「ここは、一体どこなんだ」
沢田隆雄は両手で握り締めたマグナムで、辺りを警戒しながら呟いた。
壊れた建物の瓦礫が散らばる廃墟地帯。乾いた風に灰色の土煙が舞いあがった。空に出ているはずの太陽はなく、頭上には遥かな暗闇が広がっている。
一緒にダイブした片岡と工藤、そして智美も、互いに五メートルほど離れた位置に立ってじっと辺りの様子をうかがっている。
誰もここがどこだかわからない。
光源がまったく無いにも関わらず、沢田たちを中心に百メートルほどの範囲が薄暗く見えている。だがその向こうは霞んで空の暗闇の中に溶け込んでいた。足元を見ると、地面に沢田の影は映っていない。
でたらめだ。
すべての仮想空間をコントロールしているはずのシステム『タウン』が、ここではまったく機能していない。片岡がグレネードランチャーを、工藤がアサルトライフルを構えている。智美を隊長とする四人の部隊は、丸ごとこのでたらめな空間に弾き飛ばされた。
迷彩服の胸ポケットから掌ほどの平たい携帯端末を取り出した。二〇九九年十二月十六日 午前十時十六分三十二秒を表示している。自衛隊基地からダイブして、まだ一分と経っていなかった。ダイビング・チューブがなんらかのシステムエラーを起こした転送事故なのだろうか。だが、そんな話は聞いたことがない。耳に差したインカムはずっと押し黙ったままだった。
「遠藤さん、非常事態よ。全員をサルベージして」
インカムから智美の声が流れてきた。まだ二十八歳だが、このパーティーの隊長だ。いつもは天使のように柔らかな智美の顔がこわばっていた。華奢で小柄な体を包む合金製のコンバットスーツにセミロングの黒髪がさらさらとなびいている。
じっと待ったが、現実空間のコックピットにいる遠藤からの返事は届かない。緊急回収のサルベージも始まる素振りすら感じなかった。緊張した面持ちで周囲を警戒しながら智美が繰り返した。
「遠藤さん、聞こえたら返事をして」
硬さを帯びた智美の呼び掛けに返ってくる答えは何もなかった。指先から血の気が引いて冷たくなって行った。危なくなったらいつでもコックピットが引き揚げてくれる。現実世界への安全な帰還が担保されていた。だから安心して闘ってきた。だが今、その命綱は断ち切られていた。
「仮想空間警務第六小隊の片岡です。この通信が聞こえている人は返事をしてください」
副隊長の片岡の声。年齢は四十台後半だが、迷彩服に包んだその鍛え上げられた肉体は、構えたグレネードランチャーの頑強さに引けを取らない屈強さを感じさせた。無骨い顔に短く刈った野戦刈りの頭は、いかにも兵士という風貌だ。
「聞こえてます。ノイズもなく良好です」
智美の返事。
「聞こえてます」
工藤の声。少し声が上ずっている。工藤は沢田と同い年の三十八歳。迷彩服を着てはいるものの、丸い銀縁メガネを掛けたその顔には気弱な性格が滲み出している。
「聞こえてます。ノイズもなく良好です。他の二人の声も良好に聞こえました」
沢田はそう答えるとじっと黙った。だが続く答えはなかった。コックピットの遠藤だけではなく、現実空間すべてとの通信が切れている。ごくりと生唾を飲み込んだ。沢田たちは誰も知らない空間で孤立している。元の世界に戻れるのだろうか。それとも閉じ込められてしまったのだろうか。腹の底からじわじわと恐怖が湧きあがり、額から一筋の汗が流れ落ちた。
仮想空間タウンに設置された九カ所の金融サーバーで発生した同時多発テロ。遠隔操作型の仮想ロボットがサーバーのセキュリティーを破壊してシステムに直結しようとしていた。突破されれば日本の大動脈は決壊し、経済は心不全に陥る。沢田が所属する航空自衛隊第三◯二仮想空間警務中隊は、このテロに対処すべく、全部隊を仮想空間へダイブさせた。だが沢田たちは、ダイブポイントに降り立つ直前に弾き飛ばされ、この空間に落とされた。抗うことができない強制的な再転送だった。
「マップを見て。場所はどこかわからないけど、ここはタウンよ。だってビーコンが返ってきてるんだから」
親指で端末からマップのページを選び出すと、何も映っていない黒い画面の中央で小さな赤いシグナルが点滅していた。通常表示される地図画像と座標は無かったが、端末が発する個別信号がフィールドで反射し、端末に返ってきているせいで位置表示が赤く点滅している。端末が発しているのは暗号化された信号だ。フィールドは端末からの信号を解読し、新たに暗号をかけて端末に送る仕組みになっている。この暗号化システムは位置情報を操ってのテロ防止のためにタウンが装備している機能だ。端末からの信号が正常に解読され、正しい暗号が返ってきていることは、ここがタウンであることの証だった。端末を見ていた片岡が顔をあげて周囲を見回した。
