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2014-11-02 自分を問い直すことが出来るという意味での専門性
私のツイートより:
左翼・リベラルを含め、差別的な人たちの言説は、それ自体が依存症のフレームを成している。(これは自己検証のモチーフで、くり返し思い出す必要があります)
「客観性」を口実にすることは、それ自体が依存症のフレーム。
ここを問わないと、学問や正義を口実にする人たちの加担責任が見えてこない。 「〇〇患者は犯罪を犯す可能性が高い」という「客観性を装う言説」が、人を逸脱に追い込み、犯罪の起きやすい環境を作る。客観性を口実にする人間が、環境悪化のひどい加担者であること。
「わかりやすく説明してほしい」という声をいただきました。
いわば研究テーマに当たるようなことなのですが、
その前提の上で、いま可能なことを少し書いてみます。
これは自己検証のモチーフなので、冷静な視点の模索が要らないということではありませんし、必要に応じてデータ等を参照する場面があるのは、当たり前です。ここで問題にしているのは、「客観性」を自称し、そう論じる自分の方針そのものを不問にするようなスタンスです。
たとえば引きこもりや発達障害では、主観性のスタンスや関係性のありかたが大きく事情を左右するのですが、「客観性」を口実にする人たちは、《論じる自分がどうやって正当性や関係性を作っているか》を論じません。ひきこもりや発達障害では、それこそがネックだというのに――そういう論者は、自分は「正常」「ふつう」と思い込んでいるわけです。
「正常」「ふつう」――これをこそ問わねばならないのですが*1、それを論じることは、多くの場面で許されません。なぜかというと、プライドや関与責任を問い直すことになってしまうから。主観性や関係性をめぐって、論者の当事者性がむき出しになるのです。*2
論じる自分が、どういう手口で親密な関係を作ったか。
そのとき自分は、どういう主観性のスタイルを生きているか。
――こういう核心部分が、「客観性」の口実のもとに隠蔽されます。
《自分を正当化する方針》は、いちど勝ちパターンを覚えると、なかなか抜けられません。その回路に基づいて仲間や信頼もできますし、何よりそのスタイルで、プライドとお金(雇用)が回っていますので。
「なぜそんなことを問う必要があるのか」といえば、社会参加の問題をあつかう、その研究のあり方が、すでに問題を悪化させる事情を生きているからです。(差別問題においても同様の事情があります)
社会参加をめぐっては、論者じしんの主観性や関係性がどういう手口か、なにが《ふつう》とされているかを、問わざるを得ません。まさにそこで、硬直や排除が起こるのですから。(そこをメタ化≒観念論化することを、私は絶対に認めません。つまり問題になっているのは、客観性を口実にする観念論です。)
そう論じる私も、ここで説明している論点によって「メタで客観的なアリバイ」を得るわけではなくて、いつも検証とやり直しを問われる――ところが「客観性」を口実にする者は、うまくいかない事情のディテールや*3みずからの加担責任を「なかったこと」にします。ここには、恣意性と利益誘導の当事者性がある。
つまり「客観性」という口実には、最初から欺瞞があります。専門家というなら、この欺瞞や恣意性についても、距離をとって論じられなければなりません。
社会参加をめぐる専門性は、自らの当事者性(関与実態)を問い直す能力を不可欠の要素として含みます*4。たんにメタな言説を振りかざすことは、専門性の欠如でしかありません。ところがいまは「専門家」と言えば、自分の当事者性を棚に上げ、むしろそれを捨象したような言説を繰り出す存在でしかない。――そしてこれとセットになるのが、名詞形カテゴリに囲われた《当事者≒マイノリティ》です。
自分を棚に上げた「専門家」と、カテゴリに居直る「当事者」。
これがグルになって、不当きわまりない言説環境を作り出しています。*5
たんに他罰的な口実としての「反差別」や「客観性」ではなくて、そう論じる自分じしんの事情を問うのでなければ、反差別や客観性の問題そのものを扱うことはできないだろう――といったことです。