです。(翌日)遺体安置所にいったら、ウチの3番のユニフォームが着せられていました。パンツもソックスも、当時使っていたスパイクもすべて。それを見た時に涙が止まらなかったです。

――知りませんでした。「最期は直樹が愛したチームのユニフォームで」という、ご家族の意向だったんでしょうね

大月 ご家族の方が、緑のユニフォームを着させてやってくれと。ただ、この上には前橋育英やマリノスや日本代表のユニフォームも置くけれども、着せるのは山雅のユニフォーム、ということで。最後にいたチームということもありますけど、そこまでしてくれるのかなと。その時は、私と八木副社長とふたりでマツの胸に手を当てて……。

――何とおっしゃったのですか?

大月「本当にごめんなさい、悪かった」と。そして「必ずJ2に昇格するから」ということをね、叫んだような記憶があります。

――亡くなった翌日の5日、ご遺体を故郷の桐生に運ぶ際に、霊柩車がアルウィンを一周したそうですね。これもご遺族の希望だったんでしょうか?

大月 こちらのほうでお話したら「ぜひそうしてください」と。途中、練習場で選手に、アルウィンの献花台ではサポーターに挨拶したいとも言ってくださいました。最後に車が桐生に向かって走り出したとき、また涙が吹き出しましたね。マツとは3日間、ずっと一緒でしたから、何だか急に寂しくなってしまって。


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より密接な関係となった山雅とマリノス

――先ほど「本当にごめんなさい、悪かった」という言葉がありました。個人的には、今回のクラブの一連の対応は、とがめられるところはなかった、ベストを尽くしたと感じています。とはいえ、たまたま松田が倒れた練習場にAED(自動体外式除細動器)がなかったこと、そして信大病院まで距離が離れていたことが致命的だったのは否めません。その点については今、どうお感じになっていますか?

大月 あの状況でもAEDがあれば助かったかどうかは、医師ではないので分からないです。ただ、JFLで(AEDが)義務付けられていなくても、クラブとしてはその用意をしておくことが、Jを目指すクラブとして必要だったのかなという部分では、申し訳ない気持ちですね。たまたまですけど(ギャラリーの中に)看護師さんがいて、救急車が来るまでの間、AEDが無い場合での最善のことはやれたと思っています。

――松田が倒れた梓川ふるさとグラウンドは、普段はあまり利用していなかったそうですね?

大月 それが夏休みに入って、いつも使っている練習施設が取れなかったんですね。今となっては悔やまれます。

――報道によると、今後はJFLでも練習場でのAED設置を義務付けることになるようです。すでに山雅さんでも携帯用のAEDを導入されたそうですね

大月 今はレンタルでご好意で借りているんですけど、近々全部のカテゴリに入るようにしました。ユースや年代別にあるので、合計10台。

――1台、いくらくらいするんですか?

大月 20万から30万くらいでしたかね。私どものスポンサーさんから「是非寄付させて頂きたい」と申し出がありまして。松本市も今後、それぞれの施設にAEDを設置するということで決まったみたいです。

――とはいえ10台も配置する余裕は、JFLだとなかなかないですよね

大月 こういうことが起こってしまってからでは遅いんですけどね。それでも、今後については万全の態勢で臨みたいということで。

――その後、桐生での通夜が8日、告別式が9日に行われました。メディア対応も含めて大変だったと思います。聞くところによると、マリノスのスタッフがかなり応援に駆けつけてくれたそうですね?

