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<訃報>本島等さん92歳=元長崎市長

毎日新聞 10月31日(金)20時36分配信

 長崎市長在任中の1988年に「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言し国内外で議論を呼び、右翼団体幹部から銃撃された本島等(もとしま・ひとし)さんが31日、肺炎のため亡くなった。92歳だった。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は近く密葬を執り行い、後日「お別れ会」を開く予定。

【本島さん、反核に尽力も「原爆投下仕方ない」繰り返す 同時期の広島市長は】

 1922年、長崎県・五島列島の北魚目村(現・新上五島町)で生まれた。旧制高校在学中に徴兵され、陸軍の西部軍管区教育隊(現・熊本県合志市)で終戦を迎えた。戦後は京大工学部を卒業後、高校教師、衆院議員秘書や県議5期、自民党県連幹事長などを経て、79年4月に長崎市長に初当選し95年まで連続4期務めた。

 天皇の戦争責任を巡る発言は3期目の88年12月7日。市議会の答弁で、自身の1年4カ月間の軍隊体験なども踏まえ「天皇の戦争責任はあると私は思います」と述べた。議会後の記者会見でも「戦争終結を早く決断していれば沖縄、広島、長崎はなかったと思う」と語った。

 当時は昭和天皇が重病だったこともあり、発言には賛同、批判両方の立場から議論が起きた。撤回の要求に本島さんは「天皇についての自由な発言ができずして、日本の民主主義の発展は期待できない」などと自身の立場を貫いた。90年1月18日、発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され、左胸貫通の重傷を負ったが、命をとりとめた。

 5選を目指した市長選(95年)で落選後も、表現の自由や原爆投下などについて発言を続けた。長崎市の平和公園にある中国人原爆犠牲者追悼碑の設置・維持や、反核・平和を訴えようと市民団体が平和公園で1月1日に行う「正月座り込み」にも今年1月まで参加するなど、平和への活動に晩年まで取り組んだ。【小畑英介】

最終更新:10月31日(金)23時20分

毎日新聞

 

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