1209年創立のケンブリッジ大学。
800年以上の歴史と伝統を誇る名門大学です。
ニュートンやダーウィンなどの自然科学から哲学者のベーコンや経済学者ケインズなどの人材を排出。
ノーベル賞の全ての分野で受賞者を出しその数は90名に上ります。
市内に点在する31のカレッジから成るケンブリッジ大学。
学生数およそ2万に対して教職員の数はおよそ5,000。
最高の講師陣をそろえた大学の授業。
中でも「スーパービジョン」と呼ばれる少人数・対話形式が特徴です。
そんなケンブリッジで今注目を集めているのが…サッカー好きで冗談好きイギリス人男性。
マーティン博士の専門はフランス哲学と文学。
サルトルを中心とした人間の実在を思考の中心に置く「実存主義」が研究のテーマ。
難解な哲学的観念を身近な実例に置き換えた講義は学生たちに大人気です。
私は毎日の日常は哲学にあふれていると思います。
私は「哲学は役に立たない」「机上の空論」「学者だけのもの」という考え方から離れて哲学は実践的で日常の経験を理解するために役立つ学問なんだと言いたいのです。
マーティン博士が送る「ケンブリッジ白熱教室」。
哲学が扱う問題は人間の心理にも関連する。
だから哲学は心理学ともつながりが深いのだ。
大胆な仮説や奇抜な思考実験を駆使して現代人が心の中に抱えるさまざまな悩みや矛盾の解決方法を探る「実践的フランス哲学講座」。
サッカー界のスターデビッド・ベッカムを実存主義者と見立てた思考実験や世界的なポップスターマイケル・ジャクソンを例に「美しさ」に対する人間の執着心を考察。
更にFBIによる哲学者に対する捜査からフランス実存主義の歴史をひもとき私たちが抱える人生への不満不幸や嫉妬の解決方法を哲学を通じて探る。
マーティン博士は「生きているとはどういう事か」を実存主義を使って明らかにします。
第1回は「ベッカム実存主義」。
マーティン博士が考えたサッカー選手ベッカムがパリ生活の中で哲学的な考察を行う架空のブログを題材に実存主義とは何かを分かりやすく講義します。
(拍手)おはよう皆さん。
サッカーは音楽と同じで世界的な共通言語ではないか。
サッカーはどんな言語にも翻訳する事ができる。
「なんじ己のゴールに得点すべからず」。
単純明快。
でも哲学的にもそうだろうか。
これからの講義を通して私が発展させていく哲学的な観念とは大胆に言うと「哲学が扱う問題は人間の心理にも関連する。
だから哲学は心理学ともつながりが深いのだ」という事だ。
だからベッカムの心を知るのに最適なのはフランス哲学とも言える。
その「実存主義」とは何か。
私の考えは「認知的不協和」。
つまり私たちの内面と外界との対立に「表現」を与えるもの。
言いかえれば「生きているという事を明確に表現するもの」。
さてこの実存主義者はどこで生まれるのか。
誰もが精神的な危機を経験するが危機に陥る時かそれとも危機から脱出する時か。
ベッカムを例に哲学的な分析を行ってみたい。
実存主義とは戦争のような極端な状況においてではなくむしろ過渡期の状態に関係が深い。
だからベッカムがサッカー人生の最後パリでプレーしていた時期はニーチェなら「神像のたそがれ」と呼ぶであろう非常に過渡的な状態にあった。
誰もが生と死主観と客観現実と理想のはざまにあるようにベッカムも現役人生と引退後のはざまに立たされていたのだ。
ベッカムが自己をより意識するようになったのはパリだった。
だから私はパリにおけるベッカムのブログを始めた。
ベッカムのフランス哲学との出会いを説明しながらこの授業でもブログを利用していく。
2013年1月イギリスのサッカー選手デビッド・ベッカムはフランスのサッカークラブパリ・サンジェルマンへ移籍。
これをヒントにマーティン博士がベッカムに成り代わって書いたベッカムのブログ。
それはマーティン博士によるイギリス人なら誰もがよく知るベッカムを通じてフランス実存主義の神髄を解き明かす思考実験でした。
イギリスのスーパースターであるベッカムがフランス哲学の実存主義に出会う事で自分の存在や他者との在り方などにさまざまな思索を巡らすこのブログはイギリスのテレビや新聞にも取り上げられるほど大きな話題となりました。
ベッカムは2013年にパリに移籍した日に実存主義者になったわけではないと思う。
彼はそれ以前から実存主義者だった。
これが第一の危機。
ベッカムは退場処分となった初めてのイングランド代表キャプテンだと思う。
パリにいる間98年のワールドカップフランス大会で受けたレッドカードをどうして忘れる事ができるだろうか。
ここにいる人であの事件を覚えている人はいる?よしすばらしい。
実際その場にいた人はいる?よろしい。
私は動画サイトで見ただけではないという事だ。
よし君たちに質問だ。
1998年のワールドカップの優勝国は?フランスです。
