徹子の部屋 古舘伊知郎 2014.10.15

きょうは人気ブランドの菓子職人を招き、アピールしました。
高島屋大阪店はお歳暮商戦で「好調が続く業績をさらに勢いづけたい」としています。
(黒柳)本当に楽しそうな幸せそうなご家族の写真です。
お父様に抱かれている可愛い坊やが今日のお客様です。
どなたと思います?そうこの方なんです。
そしてご家族の中で一番お話しするのがあんまり好きじゃなかったという一番お喋りじゃない子がこの方だったそうでございます。
古伊知郎さん今日のお客様です。
どうも。
『報道ステーション』は11年目に入りました。
色々伺います。
よろしくお願いします。
ようこそおいでくださいました。
でも割と…ニュースやってらっしゃるんですけどもう6回目のご出演ですから随分出ていただいてはいるんですよね。
はい時折ね来させていただいて。
そうそうそう。
たまには気を抜く話もいいかなと思ってね。
本当毎日ね気の張ることがいっぱいあるんですもんね。
徹子さんもよく見ていただいてて本当にありがとうございます。
毎日あれはVTR録って見てるんでね。
必ず見ております。
こちら元テレビ朝日のアナウンサーでいらっしゃいまして入局が1900…?1977年ですかね。
『徹子の部屋』が1976年の2月に始まってますので…。
早口ですね私もね。
あなた早口。
1976年2月ですから僕が入った時には『徹子の部屋』が始まってそんなに経ってない状態で。
だからほとんどあなたの入局と『徹子の部屋』が始まったのと同じぐらいと思えば…。
そうなんです。
その間中ずっとやってたっていうことになりますので。
そうですよね。
でもあなたの期は本当にねスターアナウンサーになった方が多くて。
ええ。
大変でしたけどあなた本当ね。
大変なお仕事を今やってらっしゃいまして…。
さてあなたのさっきのお写真拝見したらあの中であなたが一番無口だったって本当なの?はい。
これはもうね信じてくれない人もいるんですけど一番無口で。
僕をだっこしてくれてる父親がですね全員この…。
お姉さんも含めて3人僕以外は亡くなってるんですけど。
父親は大学で弁論部で。
すごい。
ええ。
一時政治家を目指したらしいんですけども学徒出陣で兵隊で戦争行って帰ってきた時にはもう食うや食わずになってそれどころじゃないっていって政治家への道を諦めたようですけど。
だから言葉少ななんですね古いタイプの男ですから。
ぐっとこう黙ってるんですけど要所要所で四文字熟語を使うんですね。
あっそう。
「疾風怒濤の活躍だなこの横綱は」とか。
あっそう。
あなたが時々お使いになるじゃないですか。
はい。
僕その影響です。
あっそう。
言葉少なだけど父親が必ずそういうことを言った…。
「八面六臂の大活躍」とか言ってましたから。
だからそういうのはちょっと影響あったし僕はそれに比べてお喋りが苦手だったし。
母親とそれから姉が…。
すごいの?ものすごいお喋りなんです。
お喋り。
中身があるかないかは別として。
おふくろと姉貴が口ゲンカしてる時…。
どういうこと…?いやもうねものすごいスピードなんですよ。
「だってこの間タナカさんと話したっていうことをちゃんと…恵美子だって聞いてるのに何だと思ってんの?」「私は聞いてない」「お母さんだって」「この前階段を下りてくる時はっきり約束…」「約束したの覚えてないとは言わせない。
だって八百屋さんに買い物行ってその後魚屋さんへ行って回ってきたってはっきり覚えてんだからもう一回ここで再現しようか?」ってものすごいんですよ疾風怒濤なんです。
一瀉千里なんです。
で父親はあきれてたまに嫌み言うでしょ。
僕は何も言えない…二の句が継げない状態でした。
可哀想。
黙ってたの?必ずねとどのつまり3人は言うんですよ。
一家そろって…例えば日曜日の昼間NET時代の『大正テレビ寄席』が流れていて…。
ありました。
ねっ。
