NHKアーカイブス「シリーズ1964 第4回 モノづくり大国への道」 2014.10.12

常に強いでしょう。
中国、四国と近畿南部は雨や風が次第に強まる見込みです。
(礼二)本日も東海道新幹線をご利用頂きまして誠にありがとうございます。
新幹線ひかり号新大阪行きは間もなくの発車となります。
ご乗車になってお待ち下さい。
(桜井)すいません。
はい。
新大阪に一番早く行くにはどれに乗ったらいいんでしょう?それでしたらお客様こちらですね。
最高時速210キロの世界一の夢の超特急新幹線ひかり号にご乗車下さい。
…というような会話がちょうど50年前にあったかもしれません。
「NHKアーカイブス」今日は鉄道博物館にお邪魔しています。
この丸いお鼻懐かしいですよね。
シリーズ「1964」この新幹線をはじめとしましてこの年に生まれたさまざまな技術に迫ってまいります。
改めてご紹介します。
漫才師の中川家礼二さんでらっしゃいます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
どうも。
あまりにも何かお似合いなので。
私はこういう格好何回もさせて頂いてますけども結構漫才のスーツよりぴったりこっちの方がくるという感じでございますけども。
50年前のこれは制服?そうなんです。
これはちょうどこの0系の。
当時の0系の中で乗務してた車掌さんの制服そのままの格好をさせて頂いて。
タイムスリップしてきたようね。
この格好する度に僕はもう芸人やめてもええと思います。
いつもね。
今日は車掌さんの気分でまたよろしくお願いします。
今日は本当に芸人の気分ではございませんので車掌の気分で。
お願いします。
それにしても本当にこの中歩いていると懐かしいですね。
蒸気機関車とかたくさんありますよね。
こちらいろいろ…SLの転車台があったりとかね。
これは1日2日じゃ回りきれないというとこでございます。
こういう格好してらっしゃるとどうですか?運転席に行ってみたいですよね?行きたいです。
入れるんですか?いいんですか?さすがNHK。
行きましょうね。
開けますよ。
どうぞ。
これ開けましたね。
ここまではね。
ここまでは普通に当時でも入れたんですよ。
ここですよ!この乗務員室。
どうぞ。
おお〜!すごいなこれ。
いいですね?これ上って。
どうぞ。
うわわわわわ…うわ〜!すごい。
うわ〜。
あっこれですよね。
スピードメーター。
これ夢の210キロ。
うわ〜すごい。
もういろいろちょっとすいません。
基本こういうのをね…この辺のレバーを触りたくなるんです。
ハハハ。
うわ〜すごいな。
は〜すごい。
でもそろそろ出発の時間なんですよ。
出発の時間です。
もうそんな時間ですか?まだ大丈夫でしょ。
いろんな…。
いやいやもう出発ですよ。
もう出発ですか…すいません分かりました。
それでは最終回出発進行!
今から50年前の1964年終戦から19年。
日本は復興を遂げ高度経済成長真っただ中の年でした
「オリンピックまでを合言葉に挙げた今年は各地で国造りのいろいろな建設工事が力強く最後の仕上げに入りました」。
中でも夢の超特急新幹線の誕生は新しい時代の到来を告げる大きなニュースとなりました
「3,800億円の巨費と5年の歳月をかけた東海道新幹線もオリンピックを目指して走りだしました。
最高時速210キロ。
東京と大阪を4時間で結ぶ新幹線は鉄道技術の粋を尽くしたものとして世界の注目を浴びました」。
NHKには視聴者の方が撮影した当時の新幹線の映像が残されています。
これは開業初日に一番列車の乗客が撮影した映像です
朝6時東京発新大阪行きのひかり1号。
2等席の料金は乗車券と特急券合わせて2,480円でした。
「全てが物珍しくずっと座っていられずに意味もなく前の号車へ後ろの号車へと移動ばかりしていました。
ビュフェだけはどうしても何か食べたかったのですが立錐の余地もないほどの満員で利用できなかったのは唯一の心残りでした」。
出発から4時間後新大阪駅に到着。
内山さんはそのまま友人と有馬温泉へ。
一風呂浴びたあとは神戸市内を観光します。
そしてその日の夕方には新大阪駅へ戻り帰りの新幹線に乗車。
以前は考えられなかった関西日帰りの旅です。
人々の暮らしを大きく変えた新幹線。
開発に当たった技術者たちを描いた番組があります

(「地上の星」)
技術者の中には戦時中特攻機の設計に関わっていた人もいました
桜花は着陸のための車輪もなく敵艦により速くぶつかるよう流線型の設計となった。
800機が沖縄戦など激戦地に投入され散っていった。
亡くなっていった若人に対して非常につらい思いをした訳です。
結局平和産業というのは鉄道が一番平和産業でこれは戦争に何ら関係がないと。
自分たちの技術を平和に生かすと誓った旧日本軍の技術者たち。
19年に及ぶ執念の研究が世界最速の新幹線を生み出した。
1964年には鉄道以外でもさまざまな分野で革新的な技術が数多く生まれました
モノづくり大国へと日本を押し上げる転換点となった1964年。
技術者たちの思いを見つめます
ゲストもう一方お迎えしています。
国立科学博物館の鈴木一義さんでらっしゃいます。
どうぞよろしくお願い致します。
産業技術の歴史がご専門でらっしゃいます。
この新幹線…開業当時の思い出というと何かございますか?
