1209年創立のケンブリッジ大学。
800年以上の歴史と伝統を誇る名門大学です。
ニュートンやダーウィンなどの自然科学から哲学者のベーコンや経済学者ケインズなどの人材を排出。
ノーベル賞の全ての分野で受賞者を出しその数は90名に上ります。
市内に点在する31のカレッジから成るケンブリッジ大学。
学生数およそ2万に対して教職員の数はおよそ5,000。
最高の講師陣をそろえた大学の授業。
中でも「スーパービジョン」と呼ばれる少人数・対話形式が特徴です。
そんなケンブリッジで今注目を集めているのが…サッカー好きで冗談好きイギリス人男性。
マーティン博士の専門はフランス哲学と文学。
サルトルを中心とした人間の実在を思考の中心に置く「実存主義」が研究のテーマ。
難解な哲学的観念を身近な実例に置き換えた講義は学生たちに大人気です。
私は毎日の日常は哲学にあふれていると思います。
私は「哲学は役に立たない」「机上の空論」「学者だけのもの」という考え方から離れて哲学は実践的で日常の経験を理解するために役立つ学問なんだと言いたいのです。
マーティン博士が贈る「ケンブリッジ白熱教室」。
哲学が扱う問題は人間の心理にも関連する。
だから哲学は心理学ともつながりが深いのだ。
大胆な仮説や奇抜な思考実験を駆使して現代人が心の中に抱えるさまざまな悩みや矛盾の解決方法を探る「実践的フランス哲学講座」。
サッカー界のスターデビッド・ベッカムを実存主義者と見立てた思考実験や世界的なポップスターマイケル・ジャクソンを例に「美しさ」に対する人間の執着心を考察。
更にFBIによる哲学者に対する捜査からフランス実存主義の歴史をひもとき私たちが抱える人生への不満不幸や嫉妬の解決方法を哲学を通じて探る。
マーティン博士は「生きているとはどういう事か」を実存主義を使って明らかにします。
第2回は「美と醜悪の現象学」。
人間はなぜ美しさを求めるのか。
プラトン哲学と実存主義をもとに美と醜悪の根源を考えていきます。
(拍手)こんにちは皆さん。
「美と醜悪の現象学」難しいタイトルだ。
副題を付けると…でも私の事を知っている学生は私が歌ったり踊ったりしない事を知ってるだろう。
20世紀を代表するミュージシャンの一人「キング・オブ・ポップ」と称されるマイケル・ジャクソン。
1966年8歳の時に4人の兄たちと結成したジャクソン5でプロデビュー。
70年代後半からソロ活動を開始。
「スリラー」など数々のミリオンセラーを生み出しました。
また私生活では「ネバーランド」と名付けた遊園地付きの大邸宅に世界中の子供たちを集めて住んでいた事で知られます。
2009年生涯最後と宣言したコンサートの1か月前50歳でこの世を去りました。
なぜマイケルは子供に夢中だったのか。
哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「心を奪われた状態」「執着」の一つの形式だ。
だがこれが最終的にはマイケルに法的な道徳的なそして経済的な問題をもたらした。
名声の損失は大きかった。
しかしマイケル・ジャクソンはこれを完全に認識していたと推測できる。
それでも彼は同じパターンを繰り返し続けた。
幼い子供たちが彼と一緒に「ネバーランド」に滞在する。
すると彼は児童虐待だと非難される。
それは性的なものだったのか?フロイド的にみれば全ては性的なものと関係がある。
しかし私はマイケルが「エロティック」ではなく「ゼロティック」性的要素がゼロだったと主張したい。
つまり彼の子供たちへの執着は「プラトニック」哲学的意味で古代ギリシャのプラトン的だった。
でも哲学はこれから私たちが見ていくように究極的には心理学でもある。
もしかするとマイケル自身の哲学が彼の苦悩に満ちた自意識と彼自身の外見の両方のそして彼の死の原因だったのかもしれない。
子供についての最も完全で最も叙情詩的な賛歌はジャン=ジャック・ルソーの作品にある。
ルソーは18世紀の啓蒙思想家で「百科全書」の編纂に貢献し自伝の傑作「告白」の著者でもある。
フランス啓蒙期の思想家・小説家ジャン=ジャック・ルソー。
「社会契約論」「人間不平等起源論」などで文明や社会の非人間性を批判。
ルソーは年寄りとして知られる「文明」に対する手厳しい非難を行っている。
これがルソーの演説。
「子供たちは全ての事に気付く。
彼らは疲れていない。
彼らは私たちがもはや興奮を忘れてしまったものに興奮を見いだす。
彼らはまたとても自然体で全く自己を意識しない」。
よし告白しよう。
これはルソーではなく本当はマイケル・ジャクソンだ。
どうして間違えたのか。