よろしい。
決勝戦の相手は?ブラジルです。
よろしい。
よし先に進もう。
あの事件の事を知らない人のために説明しよう。
ずばり要約するとこうなる。
「愚かな報復」。
アルゼンチン戦でのベッカム退場のせいでイングランドは優勝を逃したという説もある。
ベッカムは当時の代表監督の判断で2試合は先発を外れベンチだった。
監督はベッカムが芸能人に惑わされていると疑っていた。
まあ実際にそうだったのだが。
監督は本質主義者でベッカムは純粋なサッカー選手でなければならないと考えていた。
だからサッカーに専念しない事で罰せられた。
試合の方は2対2で両チームがせめぎ合う。
そして後半ディエゴ・シメオネがベッカムに背後からタックル。
この時私はスタジアムのイングランド側にいた。
(実況)「おっと後ろからシメオネ。
シメオネにもこれはイエローカードが出ましたね」。
(解説)「ただこのあとですね」。
(解説)「…ですからね」。
(実況)「ええ。
後ろからつっかけられてそして…。
あっ!若さが間違った方向に出てしまったベッカム」。
そうこういう事だったんだ。
シメオネが元凶。
シメオネに対する報復によるレッドカードはそれだけでもサルトルのこの一文を正当化するのに十分だったと思う。
「考えの及ぶ全ては…」。
20世紀のフランスの小説家であり哲学者でもあったジャン=ポール・サルトル。
代表作は「存在と無」「弁証法的理性批判」「嘔吐」など。
自分自身の存在である実存を思想の中心に置く実存主義を提唱しました。
この一文すばらしい一文。
「失敗する運命にある」。
「失敗する運命にある」いいね。
これは古典的な訳だと思う。
退場事件についての私の見解は私がパリにおけるベッカムのブログとして書いたがベッカムは誰もがやるように古典的な否定へと走る。
ベッカムの報復は意図的か。
サルトルならこう言うだろう。
「あのキックは意図的だ。
私たちの行動は故意や嫉妬も含めて全て意図的で自発的なもの。
『情熱の犯罪』などというものは存在しない」。
フランスではかつて「情熱の犯罪」という言い訳が犯人弁護に使われていた。
「すまないこの男を撃ってしまった。
私の妻も。
2人とも死んでしまった。
でも私はあの時情熱的な状態だった。
だからしかたない」。
裁判官はこう言う。
「分かったそれならいい」。
「ありがとう裁判官殿」。
言いかえれば「自制できなかった」と言っているだけなんだ。
はいジェイク何か?先生はサルトルは恋に落ちたり嫉妬心を抱く事はコントロールできると考えていたと言いました。
私にはそれは不公平なものに思えます。
なぜなら嫉妬心や恋に落ちる事をコントロールする知識を持つためにはフロイトが言う自分自身の幼少期のトラウマに自分で気がついていなければならないからです。
もし自分のトラウマに気付いていなければ恋や嫉妬心をコントロールできる可能性にも気がつかないからです。
これについてどう思われますか?君はとても強いフロイト派の立場のようだ。
精神分析の創始者で独自の神経症治療をはじめ無意識と性的衝動を重視した精神分析学を確立。
文学や芸術の領域にも大きな影響を与えました。
自分自身の神経症について気付かせれば感情をコントロールできると言っているのかい?そうです。
私が嫉妬心を抱く時それは本当にコントロールできないものか?サルトルは感情について初期のエッセーではかなり強硬な態度をとっているがこれについて曖昧な見解を示している。
一方で面白い言葉を使っている。
例えば情熱的犯罪は絶対に認めていない。
でも彼は「共犯者」という言葉を使っている。
私たちは自分たちの感情の共犯者になるという。
彼の議論の基礎は報復は自発的なものだ。
ベッカムがシメオネに対して足をあげた事を考えてみると「なんて事だ。
私は知らなかった。
私のコントロールを超えていた」などはないという事。
だからサルトルならこう言うだろう。
「ある時点で君は報復したいという欲望の共犯者になった。
報復をしたいという自発的な欲望に」。
ある意味純粋に自発的な感情などはない。
恋に落ちる事は偶発的な事。
「これは重力のようだ」。
でもある時点で重力と共謀した事になる。
ベッカムはこの件について安易な逃げ道を使うか?彼は蹴らずにいられたか?そうすればイングランドは優勝できたのか?ベッカム実存主義者はこう答える。
「そうかもしれない」。
でも同時に彼はこれについての責任を受け止める。
ベッカムはフランスサッカー界のスタージダンとの対談を行っている。
ジダンが尋ねる。
「過去を振り返ってみてもし何か変える事ができるなら何を変える?」。
ベッカムは答える。
「何も変えない。
人に『アルゼンチン戦でのレッドカードを変えたいか?』と尋ねられるがもしあの事が起こらなかったら私は今の自分のような選手になったか?答えはノーだ。