(鈴木)ちょうど家にテレビがその年。
オリンピックもありましたので入ったんですね。
すごい田舎だったので世界があれで広がったんですけどその最初に目に入ってきたのが新幹線とオリンピック。
こんなもう漫画の世界でしか見た事ないものが本当に日本で走るんだという事ですごいドキドキした事覚えてますね。
初めて乗られたのがいつごろだったんです?乗れるようになったのが昭和50年以降のビジネスマンになってからですね。
社会に出てからで。
もうずっと高根の花でしたね。
どうでした?乗った時にやっぱりこれが新幹線かと。
今まで外から見てるだけでしたからね。
ああこういうのに乗れる…。
いやでも分かります。
これが新幹線かっていうのがすごい分かります。
礼二さんはでも1964年まだ生まれて…。
生まれてないですね。
初めて乗ったのは?中学の3年生の時に修学旅行で新大阪から広島までっていう山陽新幹線の方に乗ったんですけど…。
まさしく同じ感想ですね。
これが新幹線…。
うれしくて席に座ってられないんですよ。
あっち行ったりこっち行ったり。
席に座った思い出があまりない。
その辺うろうろして見回ったりとかして。
どうなってるんだろうとあっち行ったりこっち行ったりトイレ開けてみたり…。
当時普通にふだんでも乗りたいんですけどやっぱり料金が高いんで僕は時刻表を買って時刻表を見ながら妄想で旅をしてました。
どうなんでしょう?当時は蒸気機関車とかも随分走ってましたし相当これはやっぱり大変なインパクトがあったと思うんですけれども。
やはり今までの煙を吐いて走る蒸気機関車から新幹線という…。
しかも電気でモーターで。
そういう意味では音もなしに走るんですよね。
もう夢の世界の話でしたよね。
これが未来かという。
未来?ええ。
インパクトがありましたね。
さあ今未来という話もありましたけれども今日は新幹線の開発の舞台裏に迫った番組をご覧頂きます。
どうぞ。
三木忠直さんは今年91歳になる。
この日三木さんは50年来の友人と再会した。
(河辺)しばらく。
(三木)しばらく。
お元気そうでよかったですね。
(松平)しばらくどうも。
3人は旧陸海軍の技術者だった。
戦後自分たちの技術力を平和のために使った。
彼らが造り上げたものは日本人の生活を根本から変える革命的な乗り物だった。
それは世界最速の超特急新幹線である。

(国井)前方確認出発進行。
実に気持ちがいいですね。
私がいますのは最新型の新幹線の運転席です。
さまざまな計器がずら〜っと並んでおります。
コンピューターでこう制御されているんでしょうね。
ジェット機のコックピットに来ているというような感じがします。
新幹線の技術のすごさというのはそのスピードもさる事ながら開業以来38年間列車事故による死亡者がゼロというその安全性にあります。
時速300キロ近くで走る車体で最も負担がかかるのが車輪です。
ここでは車輪を削っています。
誤差0.1ミリという精度で緻密な調整が行われる訳です。
更に列車のさまざまな揺れを吸収する空気バネと呼ばれる特殊なサスペンション。
そして高速で走る列車を緊急時に自動停止させるATCなど鉄道技術の粋が結集しています。
実はこれらの技術の原点は今から38年前に誕生した初代新幹線の時に確立されていました。
「プロジェクトX挑戦者たち」。
今日は日本が誇る世界一の超特急新幹線に挑んだあの不屈の男たちのドラマを再びお伝えします。
河辺さんはいくつになる?85です。
(三木)若いなまだ。
まだ若いですよ。
ハハハ。
こっちは90だからな。
そうですね。
松平精さん河辺一さん三木忠直さん。
新幹線を世に出した技術者たちである。
3人が出会ったのは今から55年前。
旧日本軍が解体した直後だった。
(汽笛)昭和20年暮れ。
人々は新しい時代に向かって動き始めていた。
戦前からの蒸気機関車が鈴なりの人を運んでいた。
焼け野原になった東京・国立に復興の要鉄道の技術開発に当たっている研究所があった。
ここに1か月前に採用されたばかりの男たちがいた。
かつて日本最高の頭脳といわれた英才たちだった。
旧陸海軍で兵器の研究開発に当たっていた技術者たちである。
その数1,000人。
戦後職を失っていた彼らをこの研究所の幹部が呼び集めたのである。
老朽化した鉄道に新しい技術を導入する役割が期待されていた。
この中に抜群に優秀な3人の男がいた。
海軍でゼロ戦の改良に携わっていた。
陸軍の大尉で通信技術のスペシャリストだった。
海軍で爆撃機の機体設計を任されていた。
3人の精鋭はそれぞれの専門分野を生かし鉄道の研究を始めた。
(踏切の音)しかし軍の技術者だった彼らの行く手には戦争の影が付きまとった。
昭和21年GHQは軍関係者の責任を問い公職から追放した。
運輸省の管轄下だった研究所もその対象となった。
1,000人いた技術者の半数近くが職を追われ路頭に迷った。
陸軍大尉だった河辺一も戦争責任を問われた。
河辺は軍艦の航行に不可欠な信号装置の開発を手がけた。
河辺は鉄道技術研究所を解雇された。
妻と1人の息子を抱えていた。
松平精は追放を免れた。
しかし松平の技術は生え抜きの鉄道技術者たちから否定された。
きっかけは当時度々起こっていた列車の脱線事故だった。