牧伸二さんが「バーゲンだよ」ってこう出てた。
あの辺りでちょっと家族ゲンカが収まった辺りでほっとした感じで父親がちっと笑うんですね。
愚にもつかない口ゲンカして。
最後3人が口そろえて僕に「伊知郎は本当にお喋りが苦手だから」って決めつけるんです。
僕は何にも言えなかっただけかも…。
苦手だからって決めつけてんの?決めつけられました。
でもその苦手な子がアナウンサーになろうと思ったのはなんで?たぶんだから家庭内で僕も喋りが好きなのに一番喋り下手だって決めつけられたことに対する反発。
その内圧が高まって喋りたいっていうのと。
まあ中学ぐらいからラジオの深夜放送を聴くようになって。
「みのもんたの『セイ!ヤング』」とかこういうのを聴いて。
でだんだんだんだんこういうお喋りを軽快にやってみたいってまた憧れが出て。
で大学ぐらいの時に神宮球場に行って…六大学の立教大学だったので僕は神宮行って。
その当時…東大と立教の試合とか行くんですけども勝ちそうなんで。
だけど東大にも負けるんですね。
あれ…。
勉強で負けて野球でも負けるっていう屈辱的な状況が続いてる中でその時僕偏向放送をしたんですね。
どういうの?偏向放送って。
例えばライトスタンドとかに座って「立教の3番打者。
さあここで打つか?」。
打ってないんですよ。
平凡なライトフライなんですけど「打った!大きく弧を描いている!」「場外ホームランか?神宮の杜へ!逆風が吹いた」「どうした?ハプニングだ。
ライトが捕ったか?」「これは奇跡だ!」とか言って全然勝ってないのにホームランを打った嘘実況みたいなのをやったら半径5メートル以内にうけたんです。
それで「アナウンサーになったらどうだ?」とか言われたのがふっと耳に入って。
あっその時まだアナウンサーじゃない時ね。
はい。
まだ学生ですから。
その辺りからちょっと本格的に目指すようになって。
あっそうなの。
じゃあ初めに本当にご自分でそういう野球中継みたいなのをなすった時はどんなでした?うれしかった?いやー僕はやっぱり…。
あっアナウンサーになってからですか?もうスポーツ実況担当になった時はうれしくてうれしくて本当ね体が爆発するような感覚…。
あっそうなの。
私…あなたなんか競馬やったことあるでしょ?はい。
競馬の時驚きましたよ。
よくこんなに馬の名前の面倒くさいことを言う人がいるなと思って。
あれすごい面倒くさいじゃん。
犬…犬じゃない馬の名前…。
ドッグレースもありますけどね。
そうそう。
馬の名前がね難しいじゃない。
あのね競馬の場合は大先輩で関西テレビに…もうフリーになられて久しいですけど杉本清さんっていうアナウンサーがいて。
この方はね馬の名前を覚えるのが苦じゃないっていうことを教えてくれた人です。
例えばエリモジョージっていうね馬がいると「何もないえりもから春を告げるかエリモジョージ」とかね。
あっそうか。
続けて何かイメージつけちゃう。
だから馬の名前を覚えるのも苦じゃないと思ったしあとはこう…実況してても気持ちいいんですね。
でもその色んな実況の中で何が一番お好きでしたか?野球とか色んなのあった…。
そうですね。
メーンでやらせてもらってたのがやっぱり…新日本プロレスのアントニオ猪木さんのプロレス実況なんで…。
プロレスやってらっしゃいましたねあなた。
これはやってても…喋ってても喋ってても楽しくて楽しくて。
あっそう。
はい。
そういう口から出任せみたいなこと…。
「口から出任せ」…。
口から出任せみたいなこと言っちゃっていいわけ?まああの…そうですね。
僕はプロレスの実況っていうのは場外乱闘がありましたから色んなことを次から次へと色々あることないこと言えたんで。
こっちはもう…本当そこを畳み込むっていうのは楽しさがありましたね。
なるほどね。
あなたは大変な…お早いお口で畳み込みでものを仰るのがお上手でねすごいというふうにみんな思っていたんですけども。