この引用はマイケル・ジャクソンの1988年の自伝「ムーンウォーク」からのものだ。
でもルソーのように聞こえると思わないか?ルソーの1762年の教育論「エミール」から取り出したと言ってもおかしくないと思う。
これから私は次の引用の中から1語注目したい言葉を選ぶ。
突拍子もない質問だがそれがどの語かを当ててほしい。
どの話をしていますか?今それを教える。
これから君たちに引用を読み上げる。
だから全ての言葉に敏感にならないといけない。
そのあとで君たちに尋ねる。
最も重要な語はどれか?「私は彼らの周りにいるのが大好きだ。
家にはいつもたくさんの子供たちがいて彼らの周りにいるだけで私はエネルギーをもらえる。
彼らは全てを新鮮な目で開かれた心で見る。
子供たちはそれほどにも創造的なのだ。
彼らは規則を気にしない。
絵は紙の中央に描かれていなくても空は青くなくてもよい。
彼らは人々を受け入れる。
彼らの唯一の要求は公平に扱われ愛される事。
それは私たち全てが望むものだ」。
私が選びたい言葉がある。
それがどの語か誰か予想してほしい。
その語はこの文章の中にあった。
「規則」?「規則」。
「規則」正解。
私はとても驚いた。
なぜならそれが私の思っていた語だから。
冗談を言っているわけではない。
ここに書いてある。
見せてあげるよ。
マイケルの理論において子供たちにおける「規則」は重要だ。
なぜなら「規則」を乗り越えようとしているから。
子供たちには規則がない。
規則を無視する。
規則に反抗する。
あるいはまだ規則を学んでいない。
マイケルの理論では子供たちはデュルケムが「社会規範のないもの」と呼ぶ領域に属する「アノミー」だ。
独自の視点から社会現象を考察し社会学の確立に大きな成果をあげました。
「アノミー」は「規範がない事」を指す概念だ。
共同体規範的な社会の意志から離れている状態。
子供たちはまだ社会化されていない。
彼らはまだ規則を教えられていない。
彼らは規則に基づいた判断を行わない。
私が知る限りマイケルはルソーを参照しているわけではないが二人を合わせて「ジャン・マイケル・ジャクソン・ルソー」と呼びたい。
本物のルソーは子供たちと「自然の状態」そして「野性的なもの」について書いている。
ルソーによると子供たちは「高潔な野蛮人」として知られるようになった神話的存在の小規模なものだ。
「人間は自由なものとして生まれた。
しかし至る所で鎖につながれている」。
感動的な一行。
ここでルソーは何の話をしているのか。
子供と大人?狩猟採集民と農民?それ以上に人間の意識についてだと思う。
ルソーをもう少し深く考える事ができるようにマイケルとプラトンとつながっているかを考えるために19世紀の詩人ウィリアム・ワーズワースの詩を見てみたい。
イギリスを代表するロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース。
イングランド北部の湖水地方をこよなく愛し純朴であるとともに情熱を秘めた自然賛美の詩を書き残しました。
この詩はマイケルとルソー両方の考えを要約していると思う。
「不死の暗示」から少し抜粋を読んでみる事にする。
ワーズワースが語っている。
「汝喜びの羊飼いの子よ私のまはりで叫び汝の歌をうたへ。
幸ある牧童よ!幸多きものみなよ汝等が呼び交わす聲を私は聞いた。
天も汝等の喜びに加わって笑ってゐる」。
よし今度は私がどの語を選ぶと思うか。
君がまた当てる事ができるか見てみよう。
2度も答えません。
(笑い声)そうかしっぺ返しをくらってしまったわけか。
実は「満ち足りている事」。
「天も汝等の喜びに加わって」というのが私たちが話している事つまりマイケルが言っている事の中心だ。
私たちは「幸ある牧童」を見ている。
ではどこで全てがうまくいかなくなるのか。
つまりどうやって「鎖につながれる」のか。
ワーズワースによると「満ち足りている事」「完全さ」にもかかわらず私たちには初めから何かが欠けているから。
羊飼いの子供は「満ち足りたもの」と「完全な喪失」の間にいる。
彼はどこかその中間にいて「不死の海」と私たちが行き着く都会の悪夢「遠くの陸地の奥」の間の浜辺で遊んでいる。
私は以前「変身」について語った。
あるいは「変形」について話をした。
例えば「美女と野獣」カフカの「虫」。
ここにサルトルが「逆超越」と呼ぶものがある。
「変形」だがよい意味の変形ではない。
ワーズワースルソーそしてマイケルは一体どこでこの考えを得たのか?私はプラトンからだと主張したい。
この主張はワーズワースとルソーに関しては定評のある主張だと思うがマイケル・ジャクソンの場合はあまり明らかな事ではなかったかもしれない。