生え抜きの技術者たちは脱線の原因はレールのゆがみにあり対策は難しいと言っていた。
松平は異論を唱えた。
脱線は列車がスピードを上げた時に起こる振動が原因だと主張した。
海軍時代ゼロ戦の機体振動の研究者だった松平は自信があった。
しかし聞き入れてはもらえなかった。
度々ぶつかる松平に与えられた研究室は隙間風の吹き抜ける倉庫だった。
そして三木忠直は最も重い十字架を背負っていた。
技術者の良心を捨てた戦時中の記憶が断ち切れずにいた。
三木は海軍航空技術廠設計係の少佐だった。
終戦間際一機の戦闘機の設計を言い渡された。
それは特攻機桜花だった。
これはもう誠に私ら技術者の反対を押し切って造られた飛行機です。
桜花は着陸のための車輪もなく敵艦により速くぶつかるよう流線型の設計となった。
800機が沖縄戦など激戦地に投入され散っていった。
亡くなっていった若人に対して非常につらい思いをした訳です。
結局平和産業というものは鉄道が一番平和産業でこれは戦争に何ら関係がないと。
戦後も三木の苦しみは続いていた。
その時「聖書」の一節に出会った。
「凡て勞する者重荷を負ふ者われに來れわれ汝らを休ません」。
三木はクリスチャンになった。
三木は戦闘機を造る中で覚えた自分の設計技術を何としても鉄道のために使いたいと祈った。
そして11年が過ぎた。
昭和30年代に入ると日本の交通事情は大きく変わった。
飛行機が急速に台頭してきた。
三木たちは日の当たらない研究をこつこつと続けていた。
昭和32年新任の所長が着任してきた。
篠原武司は鉄道の可能性を世に訴える講演会をやりたいと言いだした。
三木松平そして公職追放が解かれた河辺にも声がかかった。
お互い何の研究をしているか知らなかった。
彼らは熱海の旅館に集まった。
そして自分たちの研究を突き合わせた。
三木は飛行機の形を列車に持ち込みたいと考えていた。
列車の車体を流線型にし軽量化すれば飛躍的にスピードが上がると訴えた。
松平は「車体の振動を吸収する台車を造れば脱線を恐れずスピードが出せる」と言った。
河辺は低周波の信号を使って列車を自動的に止める装置を研究していた。
「どんな高速でも安全面は保証する」と言い切った。
全員の研究が突き合わされた時一つの超高速列車の姿が浮かび上がってきた。
7時間半かかる東京〜大阪間が実に3時間で走れるとはじき出されたのである。
とにかく高速で走る立派な鉄道を造りたいという事だけはもう非常にはっきり持ってたからね。
東京〜大阪3時間ぐらいで何でもなく行けるんだぞと。
高速化には何でもないんだという事は盛んに言っておったけどね。
私はその信号の立場ですからそういう高速列車が途中で脱線したりぶつかったりしないという方法がまず考えますよね。
ほかの人たちはどうやって速く走らせるか。
私はどうやってうまく止めるかという事で。
まあ可能性があるという事になってじゃあ発表しようという事になった訳ですから。
鉄道研究所は国電の車内に講演会のつり広告を打った。
「東京〜大阪間3時間への可能性」と題した。
講演当日は朝からあいにくの雨だった。
こんな日に地味な研究の話を聞きに来る人などいないだろう。
皆諦めていた。
午後1時会場は超満員になっていた。
立ち見客も出た。
三木が壇上に上がった。
三木は夢の超特急構想をひと言ひと言かみしめながら話した。
「最高時速は200キロを超えます」。
その瞬間会場がどよめいた。
講演が終わると割れんばかりの拍手が沸き起こった。
三木たちは自分たちの目指す道は間違っていないと確信した。
興奮を抑えられなかった。
会場の熱気は間もなく全国へと広がっていった。
昭和32年当時東京〜大阪間3時間というのがどれほどすごい事だったのかご説明しましょう。
昭和20年代というのは蒸気機関車が主力でした。
これですと東京〜大阪間は11時間以上かかりました。
途中石炭や水を補給しなければいけなかったので大変な旅だったんですね。
昭和31年には東海道本線は全線電化されます。
蒸気機関車から電気機関車になったんですね。
こちら当時最も速かった…東京を朝9時に出ます。
名古屋はもう昼過ぎ。
2時近くです。
大阪へ着くのは夕方4時半。
もうこの日は仕事になりません。
一日移動するだけで終わっちゃいます。
3時間構想というのはこれの半分以下ですからね。
なんとすごいこの計画だった訳ですよね。
さて講演会をきっかけに新幹線開発プロジェクトは大きく動き出します。
昭和32年8月三木忠直には大舞台が待っていた。
うわさを聞いた国鉄総裁が三木たちを招いた。
御前講演である。
国鉄は飛行機や自動車に押され斜陽化がいわれていた。
打開策を探していた。
国鉄幹部を前に三木は高速列車の構想を説明した。
そして最後に総裁に向かってこう言い切った。
「この列車を造らない限り鉄道の未来はありません」。
国鉄総裁十河信二は深くうなずいた。
事態は急速に動き始めた。
十河は国会と運輸省に働きかけ昭和34年3月新幹線プロジェクトに予算がついた。
鉄道技術研究所は800人の技術者を総動員した。
三木松平河辺の3人が研究現場の先頭に立った。
松平精振動研究の成果を試す時が来た。
実用化に向けた最大の敵は高速運転時に発生するすさまじい振動だった。
その振動を車両を支える台車のバネで吸収してみせる。