後悔している事は何もない」。
ベッカムは言う。
「私は私自身の言動の作者だ。
私は私の行動である」。
彼は逆説的に自分の失敗を誇りにする。
言いかえれば「失敗も意図的であるように振る舞わなければいけない。
そうすればそれが自分の物語の一部になる」と言っているのだ。
この退場事件の結果としてベッカムは民衆の敵となる。
イングランドに戻ると彼は敗退の責任を負わされている事を知る。
そこで彼は自問する。
「全ての人が自分を憎んでいるのか?私はこの全てにおいて悪者なのか?」。
そして彼は言う。
「そうだ」。
彼は自分がこの事件の原作者である事を主張するのだ。
ブログの中で私は意地悪な事をした。
チームの心理学者がベッカムに「失われた時を求めて」を渡す事を想像したのだ。
中でも「無意識的記憶」や「プルースト効果」と呼ばれる嗅覚や味覚から過去の一連の記憶が呼び覚まされる心理現象が知られています。
「失われた時を求めて」は悪名高くとても長い。
迷宮のような蛇のようなそしてもちろん複雑に組み込まれた構文がある。
ベッカムは小さなマドレーヌを紅茶に浸すシーンを読んでいる。
ベッカムは言う。
「何が何だかさっぱり分からない」。
そして彼は心理学者に言う。
「翻訳されたものはないの?」。
「ベッカムこれは英語で書かれたものだよ」。
ベッカムは言う。
「生意気な野郎だ」。
私はベッカムがプルーストの無意識的記憶の概念に共感したと考える。
つまり1回のレッドカードで彼はキャリアを通しての全ての他のレッドカードを思い出すと。
でももしベッカム実存主義者がプルーストの「失われた時を求めて」を翻訳すればきっとタイトルを書き直すだろう。
「ロスタイムを求めて」。
マーティン博士が専門とする「実存主義」に相対する概念は「本質主義」。
物事の本質つまり変化しない核心部分が現実存在に先立つものとされる哲学概念。
古代ギリシャ哲学から続く本質主義に対して実存主義は20世紀に入り個人を哲学的考察の対象にしようという機運の中から生まれた概念でフランスの哲学者サルトルなどによって広められました。
アルベール・カミュ。
「異邦人」「ペスト」などの小説を書いた作家であると同時にフランス哲学者だったとも言える。
不条理の作家として知られるフランスの小説家アルベール・カミュ。
その作風は実存主義とのつながりを指摘されています。
1957年史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞。
カミュはかつてゴールキーパーだった。
どれがカミュか分かるか?大きな帽子とスカーフをまとった男性がカミュ。
とてもとても若い。
カミュは17歳の頃結核によってサッカーを諦めざるをえなくなる。
だから偉大な哲学者・作家はフランスサッカー界における喪失によって誕生した。
もちろんサッカー界での喪失は哲学界の獲得という事になった。
カミュにとって哲学はサッカーの代替品のようなものだった。
例えば彼の書いた戯曲においてもサッカーを連帯や連結の比喩と見立てている。
一方ジャン=ポール・サルトルカミュの偉大なライバル。
サルトルはもともとボクサーだった。
決闘する者哲学的意味でも対決していた。
彼は全てを敵対的に見る傾向があり対立的だった。
私はあえて彼の小難しい言い回しを使おうと思う。
私はこの言い回しがとても好きだ。
なぜならこれはとても醜くて最もかわいげのない言い回しだと思うから。
「敵対する相互関係の二元的実践」。
ところでサルトルがこれを書いた時彼が何を指して言った言葉か知っている人はいる?サルトル晩年の作品の中にあったと思う。
「弁証法的理性批判」。
彼が実際には何の事を言い表していたのか分かる人はいる?ある人は「サルトルは結婚生活の事を言っていたと思う」。
はいどうぞ。
つまらないかもしれませんが彼は相互依存の事を言っていたのでしょうか?相互依存。
いいねえ。
「醜なしに美はありえず美なしに醜はありえない」という言葉があったと思うのですが。
なかなかいい考えだ。
しかし私は君たちが何を言っても「そうだサルトルはその事を指していた」と言うつもりだ。
なぜならこれは世の中の全てのものに対するサルトルの偉大な表現方法の一つだからだ。
だが実際には彼がこの言葉を使ったのは具体的な場面。
「敵対する相互関係の二元的実践」と言ったのは何についてか?彼が実際に見ていたのはボクシングの試合。
「これだ!二元的実践が私の目の前で起こっている」。
対決をこう表現するようではサルトルはスポーツ記者になれなかったと私は思う。
この二元的実践は奇妙にもマンチェスター・ユナイテッドの監督だったアレックス・ファーガソンと同じくマンチェスター・ユナイテッドの選手だったデビッド・ベッカムの対立の中に同様のものを見てとる事ができる。