それから何年かあってそれで今『報道ステーション』をやっていらっしゃる。
でも『報道ステーション』はニュースですのでやっぱりおやりになる時随分気を使ってはやってらっしゃるだろうと思います毎日ね。
でも11年?そうですね。
11年目になりました。
これからもお続けになると思いますけどもね。
本当にね毎日…朝かもしれないけど新聞はもちろん全部お読みになったりとか色んなニュースの勉強とか色々なさるそうですけど。
そうですね。
もう一日ニュース漬けです。
やっぱり新聞も全部読みきれないんですけど例えば朝毎読だけじゃなくて日経新聞産経新聞東京新聞6紙取ってて。
同じニュースでも全く違いますでしょ?そうですよね。
新聞記事の書き方って。
だからもう本当全部読みきれなくても見出しから始まって読み比べるんですね。
「こっちはこう語ってる」「こっちはこんなふうに違う」。
そういうことを何時間もかけてやります毎日。
なるほどね。
だからほとんど一日が夜の放送だけれど朝から起きた時からもう夜に向けてやってらっしゃるっていうことですよね。
ずーっとニュース漬けです。
それが『報道ステーション』という番組なんですけども。
さっきのお写真ちょっともう一回見せていただいていいですか?この家族の写真ですけど。
このご家族の写真は本当にお母様が明るく笑ってお姉ちゃんも笑って。
泣いてるのかしらあなただけがあれで。
お父様あなたを抱いてくだすって。
さっき仰ったけれどなんてこの一家が…こんなに楽しい一家だったのが…本当に…ちょっとそれが亡くなったっていうお話。
さっきちょっと仰いましたけども…。
それはそれぞれ年をね取ってくるとみんな肉親と別れなきゃならないっていうことありますけれどもあなたは随分若い時にお姉様とか家族を亡くしていらっしゃる…。
まず僕の6つ上の姉がね37の時にですね。
ですから僕が31ですか6つ違い…。
その時にがんになりまして。
3回手術をしたあげく最後は苦しんだんですけれども結果化学療法の果てに42歳で。
胃がん原発でしたけれども他にも転移して婦人科系統にも転移しまして42で旅立ちまして。
僕はその時のやっぱり…悲しみっていうものをいまだにぐっと刻んでね。
お子さんとかいらしたんですか?ええ。
2人おりまして。
もう大きいんですけども。
その当時はまだ小さかったですから姉貴もさぞかしもうちょっと生きたかっただろうなっていう思いをいまだに持ってますけど。
そうよね。
特にお姉様なんていうのはあなたにとっては特別の存在でしょうからね。
やっぱり何かにつけてね。
圧倒的にお喋り僕よりうまかったですし憧れの存在でも実はあったんです。
かばってもくださってたでしょうしね。
それで今度お父様ですか?その次…。
はい。
それからだいぶ経ってですけども…。
お父様会社の社長ですよね?サラリーマンだったですけどもね。
サラリーマンになってからは出世してくれていいところまでいって。
すごい。
で引退して…。
76ではありましたけども父親も結果心筋梗塞でことっと。
元気なうちに。
一切誰にも迷惑かけず…。
それはあなたがもう『報道ステーション』をやってらっしゃる時?まだやる前ですね。
あっそうなの。
1998年だったと…。
ああそうなの。
じゃあお父様にちょっとああいうニュースやってるとこをねお見せになりたかったでしょ?うちのおやじはそういう報道とか好きでしたから。
うんたぶんね。
基本的にNHKのニュースとNHKの民謡大会しか見ない人でした。
テレビは。
ハハハ…。
ずっと中国で生まれ育ってんで中国の大連で生まれ育ってますんで。
外地で商売やってておじいちゃんが。
だからそういう関係で日本のふるさとの民謡。
わかりますよね。
それとニュース。
民謡好きな方ハア〜とかっていうとなんか風景が浮かぶみたいなね。
そうみたいですね。
望郷の念がこだますみたいですね。
そうですよね。
それでその次に今度お母様…。