技術者魂を懸けた。
それまで松平は台車の実験を繰り返してきた。
速度を上げると突然車輪は蛇がのたうつように揺れ始める。
蛇行動と呼ばれる現象であった。
松平は海軍時代異常振動によるゼロ戦の空中分解事故を解決した男である。
自分の技術を尽くして必ず蛇行動を止める。
心に誓っていた。
車両の高速化のためには是非とも蛇行動を止めてやろうというその気持ちがね。
何か実現させないと気が済まないという…そういうのありましたね。
松平のもとには海軍時代ゼロ戦の異常振動に立ち向かった後輩たちが集まり彼を支えた。
このころ雪深い北陸本線に河辺一の姿があった。
河辺は列車の自動制御装置の実験に明け暮れていた。
時速200キロを超えると運転手の一瞬の判断ミスが大事故につながる。
緊急時に列車を自動的に止める装置が不可欠だった。
河辺はレールに低周波の信号を流し走行中の列車の動きを制御するATCシステムを研究していた。
実用化のためにはどんな気象条件でもATCが作動しなければならない。
雪の降りしきる北陸本線で実験が続けられた。
新幹線の実用化のためには173の課題があった。
レールパンタグラフ車体強度。
どれも最高の技術が必要だった。
三木忠直は鬼になっていた。
三木は空気抵抗をぎりぎりまでそぎ落とす究極の車体フォルムを探していた。
部下に命じて粘土模型を作らせた。
しかし出来るそばから壊した。
「美しいものを作れ。
そうすれば空気抵抗は減る」と言い続けた。
助手を務めた田中眞一は三木の姿に圧倒された。
あのころ三木さんがよくおっしゃってたのはやっぱり格好のいいのは機械っていうのは抵抗も少ないんだって言うんですよ。
格好の悪いやつは駄目だって…。
高性能とかそういうものを追求する何て言うんですか…執念すごいですよね。
三木の頭には一機の戦闘機の姿があった。
海軍時代に自ら手がけた爆撃機銀河。
その流れるようなフォルムが浮かんでいた。
銀河はできるだけ車体の断面を小さくしてそして細くしたと。
銀河を設計した時のいろんな勉強したものが新幹線の構造体を設計した時の基本になっている訳です。
昭和36年の暮れ。
技術者たちは研究をまとめ上げた。
松平精はついに蛇行動を防止する新幹線用の台車を考案した。
そこには空気の圧縮を利用する空気バネが用いられていた。
画期的なバネだった。
河辺一の研究室はATCシステムの実用化のめどを立てた。
列車の停止減速を自動制御できる見事なものだった。
そして三木忠直は車体の基本プランを描き上げ国鉄本社に送った。
それを基に試験車両が造られた。
出来上がった車両を見た時誰もがその美しさに息をのんだ。
スタジオにゲストをお招きしています。
新幹線の車体を設計された三木忠直さんと自動制御装置ATCの開発を担当された河辺一さんです。
どうぞ。
よろしくお願いします。
三木さん美しい流線型の列車が出来ましたね。
(笑い声)
(国井)大変なご苦労があったようですね。
私が設計した銀河という爆撃機あれを基にしてね。
その流線型ですね…これ三木さんが造られた爆撃機銀河ですが…。
(三木)この頭ですね。
この頭とそれからここのパイロットの席。
これを基にして造ってよく似てる訳ですよ新幹線は。
頭とねそれからパイロットと。
河辺さん鉄道技術研究所を解雇された…。
そうですね。
戦争で陸海軍にいた連中がみんな官庁に入ってはいけないという事でしたからね。
一旦入ってすぐに首切られました。
どうされたんですか?お収入の方は。
上にいた人がいろいろ面倒見てくれましてね。
私が研究をしますね。
そうすると研究結果を研究所へ報告する訳ですよ。
研究結果を買い取るような格好になるね。
ですからねすぐにはお金は入りませんしそのお金がまたちょっぴりですからね。
だからやっと食えるっていう…。
(国井)生活やっぱり苦しかったですか。
それがつらかったですね。
河辺さんそのATC自動制御装置というのは…。
新幹線速いでしょ。
ですからねブレーキかけてから止まるまでがすぐには止まれませんですね。
かなり手前からスピード落としていかなきゃならない訳です。
ですからちょっとしたミスが大事故になりますから。
後から来る列車が前の列車にぶつからないように後から来る列車に対して信号を送りまして自動的に速度がだんだん機械的にも下がるように造った訳ですね。
それがATCな訳ですよ。
今日はその当時の思い出の品をスタジオにお借りしております。
こちら空気抵抗を調べるために作った実験用の模型です。
4種類ありますね。
(国井)三木さん懐かしいですか?これは。
(笑い声)
(国井)かわいいですか?これは。
今なでられてますけど。
これなんか見ますとねまだ四角いですねこの…。
まだ角張ってますけどこれは。
(三木)そうですね。
それからあと更に流線型にしようという事で前にスカートをつけたりなんかしてね。
異物があったらはね飛ばすという事で全部これスカートをつけた訳です。
(国井)でも美しいですね。
やはり美しいっていうものは…形の美しいものは速いんですか?速い。
それは空気抵抗が少ないという事。
神奈川県鴨宮に全長32キロのテストコースが完成した。
トンネル鉄橋カーブ。
本物と同じ走行条件がそろえられた。
直ちに全国からえり抜きの運転士8人が集められた。
