ありがとう!デビューから50年近く。
日本のお笑い界を常にリードしてきました。
昨年親しまれていた三枝の名を改め六代桂文枝を襲名しました。
よろしくお願いします。
文枝さんは幼い時に亡くなった父の事を長年知りたいと思ってきました。
文枝さんの手元に残されているのは父の葬儀の時に撮られた写真が一枚だけ。
戦後母は父について多くを語ろうとはしませんでした。
一体何があったのか。
今年で70歳になる文枝さん。
自らのルーツを確かめたいといいます。
番組では文枝さんに代わり父の人生をたどりました。
すると文枝さんが目にした事のない父の写真が次々と見つかります。
謎に包まれていた父の生い立ちも明らかになります。
父と母の運命の出会い。
二人を結んだ甘い恋の味。
(砲撃音)出征した父。
戦争中の足取りも克明に分かってきました。
そして27歳で亡くなった父の死の真相とは?初めて知る父の生きざま。
桂文枝さんは何を思うのか。
生後11か月で父親を亡くした文枝さん。
これまで父親の事を知る手がかりがなかったのには理由がありました。
文枝さんの本名は河村靜也。
父の名は清三です。
清三の人生を知るために父方の一族河村家のルーツをたどる事にしました。
河村家は戦国時代からこの地で暮らしてきました。
河村家の菩提寺…大切に保存されているものがあります。
こちらになります。
440年前に文枝さんの11代前の祖先河村五良作が残した鐘です。
「石山合戦」とは織田信長と石山本願寺との戦い。
この地を治めていた五良作は本願寺側につきます。
そこで和睦につなげる功績をあげ石山本願寺からこの鐘をもらったといいます。
それから300年後の明治7年文枝の祖父静衛が生まれます。
(取材者)こんにちは。
文枝さんのいとこに当たりますがこれまで交流はほとんどありません。
静衛の遺品を大切に保管していました。
戦況を左右する功績に授与される…静衛は日露戦争の時陸軍に召集され奉天会戦を戦っています。
この戦争で大きな手柄を立てたのです。
金鵄勲章によって与えられた年金は当時の公務員の初任給2か月分に当たる100円。
それが生涯にわたりもらえました。
日露戦争のあと軍を退役した静衛は商売で一旗揚げようと考えます。
向かったのは…静衛は年金を元手に小さな薬問屋を始めました。
当時から勢いがあった大阪の医薬品業界。
現在でも有名な製薬メーカーが軒を連ねていました。
静衛は武士の家柄で育まれた生真面目さと意志の強さで商売を軌道に乗せていきます。
そして間もなく結婚。
子宝に恵まれます。
大正5年に生まれた末っ子。
それが後の…清三は幼い頃から父の仕事ぶりを見て育ちます。
運動は苦手でしたが読み書きそろばんが得意な少年でした。
小学校を出た清三が進学したのは…帝国ホテルを創業した大倉喜八郎が設立。
優秀な企業経営者を数多く輩出した名門商業学校です。
今回商業学校時代の清三の写真が見つかりました。
この学校で清三は猛勉強します。
当時を知る卒業生の吉田寛さんはこう振り返ります。
願いましては…。
名門校の厳しい競争の中でも清三は優秀な成績を収めます。
特にそろばんはトップクラス。
校内の競技会では成績優秀者の欄にいつも名前を連ねていました。
そして大倉商業を卒業した清三はある銀行に就職します。
当時創業16年と歴史の浅い会社でしたが他の銀行を次々に買収し急成長を遂げていました。
ちなみに現在の野村證券はこの銀行の証券部が独立してできた会社です。
野村銀行時代の清三の写真も見つかりました。
仕立ての良いコートにフェルトの帽子。
はやりのいでたちでさっそうと働いていました。
当時野村銀行に就職すると羨望のまなざしで見られたといいます。
清三の2年後輩の…生真面目でそろばんが得意だった清三は銀行員として頭角を現します。
当時事業の中心だった中小企業向けの貸し付けを任されていました。
そんな清三には意外な一面もありました。
落語や漫才が大好きで職場で披露しては笑いをとっていたといいます。
河村家の親戚で…清三は憧れの男性でした。
(取材者)チョコレート…。
パフェ…。
25歳になった清三に縁談が舞い込みます。
しかし清三の母きのは相手の家柄を知り断ります。
「この方とは釣り合いがとれません」。
その相手の名は八木治子。
この人こそ後に桂文枝の母親となる女性だったのです。
いやぁ…。
河村家に一人の女性が訪ねてきました。
一度縁談を断られたあの女性です。
縁談を持ち込んだ知人が直接会えば気に入るはずだと連れてきたのです。
清三の母きのは一目で治子を気に入りました。
親戚の河村静四郎さんはその時の様子を伝え聞いています。
実は治子は幼い時に両親を相次いで亡くしていました。
引き取られた叔父の家では迷惑をかけないようにとわがまま一つ言わなかったといいます。
両親のいない寂しさに耐えながら思いやりがある女性へと成長しました。
清三はそんな治子にすぐに惹かれます。