はい。
母は今から2年半ほど前でつい最近なんですけども。
ずっと一人で最後は暮らしてましてちょっと可哀想なことをしたんですけど。
やはりがんで。
母も2年半前に亡くなりまして。
その時もずーっと本当にこれはもう…「親孝行したい時に親はなし」ってならないようにって最後の最後は一生懸命寄り添って…。
あっそうなの。
ええ。
84歳ですか?お母様…。
はい母は。
だけどお母様にしてみるとそのお嬢さんを…。
お姉様?42って仰いました?亡くなった時ね。
娘を先に亡くすっていうことなんか…つらい。
こんなつらいことはなかったでしょうね。
本当にそればかりでした。
だから姉が闘病中もですね母親は毎日毎日念じるように言うんですね。
「私が代わってやりたい」って。
恵美子っていうんですけど「恵美子の代わりに私が代わって病気になってやりたい」。
「であの子を元気にさせてあげて」…。
毎日毎日祈るようにそういうふうに言ってたら徹子さん不思議なことあるもんで。
おふくろ病気になっちゃって。
あら。
でくしくも姉が入院している…長く入院している病院の1フロア下の同じ…1階違うんですけど。
同じ部屋に入院したんです。
あっそう。
でおふくろも手術しまして。
えー…。
病気になって。
同じ病気になったっていうね。
こういうことって親子であるんだなと思って。
その時に僕今でも覚えているんですけどもちょっとおやじと病院にお見舞いに行っておやじもまだ現役で働いてまして。
お姉さんとこ行って母親のとこ行ってってエレベーター行ったり来たりしまして。
で2人で帰って「参ったねおやじ」って言ってすし屋入っておすし屋さんでおすし食べてちょっと酒飲んで明日お互いに仕事だからって感じで。
僕が愚痴吐いたんです。
ちょっと甘えがあったと思うんですね。
「両方入院しちゃってこれから大変だよ参ったね」って言ったら「伊知郎何言ってんだ」と。
「早くすし食わなきゃ。
すし食うだろ。
酒飲むだろ」「うち帰ってさっと寝るだろ。
で朝起きるだろ」「2人とも仕事行く。
毎日はそうやって続くんだから」「頑張んなきゃ駄目だ。
さあ帰ろう帰ろう」って言われちゃって。
哲学者フフフ…。
本当にはっきりしてて一切愚痴をこぼさないタイプで率先して自分でやるような昔の気骨を持った人だったんで。
でもすごいねそれね。
はい。
僕ちょっと…元気づけられましてね。
乗り越えなきゃいけないなと思いましたけど。
お母様もそれを望んでらしたでしょ?きっとね。
はいですよね。
旦那様がさあなたと一緒にね愚痴だとか泣いたりしたらねそれは悲しがるだろうと思う…。
でもそのお父様のほうが先にお亡くなりになった?お母様よりも。
そうですね。
父親はもうことっと。
クリスチャンで日曜礼拝に毎週行ってまして。
朝…几帳面なんですね。
朝早く6時前に起きて洗面も済ませきちっとスーツに着替え。
でいつも聖書を入れている小さな袋がありましてそれを玄関先に立てかけて靴がそろえてあって…すごい几帳面なんです。
今まさに玄関から行けるような状態にして。
母親も一緒にクリスチャンで教会に行くはずなんだけど体調悪くておふくろに「安也子は寝てなさい」って指示をして「俺一人で行くから」って言って。
それで最後まさに出かけんとするその寸前にリビングルームかなんかに座ってるところでどーんときたんだと思うんですね心筋梗塞で。
でこう…はってるんだと思うんですよそこ。
歩けなくて。
たぶん想像するに。
はっていて。
ちょっと先行けばマンションの中で連れ合いの僕の母親が寝てるはずなんで安也子とか呼ぶはずなのに苦しいから。
一切呼ばずにベッドルームの…寝室の手前の右手の小さな孫が来た時に泊まる用の小さな部屋がありまして。
予備室と呼んでたんですけど僕。
そこの窓側のほうまでベッドの横を行くようにして窓とベッドの隙間でわかんないようにして横倒れになって死んでました。