1992年マンチェスター・ユナイテッドのトップチームにデビューしたベッカムは2003年にスペインのレアル・マドリードに移籍するまでの11年間在籍。
その時に監督を務めていたのがファーガソン元監督。
1986年から2013年までの27年間にリーグ優勝13回欧州チャンピオンズリーグ制覇2回を達成した名監督。
ベッカムとファーガソンの2人は10年以上にわたって国内外で数々のタイトルを獲得しました。
ファーガソン監督にとってベッカムは特別な選手。
ファーガソンが強く意識していた選手だったのだろう。
これは本当の話だがある時学生がやって来て私に尋ねた。
彼はあまり授業に出たくなかった。
だから階段で私と擦れ違った時にこう言った。
「ベッカム実存主義とは何なんですか。
簡潔に要約してもらえますか?」。
私は否定命題を定義する事で簡単に言えば逆説的に要約した。
「アレックス・ファーガソンはベッカム実存主義者ではない。
だからファーガソンは保守的な本質主義者だ」。
ファーガソンの自伝の中のベッカムの章のタイトルが「私は告発する」である事は驚く事ではない。
ファーガソンは次のように書いている。
「ベッカムは私が監督をした選手の中で有名になる事を選びサッカーの試合の外で知られる事を自分の使命とした唯一の選手だった」。
ファーガソンは自伝の中でベッカムについてさまざまな不平を述べている。
彼はベッカムがチームの夕食会の席で帽子を脱ぐ事を拒否したと主張する。
ファーガソンは言う。
「ベッカム帽子を取りなさい。
君はレストランにいるんだ」。
「ベッカムは拒否した」とファーガソンは書いている。
試合などに野球帽をかぶっていく選手はいたがチームの食事会で帽子をかぶり続ける事でこれほど反抗的な態度を示した選手はいなかった。
ファーガソンは意図的にデカルトの著作の一節を思わせるように言ったのではないかと私は感じている。
デカルトとはフランスの偉大な哲学者だ。
近代哲学の父として知られます。
自己を考える主体としてその存在を定式化した「我思う故に我あり」は哲学史上で最も有名な命題の一つです。
本の中でデカルトは窓の外の道行く人々を見ている。
デカルトの言葉を引用しよう。
つまり帽子とコートを身につける事で人間ではなくただの「自動機械」だと捉えている。
これは興味深い見方だ。
ファーガソンもデカルトのようにチームの選手たちはファーガソン監督によってプログラムされた自動機械だと考える癖がある。
ファーガソン自身は人形使いだ。
あのベッカムでさえもファーガソンにとっては自動機械だ。
ファーガソンはベッカムをチームの象徴だと述べている。
つまり「もの」みんなのもの。
一方ベッカムは帽子をかぶり続ける事で「私はあなたのものではない。
私は絶対にものではない」と言い張っている。
明らかにベッカムはファーガソンのデカルト派的な態度に対してデカルトとほぼ同時代の哲学者でより神学的なパスカルと同様の考えを持っていた。
17世紀のフランスの自然哲学者ブレーズ・パスカル。
早熟の天才でその才能は多分野に及びました。
「人間は考える葦である」などの名文句や「パンセ」などで知られデカルト流の理性を通じて真理を探究する姿勢を批判し人間の無限の可能性を思索の中心に置きました。
パスカルは「人間は考える葦である」と表現した。
パスカルは初期の計算機を発明したが人間は単なる機械以上のものであると考えていた。
「パンセ」の一節でパスカルが機械論的なデカルト派の観点を批評している。
パスカルはこう説く。
「自己」とは哲学者が見つめている道行く人々の一人。
その人はパスカルの考えでは窓から見つめる人に認識されたいと心の中で叫んでいる。
彼は知られたくてたまらない。
パスカルはこう書いている。
ざっと訳すと「私たちは他人の心の中にある想像上の人生を生きたいと願う。
それ故に私たちは存在しているように見えるよう努力する」。
だがこの最後の言葉は訳すのが難しい。
普通は「それ自身に現れる」と訳されるがそれでは不十分だと思う。
だから「存在しているように見える」だろう。
もう少し意訳すると「実際とは違う姿になる」かもしれない。
ファーガソンあるいはデカルト派の人々はこれを次のように解釈すると思う。
「常に自己アピールというショービジネスのリスクが存在している」。
「ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドの伝説にもなれたはずだ」とファーガソンは言う。
でもベッカムはあの夜帽子を脱ぐのを拒否したのと同じようにファーガソンに反抗した。
ファーガソンはベッカムに神や伝説になってほしかった。
単なるサッカー選手ではなく生きる伝説理想を体現した「ザ・サッカー選手」になってほしかった。