結婚が決まると二人はデートを重ねました。
お酒が飲めず甘党だった清三はよく甘味どころへ足を運びました。
清三の好物はぜんざいでした。
二人は結婚します。
清三25歳治子二十歳。
僅かな親戚が集まっただけのささやかな祝宴でした。
折しも太平洋戦争の開戦前夜。
治子にとっての心配は清三が召集される事でした。
実は清三は二十歳の時に徴兵検査を受けています。
ただ視力が0.07と極度の近視で体も弱かったためこれまでは召集を免れていました。
しかし戦争が激しくなればどうなるか分かりません。
新婚生活が始まりました。
治子は清三の両親にも献身的に尽くします。
清三の父静衛が昭和17年ごろ書いていた日記が見つかりました。
当時病を患っていた静衛は心配してくれる嫁の治子の事を毎日のようにつづっています。
静衛は自分を気遣ってくれる治子にお年玉をあげた事も書き残しています。
治子はできた嫁として家族からも愛されていました。
待望の男の子が誕生します。
後の桂文枝です。
祖父の静衛から一文字もらって「靜也」と名付けました。
当時家族3人で暮らしていた長屋が戦災を免れ残っている事が分かりました。
(取材者)すみません。
NHKの者なんですけれどもあの〜昔ですね戦時中にここに住んでおられた方を探していて…。
(取材者)失礼します。
間取りは八畳二間に台所。
築80年だそうです。
(取材者)当時のままの…?そうです。
(取材者)この柱とか…。
これも皆そうです。
(取材者)この上の天井とかも全部そうなんですか。
はい。
この家から清三は銀行に通いそして治子は乳飲み子の靜也と共に夫の帰りを待ったのです。
しかし戦争は激しさを増すばかり。
日本軍は南方で敗退を重ねます。
いつ本土が攻撃されるのか人々の不安は募っていました。
(せき)そのころ清三は体を壊します。
ひどくせき込むようになったのです。
軍が保管していた書類に病名が記されていました。
軽症の肺結核でした。
安静にして療養するしかありませんでした。
半年ほどたち快方に向かったそのやさき。
清三に召集令状が届きます。
戦況の悪化で召集免除になっていた人まで集められるようになったのです。
ぼう然とする治子。
「病を抱えた夫がなぜ…」。
しかし清三は覚悟を決めていました。
治子にこう告げました。
「いってくるよ」。
清三に関する貴重な資料が熊本に残されている事が分かりました。
(取材者)あどうもおはようございます。
河村昌子さんは文枝さんのいとこの妻。
やはり文枝さんとは面識がないそうです。
仏壇の下から見つかったのは一枚の記念写真。
この写真です。
清三が出征するその日玄関前で撮られた一枚です。
ほほ笑む清三と晴れ着を着てそっと寄り添う治子。
靜也は親戚の女の子におんぶされています。
清三のめい北風清子さんは当時9歳。
この場に居合わせました。
玄関前で記念写真を撮った出征の日。
靜也にとってこの日が父清三との最後の別れになってしまったのです。
桂文枝の父清三が配属されたのは大阪の陸軍歩兵第九十二連隊。
本土防衛を強化するため急きょ編制された部隊でした。
早くせんか!だらだらするな!兵士の多くが清三のように体が弱かったり家族を抱えた年配の男性でした。
清三は重さ50kgの重機関銃を抱え小高い丘の上り下りを何度も繰り返しました。
その訓練をした場所が大阪市の中心部にある真田山。
1614年大坂冬の陣の際真田幸村が陣を築いた地として知られています。
病気を抱えた清三にとって訓練はあまりにも過酷でした。
入隊1か月後の雨の夜。
ついに清三は倒れます。
重い結核になっていました。
清三が運ばれたのは大阪城に程近い陸軍病院。
現在は大手前病院となっています。
治子は知らせを受けすぐに病院に駆けつけます。
結核がうつる可能性があったため幼い靜也を連れていく事はできませんでした。
「靜也は元気か?」。
清三は治子に何度も尋ねました。
しかし容体は日に日に悪化していきました。
そんなある日清三は治子に頼み事をします。
それは結婚前二人で食べた思い出の味でした。
北風さんは当時治子が病院に行っている間靜也の面倒を見ていました。
この時の清三の様子を伝え聞いています。
しかしぜいたくな食べ物を病院へ持ち込む事は禁止されていました。
治子はぜんざいを水筒に入れて持ち込む事にします。
義理の姉に付き添ってもらい二人で水筒を隠しました。
入ってよし。
清三は治子が作ったぜんざいをうれしそうに味わいました。
「おいしかったよ。
ありがとう」。
しかし入院から2か月後清三は息を引き取ります。
27年の短い人生でした。
葬儀の時に撮られた写真。
この時治子23歳。
生後11か月の靜也をしっかりと抱き締めていました。
葬儀から数日後の事です。
治子は清三の母きのに呼ばれました。
「あなたはまだ若い。
別の人生があるはずです。
靜也は河村家で育てます」。
治子は驚きました。