今までは。
でも私はこれを見れば明らかだ。
哲学者の洞察のようにみんながこう言う事になる。
「何で気付かなかったのだ。
これは明白な事なのに…」となる事を願う。
この主張をするためにまずプラトンの「美の概念」について考えてみたい。
なぜならこれがマイケルや他の人たちの美的価値を実証するように思われるからだ。
でもその前に私たちはプラトンの「理想形」の考え方について概要をつかまなくてはいけない。
師匠であるソクラテスから受けた影響のもとに哲学を大成しました。
イデア論を根本とする彼の理想主義哲学は西欧哲学の源流にあたります。
中でもプラトンは私たちの「心の目」によって洞察される純粋な形つまり「ものごとの真の姿」や「理想形」に言及しました。
私が椅子を見る時プラトンあるいはソクラテスは「私は何を見るか」と問う。
言うまでもなく「椅子」だ。
でも同時に彼は私は頭の中にその椅子の像を持っているという。
完璧で理想的な椅子。
最初はばかげた事のように思うかもしれないが考えてみるとこれを見ているという事実からこれが椅子だと一体どうやって知るのか。
でも私が「椅子」の概念を持っていなければ「このものは一体何だ?」という事になる。
テーブルでも男性でも女性でも基本的な概念なしにどのようにしてそれを知る事ができるのか。
私たちが見る全てのものは「理想形」を持つとプラトンは主張する。
プラトンはすばらしい構想を思いつく。
それはワーズワースが彼の詩の中で「我が家」と呼ぶものだ。
生まれる前の天国そこでの私たちは理想形をよく知っている。
つまり「真善美」だ。
でも生まれたあとはどうなるのか。
生まれると何が起こるのか。
誰か覚えているか?もちろん君たちは忘れてしまった。
それが彼の主張だ。
ワーズワースはこう言う。
「人の世に生まれるのは唯眠りと前世を忘れるに過ぎぬ」。
しかしルソーワーズワースマイケルは「子供は全てを完全に忘れてしまったわけではないかもしれない」と考えている。
重要なのは忘れてしまうという事。
そして思い出さなければいけないという事。
思い出す事が哲学の機能だとプラトンは主張する。
私たちが何かの知識を持つ時それは私たちが忘れたものを思い出したからだという。
それが私たちの目指すべきもの。
言い換えればそれを取り戻すという事だ。
こじつけだと思われなければ私はマイケル・ジャクソンのすばらしい曲を偶然にも思い出したと言いたい。
「Iwantyouback」。
ジャクソン5が最初にこの曲を作ったのがいつか知っている人はいる?あるいは最初にリリースされたのはいつか。
1987?76?
(笑い)私はつい最近確認したんだが本当のプラトン的な意味で私も忘れてしまった。
でもその時私は既に生きていて60年代後半だったと思う。
漠然としすぎです。
ここにある私のメモを見よう。
1969年だった。
マイケル・ジャクソンは当時10歳か11歳だった。
そしてこの曲はジャクソン5を有名にした曲の一つ。
子供スターのジャクソンだ。
君たちはこう言うかもしれない。
「その曲はマイケル・ジャクソンではないジャクソン5だ。
彼はこの曲を書いたわけではない」。
確かに正しい。
でもこの曲はマイケルを念頭に置いて書かれた。
この曲はもともと「自由になりたい」という題だった。
マイケルによって発展した。
だから彼はこの曲の生みの親ではないが彼は育ての親であり「自分のもの」にした。
更に彼はソロになってからもこの曲を歌っていた。
技術アシスタント演奏をどうぞ。
このベースはすばらしいね。
これを考えた人は天才だ。
話を元に戻そう。
この曲の歌詞のいくつかに焦点を当ててみたい。
「誰かが集団の中から君を連れ去ってしまった。
それは一瞬の出来事だった」。
これは明らかに理想形だ。
でも歌手マイケルはそれをふいにしてしまった。
彼は理想形である彼女を本当に大切には思っていなかった。
あって当たり前のものと思っていた。
「今となってはもう手遅れだもう一度君を見るのは」。
ここでマイケルは典型的な人生について歌っている。
生まれた時私たちは必然的に理想的なものから切り離される。
失われた理想形をもう一度見るのはいつも手遅れだ。
「僕が失ったものを返してくれ」。
アップビートに乗せて哲学者マイケルは回想の可能性を考えている。
失ったものを心の中で取り戻そうとしながら。
これがまさに哲学の目的だ。
回想あるいは追憶。
私たちを感覚的な知識から逃れさせる。
「そして再び僕を生き返らせて」とマイケルは言う。
私たちはこの決定的な点を無視する事はできない。