僕はねちょっとね動物がよく象の墓場みたいにわからないように…。
わからないように。
そうです。
あの感じでした。
立派な象はねみんなにわからないようにしてね。
犬もそうですよ。
立派な犬はそうするとかってよく言いますけどね。
だからなんか…人になるべく迷惑をかけないで自分のことは自分でやって極力迷惑かけないで死んでいこうっていう生き方をしてる人っていうのは死に方も生きるようにしか死ねないのかなと思いましたね。
すごいですよねでもね。
まあお父様はお話がねそういう静かにしててもここぞっていう時四字熟語みたいの仰ったんだけど。
あなたもお母様とは今度違うタイプの話し方…。
もうこれはものすごく影響を受けてこういうふうに喋る仕事まあ…『報道ステーション』ではぺらぺら喋ればいいってもんではないんですけども。
でもやっぱり喋りの素地はおふくろから…おふくろとの訓練でいただいたなってつくづくこの頃思うんです。
どういう…?例えば幼稚園から帰ってきた時とか小学校も昔土曜日半ドンっていって昼で帰ってくる。
ちょうどNETで昼すぎに大宮敏充劇場ってデン助さんの劇場を浅草から…。
ありましたありました。
そういうのを見ながらおふくろが昼飯作ってくれるんですね。
その昼飯作りながら僕とずっと掛け合いやるんです。
僕はもう力道山のプロレスの大ファンで200人分ぐらいの外人レスラーの名前も覚えて…。
覚えてた?すごい。
覚えてますもう既に。
小学校低学年で。
おふくろは戦後やっぱり抑圧されててぱーんとこのアメリカの華やかなものに憧れたみたいで。
女学校時代ですから終戦が。
でもう本当今まで禁じられてたアメリカのハリウッド映画そういうようなことを見まくるんですね。
そうそうそうそう。
だからもう男優さん俳優さんの名前をやっぱり200名ぐらい押さえてるんですよ。
そうそうそうそう。
で言い合うの。
おふくろがイングリッド・バーグマンって言うと僕がヘイスタック・カルホーンってレスラーの名前を言うんです。
そうすると向こうがロバート・ミッチャムって言うとこっちがシャープ兄弟とかレスラーの名前を言う。
で向こうがなんか歌手の名前でマリア・カラスって言うとこっちがジノ・マレラ改めゴリラ・モンスーンって。
ずーっと言い合うんですよ。
しりとりでも何でもないんですけどね。
何でもない…言い合うのね?ただ名前を言い合う。
自分の分野を言い合うのね?自分の得意の分野を叫び続ける。
そうするとお母様の頭もどんどんどんどん次…言わなきゃいけないから。
活性化して。
そうそうそうそう。
だからねなかなかね昼飯が来ないんですね。
ずーっと言い合ってますから。
フフフ…。
だからそういうのって今思えば自分のベースっていうか基礎になってるかなっていう。
そうですよね。
ええ。
それはでも素晴らしかったですよね。
お母様色んなものご覧になったでしょうからね。
戦後私わかるんですけどどういうわけだか怒濤のようにアメリカ映画が来たんですよ。
もうね『キュリー夫人』とか何だかんだってね。
そういうの毎日…。
他にほらテレビがないから。
毎日のように見てましたからね。
だからあなたのお母様と私やりたかった。
それやったらもう…。
本当ですよね。
どっちが出るかみたいなね。
うん。
だから徹子さんもその当時そうやって映画を本当に枯渇してる時にむさぼるようにご覧になってそれがまた素地になってNHKの生放送のドラマとか全部つながっていくんですかね?そうかもしれませんね。
まああんまり…その外国のものとは直接関係はなかったですけど。
でもやっぱりドラマやってる時にはそれだけ映画を見ているとやっぱり何かはね。
違いますよね。
こういうふうにちょっと伊知郎の部屋っていうことで逆にインタビューさせてもらえませんか?どうぞええ。
いっぱい聞きたいことがあるんですよね。
いつかそう仰ってましたあなたね。
伊知郎の部屋でも何でもいいですけども。
お話ししてもいいですけど…。
