日本には、マスメディアが形作る「国民的流行文化」がある。
流行りのテレビ番組、雑誌、ヒット歌謡曲、お笑い芸人や俳優といったタレント、街角やお店の軒先の広告などを国民が共有することで、家庭も地域も世代も違う人同士が同じ「この国の今」を生きていることを実感するものだ。
こうしたマスメディア文化の原型は突き詰めるとアメリカにある。
バラエティ番組の技法も、もとをたどればアメリカのテレビ番組作りの模倣である。
J-POPの歌詞に英語がちりばめられているのも洋楽ポップ音楽をもとにしているからだ。若い女性が茶髪にするのもアメリカに対してのコンプレックスである。なんせananやnon-noの創刊号が表紙も中身もとにかく「外タレ」モデルだらけである。量産型女子大生はそのなれの果てで凛とした清楚な「大和撫子らしさ」はそこには存在していない。ドラマ劇場版の日本映画にはハリウッド映画の猿真似がちりばめられている。
1970年代あたりから、日本人はとにかくアメリカの後追いをひたすら続けることで流行文化を突き詰めてきた歴史がある。つまり今回のハワイ行きで「アメリカの今の国民的流行文化を見れば日本の近未来のブームを先取りすることができるのではないか」という淡い期待を抱いていた。
のだが・・・・
ホテルについた私はさっそくテレビを付けた。驚きだった。面白い番組が何一つ存在していないのである。ただつまらないだけなら日本も変わりないと思うかもしれない。でも、画面からケーブルテレビの地元チャンネルのようなあの残念な雰囲気がひしひしと伝わってくるのだから、ほんとうに笑えない。
ABCやCBSといった大手キー局(なぜかNBCは映らなかった)のゴールデンタイムの番組は、とても地味なドキュメンタリー番組か、スタジオ撮りでだらだした低予算なバラエティ番組ばかりだった。「マネーの虎」アメリカ版も元祖の日本版に比べると退屈なものだった。日本ではとっくに終わっている「クイズ$ミリオネア」もいまだにやっているという場末感である。何れの番組も出演者は一般市民か専門家(マネーの虎なら実業家)などで「旬のテレビタレント」と言う概念がそもそも存在しないようだった。
日本の民放テレビと同様、ハワイのテレビも現地の系列局がネットしている。ABCならKITVが系列局だ。日本の地方テレビ局であれば、朝や昼間に系列キー局の情報番組をやっていたり、東京と同時刻に放送できなかったバラエティ番組をやっていたりするのだが、ここハワイではひたすらローカルニュース番組のみをやっていた。
アメリカは世界に先んじて30年以上前からCATVや衛星放送による多チャンネル化が進んでいるという。2000年代以降はネットの普及もあって、テレビキー局の地位は凋落していると言われているが、まさかここまで弱体化しているとはと驚いてしまった。ABCなら天下のウォルト・ディズニー社が運営しているわけで、NBCならUSJでおなじみのユニバーサル映画系列である。有名なインターネットサイトなど、多数のメディアを束ねるコングロマリットであっても充実した番組制作・編成ができない現状があるようだ。
キー局があまりにつまらなければ、専門的な番組作りに特化したディスカバリーチャンネルやMTVなんかが台頭するのは必然だが、そうすると国民的なテレビの共通体験の概念は破綻してしまう。音楽マニアならMTVを四六時中見ても飽き足らないし、スポーツ狂ならESPNに釘づけだろうが、人々の趣味なんて十人十色である。「ほどほど音楽に関心があり、ほどほどスポーツも楽しむ」一般大衆はそれなりに多いかもしれないが、生活スタイルはバラバラだから、「同じ番組を同じ時間に見る」という行動は極めて特殊なことになってしまう。アメリカは地域ごとに時差もあるから、ツイッターで番組実況するようなこともスポーツ中継くらいしかできないのだ。
日本の現在のテレビ局は「番組が劣化しすぎ」とか「流行のゴリ押しが強引すぎ」と批判されながらも何だかんだで体力が十分にあると言うのが十分に分かった。しかし、20年前、10年前と比べると、年々番組にかける予算はちゃちくなっていて、企画力も歴然と衰えている。とくに21世紀以降の落ちぶれペースはとても激しい。
もしもスカパーやCATVの専門チャンネルよりもレベルが下がれば、「キー局の権威」はその時点で崩壊し、民放はアメリカのキー局のようにひたすらローカルニュースを流しつつ「ほんのちょっとの退屈なドキュメンタリーとバラエティ」しか作れなくなるのだ。全国ネットに値する番組の絶対数が減れば、それをネットする地方民放局も統廃合されるんじゃないかと思う。60年前からアメリカを手本にし続けてきた日本のテレビ関係者は厳しい現実を肝に命じた方がいいかもしれない。
米軍基地でも思ったことだが、アメリカの屋外広告は基本的にタレントを用いない。写真や絵で純粋に訴求する王道の広告がほぼすべてだと思う。
そして、屋外広告を掲示するスペースも街中にはほとんどない。日本の場合、壁と言う壁、ビルの屋上などには大抵広告があって「旬のタレント」が話題の製品を手にしているのだが、アメリカはそもそも広告を見かけることがほとんどないため、シンプルなデザインでも人目を引くことが出来ている。景観も保てている。
オアフ島と言う観光地の土地柄もあるだろうが、タレントを用いたラッピングバスも見かけなかった。そのため、日本人観光者用のトロリーバスのワンピースやドコモダケのラッピングバスが強烈な存在感を放っていた。ワンピといえば日本のゆとり世代には絶大な知名度があるのだが、アメリカには自国の若者限定の人気カートゥーンはそういえば存在しな。あと「ドコモダケ」や「白い犬」のような携帯電話キャリアのキャンペーンキャラもないと思う。
日本のセブンイレブンが「AKB48」とコラボすることはあっても、オアフ島のセブンイレブンではタレントとのキャンペーンやコラボ商品はまったくなかった。そもそもキャンペーン的な企画自体をやっていないように見えた。イオンには武井咲ちゃんがいるけど、ウォルマートには広告塔となるタレントはいないようだった。
日本の場合、東京のマスメディアが全国に発信する「国民的な流行文化」と言う概念があるものの、アメリカにはそれがないのである。アメリカ初の大衆コンテンツはみな世界展開しているからマクドナルドもアナ雪ブームも「世界のだれもが体験していること」としてしか見なせないのではないだろうか。「アメリカ国民の共通体験」を感覚的に意識することって多分とても難しいのじゃないかと思った。
でもそれは決して悪いことではないと思う。もしもスタバもマクドナルドもウォルマートもニューヨーク発祥で本社・本店をニューヨークに置き、3大ネットワークキー局もマンハッタンに本部をこぞって設置し、映画スタジオもハリウッドではなくニューヨークにあり、アメリカの国民的な流行文化がすべてニューヨークで生産されて全国に波及するものだったとしたら、ハワイはもはや辺境の地である。今のような豊かなハワイは存在しなかっただろうと思う。