回想は復活転生の概念と結び付けられる。
私たちは真と美を手に入れて再び生まれるという。
でもどうやって再び生まれる事ができるのか。
答えはまず死ななければいけない。
だから古典的な議論では哲学は死の一つの形だ。
もちろん悟りが死に続く。
でも死は死に違いない。
「僕は何も気付かずに君を行かせてしまった」とマイケルは言う。
人生は言い換えればある種の盲目だ。
ワーズワースが言うように「かつて見たものはもはや見えなくなった」。
「僕に必要な全てはもう一度のチャンス」とマイケルは言う。
どうぞ。
先生が話をしている歌詞にはオルフェウスの神話に通じるものがあると思いますか?冥界から妻を取り戻そうとするような。
冥界の王との約束は冥界を出るまで振り返らないという事でした。
でも彼は妻がまだそこにいるか見ようとし彼は妻を永遠になくしてしまいます。
それで失ったものについて考えているという事です。
その考えはとてもよい。
私の考えよりもよい解釈かもしれない。
オルフェウスはもちろん音楽の起源の神話と関係している。
そうでなかったかい?そうだもちろん。
その物語は非常にプラトン的だと思わないか?欲しいものを追うためには冥界に降りていかなければいけない。
実質的には死ななければいけない。
自分がとても親密だったものを追い求めるためでもいい。
でも現実世界に戻ろうとするとオルフェウスは悲惨にも失敗する。
「僕に必要な全てはもう一度のチャンス」という歌詞を読んで思ったのだがこれは芸術特に音楽について言える事なのかもしれない。
芸術や音楽はある種の天啓のようなもう一度のチャンス失われた真や美を一瞬かいま見るチャンスを私たちに与えてくれる。
私はマイケル・ジャクソンがプラトンあるいはオルフェウスの神話をほのめかしているという理論が理にかなっていると思いたい。
別の言い方をすれば喪失忘却そして回想という古典的なプラトン的理想形に通じるマイケルの個人的な哲学だと言いたい。
この議論のほとんどはプラトンの「パイドン」や「パルメデニス」からとっている。
その中にはソクラテスが登場する。
ソクラテスはやや懐疑的だった。
誰かソクラテスがどのように自らの理想形の理論について懐疑的だったのか覚えているか?椅子テーブル男性女性もちろんこれらには全て理想形がある。
でも彼は他のいくつかのものに言及する。
「う〜んこれらには理想形はあるのか?」。
誰か「パルメニデス」の中でそれが何だったか覚えているか?一つは「足の爪切り」。
足の爪切りに理想形があるか?よく分からない。
他のものはミミズのフン。
ミミズによって残された跡。
理想的なミミズのフンなどというものはあるか?これはよい疑問だ。
私はその答えを知らない。
だからプラトンは自分の理論について心配し始めたのだったと思う。
自分の理論が内側から崩壊する可能性があると。
理想形というのは何らかの形で美しくなければいけないのですか?足の爪切りが椅子と違うところはそこですか?これは面白い。
なぜなら私はその点について今まさに話をしようとしていたから。
理想形それ自体は美しいのか?それについて話をさせてもらおうか。
答えは曖昧だがでもこれは非常に重要だと思う。
理想形がそれ自体美しいかどうかについて。
でもここで「美しいもの」はどこにあるのか?プラトンは時々「美」について語っている。
ここで私は質問された問題について考えてみたい。
理想形はそれ自体が美しくなければいけないのか?プラトンは「美」についてまるでそれ自体が理想形であるかのように話す。
美の理想形美の原型。
ここに「椅子」がありそこに「美しいもの」がある。
プラトンは言う。
「『その美しいもの』だけが本当に美しい」。
プラトンの言っている「『その美しいもの』だけが本当に美しい」。
これを議論するのはとても難しいと思うがよく考えると何を言おうとしているのかよく分からない。
美は全ての理想形に備わっているものとして話をする方がもっと説得力があると思う。
美は理想的な状態にある全てのものの特性だ。
理想的なその椅子は美しい。
理想的なそのテーブルも美しいというふうに。
「椅子」の理想形は美しい。
なぜならその椅子そのものであるから。
同様に「男性」の理想形が美しいのは男性そのものであるから。
だとすると醜さも定義されるだろう。
正確には定義の欠如によって定義される。
何か質問ある?マイケル・ジャクソンの場合彼は二つの異なる観念の間に挟まれているとは言えないでしょうか?一つは彼の自己改善への執着。
具体的に言えば整形への執着は自分が美の理想形と考えたものに近づこうとしていたという事を示しています。