試験走行では時速250キロに挑戦する事になった。
未知の速度に耐えられるか動体視力から脳波心拍数の変化まで細かく調べられた。
試験走行の日が近づいていた。
準備が進むそのさなか関係者に衝撃が走った。
三木が研究所に辞表を出したのである。
部下たちは驚き引き止めた。
三木は静かに言った。
「自分の技術は全て出し尽くした。
実験には絶対の自信がある」。
走り始めたらこれで計画どおりいくであろうという事で私の責任は大体果たせたと。
私は全然後の事は心配してなかったです。
昭和38年3月30日時速250キロに挑む日を迎えた。
試験列車の最後のチェックが入念に行われた。
松平精と河辺一は実験の現場責任者として試験列車に乗り込んだ。
緊張する関係者の中で2人は落ち着いていた。
午前9時40分試験列車は静かに動き出した。
車内では技術者たちが測定データの変化を固唾をのんで見守った。
台車の振動ATC信号の受信状態車体の受ける風圧。
出足はすこぶる順調だった。
試験列車は徐々にスピードを上げていった。
時速160キロ…170キロ…。
ついに時速200キロを超えた。
運転助手を務めていた桐村博之。
額に汗がにじみ始めていた。
電柱がパッパッパッパッ飛んでくるそれが非常に速く感じる。
それから枕木がダ〜ッと流れるように来ますからね自分の足元へダ〜ッと。
体そのものはどう言ったら…表現のしようがないんですがシュ〜ッとするようなこういう感じがしますね。
運転の総指揮を執る大塚滋は自信満々だった。
我々が成功したら新幹線が成功すると。
だからやらなきゃいけないと。
だからそこに失敗なんて事は入る余地がなかったような気がしますよ。
時速230キロ…240キロ…。
あと僅かだ。
誰もがそう思った。
その時松平グループに緊張が走った。
異常な振動が起き列車が揺れた。
緊迫した感じだったですね。
僕らも見ててあっと思ったですもんね。
異常振動が大きくなったら脱線しますからね。
モニターテレビが車輪の様子を捉えていた。
蛇行動が始まっていた。
試験は中止か。
誰もが一斉に責任者の松平を見た。
松平は動かなかった。
自分たちの台車は異常振動を吸収できる。
非常用ボタンを押そうとはしなかった。
速度を告げるアナウンスが車内に響く。
245…247…248…そしてついに目標の250キロに達した。
運転士が減速に入ろうとした。
その瞬間傍らの大塚が手を押さえ言った。
「もっと出せ」。
試験列車は加速を続けた。
9時46分。
時速256キロを記録。
電車の世界最高速度が刻まれた瞬間だった。
試験走行を成功させ列車から降りてきた松平は冷静だった。
突然大きな振動が起こるというような事ですね。
そういう事は全部征伐しちゃってましたからね。
理論的にも計算の上で当然の結果になったというだけの感情でしたね。
三木は256キロの達成の様子を自宅のテレビで見ていた。
やったという喜びみたいなのありました。
256キロを実現できたという事がね。
私の計算どおりいったと。
そういう満足感がありましたね。
記録達成の日から1年半後。
昭和39年10月1日。
東海道新幹線は開業した。
自分たちの技術を平和に生かすと誓った旧日本軍の技術者たち。
19年に及ぶ執念の研究が世界最速の新幹線を生み出した。
三木さんは自宅でテレビでご覧になってて?250キロというのは計算どおりでそこまではいくだろうと確実にいくだろうと思ってた訳です。
やっぱり振動は松平君に任せておいていいという事だった。
河辺さんは実際に試験車両に乗っていらして?脱線するとは思いませんですけどねやっぱりスピードが速いと怖いですね。
けれど終わった時には安心して降りてきましたね。
やっぱり230240…う〜ん250とこう…?やったと思いましたね。
三木さんは戦争中に銀河を造られあるいは桜花も造られたという事は…。
ああいうものはね戦争に関係するので私はもう平和に徹しようと。
そして日本の復興に役立てようというので鉄道が平和産業の最たるものだという事で鉄道を選んできました。
(国井)それにしましてもね今新幹線というと開業以来38年間列車事故による死亡者がゼロでしょ?それが最大のあれですよ。
私は信号ですからね。
列車の安全を守るのが仕事ですから。
開業以来死傷者が一人も出なかったという事は本当にもう新幹線だけですからね。
これはもう最大の誇りというか喜びというかね。
38年間に36億人を運んだという。
走行距離が13億キロ。
13億キロでね。
(国井)三木さんはすごいな。
計算されてるんですね。
三木さんは92歳。
92歳。
(国井)ますますお元気で。
あっいや…。
河辺さん新幹線の開発に自分で加わってやっぱりよかったと思いますか?私の一生の…最大の思い出といいますかね仕事といいますか。
これをやって…生まれてきてよかったと思いますよ本当に。
なお新幹線の振動対策を担当された松平精さんは前回の放送のあとお亡くなりになりました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
どうもありがとうございました。
久しぶりに再会した三木忠直さん松平精さん河辺一さんの3人はこの日新幹線と格闘した日々に思いをはせた。
御前講演の時は覚えてる?
