2013年は小津安二郎生誕110年、『東京物語』製作・公開60年、小津安二郎逝去50年。これを記念しておくる、高橋源一郎の尾道センチメンタル・ジャーニー。
文: 高橋源一郎 写真: 山下亮一
1953年に戻る
小津安二郎監督の名作『東京物語』の公開は1953年。わたしが生まれたのは1951年なので、2歳の時になる。「昭和」でいうなら、昭和28年。「戦争」の傷跡が少しずつ消えていった頃、でも、遥かに遠い。60年も前のことだ。
1953年をウィキペディアで調べると、「NHKが日本で初のテレビジョン本放送を東京で開始」「イギリス女王エリザベス2世戴冠」「カストロ率いる小隊がモンカダ兵営を襲撃、キューバ革命の出発点」「朝鮮戦争の休戦成立」「ソビエト連邦が水爆保有を発表」「日本テレビ放送網(日本初の民間放送によるテレビ局)がテレビジョン本放送を開始」「奄美群島が日本に返還」「DNAの二重らせん構造が決定される」「水俣湾周辺の漁村地区などで猫などの不審死が多数発生」といった記述が並んでいる。
テレビの時代に突入し、東西冷戦が激化し、公害が人びとの視界に入りはじめた時代だった。いや「日本に返還」のことばが示すように、「戦争」はまだ生々しいものとして感じられていた時代だった。
1953年の、日本の総人口はおよそ8000万人。そのうち「老年人口」と呼ばれる65歳以上の人口は約380万。ざっと4.75%。それが1970年には総人口1億370万に対して731万。約7%となった。さらにとんで、2004年は1億2700万に対して2487万。約19%。その数字は、2060年にはおよそ40%と予想されている。遠くない未来に、日本は老人だらけの国になるのである。
今年、『風立ちぬ』の公開直後、宮崎駿監督が引退を発表した。ああ、もう、彼の長編アニメは見られないんだな、とわたしは思った。それから、長い間、謎であったことについて考えた。『となりのトトロ』のことだ。
『風立ちぬ』の主人公、眼鏡をかけた堀越二郎を見ていると、『となりのトトロ』の主人公、サツキとメイの父親、草壁タツオを思い出してしまう。そして、この「タツオ」はどんな人物だったのだろう、と。
『となりのトトロ』は、いつ頃の物語なのだろうか。途中で、古いダイヤル式の電話が出てくるし、どうやらテレビもないようなので、昭和20年代であることは確からしかった。けれど、宮崎監督自身の発言で、この『となりのトトロ』は1953年に設定されていることがわかった。1953年に「タツオ」は32歳。となると、「タツオ」は、昭和20年(1945年)には、24歳。戦時中に大学生であったことがわかる。文科系(考古学)の学生であった「タツオ」は、学徒兵として「学徒出陣」したのではないか、とわたしは考えた。それは、わたしの妄想ではないような気がする。どこにでもあるふつうの話だったのだ。だいたい、長期療養中の妻を抱えながら、なぜ「タツオ」は、サツキとメイを実家に預けなかったのだろう。もしかしたら、「タツオ」も妻の「靖子」も、戦争(東京大空襲や広島や長崎への原爆投下)で実家をなくしてしまったのかもしれない。いや、1953年に32歳ということは、1951年に30歳。わたしの父親と同い年だ。あの「メイ」ちゃんは、もうひとりのわたしのように(女の子だけれど)、見えるのである。
『東京物語』の主人公、周吉は70歳、妻のとみは68歳。長男の幸一には中学生と小学生の子どもがいる。だとするなら、幸一の年齢は40歳、もしくは30代後半だろうか。そして、間に次男と長女をはさんだ、三男の敬三の年齢は30前。戦死した次男は30代半ばか前半あたりで、『トトロ』の「タツオ」とほぼ同じだろう。そう、わたしにとって、笠智衆演じる「周吉」と、東山千栄子演じる「とみ」は、わたしの祖父母の世代にあたり、彼らの子どもたちは、わたしの父母の世代にあたるのである。