しかしその理想形とは社会によって形成されたものです。
一方でマイケルは子供たちと時間を過ごす事で社会的知識を分解しようとしています。
子供たちは社会的構成概念に対して無知だと彼は見ていました。
この二つには対立した緊張関係があったと思います。
一方で完全に社会のパラダイムにはまろうとしもう一方でそれらを超越しようとしているという事です。
君に「ハイパーノーミア」という言葉を紹介したい。
この言葉は私が作った言葉なのだが「アノミー」つまり無規則状態の反対のものだ。
アノミーは深く社会規範を逸脱している。
「私は全ての社会の規則に反抗する人間だ」。
一方「ハイパーノーミア」とはどういう意味だと思うか。
私は特に古典ギリシャ的「ノモス」に注目したい。
誰か「ノモス」について手助けをしてくれないか?「慣習」とか「法律」の意味だと思います。
慣習や法律。
だから「ハイパーノーミア」は規則を意識する事だ。
もちろんマイケル・ジャクソンは規則をとても意識している。
彼は言う。
「子供は規則を無視する」。
ハイパーノーミアはこの規則や理想形に対する過敏性だ。
でも理想形についても曖昧さがある。
それはマイケルの中の曖昧さにも通じる。
プラトンは「見てみろ。
これらのすばらしい理想形があるが誰も理想形になる事はできない。
それを理解しなくてはいけない。
今地球に理想形は存在しない。
理想形は生まれる前あるいは死後のものだ。
その間の部分生きている時は考えるな。
理想形になろうとしたりするな。
なれるはずがない」と言いたかった。
しかし誰もがやるのは「私は理想形になる必要がある」。
よし私たちはここに理想形が必要で理想形に対応する人がいてそこに理想形に対応しない人がいる。
残念ながらプラトンのもう一つの解釈が存在する。
言い換えれば私たちは神話的なものになれるのか?理想的な椅子を作る事はできるのか?理想的な足の爪切りを作る事はできるのか?恐らく無理だ。
でも可能性は埋め込まれているのではないだろうか。
もしかすると美は失われたもので醜さが私たちに残された全てではないのか?これが哲学の行き着くところなのか?「醜さが私たちに残された全て」。
ソクラテスも同様の事を主張する。
君たちも読んだ事があるかもしれないがここで「饗宴」の一部を思い出してもらおう。
ソクラテスはアルキビアデスに向き合って言う。
ここでアルキビアデス。
誰か彼について知っている事を一つ教えてほしい。
誰か?軍人ではなかったでしょうか?それは忘れていた。
なぜなら私が考えていたのは彼はハンサムな男性だったという事だから。
彼はハンサムででも彼は軍人でもあった。
彼はアテネで最も美しい男性という名声があったと思う。
彼はアテネの象徴のようなものだった。
ソクラテスよりも若かった。
ソクラテスは醜くて有名だった。
アルキビアデスはソクラテスを森に住む好色な牧神サテュロスあるいは「セター」「サター」のようだと言う。
「サテュロス」私は正しく発音している?「サティア」です。
「サティア」かよし。
どう発音するのかよく知らない。
でも要するに「年老いたヤギ」それでいい。
アルキビアデスはこう言う。
「あなたは醜い老いた野獣だ。
そうでしょう?」。
でもそれから同時にソクラテスの気を引こうとするが激しく拒否される。
ソクラテスの醜さに対する擁護は「理想的な美」のみが真に美しいがゆえにアルキビアデスはその基準に当てはまらない。
単なるこの世の美は幻想にすぎない。
だからアテネそして世界は再び醜い人々にとって安全な場所になったのである。
言い換えれば私たちは皆醜さの中にいる。
ソクラテスは美しい人々の根本的な不平等を理解していた。
この意味で醜さの認識理想形との一致との失敗。
これが西洋哲学のまさに起源にあった。
そしてもちろん理想形の排他性についての問題もまたそこにある。
ソクラテスの哲学にもかかわらず私たちはまだ理想形に自分を一致させようとしているのか?これが君が注意を払っていた緊張関係だと思う。
私にとって現代のソクラテスはジャン=ポール・サルトルだ。
20世紀のフランスの小説家であり哲学者でもあったジャン=ポール・サルトル。
「実存は本質に先立つ」という自分自身の存在を思考の中心に置く実存主義を提唱した事で知られます。
他の哲学者が崇高なものについて熟考する一方でサルトルの場合は醜さが彼の哲学の全体に浸透している。
君たちの中にはサルトルが醜さを発見した瞬間の事を知っている人もいるだろう。
それは彼の自伝の中にある。
サルトルが醜さを発見した時の事を誰か覚えているか?私が「髪形が決まらない日」と呼ぶ日だ。