(松平)覚えてる覚えてる。
僕がこうやってグラフを指してた写真があるんだよ。
「東京〜大阪3時間の可能性」という題でね。
あの3時間ってどこから出てきたのかね?
(河辺)あれはだって飛行機に負けないようにって事でしょ?東京〜大阪間を3時間で行けば飛行機に客を…。
飛行機に自分も対抗できると?そういう事。
篠原さんのあれじゃなかったですか?それはさ僕が計算したんだよ。
そうですか。
だけど新幹線がこれまで4分置きとか5分置きにこれだけ頻繁に動くとは思わなかったね。
(河辺)新幹線がね。
もう通勤線並みになっちゃった。
新幹線が生まれて35年がたった。
河辺さんのATC。
松平さんの空気バネ。
そして三木さんの描いた流線型のフォルム。
その技術は今も新幹線の中に生き続けている。
この間に初代の新幹線の車内に移ってまいりましたけれどもいかがです?シートも当時のままなんだそうです。
これまさしく僕修学旅行で乗った時のこのシートの柄で。
覚えていらっしゃいます?はい。
座った瞬間にバネがすごいっていうね何かこういう感じしますよね。
でも50年前と思えないぐらい座り心地いいですね。
もうちょっと硬かったのかなという気はしてたんですけど。
今と違うとこはこの真ん中のこの座席。
今の新幹線は真ん中の座席が少し広いんですよ。
そうなんですか。
いい席。
これよく見ないと分からないんですよね。
さすが礼二さんですね!いや〜話は尽きませんが。
今の番組の「プロジェクトX」ご覧になってどんな感想をお持ちになりました?当時はやっぱり周りの人が「3時間でそんな無理やろ」みたいな話やったと思うんですけどそれでもそういう外野の声に負けずに実現さしたというのがやっぱりすごい方々…。
明確な使命感があったと思うんですね。
日本をこれからよくするためにはいわゆる3時間で大阪へ行くという事も含めてそういう時代になるんだと。
日本はそうしなきゃいけないんだというその使命感。
それが彼らの中にあってだからこそいろんな苦労だとかそういう周りからの反対があってもやるんだという事でこれを造る事ができたんだなと思いましたね。
「平和に貢献する」って言ってましたもんね。
三木さんとか本当に…。
だからうれしかったんだと思いますよ。
今まで自分たちの技術だとか知識がそういった戦争だとか不幸な中で使われてじくじたるものがあったと思うんですね。
それを平和の中で世の中のために使えるというその喜びがものすごく皆さんにあったんじゃないのかなと思いますね。
でもあれをね試作を粘土で作ったじゃないですか。
あれを見せてね「これは違う」とがっとそぎ落とされる。
そぎ落とす事もよくできたなと思うんですけども。
妥協せずにぐっと粘土を削り「いやこうだああだ」というのもね。
ぎりぎりまでね。
だからやっぱりあの時代の人たちは徹底的にやられるんですね。
当時まだ計算機がなかったですから全部手計算なんですよ。
見せてもらったノートなんかもうびっちりですよ計算式が。
見てねこれちょっとできないでしょっていう。
日がな一日計算してるんですって。
これはちょっと私たちがコンピューターでぽんぽんってやると簡単にば〜っと計算が出てくる。
もう全然違いますね。
もう血と汗。
もう本当に血がにじむようなその…いわゆる努力があってあの空気バネであったりこの新幹線は成り立ったんだと思いますね。
それにしても当時そろそろ航空機とかあるいは自動車とかそういう中で新幹線はどういう状況だったんでしょうね?世界的に見れば新幹線というのはもう時代遅れになってきてたんですね。
それに投資をするという事は無駄だろという意味ですね。
ところがそうではないと。
日本といういわゆる国形を考えた場合に日本は山が多いですから空港そんなに簡単に出来ない訳ですよ。
そういった中で飛行機で長距離を飛ぶよりは新幹線という高速で運ぶ方が日本の国の形には合ってると。
当時国鉄の総裁だった十河さんであったりとか技術系のリーダーシップをとられた親子2代鉄道をやってこられた島秀雄さんだとかそういう方たちが明確にビジョンを持ってたんですね。
やっぱり鉄道なんだってその強い思いですよね。
この2人のリーダーシップがなければ新幹線は形にならなかったんだと思いますね。
技術者の強い思いとそして強いリーダーシップ。
それがあって初めてという事になる訳ですね。
新幹線が出来てなかったらって考えると鉄道ってこんな今のような発展は多分僕なかったような気がする。
新幹線が出来たからほかの鉄道も変わっていったという部分もありますもんね新幹線を中心として。
本当に4分5分の間隔で通勤列車並みに走ってる。
当たり前のように走ってる新幹線ですけど。
初代新幹線が日本のものづくりの中での存在意義といいましょうかそれはどんなふうに考えてるんでしょう?実は日本の場合は設計をするエンジニアたちだけがすばらしいんではなくてそれを支える職人さん部品1本を作る職人さんたちが全部エンジニアたちのやってる事を理解してそのものを作ってこうしたらもっとよくなるというアイデアを出せる国なんですね。