でも同時にマンチェスター・ユナイテッドには服従するものつまり「もの」であってほしかった。
つまりファーガソン支配なのだがベッカム実存主義者は自然とこの専制君主的な思考に反論する。
さまざまな人とつながり知名度を確立していったベッカムは私たちの時代の偉大な異端児反逆者だと私は主張したい。
先生はファーガソンがベッカムを理想のサッカー選手にしようとしていた事を話されました。
これはサルトルのカフェーのウエイターの事を思い起こさせます。
自分の役割をどのように演じるかその場合本質主義者ではなく…。
誰か彼女が言っているカフェーの一節を知っているか?「存在と無」のカフェーのウエイターのシーン。
サルトルはカフェーでパリッとした服を着たウエイターを見ている。
ウエイターは何をやっているのか。
なぜなら彼は常に大げさな演技をしているように見えるからだ。
ウエイターの身振りは誇張されていて歩き方は大げさだ。
サルトルは言う。
「これは何だ?」。
「彼は自分が何をしていると思っているのか?」。
「彼はウエイターである事を演じている。
そうではないか?」。
サルトルはある意味これは良くない事だと思う。
なぜならウエイターは職業と自分を同一視しているからだ。
これはばかげている。
なぜなら彼は他の誰を演じろというのかどう見せようが結局のところ彼はウエイターだ。
その役をきちんと演じていないと人々はがっかりする。
だから彼がウエイターの役を演じるべきだというのは理にかなっている。
でもサルトルはウエイターが自分のやっている事に気付いていないと主張する。
もちろん彼は実存主義ウエイターである可能性もあって彼はウエイターとして自分が演技をしているという事実に十分気付いているかもしれない。
でもベストを着て盆をさげ堂々たる態度をとるなどというのはそれほど悪い事には思えない。
これはサッカー選手への批評と似ているという事かな?そういう事です。
ベッカムはサッカー選手としてだけでなくショービジネスの世界にもいるという事を先ほど話されましたがそれは彼がサッカー選手として大げさな演技をしていなかったから。
チームでうまくやるためには意図的にサッカー選手らしく振る舞うべきだった。
そうだね。
ここでファーガソン監督の自伝に戻ってみたい。
「空飛ぶスパイク事件」。
何が起こったか知っている人もいるが知らない人もいると思う。
恐らくベッカムとファーガソンを除いて誰も実際に何が起こったか知る人はいない。
でもファーガソンは負けた試合のあとベッカムに腹を立てていたという。
これも自伝の抜粋だがベッカムはダッシュではなくゆっくりジョギングで戻ってきたからだ。
ファーガソンはフラストレーションがたまった中で更衣室の床にあったスパイクを蹴ったらしい。
スパイクはベッカムの方に飛んでいき目をとらえそうになりながら彼の左目の上の額の一部を小さくえぐった。
ファーガソンのその後の説明では翌日試合を分析するために2人が顔を合わせた時「ベッカムは座って私の話を聞いていたが彼はひと言も発しなかった。
ひと言も」と言う。
ベッカムは私の解釈では「非言語的な反論」をしている。
ベッカムの心の中の申し立てはこれは君たちも知っているだろう。
「地獄とは他人の事である」。
もちろんこれはファーガソンとの関係についてだ。
「地獄とは他人の事である」とはサルトルの戯曲「出口なし」で語られるセリフ。
他人から何者かとして見られる事は私を客体化つまりもの化する事。
そのような他人との関係は避けられず地獄のような苦しみのもとであるとしたサルトルの表現です。
ベッカムは実際何が起こったかなどスパイク事件について話していない。
ただ彼はとてもかっこよくばんそうこうを貼り人々に写真を撮らせる。
ベッカムには他人の存在が必要だった。
相互依存だ。
他人への依存という事実は私たちにとっての永遠の苦悩永遠の謎でもある。
言いかえればベッカムの傷は非常にサルトル的で哲学的な傷だ。
サルトルは「存在と無」の一節で言っている。
引用すると「そこで可能な態度は二つしかない。
一つはサディズム」。
もう一つが何か。
そうマゾヒズムだ。
あるいは2つのコンビネーションも可能だ。
でもそれだけ。
君たちの選択肢はこれだけ。
そしてこれはあのすばらしい一文「敵対する相互関係の二元的実践」を更に明確化する事ができたと思う。
でも傷は表面的なものにすぎない。
マーティン先生はベッカムが良好な人間関係を築いたファーガソン監督を本質主義者だと表現しましたがなぜベッカムは今でもファーガソンの事をとても好きなのだと思いますか?ベッカムと監督は違っているにもかかわらず仲が良かったのはなぜですか?「とても好き」というのはそれを正しく表している言葉だろうか?私にはこれがむしろある種の二元的実践だという気がする。
そこには相互依存があってお互いに引かれているがこれはある意味対立の美徳によってだ。