サルトルが散髪をした時の事。
私たちはみんなこのような経験をした事があるだろう。
「切りすぎた髪を戻してくれ」。
サルトルの自伝でこの部分を覚えている人はいるか?それは彼が7歳か8歳ごろだったと思う。
実際サルトルの子供の頃の写真がここにある。
彼はこの時点まで「天使」と呼ばれていた。
注意を引くのはもちろん長い金髪とカールした髪だ。
家にやって来る人は皆「おおなんてかわいい天使なの!この子は天使だわ」と言っていたらしい。
これはサルトルが抱いていた考えだ。
これは少しマイケル・ジャクソン風ルソー主義的考え。
いわば髪を介して私は天とつながっているという事。
しかし彼の祖父がサルトルがあまりにも女の子っぽくなっていると。
それで祖父はサルトルを床屋に連れていく事を主張した。
幼い天使サルトルは「いいよ面白そうだ。
おじいさんと出かけるといつも楽しいから」と思った。
当時彼は7歳か8歳だった。
「よし床屋に行こう」。
そこで祖父は言う。
「しっかり刈ってほしい。
これは深刻だ。
つまり丸刈りのように全てそってくれ」。
サルトルは帰宅する。
母親は外出から帰ってきてドアを通り抜けてサルトルがそこに立っているのを見る。
彼は母親に何かこのような事を言っている。
「ねえ髪を切ったから見て」。
彼女は持っていた買い物袋を落とし階段を駆け上がってベッドに身を投げ出し泣きじゃくった。
散髪でこのようなリアクションをされた事はないと思うがこれはかなり強烈なものだ。
この時サルトルは彼の全ての「凝視」に関する理論を発展させたんだ。
「地獄とは他人の事である」という観念はまさにそこから始まっていた。
彼が実際に書いているのはこれは天使の前でこれがそのあと。
散髪によってヒキガエルに変身させられてしまった。
天使からヒキガエルへの散髪効果だ。
それが彼がその後の自分を表現する方法となった。
髪が天使効果を使って彼を変装させているがそれが取り除かれるとソクラテスのように「醜いもの」として暴露される。
なぜサルトルは「地獄とは他人の事である」と言うのか。
なぜなら理想形の場合と同様に「私はあなたの完璧なものに自分を一致させる事ができないからだ」。
サルトルの哲学者の彼女は同意する。
「そうあなたは実際醜い。
何の疑いもない。
周りの人を見て比べてみるとあなたの醜さは本当に際立っている」。
実際に彼女がそう言ったわけではないがでも「実存的な肉体」について重要なのは「その肉体はその肉体そのものではない」という点だ。
その肉体はいつも「その肉体である」もの以外の何かになる事ができる。
「私は私であるものではなく私は私ではないものだ」。
これは問題であると同時に解決法でもある。
実存主義はそれがプラトン的理想の領域と同じように牢獄から脱出させる切札であると言っている。
ソクラテスにとって醜さは現在そこにあるが一時的なもの。
「みにくいアヒルの子」の議論の一形式でいずれは白鳥になる。
でもサルトルにとって醜さは避けられないものだが取るに足らないもの。
サルトルとソクラテスは私たちが「顔と本の理論」と呼ぶものを共有している。
彼らが鏡から逃げ出そうとする時「顔」が「本」の起源になっていて「本」には「顔」の跡が残っている。
サルトルは言う。
「私は書く事から生まれた。
その前にあったのは鏡に映った像だけだった」。
でもこれらのどれもあのすてきなマイケル・ジャクソンには当てはまらないではないか。
彼はソクラテスよりはアルキビアデスではないのか?彼はサルトルよりもカミュではないのか?彼はヒキガエルよりは天使なのではないか?ここでマイケルの傑作の一曲について考えてみたい。
「ManintheMirror」。
「僕は鏡の中の男から始める。
彼に生き方を変えるように言ってみる。
こんなにも分かりやすいメッセージはない。
もし世界をよりよい場所にしたいならまず自分を見て自分を変える事だ。
ナナナナナナ…」。
君たちの番だ。
この曲は君たちにとって何を意味するか。
なぜなら私はマイケル・ジャクソンがそれが意味する事を君たちに伝える事ができるから。
はいどうぞ。
先生はサルトルの事を話していましたので私はそれで「出口なし」の事を思いました。
どの登場人物が言うのだったか覚えていませんが「私が鏡であるかのように私の目に映ったあなた自身を見て」と言います。
なぜなら登場人物の一人は鏡を欲しがるのですが彼女は鏡を持っていないからです。
確かイネーズだ。
彼女は鏡を持っていない。
だから私の鏡になってでも鏡の中で…鏡の…。
彼女はある時点で鏡になる事を申し出る。
それから?それはエステルです。