ネジ1本1ミリ違っても駄目な訳ですからそういうものを作る技術も新幹線が出来上がった事によってずっと継承されてきたと考えていいんですか?新幹線の頭を板金で作ってるんですよね。
あのお鼻の部分ですね。
だから手でトンカチ1本でたたき出してる訳ですよ。
それいまだに続いてるんですよ。
いまだにそれは続いてるんですか。
本当の最先端というのは人間の手で出来るものなんですね。
あるレベルに達した人たちは見た目で触ると分かるんですね。
やっぱりそれとエンジニアのいわゆる設計者のコミュニケーションがとれると「あっそういう事か」。
それが理論化される訳ですね。
だから科学と技術設計と現場というのは常に行ったり来たりが実は理想なんだと思うんですよ。
二人三脚でずっとそうすると日本の技術も発展してきたと。
技術というのはこう進歩していくものじゃなくてとんと上がるんですね実は。
ほう〜。
ブレークスルーするんですよ。
一気にそういう瞬間が…。
瞬間に上がるんですね。
だからそういう意味で言えば新幹線がまさに日本の技術レベルをぽんと上げる一つの起点になったんだと思いますね。
もっと我々感謝しないと駄目ですね。
もう一回改めて50周年を機に。
それでは新幹線以外の技術はどうなのか。
実は1964年というのはさまざまな分野で日本が世界を驚かせた技術革新の年でもあったんですね。
その一つ一つをここで礼二さんにご紹介頂けますでしょうか?よろしくお願い致します。
よろしくお願い致します。
本日は「NHKアーカイブス」をご覧頂きまして誠にありがとうございます。
車掌の中川家の礼二でございます。
今日は皆様を1964年に生まれた驚きの技術の数々を巡る旅にいざなわせて頂きます。
まず最初にご紹介するのはこちらでございます。
世界初のオールトランジスタ電卓でございます。
それまで計算速度が遅く巨大で扱いづらかった電卓に革命を起こし世界中の開発競争に火を付けました。
今やこんな小さなサイズになっております。
さあ続きまして次はYS−11でございます。
戦後航空機の研究開発は禁止され技術の継承が難しくなりました。
それを乗り越えて生まれた国産初の旅客機東京オリンピックの聖火を全国へ運んだのもこのYS−11でございます。
次はホンダF1参戦でございます。
無謀ともいわれた挑戦はあのカリスマ経営者本田宗一郎さんの「鶴の一声」で決まりました。
翌年には優勝を飾りその優れた技術で世界をあっとあっと驚かせました。
次はロータリーエンジンでございます。
このおむすび部分がうまく回らず夢のエンジンといわれて200年。
欧米の名だたるメーカーを抑え世界に先んじて量産化に成功したのは広島の小さな小さなメーカーでございました。
次はこちらでございます。
ユニットバスユニットバスでございます。
オリンピックに向けた日本初の高層ホテルの客室に短期間で取り付けるために考え出されたこの形。
開発したのは陶器メーカーでございます。
浴槽や洗面台に強化プラスチックを採用するなど当時の常識を覆しました。
次は終点ランドセルなどでおなじみの人工皮革クラリーノでございます。
私が今履いているこの靴もクラリーノでございます。
水に対する強さは天然の革を上回りその機能性で世界を席けんしました。
ご乗車お疲れさまでございました。
1964年に生まれた技術革新の数々いかがだったでしょうか。
私車掌の中川家礼二でした。
1964年の革新的な技術の数々礼二さんのご案内で見てまいりましたけども本当にいろんな分野のものがありまして。
発想すごいですよね。
知恵がね。
本当この中のもの全部が世界に影響を与えてますね。
それにしてもこれだけのものが生まれた背景といいましょうか当時。
これはどう考えたらよろしいですか?やはり戦争が終わってそういった航空の技術者だとか戦時中も含めて苦労していろんな技術を必死になって使ってた人たちがそれを社会に生かせる。
人々のために使えるという事で新幹線もそうですけどやはりこの時代の熱気。
日本をよくしていく。
平和になって自分たちの技術をそういうところに使えるんだというその気持ちがすごい伝わってきますねこれを見てると。
その恩恵を私たちが受けてきたという事になりますね。
技術っていうのはさっき言ったようにコストであったりいわゆる納期であったりそういうものの限られた制約の中で作る。
ですからそれをきちっと方向をつけてくれる経営者がいなければ駄目なんですね。
こういうものをやろうと。
これですから最初は全然お金にも何にもならないんですよ。
クラリーノなんかも全部そうです。
F1に関しても社長の「鶴の一声」で。
F1はですからやはりこれからホンダはちょうど自動車を造ろうとした時なんですね。
