日記

2005/05/14(Sat)
『社会新報』を配った少年時代
 私は九州・佐賀県の東端、鳥栖(とす)というところで育った。人口5万人。JR鹿児島本線と長崎本線の分岐点にあたり、鉄道の町として知られる。かつては国労の強い土地柄だった。
 佐賀県は『葉隠』で有名な「肥前藩」と一般に思われているが、鳥栖は違う。朝鮮半島にもっとも近い「対馬藩」の“飛び地”だった。サロンパスで有名な久光製薬がこの地から起きたのも、そうした大陸に近い要素があったからという。それでも佐賀県人の一般的イメージというと、頑固者、融通がきかない、地味など、肯定的なものはほとんどない。私などもたぶんにその傾向を受け継いでいる人間だろう。
 そんな土地柄のせいか、大学進学の際、同じ佐賀県人が設立した大学を目指したのは理由のないことではなかった。卒業後、文筆の世界に入ってからは、同郷のジャーナリストに文章の手ほどきを受けた。私の文章の師は、西日本新聞の出身で、大隈重信とは血のつながった遠い親戚筋に当たる人である。出身地というものは、人生に大きな影響を及ぼすものだ。
 その鳥栖市で、まだ私が小学生のころ、当時、日本社会党員であった父親に命じられて、居住地域の党員宅に週2回、機関紙を届けるのは私の仕事であった。何が書いてあるかわからないが10部にも満たないその新聞は、『社会新報』といった。配り終わるたびに100円だか200円の駄賃をもらったことを覚えている。後年、大学を出たあと幾つかの編集関係の職場をへて、社会新報編集部に籍をおき記者として仕事をするようになったのも、こうした背景がなければありえない。社会新報は、私にとってはたいへんよくしていただいた職場であり、いまも感謝の思いはつきない。
 すでに同編集部を退職・独立して9年目にあたるが、こうした事実のみを指し、「社民党機関紙にも潜入」との小見出しを立て、私のことをスパイよばわりして中傷してきた媒体があった。
 私は生まれて初めて「裁判」なるものに訴えたが、ろくに取材もせず、書き飛ばしたその雑誌は、通称=“ガセネタ屋”と呼ばれる者が発行している。その大元には、虚偽の情報を提供した社会新報の現職記者がいた。被告側の主張によれば、その男の名は「田中稔」という。
 「田中」は、村山富市内閣で首相の公邸秘書をつとめ、乙骨正生らとは今も“親密”に付き合う間柄という。現社民党の内部からは、そうした関係を危ぶむ声もすでに出ているらしい。