尾道と『東京物語』/貴田庄
二〇一三年は、小津安二郎の生誕百十年、没後五十年、そして、小津安二郎の代表作『東京物語』が公開されて六十年の年にあたる。『東京物語』はまた、私が初めて見た小津映画でもある。そこで、長い間、私の心に住みついている『東京物語』に絞って、書いてみようと思い、パソコンの前に座った。つまり、六十年前の小津監督のおよそ一年の動きを追いかけ、さまざまな角度から、『東京物語』の誕生やその後について書いてみた。本のタイトルは、ずばり『小津安二郎と「東京物語」』。
たとえば、笠智衆と東山千榮子演じる老夫婦は尾道に住んでいるが、小津や脚本家の野田高梧は『東京物語』の主人公が住む町に、なぜ尾道を選んだのだろう。『東京物語』を見た人なら、誰しもがこのことを考えるだろう。
野田は「瀬戸内海に面した小都市を背景にしたいというので」とか、「シナリオ脱稿後、実際に出掛けて行ってみると、僕たちが曾て見て胸に描いていた尾道……」と、小津を追悼した「増刊キネマ旬報 小津安二郎〈人と芸術〉」(一九六四)で述べている。彼の言葉から、瀬戸内海の小都市を持ち出したのは小津であることや、二人が尾道に行ったことがあることが判る。
小津は太平洋戦争中、軍からの要請で映画を撮るためにシンガポールへ行っている。この仕事は日本の敗戦で実現することなく終わったが、小津は一九四六年二月十日、広島県の大竹港に無事帰還している。小津にとって二年八カ月ぶりの祖国の地であった。大竹港に上陸した翌日、小津は高輪の住まいに戻っているので、彼は山陽本線で尾道を通過し、東京にまっすぐ戻ったと推測できる。「瀬戸内海に面した小都市を背景にしたい」という小津の考えには、このような体験も生きたのだろうか。
かつて小津の周辺に広島弁を話す新藤兼人がいたことも、小さなきっかけとなったかも知れない。
しかし、なによりも、『東京物語』の主人公が住む舞台を尾道にしたのは、小津も野田も志賀直哉を敬愛していたからに違いない。召集されて中国戦線にいた時でさえ、『暗夜行路』の前後篇を読み、誠に感動したと小津は戦中日記に書いている。小津は戦後初の作品『長屋紳士録』の試写会を通じて志賀と面識を持って以来、いつか、『暗夜行路』の舞台となった尾道を、自分の映画に採り上げてみたいと考えたのではないか。
小津は尾道でのロケハン中、観光名所となっている志賀の旧居を見学している。尾道のロケハンが終わって、大船に戻った小津は、さっそく熱海に住む志賀を訪ねて、尾道へ『東京物語』のロケハンに行ったこと、そして志賀が執筆のために、短い期間であるが住んでいた棟割り長屋を見て来たことを話している。それほどまでに、小津は志賀と親しくなっていた。
こうして一九五三年七月下旬、『東京物語』がクランクインした。そして小津は、八月十二日から十九日まで尾道のロケ撮影をして、浄土寺境内での笠智衆と原節子のシーンや、尾道水道、住吉神社の石灯籠、尾道中央桟橋などの美しい情景とともに、志賀直哉への憧憬を、『東京物語』に封じ込めたのである。
腰の重い筆者であるが、『東京物語』をよりよく知るために、自身も実際、尾道へ行ってみた。深く考えないで予約したホテルが、『東京物語』にも登場する住吉神社の石灯籠の真ん前であったことに驚いたが、そこに数日泊まって、小津がロケハンした場所や撮影した情景を探索し、尾道の穏やかな風景や昭和を感じさせる雰囲気に深く感動した。
今回、ちくま文庫の一冊として書き下ろした『小津安二郎と「東京物語」』の中に、そのような私の体感した尾道や長い歳月にわたる小津監督への憧憬を盛り込めただろうか、小津が志賀へのオマージュを『東京物語』に封じ込んだように。『小津安二郎と「東京物語」』は、私が小津について書いた十冊目の本であるが、私にとって、個人的な思いがつまった本でもある。
(きだ・しょう 評論家)
『小津安二郎と「東京物語」』詳細
貴田庄著
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