「タウンの中にいることは確かだが、ここがどこだかわからん。少なくとも、ここじゃタウンのシステムは正常に機能していない。そんな場所があること自体異常だ」
広大なタウンの一部に通信遮断を掛けて隔離した場所なのだろうか。あるいは、この場所自体がタウン上に勝手に作りあげられたものなのだろうか。どちらにしても意図的だ。誰が何のためにこんな場所を作り出したのだろう。なぜ、沢田たちはこんな場所に再転送されたのだろう。
「とにかく、出口を探そう」と沢田が言い掛けた言葉を遮って智美が叫んだ。
「敵襲!」
驚いて端末から顔をあげると、瓦礫の背後から装甲の塊が這いずり出していた。慌ててマグナムを構えた。蟻に似た形をした機甲兵器。通称アーントと呼ばれる遠隔操作型ロボットだった。大きい。体長が二メートルを超えている。いままで見たアーントは、せいぜい沢田が抱えられるほどの大きさだったが、目の前のアーントは沢田を楽に抱え込んでしまいそうだった。甲虫類を模したその体は、濃いダークブラウンが艶を放ち、鋭い前足の鎌に光がきらめいていた。
四体、八体、続々と姿を現したアーントの数は、瞬く間に十体を超えた。こんな大量のアーントは見たことがない。マグナムを握り締めた手から、ざわざわと冷たく血の気が引いて行った。
轟音と共に、沢田の右頬を爆風が駆け抜けた。片岡がグレネードランチャーを放っていた。敵を殲滅するしか切り抜ける道はない。片岡に続いて、工藤がアサルトライフルを連射モードで撃ち始めた。沢田は構えたマグナムの引き金を引いた。
爆音と火花、そして噴煙。沢田はこれで片がついたと思った。だがランチャーが噴き上げた爆煙が風で流されると、のそりとアーントが這い出してきた。
どこも破壊されていない。
「智美! ランチャーが利かない!」
片岡の叫びが驚きに満ちている。
「こっちもだめだ! 足止めが精いっぱいだ。破壊できない」
薬きょうを撒き散らせながら、工藤が叫んだ。沢田のマグナム。同じだった。弾を喰らったアーントは、数秒足が止まるが、すぐに動き始めた。これまでは一撃でアーントの頭を吹き飛ばしていたマグナムの弾が、アーントの体表面で火花を散らすだけで跳ね返されている。アーントが群れを成して迫ってきた。
「行くわ! フォーメーションC!」
智美が開いた両手の間で、青白い火花が飛び散った。雷撃を使う気だ。桁違いの破壊力を誇る智美の雷撃。演習以外で使ったことはない。これまでは、沢田たちの銃器類だけで敵を破壊できていたからだ。智美が雷撃を撃てば、とりあえず敵を殲滅することはできるだろう。本来なら、雷撃は部隊長の使用許可が必要な超高火力兵器だが、そんなことを気にしていられる状況ではない。生き延びることが最優先だ。智美の決断に異論を唱える者はいなかった。
片岡と工藤が、智美の前で壁となって並んだ。沢田は二人と智美の間に走り込んで片岡と工藤の間からアーントにマグナムの狙いを定めた。フォーメーションC。智美が雷撃のエネルギーをチャージする二十秒間、敵の攻撃から智美を守る陣形。
智美を背に守り、向ってくるアーントに射撃を浴びせて全力で押し留めた。智美の手の中で、青白い雷がぱりぱりと放電音を鳴らしながら成長して行く。
「コックピットとの通信が取れないから、わたしがカウントダウンするわ。十秒前!」
全力で攻撃しているが、まだ一体のアーントも破壊できていない。こんなことは初めてだった。弾丸を浴びて全身から火花を散らしながら、アーントたちがじりじりと距離を詰めてくる。智美が早く雷撃を放つことを祈りながら、マグナムの狙いを定めては引き金を引いた。
「五、四、三」
カウントダウンが始まった。あと数秒だ。智美が雷撃を放ちさえすればこの戦闘は終わる。カウントダウンの一秒一秒がやけに長く感じられた。
「二、一、ゼロ!」
左によけて、智美にアーントへの道を開いた。智美がアーントに向かって右手を振り降ろすと、青白く光る雷の玉が放出された。空気を引き裂く雷撃音が耳をつんざいた。雷の玉がアーントめがけて突っ込んで行った。終わった。沢田はマグナムを握った右手をだらんと垂らすと、ほうっと息を吐いた。規定違反に問われるだろうが、そんなことはどうでもよかった。
雷撃がアーントの群れの中心を直撃した。轟音と共に、アーントの群れが六本の足を広げて地にひれ伏した。沢田の目が凍り付いた。演習で雷撃を放ったとき、いつも模擬ロボットは跡形もなく吹き飛んでいた。だが目の前のアーントはその形を保っている。アーントの体表面を青白い放電光が網の目のように駆け回っていた。沢田は下唇を噛んでアーントをじっと見つめた。雷撃を喰らったアーントの体表面から放電光が消えて行った。アーントがゆっくりと立ち上がった。心臓がびくりと高鳴った。無敵を誇った智美の雷撃が利いていない。沢田の膝が、がくがくと震え始めた。