受け入れる事はできませんでした。
「絶対に靜也とは離れない」。
一人で育てると決心したのです。
翌日治子は幼い靜也を抱いて黙って家を出ます。
その後治子と靜也が向かったのは工場がひしめく…材木工場の社員寮に賄いの仕事を見つけたのです。
しかしここで思わぬ災難に見舞われました。
近所で発生した火事が材木工場に燃え移ります。
家財道具や清三の思い出の写真など全てが燃えてしまったのです。
職を失った治子。
子供を抱えての仕事はなかなか見つかりません。
そこで小学生になった靜也を兄に預かってもらい住み込みの仲居の仕事を始めました。
靜也と会えるのは週に一度の休みの日だけでした。
よく作ったのが夫清三が好きだったぜんざい。
(2人)いただきます。
「何としても靜也を立派に育ててみせる」。
一緒に過ごせる僅かな時間でも食事の作法などしつけに手を抜きませんでした。
治子が懸命に子育てする姿を覚えています。
靜也は治子の愛情を一身に受けて育ちます。
昭和37年靜也は関西大学商学部へ入学します。
学費は治子が建設現場の食堂で働いて工面しました。
大学で靜也は落語と出会います。
そして4年生の時プロの落語家になりたいと言いだしたのです。
治子は猛反対します。
銀行員だった夫のように堅実な仕事に就いてほしかったのです。
しかし靜也の意志は固く結局認めざるをえませんでした。
瞬く間にスターの座を獲得します。
「どりゃ〜!」。
「すごいな〜」。
新作の落語も次々と発表。
「芸術祭大賞」など数々の賞に輝きました。
「OBです」。
「何?オビ?そうか。
力を入れたから緩んだのであろう」。
「いやそのオビじゃないんです」。
活躍する靜也の姿を見て治子は喜びました。
それでも治子にはずっと気になっていた事がありました。
黙って出てきた河村家の事です。
清三の死から36年がたったある日。
治子は岐阜県にある河村家の菩提寺を訪ねました。
息子靜也にも言わず一人でやって来ました。
先代の住職の妻土岐千里さんはその日の事を覚えています。
土岐さんは治子を案内しました。
先祖の墓が一人ずつ建てられていました。
しかしそこに夫清三のものはなかったのです。
遺骨がどこにあるかの記録も残っていませんでした。
治子は土岐さんに頼みます。
そして夫清三の命日に墓が完成しました。
治子は手を合わせました。
息子靜也の活躍を報告したのです。
桂文枝さん当時桂三枝さんは園遊会に招かれました。
その前の年長年の活躍が評価され紫綬褒章を受章したのです。
天皇陛下に対面する事ができました。
日米の交流をされてると聞きましたけれど?これからも頑張りたいと思います。
どうですか?はい。
なかなか海外にも落語が知られてきていい感じでございます。
かつて母治子さんが言った言葉「天皇陛下にお会いしても失礼のない人になりなさい」。
それが現実のものとなったのです。
そして今回の取材の中で偶然思いも寄らない事実が明らかになりました。
かつて父清三が訓練し病に倒れた場所です。
その一画に陸軍墓地があります。
5,100基の墓標が建てられ8,200人分の骨つぼが保管されています。
しかしここに眠る兵士たちの身元調査などは長年行われていませんでした。
それが3年前に調査が始まり今年の3月終わったばかりでした。
そして思いがけず見つかったのが…。
これでございますね。
河村清三の霊…。
真田山での取材中「河村清三」という名前を伝えたところ遺骨があると分かったのです。
父河村清三が亡くなって今年で69年。
遺骨はここにひっそりと眠っていました。
収録後桂文枝さんは真田山の陸軍墓地を訪ねました。
あの出征の日家族写真を撮った時以来の父との対面です。
ありがとうございました。
ごくろうさまでした。
2014/10/05(日) 01:40〜02:30
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「桂文枝〜記憶なき父・衝撃の出会い〜」[字][再]
生後11か月で亡くなった父。親戚と付き合いもなく、母も父のことを語らなかった。手がかりは1枚の写真。番組最後、文枝さんは父に関する衝撃の事実と対面し、号泣する。
詳細情報
番組内容
桂文枝は、生後11か月で亡くなった父のことが、どうしても知りたい。親戚とのつきあいがなく、母からも父のことを聞かされなかった。手がかりは、父の葬儀に撮られたという1枚の写真だけ。それが取材を重ねていくと、父の若かりしころの写真や、父を知る人物に次々に行き当たる。そして、戦争中の父の足取りが明らかになっていく。文枝は、父の死に関する衝撃の事実と向き合い、号泣する。
出演者
【ゲスト】桂文枝,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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