チームが最高の状態でプレーしていてもサッカーチームが理想郷である事はない。
試合相手との対決と同時にチームの中にはある種の対立が起こっている。
ここで二元的実践に関する事で言えばある時点で相手が含まれ保持され維持される。
そして解決はされない。
偉大な統合あるいは何らかの調和の中でこの弁証法を解決する時というのは創造性を失う時だ。
ロイ・キーンがテレビ番組に出てマンチェスター・ユナイテッドの歴代の選手からベストイレブンを選んでいてキーンは他の選手よりも先にベッカムを選んでいました。
ファーガソンに立ち向かったからという理由です。
それがとても重要だと言っていました。
それは面白い。
ロイ・キーン。
彼を知らない人のために言うと彼もマンチェスター・ユナイテッドの名選手だった。
ファーガソンとベッカムはにらみ合っていて一人がスパイクをもう一人の顔に向かって蹴ったりしているがそれにもかかわらず彼らは常に相手を過剰に意識していた。
2人の話の結論を見てみよう。
私はファーガソン監督がハーバード大学で講義をする契約をしたと聞いた。
私自身にも言える事だが恐らく全ての講師は多少デカルト派言いかえればファーガソン派の傾向がある。
でもベッカム実存主義者は講義をするだろうか?答えはノーだ。
なぜなら私は実際ベッカムにケンブリッジでの講義を尋ねたところ彼はノーと言った。
ではここでファーガソンの自伝に戻りたい。
これはファーガソンがベッカムに説教をしたあと「ベッカムは座って私の話を聞いていた。
彼はひと言も言わなかった」。
ファーガソンは言う。
「私たちが何の話をしているか分かっているのかと私は尋ねた。
だが彼は返事すらしなかった」。
これはとても面白い。
想像してみるとファーガソンが顔のすぐ前でどなっている。
ベッカムはただそこに座っている。
これは普通できない事だ。
これから考えるのはベッカムの本質つまりエッセンスについて。
もちろん私はベッカムの形而上学的な精神の話をするわけではない。
ボトルに入ったベッカムの香水の話だ。
これを見せよう。
これがベッカムのエッセンス。
後で試してみてもいい。
私は選ぶとしたらクラシックな香りの方が好きだ。
宣伝文句を見てみるとベッカムの「エッセンス」を特徴づける事ができる。
「ピリッとしたグレープフルーツの印象とトンカ豆の残り香。
輝くラベンダーは言うまでもない」。
でもこの香水の存在は実存主義の根本に対して背後から反則タックルを見舞うようなものではないのか。
ベッカムのフレグランスは言いかえると本質主義の再確認。
これまでの話と矛盾のように見える。
実は本質主義者であるベッカムが人間の魂について遠回しに語っているのか?人間のDNAあるいはファーガソンやホドルの考えに従っていて実際の彼はファーガソン派の立場にいるのか?この香水に付随する宣伝文句によると「エッセンスは男を定義する」。
私はこの会社に私のスポンサーになってもらいたいがまあどうでもいい。
「エッセンスは男を定義する」これは少し同語反復のようだと思う。
しかしよく考えてみるとこの香水がやや遠回しに指摘しているのはこれはベッカムにとって単なる付け足しにすぎないという事だ。
「エッセンス」はデリダの言葉を使って言いかえると「代補」なのだ。
1960年代後半から70年代にかけてフランスで誕生したポスト構造主義の哲学者。
「私たちの哲学の営みそのものが常に古い構造を破壊し新たな構造を生成している」という「脱構築」の概念を提唱しました。
これは定義というよりは架空の世界である。
更に言えばエッセンスは何の付け足しなのか?その答えは「存在」存在するもの。
こう考えるとサルトルの粋な一文に戻ってくる。
それは実存主義の要約。
存在と無。
エッセンスは言いかえるとサルトルをベッカムを通して読み直しているようなもの。
つまり本質を例えばアフターシェーブ後知恵と捉える事もできる。
厳格に自由選択のものであってそしていい香りがする。
更にそれは例えば靴下とは違っている。
「エッセンス」が言っている事は私たちを靴下やスパイクのようなものと比較してみろという事だ。
靴下は靴下でしかありえない。
スパイクはスパイクにすぎない。
これはサルトルの言葉で言う「即自存在」の領域にある。
でもベッカム自身はどうか?「対自存在」。
ベッカム自身は対自存在だ。
彼は常にサッカー選手以上かサッカー選手以下である。
彼を定義する事はできない。
サルトルが提唱する即自存在とはそれが何ものであるかを規定されて存在しているもの。
いわば本質。
これに対して対自存在は何ものであるかを規定されず自己に向かい合い自己をつくるもの。
つまり人間は対自存在にあたります。
私とここにあるものを見比べてほしい。