君がいてくれて本当に助かったよ。
今日は私の「名前がよく思い出せない日」のようだ。
そうだエステル。
エステルは口紅を心配しています。
イネーズは目を鏡として使うように言うのです。
多分鏡の中の男は理想形でマイケル・ジャクソンはもし彼が理想形に自分の生き方を変えてほしいと思っているなら自分の理想を変えなければいけないとあるいは少なくとも理想形に必死にたどりつこうとするのを止めようとしていると思います。
彼は理想形にならなければいけないというプレッシャーを感じているからです。
理想形は全てのものにあると思う。
だからそれはもっともらしい説だ。
「ManintheMirror」のプラトン的解釈からサルトル的解釈に移ろうと思っていた。
自伝「ムーンウォーク」の中でマイケルはこの曲がガンジーやキング牧師ケネディ大統領などからの影響を受けていると言う。
これは利他主義の訴えだと言う。
とても気高い。
でもマイケル自身を「利己的な愛の犠牲者」として表している。
つまり鏡が必然的に映し表す自己愛あるいは自己観察のようなものだ。
これはばかげて聞こえるかもしれない。
ショービジネスを生きる男性がいて彼は確かに20世紀の最高のパフォーマーの一人。
どうして彼は自分の外見にそんなに不安を抱くのか?でも自伝にはそれがかなりはっきり書かれている。
「有名になると人々は凝視するようになる。
観察する。
それは理解できる。
でもそれは易しい事ではない。
なぜ私が人前でできるかぎりサングラスをかけているのかと聞くならそれは人の目を見なければいけないというのが好きではないというだけだ。
少し自分を隠す方法だ」。
ある時彼は歯科医に細菌が入らないようにするため手術用マスクを渡される。
そして彼は言う。
「このマスクがとても気に入った」。
マイケルの「子供は自意識がない」という考えを思い出してほしい。
逆説的だが彼はステージで自分の全ての意識を失う事ができると言っている。
彼はこの瞬間他人に完全に観察されているからかもしれない。
「パフォーマンスをしている時自分がどのように聞こえるかどのように人に思われるかには気付かない。
ただ口を開けて歌うだけ。
だからパフォーマンスの中で自意識は消え自己超越がある」。
しかしステージを降りると自意識が戻る。
「一度ステージを降りるとまた対面しなければならない鏡がそこにある」。
だからマイケルは強い自意識あるいは彼自身のあるいは他人からの凝視の恐怖に苦しんでいたと言う事ができる。
そして整形の話にも触れたいと思う。
マイケルがどのように視覚的に自分を再構築したのか。
「10代の頃に向き合わなければならなかった最も大きな個人的苦悩はスタジオで録音したりステージでパフォーマンスをしたりする事とは関係なかった。
当時の最も大きな苦悩は自分の鏡の中にあった」。
彼はこれが思春期に始まったと言う。
恐らく私たちは推測する事しかできないが彼は肌の色素形成を気にしていた。
彼は皮膚病恐怖症だったかもしれない。
マイケルはどれくらいの治療を行ったか?でも治療をすればするほど彼はもっと不満になる。
「時々私の人生経験はサーカスの仕掛け鏡に映った像のように思う。
一部分はとても太っているのに他の部分は消え入りそうなほどに細い」。
他にマイケルには解決法があるか。
ひと言で答えると「アクセサリーをつける事」。
一つの白い手袋。
ショービジネスそのもの。
だがこれがどのように光を反射させるかに注目してほしい。
彼の靴への執着。
視線を屈折させるためにアクセサリーは反射するものでなければいけない。
そしてマイクも。
「マイクは私の手の自然な延長となっていた」。
自分を「もの」化するという意味でアクセサリーは全て1つの機能を持っているのではないか。
メークアップも同じだ。
「私は何かを自分の顔に塗られる事を楽しんでいた。
私がカカシに変身する時それは最もすばらしい事だった」。
カカシは映画の登場人物。
「それは世界で最もすばらしい事だった。
役を通して誰か別人になって逃げられると思った」。
ここで再び彼は「もの」になる。
これは自己客体化だ。
「私は座ってこう言う事ができる。
『よし今存在するものは他に何もない』」。
サルトル哲学はここで何が起こっているのかを説明している。
これは全て「美」に関する事。
「美」は超越した状態でそれに到達できるのは「その人でない」人間が「もの」になる事ができる時。
「もの」というのはプラトンの言う理想形に近いものだ。
あるいはサルトルの言葉を使えば「対自即自存在」。
実在がついに本質になり意味を帯びる。
「即自存在」とはそれが何ものであるかを規定されて存在しているもの。
