2014年10月31日
J1リーグは、11月2日(日)、3日(月)... 続きを読む
松本山雅がJ1昇格を勝ち取った。
J2に昇格した2012年から、12位、7位と着実に順位を上げ、3年目で2位に食い込んだ。J2の競争が年々激しくなる中、これだけ短期間でJ1昇格を果たしたチームは過去にない。
12年に就任した反町康治監督は、喫煙の害悪を説くことから指導を始めた。遅刻もきつく戒めた。チームはプロ意識に欠けていたが、無理もない。JFL時代、選手たちは居酒屋や喫茶店でアルバイトをしながらプレーしていたからだ。
就任直後の状況を、反町はこう語っている。
「新潟を率いたときと似ているよ。彼らも同好会でやっていて、サッカーする喜びは感じている。でも上を目指す、J1に行くって目を血走らせているヤツはいなかった。松本も同じ。よく言うけど、このチームはJ2、22番目からのスタートなんだ。“目標は高く持つべきだ”なんて言う人もいるけど、J1に行こうなんて口が裂けても言えないよ」
山雅が、その口が裂けても言えないJ1にわずか3年で到達したのは、大がかりな補強を行なったからではない。
J2昇格後の3年間で主力は大きく入れ替わった。だが、名古屋で活躍した地元出身の田中隼磨を除けば、J2で控えに甘んじていた選手ばかり。得点源の船山貴之は栃木で出番がなく、JFL時代の松本に新天地を求めた。司令塔の岩上祐三も、湘南でベンチを温めていた。
寄せ集めに近い山雅の躍進は、やはり反町監督を抜きに語ることはできない。
アルビレックス新潟、湘南ベルマーレをJ1に導いた経験を持つ指揮官は、山雅を短期間でいいチームではなく、勝つチームへと変貌させた。
地元人気(平均観客数1万2147人はJ2ダントツ)と専用スタジアムには恵まれているが、後発で資金力も乏しい山雅は、J2でボールを支配するゲームができない。監督によるとJ2での1年目、支配率で敵を上回ったのは「(42試合中)5試合程度」だった。
普通の監督なら、さらに勝点を積み重ねるために支配率を上げようとするだろう。だが、反町は違った。2年目のシーズンも支配率で上回ったのは「2試合だけ」。それでも5つ順位を上げた。
サッカーはポゼッションではない。
そのことを知る反町は、パスをつなぐのではなく、ゴールに直結するプレーにこだわった。その最たるものがセットプレーだ。
山雅の試合運びには、とにかくよく走る、さらにセットプレーに滅法強いという特徴がある。このふたつは互いに結びついている。
激しく執拗な守備で敵のボールを刈り取り、圧倒的な走力でショートカウンターを繰り出して敵のファウルを誘う。そこから岩上が多彩なフリーキック(もしくはロングスロー)を繰り出し、緻密に計算されたセットプレーからゴールを奪うのだ。
反町はおそらくJリーグ一、敵の分析に時間をかける監督だが、記者会見の時間の多くはセットプレーの種明かしに費やされる。
今年の徳島ヴォルティスがそうだったように、来年、山雅は降格候補の筆頭に挙げられるだろう。残留したら、奇跡といっても過言ではない。
だが、勝負はわからない。負ける負けると言われるほど、闘志を燃やすのが反町康治。彼と山雅は、わずか3年でJ2を突破した。ジュビロ磐田やジェフ千葉、京都サンガといった“大企業クラブ”を出し抜いてのJ1昇格。すでに彼らは奇跡を成し遂げているのだ。
文:熊崎敬