○コラム

2014年11月02日

 赤瀬川原平さん逝く
新潮社(1986)

新潮社(1986)
赤瀬皮源平さんが亡くなられた。外骨忌で同席したり、家が近くになってからは散歩の時間に立ち話をするといった関係だった。共通の知人も多かったが、その中に宮田国男という高校時代の親友がいたことを、1986年刊の『東京路上探検記』(新潮社)によって初めて知り、意外の感にうたれたものだ。

宮田国男は内科医の次男で、父親の跡を継ぐべく慶応医学部に在学中、新橋直近のビルに開業していた父親に死なれてしまった。国男自身はまだ学業半ばとあって、その診療室を画廊として開放することにした。

たまたま赤瀬川さんの友人画家が国男を知っていたことから、この画廊を紹介されたことで、デビュー前の赤瀬川さんが梱包作品≠ネどの前衛作品を展示するチャンスを得たというわけだ。当時、新橋駅付近から「内科画廊」という看板を見ることができ、本書の図版にはその窓から赤瀬川さんの作品(梱包材)がハミ出しているユーモラスな写真が掲載されている。

赤瀬川さんは、国男が「幼友達の影響で、絵が好きだった」と記しているが、私が高校二年(1952年)につきあっていた当時はカメラ好きで、自家現像まで手がけるほどのマニアぶりだった。文化祭に提出した私のプラン通り、忠実に撮影や現像をやってもらえそうなのは彼しかなかったので、世田谷の家に押しかけ、一枚一枚焼き込みの注文を出したのを覚えている。

「内科画廊」は二年間しか続かなかったらしいが、その後国男は精神科医を開業、さらに理想の治療施設を実現すべく、北海道根釧原野に大規模な共同体プロジェクトを立ち上げたが、病院の建物が完成して間もなく、原因不明の自死を遂げてしまった。赤瀬川さんは本書の中で、その早過ぎる死を悼んでいる。

国男の業績は『希望としての精神医療 宮田国男の記録』(つるい養生邑の会編)に詳しい。学生時代の彼は超マジメ人間でありながら、温厚で、幅のある性格だった。当時すでに左翼思想に傾斜しつつあり、作文にその萌芽を見出した担任の女性教師から指導≠受けてしまい、猛反発を示したこともある。「医学部に入るんじゃなければ、慶応なんかにいるもんか」というので、私が「親はおれを医者にしようと、慶応に入れてくれたんだが、予想以上に金がかかりそうで、迷っているんだよ」などと応じたことから、親しく口をきくようになったのである。

宮田国男は、およそ自死などとは無縁の、理想追求方のしっかりした性格であった。私は半生に多くの友人に恵まれたが、師友ともいうべき存在は彼一人のような気さえして、高校時代にもらった自己の信念を披瀝した長文の手紙を、いまだに大切に所持しているほどだ。多くの人がその死に疑問をもつのは当然で、いまなおネットには憶測が流れているほどだが、私にとっては人生上もっともナイーブな時期の、大切な人物というに尽きる。

そのような人物の大切な記憶を、独特の形で遺してくれた赤瀬川原平さんに、あらためて感謝したい。合掌。