一方「対自存在」は何ものであるかを規定されず自己に向かい合うもの。
つまり人間は「対自存在」にあたるとサルトルは言います。
この即自存在と対自存在が一致した状態本質と実存の一致が「即自対自存在」となります。
サルトルが書いている事。
「これは私たちが超越に与える価値だ。
これは私たちが美と呼ぶもの。
美は世界の理想的な状態を表す」。
でもサルトルは言う。
「美は世界の人々につきまとう亡霊だが決して実現されないもののままだ。
私たちは美しいものを切望する。
私たちは私たち自身が美の欠如である事を把握する限りにおいて宇宙を美しいものの欠如として把握する」。
サルトルは「存在と無」の一節でこの対立を劇的に表現している。
あるスキーヤーという人物の中の内面の「二元的実践」。
このスキーヤーは理想形スキーヤーそのものになりたいと願うがそうなる事ができない。
彼の幻想は雪のように解けてしまう。
マイケルはある宗教の信者だったと知られている。
でもサルトル哲学では神を信じているだけではなく神になろうとしている。
あるいは逆に言えば神は即自対自存在に私たちが与える名前だ。
サルトルは言う。
「私たちは皆神になろうと企て自らを神として投影する」。
マイケルの世界的人気は彼がこの普遍的な状況を明らかにした事の印だと主張したい。
神になろうとする事の失敗不可能な即自対自存在になろうとする事の失敗だ。
講義の結論に向かおう。
ここで「美」にも関連する言葉「崇高」という言葉に注目したい。
君たちは「崇高」という言葉を知っているし恐らく「崇高」を経験した事もあるだろう。
君たちは崇高かもしれない。
誰か崇高の仮説的定義を提案してくれないか?あるいは崇高に見えるだけで十分だと感じるか。
どうぞ。
崇高とは美と畏敬との間にある美的な感情だと思います。
自然の力などに対して感じられる畏怖の感覚ではないでしょうか。
モーガンからの崇高の定義。
他に崇高なものについて意見のある人はいるか?どうぞスペンサー。
それは理想形に似たものに到達するという事ではないでしょうか?理想形と同じ特性を持つ事そして一瞬ほんの一瞬の間だけそれに到達する事ができてそのあとは記憶の中に残されるようなものです。
プラトンはそう言うべきだったと思う。
理想形への近似化は君が言うように一瞬のいわば一瞬の中に感じる永遠のようなもの。
崇高は一時的なものだ。
ある状態とある状態の間で不安定にあるという感覚だ。
でもこれは身振りやダンスとしての哲学。
綱渡り芸人あるいは死ぬまで割れる波に乗るサーフィン。
ムーンウォークは前に進むと見せて後ろに進む。
このような形の崇高は維持できないものだ。
マイケルは答えのヒントを与えてくれていると思う。
彼は言う。
「私はとても長いスピンをしてそれから爪先で静止するつもりだった。
一瞬の間止まってただそこにいたかった。
ただそこで凍りつくように静止したかった。
でも思ったようにはうまくいかなかった」。
私はマイケル・ジャクソンの慰めになるような提案をしたい。
それはソクラテスやサルトルからではない。
レナード・コーエンの「チェルシー・ホテル」の中からだ。
「気にしない。
私たちは醜い。
でも私たちには音楽がある」。
そしてここで終わりにしたい。
マイケルレナード・コーエンサルトルそしてみんなどうもありがとう。
(拍手)2014/10/17(金) 23:00〜23:55
NHKEテレ1大阪
ケンブリッジ白熱教室 第2回「美と醜悪の現象学」[二][字]
ケンブリッジ大学のアンディ・マーティン博士がおくる実存主義講座。現役大学生たちを相手に大胆な仮説や思考実験を駆使して、現代人の悩みや矛盾の解決方法を探ります。
詳細情報
番組内容
1209年創立、長い歴史と伝統を誇る世界的な名門ケンブリッジ大学で、いま注目を集めているアンディ・マーティン博士の特別授業。第2回の「美と醜悪の現象学」では、マーティン博士は、古代ギリシャのプラトンや自分の容姿に強いコンプレックスを抱いていたサルトルの哲学を用いて、世界的なポップスター・マイケル・ジャクソン、そして、私たち自身が追い求める「理想の姿」、美に対する執着と苦悩について考察します。
出演者
【出演】ケンブリッジ大学フランス学部講師…アンディ・マーティン,【声】斉藤茂一,杉山奈美枝,南雲大輔,渡部紗弓
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – その他
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