この小さなリモコンこれは「もの」であってこれには役割があって機能する。
反対に私を見てみると私の機能は何なのかはよく分からない。
私の役割は何なのか?人間個人の存在理由についてはある程度の不確かさがある。
対自存在は「もの」には適用できない。
ベッカムにも自分の経歴を書いた経験があるに違いない。
自分とは何か人との関わりとは。
何を書くにしてもパスポートと合わせるだけではぴったりこない。
だからサルトルこの場合はベッカム実存主義者が言える唯一の事は彼が何であるにしても彼は「もの」ではないという事だ。
サルトル「存在と無」からの引用を挙げると…「私は私であるものではなく私は私でないものである」。
最初は少し混乱しそうだが「存在と無」の中にスキーヤーについての一節がある。
あるスキーヤーは唯一無二の存在になりたがるがそうなる事ができない。
サッカー選手について同じ事が言える。
ファーガソンの考えに反して「サッカー選手の本質」は存在しない。
私たちのアイデンティティーとは何か私たちは何なのかという問いの結論はないままである。
さて君たちは知っているだろうか?ベッカムは中国プロサッカーリーグのための親善大使でもある。
これは変ではないか?私は中国サッカーリーグの親善大使は外国に行くのが普通で中国には行かないと思う。
でもこの事が彼の脇腹に入れられた中国語のタトゥーについて説明してくれる。
ベッカムはたくさんのタトゥーを入れているがタトゥーは意味を持っていなければならないと言っている。
ただそれがどんな意味なのかは語っていない。
むしろ謎めいている。
私はベッカムは話す言葉よりも書かれた言葉を好んでいるのだと思います。
彼は全てを自分自身に書いています。
ばんそうこうを額に貼ったのも言葉の一つだと言えますが何もしゃべりません。
それは面白い。
ベッカムについてのとても異なった考え方だ。
静かに座っていて何も言わないベッカムは実際には何も言う事がないというのは正しい解釈とは言えないからだ。
だから君は正しい。
まるでブッダのようなものではないか。
そこに座っている仏像があって賢く澄ましているが何も言わない。
私はベッカムをそのように見ている。
ベッカムの体をよく見て彼の体に書かれた言葉を集めると恐らく彼が今まで発した全ての言葉より多くの言葉を見つける事ができる。
少し誇張しすぎかもしれないが何を言わんとしているかは分かるだろう。
「私はそれほど雄弁ではない。
私の体が私の代わりに発言する」。
私はこのタトゥーを中国語の話せる人に確認した。
この大学には廊下のすぐ先に中国語の専門家がいる。
彼女は出典を見つけ出し私に教えてくれた。
孔子の言葉。
大まかに訳すとこうなる。
ベッカムはこれで何を意味していたのか?全ては運命づけられているのか?それについてできる事は何もないのか?生から死までずっと?これをベッカムの実存主義的発言と比較してみたい。
「私には過去への責任はない。
私は未来の事しか頭にない」。
もしかするとベッカムは中国サッカー界の事を言っているのか。
しかしこれによって謎めいたサルトルの考えを理解する事ができる。
「人はその人たるものではない。
人はその人でないものである」。
言いかえると「私は過去に縛られてはいない」。
自分を縛るものは幼少期のトラウマや自分の階級。
要は私は何か他のものになる事ができる他のものにならなければならない。
こうしてみるとベッカム実存主義者は未来志向だ。
彼は少なくともこの原理をサッカー界に適用している。
これはベッカム実存主義者が楽観主義者だという事を意味するのか?確かにベッカムの周りはインフレを起こす傾向がある。
例えば彼のユニフォームの値段。
シャンゼリゼ通りのショップに行った時値段を見たら100ユーロ以上だったと記憶している。
ベッカムの話し方も重要な点だ。
誇大広告されているだけでなくベッカム自身も誇大広告をしている。
例えばジダンの話をしながらベッカムはこう言う。
「彼は最も偉大なサッカー選手だ」。
可能性はある。
「彼は最も偉大な人間だ」。
ベッカムの妻は何と言うだろうか?とにかく重要なのは彼の大げさな褒め言葉を使う癖は18世紀のヴォルテールの偉大な哲学小説「カンディード」からそのまま取り出したようなものだと思う。
18世紀のフランスの哲学者であり作家文学者ヴォルテールことフランソワ=マリー・アルエ。
啓蒙主義を代表する人物の一人。
1759年に発表した「カンディード或いは楽天主義説」はヴォルテールの冷笑的な視点の下天真らんまんな主人公カンディードにあらゆる不幸が襲いかかる風刺小説です。
「この最善なる可能世界においてはあらゆる物事は皆最善である」。
これはヴォルテールの作中の哲学者のセリフ。
そしてこれはヴォルテールのある哲学的一派の過度の楽観主義的思考に対する風刺的な見解だ。