大月 15名くらい来ていただきましたかね。山雅の職員は7~8人を出すのが精いっぱいで、すべてにおいてマリノスさんに仕切って頂いて、本当に助かりました。葬儀が終わった後、マリノスの社長の嘉悦(朗)さんに御礼を申し上げました。マリノスさんのスタッフがいなかったら、われわれだけで仕切ることなどできませんでしたから。嘉悦さんからは「われわれもJ1優勝に向けて頑張っていきます。松本山雅さんがJ2に昇格することを心から祈っています」と言っていただきました。

――山雅とマリノスという、これまでほとんど接点のないふたつのクラブが、松田直樹によって、より密接な関係になっていったということですよね。これはこれで、松田がクラブに残した遺産のひとつだと思います

大月 まあ、あちらはどう思われるかわかりませんが、マリノスは素晴らしいクラブですし、われわれが目指す目標のひとつでもあるのでね。われわれとしても、早くJ昇格を果たして、そういう環境が整うようにしていきたいと思います。


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ひとりひとりの選手が自分の人生を大事にしてほしい

――葬儀も終わって、少しは落ち着きましたでしょうか?

大月 そうですね。26日にお別れの会がありますが。26日を過ぎた段階で、ウチも後半戦へ向けて新たな戦いが始まるという感じでいます。

――あらためて松田直樹に声をかけるとしたら?

大月 弔辞の中でも読んだのですが、本当に(クラブとして)マツに与えられたことは少なかったと思います。とにかく松本にとってはすごい男が来たので、自分の気持ちとして「マツに会えてよかった」と。「マツが松本に来てくれて嬉しかった。マツ有難う」ということを最後に言ったんですけど、本当にその気持ちに尽きます。私以外のスタッフも、ファンも、すべての人がそうだったと思います。

――松田が亡くなって最初の試合(7日、対SAGAWA SHIGA FC戦)は、何だか空回りしてして非常に後味の悪い結果(1-2)となってしまいましたね

大月 みんなが「マツのために、マツのために」という感じでしたね。それは決して悪い事ではないし、どうしようもないとも思うんですが。

――選手もそうですし、大月さんご自身も、松田がいなくなったという現実を本当の意味で受け止めるのに、本当はまだまだ時間が必要なのかもしれません。その点については、今はどんなことをお考えでしょうか?

大月 マツにはマツのサッカー人生があったように、選手ひとりひとりにもそれぞれのサッカー人生があって、それで1年1年での勝負だと思うんです。ですから、自分自身のサッカー人生を大切にしてほしいということが、今の正直な気持ちですね。ひとりひとりの選手がサッカー人生を、自分の人生を大事にしてほしいです。

――昇格も大事だけど、やっぱり選手ひとりひとりが充実したサッカー人生を送ってほしいと。確かに大切なことです。とはいえ今季、クラブとして昇格に勝負を賭けているわけです。今後は松田不在で、それを成し遂げなければならない。どうでしょう、松田直樹への約束は果たせそうですか?

大月 自分にとって、良いサッカーをするには何が必要なのか。それを選手各自が問い直して、さまざまな場面で実現できれば、きっと良い結果につながると思います。決して昇格できない数字ではないですし、昇格できるスタッフ・選手を集めたつもりです。なので、自分に何ができるかというということを冷静に見つめ直していけば、必ず昇格できると信じています。


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大月弘士(おおつき・ひろし)

1966年年9月20日生まれ。小学校より、松商学園野球部監督をしていた父の影響を受け、甲子園を目指して野球を始める。松商学園野球部時代は3年の夏に野球部内の暴力事件で対外試合出場停止処分になり甲子園出場の夢は途切れる。家業である酒販店の後継者として、東京の大手酒販店で修行。90年に松本に戻り、株式会社大月酒店に入社。現在、80年続く酒販店の三代目社長として社業発展に努める。
31歳の時に地元若手経営者の集まりである松本青年会議所に入所。03年、第44代理事長として魅力ある松本の「まちづくり」にさまざまな事業を通して提言・活動を展開する。同年「NPO法人 長野県にプロサッカーチームを創る会」からの強い要望を受け、山雅サッカークラブのJリーグ入会を目指したプロジェクトに参画。04年、NPO法人アルウィンスポーツプロジェクト発足の理事メンバーとして地域行政との連携に携わり、06年1月より理事長就任。
10年7月、Jリーグ入会審査条件となる株式会社松本山雅を設立し、代表取締役社長に就任。

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