今度またそういうのぜひ機会つくっていただいて…。
徹子さんにNHK揺らん期の話を聞きたいんですよね。
何回かお話ししてますけどあんまり詳しくは話してないけどテレビの始まった時の生の中をどうやって切り抜けたかっていうのなんかはそりゃあすごいですよね。
ねえ。
昔よく講演会とか聞きに行きましたから。
そうそう。
私トークショーとか昔よくやってた時あなたいらしてお花持ってきてくださったことありましたよね。
ありました。
私この方はなんで私のこういうのにいらっしゃるのだろうなと…。
ものすごく興味がありました…徹子さんの喋りに関しては。
あの時のトークショーで今でも覚えてるんですよ。
「本当に野球って面白いのか面白くないのかわからないよねみんな。
だって…打ってなんで一塁走っていくの?手っとり早く三塁走っていけばさそのほうが近いのに」とかいうのでお客さんどっかんどっかんうけるじゃないですか。
羨ましいな。
こういうハイテンポで畳み込む喋りでうけるんだとか色々勉強しました。
あっそうですか。
何回もあなたをお見かけしたんでねなんでいらっしゃるのかなと思って…。
で今度あなたはそういうふうなつまり今毎日やってらっしゃるニュースとかそういうのと関係のない何か自分の話したいことを話すのを今度…久しぶりで?はい。
しばらくやってなかったんでしょ?それ。
はい。
10年やってなくてですね。
あっそうですか。
じゃあニュースの間…『報道ステーション』始まってからやってらっしゃらなかったの?やってないんです。
それまでは16年間毎年毎年東京1週間とあと地方1回ずつっていうんで『トーキングブルース』というトークするブルース。
喋る悲しみ。
うん。
悲しいからこそ笑う。
悲しいからこそ毒舌を吐くっていう。
ほとんどチャップリンね。
そういうようなことを毎年やってたんですね。
ちょっと昔のおやりになった時のなんか10年以上前の…。
「気づかれぬように見ていると観察していると…」これは姉が亡くなった時のことをラジオのパーソナリティーが姉の死を語るっていうテーマでやらせてもらった4回目です。
「成分は簡単です。
マムシの皮を取り除いて…」これはあと3年後ぐらいですかね。
「マムシチンキを中心にローヤルゼリーだ…」これは薬局の…ドラッグストアの店先でこんな店員がいたらどうだろうっていうのをやってるんです。
「新しい脳からその下の古い脳…」これは脳をテーマにやった2001年ですけど。
「すると古い脳のほうはあらかじめ本能的に…」2時間半ぐらいただ喋り続けるんです。
このテンポで?はい。
これ私があまりにもお喋りだっていうんで脳を調べたらちょっと機能的におかしな脳だっていうことがわかったっていうのを今…。
今の脳?どこ?機能的にどうだったの?普通女性脳…。
徹子さんお喋りだから絶対そうだと思うんですけど。
左にメーンの言語野がありまして言葉をつかさどる喋りをつかさどっている。
右側にバックアップの小さな言語野がありまして女性の場合は。
男左側しかないんです。
女性は右にあって。
だから女性のほうがお喋りだっていうのがあるんですけど。
お喋りしながら何かできる。
あれがそうですよ。
電話しながらほら…「そうなのよお母さん本当に嫌になっちゃう」って言いながら掃除できる。
男の人はあれできないんだってね。
できない。
もう喋るっていったら理屈だけで左脳だけで。
そっちばっかりに集中するから。
だからもう夫婦ゲンカが絶えないとは思うんですけどね女性のほうがお喋りで。
男は「結論から言え!」って。
結論なんか言えない。
いくつでも結論持ってんだって感じが女性はあるでしょ?だけど僕の場合は右の言語野も女性脳を超えて大きめなんです。
左もあって右も大きめでここで真ん中をこうやってねつないでいるところがありまして。
そのかけ橋の真ん中に脳梁っていう…真ん中にありまして。
これがかなり僕の場合は大きくて。