いろんな反対で自動車は買えばいいんだと。
日本で国産の自動車なんて造る必要ないと。
ましてホンダが「これから自動車造る」。
「何言ってんだ」っていう時代にホンダは造ると。
造るんだったら…オートバイでもう経験してるんですけど目標は世界最高レベルのものという事で「F1にいくぞ!」。
すごいですよね。
目標むちゃくちゃ高かったんですね。
それがやはりリーダーシップだし技術者たちが奮い立つ訳ですよね。
本当にやれるかっていう気持ちもありますけどトップが言ってんだからもうやらざるをえない訳ですよ。
やるぞっていう話になってくる訳ですよ。
いやでも本当に改めてこれだけのものが64年に爆発的に生まれていたと。
でも一方でいろんな今日本の技術閉塞感があるような感じがしていてその辺りどういうふうにして乗り切ったらいいか?その課題ですよねどんなふうに考えているか教えて頂けますか。
今の日本というのは新しい発想というのが出にくくなっている。
分野で固まってしまって鉄道屋さんは鉄道屋さんというふうになってきてしまうのでやはりそこをどうブレークスルーしていくか。
新しい分野の人たち新しい血新しい知識をその中に入れ込んでいく。
それをうまくコーディネートする。
そうしないと次のブレークスルーはないんじゃないかなと思いますね。
よく分かります。
我々の漫才に例えてもいろんな大先輩から2人だけで作るんじゃなしにいろんな人を入れてネタを作れって言われた事…。
今全く一緒やなと思いながら聞いてましてね。
どうしても固定化されてきてしまいますしね。
ですから新しい発想をどう受け入れるのか。
この時代にできたんですから今できないはずはないですよ。
もっと進んでますもんね今は。
ではどうなんでしょう?日本の新幹線が作った技術世界に出ていくとしたらどう生かしていけるんでしょう?日本は山が多いですからトンネルだらけなんですね。
新幹線のヘッドが長いのはトンネル入る時の音を軽減するためですよね。
ほかの国は必要ない訳ですよ。
欧米とかで使うと過剰品質になる訳ですよ。
日本の中で特化したものなんです。
そういう技術を持ってるという事ですね。
だから今の新幹線というのは実は世界中のどの国にもいろんな需要に応えられるだけの全てを盛り込んだ…。
騒音であろうが環境であろうがエネルギー消費率であろうが…。
全て詰まってるという事ですか。
だから要素はきちっと全部持ってる。
あとはそれをどう相手の国に合わせて。
日本人の最も得意なところですよ。
やっぱり相手を思ってっていうこれが文化としてある国ですからそういうものづくりというものが日本の中には今まであって新幹線も出来てきてる。
日本に合わせて造り上げられてきてる。
これをほかの国世界に合わせたものづくり。
グローバルではなくて相手に合わせたインターナショナルなどの国に対してどういうおもてなし気遣いでものを作るかっていう事が実はできる国なので世界の中では日本の持ってるこの感覚をもっと自信を持って伸ばしていくっていう事がこれからの日本にとって必要なんじゃないかなと思いますね。
今日はその原点のですね初代の0系の新幹線の前からそして中からお伝え致しました。
今日はありがとうございました。
ありがとうありがとうございました。
東京オリンピックが開催された1964年を見つめてきたシリーズ「1964」。
アジアの国々を回ったオリンピックの聖火リレーには平和への誓いが込められていました。
建設ラッシュに沸いた東京の繁栄とその陰で始まっていた地方の過疎。
相次いで創刊された若者向けの雑誌が表現した豊かさと反権力という時代の気分。
そして新幹線に代表される技術革新は日本をモノづくり大国へと押し上げていきました。
戦後日本の大きな転換点となったこの年に学び6年後のオリンピックに向けて私たちはどんな日本をつくっていくのでしょうか
2014/10/12(日) 15:05〜16:15
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「シリーズ1964 第4回 モノづくり大国への道」[字]

新幹線の開発陣には旧軍の技術者もいた。平和な国づくりに貢献するという思いだった。64年は車、電子機器などでもモノづくり大国へと歩む日本を象徴する技術が花開いた。

詳細情報
番組内容
「シリーズ1964 第4回 モノづくり大国への道〜新幹線を生んだ技術者魂〜」 【ゲスト】国立科学博物館主任研究官…鈴木一義,中川家礼二,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】国立科学博物館主任研究官…鈴木一義,中川家礼二,【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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