「フォーメーションC!」
智美が叫んだ。智美はもう一度、雷撃を撃つ気だ。
「もう、弾が切れるぞ!」
仁王立ちでランチャーを撃つ片岡の無骨い声に焦りが混じっている。ランチャーの炸裂光の照り返しで、赤く浮かび上がった片岡の顔に汗が流れていた。
「だ、ダメた! た、弾が無くなるう!」
工藤の声はひるみに溢れて震えている。ライフルを撃ちながらも、顔の向きがあちこちに泳いでいた。工藤は逃げ場を探している。沢田のマグナム。ベルトに提げた弾薬ポケットの弾は、あと十発も残っていない。智美が叫んだ。
「撃つのをやめて! 残りの弾でわたしが雷撃するポイントを撃って! 火力を集中させるの!」
仮想空間での戦闘はデジタル的に決まる。結局は、破壊力と防御力の数値比べだ。破壊できないのなら火力を上乗せするしかない。片岡と工藤の射撃が止まった。智美の雷撃を待っている。弾幕がなくなり、アーントたちが六本の足で近づいてきた。次の攻撃をうかがうようなゆっくりとした足取り。沢田は構えたマグナムの引き金に神経を集中させて智美の雷撃を待った。
智美が頭上で大きく両手を開き、次の雷撃のチャージを開始した。智美の両手の間で、青白い雷が火花を散らして成長して行く。強大な雷撃の力をもってしても足の一本すら破壊できなかった相手に、銃器の攻撃を上乗せしたところで状況が大きく変わる可能性は極めて低い。絶望を確かめるだけのように思えた。
両手の間で雷を成長させながら智美が叫んだ。
「遠藤さん、早く、サルベージして!」
悲鳴に近い声。智美も通信が届いていないことくらいわかっている。サルベージどころか、コックピットの遠藤は、沢田たちの位置座標も捉えられずに狂ったようにコンソールのキーを叩いているに違いない。わずかな可能性に望みを賭けた智美の悲痛な叫びが、沢田の神経をささくれ立たせた。智美はもう勝ち目が無いことを悟っている。
「誰でもいい、聞こえてたら返事してくれ!」
「だ、誰か返事をしてくれ!」
「非常事態です! 聞こえてる人は返事をしてください!」
片岡と工藤、そして沢田が同時に叫んでいた。
様子をうかがっていたようなアーントたちの動きが急に早くなった。沢田たちに対抗する手段が残っていないことを確信したのだろう。土埃を巻き上げて駆け込んできたアーントたちが周囲を取り囲んだ。もう逃げ道は見当たらない。智美のカウントダウンはまだ始まらない。智美の雷撃を待って汗が滲み出る手でマグナムを握り締めていると、不意に射撃音が耳に飛び込んできた。工藤がアサルトライフルを撃っていた。ライフルを振り回しながらでたらめに撃っている。言葉にならない引きつった叫び声を上げていた。工藤はアーントに取り囲まれた恐怖で、智美の雷撃を待てずに乱射している。アサルトライフルの音に釣られて、沢田の指がマグナムの引き金を引いた。パーティーの統制は崩れ去った。死。もう勝ち目はない。薄い刃物で背中をなでられたような戦慄が走った。仮想空間で死んだ場合どうなるのか。研修で聞いたはずだが、頭が空回りして思い出せなかった。
「ぐほぉ!」
ぐぐもった片岡の声。一体のアーントが片岡の腹を串刺しにした鎌足を高らかとあげていた。片岡の体をめがけて三、四体のアーントが次々と鎌足を振り降ろした。一瞬にして、片岡の胴体から手足が削ぎ落とされ、辛うじて首の皮で繋がっている頭は不自然な恰好で吊り下がった。
女の細い悲鳴。アーントの群れから智美の首が飛び出して宙を舞った。工藤のアサルトライフルの音は消えていた。マグナムを撃つ沢田の額から冷たい汗が滴り落ちた。心臓の鼓動が耳を圧迫するようにどくんどくんと音を立てて響いた。
パーティーは瓦解した。もう走って逃げるしかない。いや、もっと早く逃げ出すべきだった。沢田が両手で握りしめたマグナムの構えを解こうとすると、目の前をアーントの鎌足がすっと遮った。沢田の足元で、どさりと重たい物が落ちた音がした。マグナムを握りしめたままの両手が切り落とされていた。走り出そうとして、倒れた。両足が膝下からなくなっていた。
「二十一世紀最後のクリスマスは、ちゃんと三人でお祝いするからな」
妻の留美と五歳の娘の沙紀にした約束。ふたりの顔が頭に浮かんだ。並んだ顔が微笑んでいる。目頭が熱くなり涙がこぼれた。顔から地面に倒れ込んだ沢田の口に、乾いた土が入った。口の中でざらつくじゃりを噛んだ。
(ごめんな)
視界に白い光が広がり、意識が遠のいて行った。