つまり真理へ向かう道筋を提供できると主張する哲学をちゃかしているのだと思う。
これはブログの中でベッカムがどのように考えたか想像したものだ。
「完璧な日チェックOK。
完璧な妻チェックOK。
完璧な子供チェックOK。
完璧な街チェックOK。
完璧な髪形もちろん」。
ベッカムのメンタルトレーナーが皮肉を言う。
そしてベッカムはこう答える。
「そのとおりだ。
全くもって賛成。
本当に先見の明があったに違いない」。
本当のところ私はベッカム実存主義者の楽観主義は無条件で曇りのないものではないと言いたい。
イングランド代表チームでしかもキャプテンにまでなった選手がどうしてこんな陽気な思考をする事ができるだろうか。
1966年以降の代表選手には無理だ。
66年のワールドカップにいた人はいる?私以外誰もいない?それは最後にイングランドがワールドカップで優勝した時だ。
唯一ワールドカップで優勝した時。
1975年生まれのベッカムにとって代表人生は失敗が繰り返される悲惨なものだった。
だからベッカムのキャリアの核心はユートピア的理想主義を批判し落胆から逃れられない事を知らしめる事だったと思う。
はいどうぞ。
人間は物事を過大に評価する傾向があると思いますか?私たちはベッカムを過大解釈しているのではないかという事だね。
君は正しい。
私たちは他人を持ち上げる傾向がある。
サルトルは「全ての人は神になりたいと思っている」と言ったがもっと重要なのは私たちにはベッカムのような神が必要だという事だ。
ベッカム実存主義者からの最後のレッスンは多様化。
「自分らしくあろうとする」という罠には陥らないように。
「本物らしさ」は妄想だ。
ベッカム実存主義者は「私は変身しなければならない。
そうでなければ死んでしまう」と言う。
これまでの考察においてベッカムは沈黙の哲学者だった。
ではベッカムはどのように自分を表現するのか。
私はこのように主張したい。
彼は「髪形」を通して語る。
私はこれを「毛根哲学」と呼びたい。
ベッカムが問いかけているのは「どのスタイルがお好みか?」。
私たちには選択肢がある。
際限なく選択肢がある。
これは奇妙な髪形。
本当のところこれはちょっと怖いと言うべきだ。
まあいい。
もう少し見るとこれは丸刈り。
これがベッカムの言いたい事だ。
全ての髪形は適正で同時にそうではない。
常に自己を再発明せよ。
全ては流動的で予測不可能だという事だ。
サルトルに言わせれば「偶然性と不確定性」を持ったヘアスタイル。
ファーガソンも不平を漏らしていた次々に変わる髪形。
次にどんな髪形が登場するのか誰が知っているだろうか。
髪形は自由主義の表明のようなものだと私は見ている。
でも私は髪形がある種の詩でもあるとも考えたい。
ベッカムに合うのはフランスの詩人ランボーだ。
もしベッカムの髪が語るならこの言葉を引用するだろう。
「見者の手紙」として知られるランボーの手紙からの引用だ。
ベッカム実存主義をまとめてみるがそれは私たち全員にも当てはまると思う。
ベッカム実存主義者それは永久に満たされない。
同時に永久に新しいチャンスを求め続ける。
ゴールを狙い続ける者だ。
ベッカムは哲学の古典的な命題である「肉体と精神の対立」を哲学者と同じレベルの哲学によって葬り去っている。
そんなベッカム哲学は見た目や行動で表現される。
反哲学者つまりベッカムの事だが彼は最終的に沈黙の美に頼る。
ベッカムに代わってカミュのこの引用を挙げよう。
「私の中の沈黙この沈黙が私を全てから解放する」。
ここで終わりにしよう。
ありがとう。
(拍手)2014/10/10(金) 23:00〜23:55
NHKEテレ1大阪
ケンブリッジ白熱教室 第1回「ベッカム実存主義」[二][字]
ケンブリッジ大学のアンディ・マーティン博士がおくる実存主義講座。現役大学生たちを相手に大胆な仮説や思考実験を駆使して、現代人の悩みや矛盾の解決方法を探ります。
詳細情報
番組内容
1209年創立、長い歴史と伝統を誇る名門ケンブリッジ大学で、いま注目を集めているアンディ・マーティン博士の特別授業。第1回の「ベッカム実存主義」では、マーティン博士が考えた架空のブログを題材にした思考実験を展開。イギリスの元サッカー選手ベッカムを「実存主義者」、ベッカムの師匠ともいえるマンチェスター・ユナイテッドのファーガソン元監督を「本質主義者」と見立て、“実存主義”とは何かを考察します。
出演者
【出演】ケンブリッジ大学フランス学部講師…アンディ・マーティン,【声】斉藤茂一,杉山奈美枝,南雲大輔,渡部紗弓
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – その他
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