ここのかけ橋が…言ってみれば木更津と川崎結んでるアクアラインみたいなね。
あそこが太いんですよ。
だからもう右脳の情報左に出て…。
すぐぱっぱぱっぱ…。
ばーっと喋るちょっと変わった特殊脳だって言われました調べたら。
その脳を皆さんに見せてらしたの?はい。
それを「こんな脳なんだ」「だから喋るのが止まらないんでみんな付き合ってくれ」っていうそういうくだりだったんですけど。
あっそうなんですか。
『トーキングブルース』はそこのEXTHEATERROPPONGIで。
六本木から歩いてすぐ新しい劇場ですけど。
10月18日。
何時から?もう間もなくなんですけど夜6時から。
1回だけですよね?1回だけで勝負しようと思って。
なんか聞いたらちょっとこう…カメラ席を一部潰して席を拡充したみたいなので当日券がございますので若干。
並んでいただくとかそういうのは大変申し訳ないんですけれども一人でも多くの方に聞いていただきたいと。
でもまだ切符が買えなくはないという。
多少当日券があるようなので。
でもあとは売れたの?あとはもう即。
やっぱり10年間やってないっていうのもあって。
じゃあ前のファンの方もね。
ええ。
僕も雑誌のインタビューとかに「放送コードを超えてやります」なんていう…。
本当はそうは超えないと思うんですけども。
それで『報道ステーション』はもう11年目に入りましたけどできる限りやりたいと思ってらっしゃるんですって?そうですね。
テレビ朝日から降ろされるまでは。
とにかくもう私はこれが与えられた仕事だと思ってますんで。
もっとニュースキャスターとして磨いた状態で皆さんに奉仕できなかったらこの仕事をやってる意味がないって…。
今日もお話しさせていただいた家族の中の役割としてね自分がそういう任を担ったんだっていう意識もありますんでね。
何とかやっぱり見てる方に奉仕できないかな…。
そうじゃなくてもつらいニュースが多いのでどんな面持ちでどんな心持ちで皆さんの気持ちをほぐしながら悲しいニュースを伝えるかっていうのは僕にとっては本当に見果てぬ命題なんでそこに近づいていきたいっていうふうには思ってます。
そうですね。
はい。
あなたが勉強してらっしゃるっていうことはすごくよく…。
昔のことがわかってないとわかんないことってあるじゃないですか。
そういうのも大変だろうなって思ってます。
頑張ってください。
はい。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
古伊知郎さんでした。
見ます。
当番組は同時入力の為、誤字脱字が発生する場合があります。
2014/10/15(水) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 古舘伊知郎[字]

〜「古舘節」の原点は“饒舌家族”!?無口な少年時代を告白〜古舘伊知郎さんが今日のゲストです。

詳細情報
◇ゲスト
『報道ステーション』を担当して11年目の古舘伊知郎さんが登場。
◇番組内容
もともと少年時代は無口だった古舘さんだが、母と姉はものすごいおしゃべり好きで、父も何かと会話に四字熟語を入れるのが得意な人だった。そんな家族に囲まれてあの「古舘節」が形成されたという。その家族も古舘さんを残して皆この世を去ってしまった…中でも特に大好きだった姉は42歳の若さで壮絶ながん闘病の末に他界したと明かす。ほか、マイク1本で2時間近くしゃべりまくるという11年ぶりに行なうトークライブの話題を。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

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日本語
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