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北野武

1947年、東京・足立区出身。70年代後半、漫才コンビ“ツービート”のビートたけしとして、漫才ブームの立役者であった彼は、「王様は裸だ!」と叫ぶ少年のような視点から生まれる発想で展開する個性的な〈話芸〉で全国区の人気者となり、以後日本のTV界のトップ・タレントとして活躍し続けてきた。

89年、『その男、凶暴につき』で映画監督・北野武としてデビュー。独特のフレーミングと作品全体にみなぎる暴力のリアリティーは、新鮮なショックを与え、日本映画界に、全く新しい個性をもった映像作家の誕生をもたらした。同時に、大島渚監督作品『戦場のメリークリスマス』(82)以来、俳優・ビートたけしの活躍を評価してきた英国の映画評論家、トニー・レインズ氏をはじめ、ヨーロッパの映画関係者たちの注目を集めることとなった。彼らが北野のこの処女作を、自らプログラムする各国の映画祭で積極的に紹介する中、2作目の『3-4x10月』(90)は、イタリア・トリノの国際映画祭・チネマ・ジョヴァーニにおいて「スペシャル・メンション」を受賞する。この作品で北野は脚本も手掛け、さらに編集作業にも加わって、彼独特の映像世界を確立させた。

3作目となる『あの夏、いちばん静かな海。』(91)では、出演せず、監督・脚本・編集を手がけた北野は、日本一饒舌な男としての自らの芸歴に相対するように、主人公から一切の台詞を排除するという大胆な演出を実践し、その独特な作家性をさらにきわ立たせた。同作品は東京国際映画祭の[コンペティション部門]に出品されたほか、数多くの賞を獲得。海外でもこの作品以降映画祭への招待がますます増えてゆくこととなった。

5作目の作品『ソナチネ』(93)はある意味で彼のそれまでの作品を総合したものと位置付けられる。カンヌ国際映画祭[ある視点]部門に正式出品され、ヨーロッパ映画関係者のみならず、観客にも広く支持され、多くの“キタニスト”を誕生させることとなった。また、イタリアのタオルミナ映画祭ではグランプリを受賞し、英国BBC放送が映画生誕百年を祝して選出した「映画・世界の100本」の中に、故・黒澤 明監督の『椿三十郎』『乱』と並んで収められている。そして、この年(93)のロンドン国際映画祭に作品とともに参加した北野は、熱狂的な歓迎を受け、ヨーロッパの映画人との交流を深めることとなる。アメリカでも、クエンティン・タランティーノ監督が〈ミラマックス社〉傘下で自らプログラムを決定する配給レーベル〈ローリング・サンダー〉を通して、米国配給の契約を成立させるに至った。俳優としてのビートたけしにも注目が集まり、キアヌ・リーブス主演のハリウッド映画『JM』(95年)に出演することとなった。

5作目『みんな〜やってるか!』(95)で、北野は評価の固定化をつき破るように、ナンセンスな笑いの世界の映像化を試みる。自身による北野作品の解体(それはビートたけしの〈笑い〉の世界をも解体しようとするものであった)は、自らの肉体を解体してしまった・・・・・ バイク事故である。療養中の北野は、ロンドン国際映画祭からの招待、ワールド・プレミア上映、満場の観客の熱い反応の報を聞くことになる。

事故からの復帰の第1作目となり、通算6作目の作品『Kids Return』(96)は、北野が出演していない2本目の作品だが、新生・北野映画にふさわしく、カンヌ国際映画祭[監督週間]がワールド・プレミアの舞台となった。この時初めてカンヌ国際映画祭に登場した北野は、熱烈な歓迎を受け、上映後鳴り止まぬ拍手の中、再び登壇をうながされるという異例なはからいも受けた。同作品は、ロッテルダム国際映画祭がオランダでの配給権を獲得するなど、ヨーロッパを中心に今まで以上の国々で配給された。

7作目『HANA-BI』(98)の、97年第54回ベネチア国際映画祭グランプリ〈金獅子賞〉受賞は、世界へ向けて一歩一歩積み重ねて来た実績の成果であり、世界のキタノを決定づけた。同作は、ヨーロピアン・アカデミー賞のスクリーン・インターナショナル賞、サンパウロ映画祭でバンディラ・パウリスタ賞なども受賞している。

8作目『菊次郎の夏』(99)は、カンヌ国際映画祭[コンペティション]部門に正式出品され、上映後満場の観客の嵐のようなスタンディング・オベーションを受けたことは記憶に新しい。
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