日本の貧困層を救ってくれるのはイスラームしかないって確信した。

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タイトルを見て、きっと君はこう思ったはずだ。


(マジかよ・・・こいつイスラム教とか言い始めたぞ・・・宗教とかマジ勘弁・・・)


基本的に無宗教の日本にとって、宗教というのは、やれこの政党に投票しろだのと電話がかかってきたり、いい話が聞けるから集会に行きましょう、あるいはこの50万の壷を買うと御利益があるなどという類のもので、向こうから勝手にやってきては自分の主義を一方的に押し付ける迷惑千万きわまりないものである。

そもそも何にせよわざわざ向こうから、どうですか?買ってください!などと押し掛けてくるものに良かった試しがないではないか?


イスラム教はどうだろう?




クリスマスや結婚式などで、比較的その様式を目にしやすいキリスト教と違って、イスラム教は日本に入ってきたのが遅いというのと、人種的なイメージから、アラブ辺りで髭もじゃのおっさんが、アッラーアクバールなどと叫んで銃を乱射してる超危険そう、怪しいテロリスト集団のイメージしかない人がほとんどのはずだ。


だが、そこでふと疑問に思う。


イスラム教がそのようなヤバい宗教なのだとしたら、なぜそれを信仰している人が現在この地球上で15億人、じつに地球人口の4分の1、宗派で見ると世界で最も信仰されている宗教なのだろう、と。


前述した怪しげな宗教とちがって「あなたもイスラム教になりましょう」。などというしつこい電話勧誘や訪問勧誘は受けたことがないはずだ。


それにも関わらず、なぜイスラム教はこうも信者が多く、早晩キリスト教を抜き、世界最大の宗教になるのだろうか?


それはイスラム教というプロダクトそのものが最も卓越して完成された宗教だからだ。



八百万の神、多神教の日本では、そもそも論として特定の神に祈るということ事態が少ない。せいぜい冠婚葬祭で形式的に祈るくらいか、あるいは真剣になるとしたら、猛烈な腹痛に突然襲われた時くらいが、受験の発表のときくらいだろう。

だが、そんな「久しぶり! むらむらしたから今日、おまえんち泊まりに行って良い?一発やらせてよ笑」みたいな都合の良い女みたいな扱いのノリで、唐突に何かお願いしたところで、やっぱりそれが実効性があるかというと心象的に効果がなさそうのは至極当然のことだろう。


その点、イスラム教は徹底的な一神教であり、アッラー以外の神は絶対に認められない。アッラーという絶対的な存在を畏怖して、社会や生活様式のあり方を定義する宗教なのである。

さらに特徴として徹底的な偶像崇拝の禁止というのがあげられる。よかれと思って神や創始者のムハンマドの姿を描いたりすることは御法度で地獄行きの所業なのだ。


ここまでするとずいぶんと度量の狭い神だな・・・と思うかもしれないが、これはそもそも宗教とは何かという本質を突いた画期的なモデルだと思う。




結局宗教なんて人がよりよく人生を生きるための手段にしか過ぎない。


宗教は人の心の弱い間をぬって入り込む。人間は弱い生き物で、遠い崇高な理念より、目の前の安寧を追ってしまう生き物である。

人類の長い歴史の中では、時代のトレンドを読んで、自称神とか予言者とかいう輩がいっぱい出てくる。

自称神という輩によって新興宗教が生まれ、ご利益があるという怪しい壷やら何やらを高額で買い、教祖と性交渉にり身体が浄化されるとかいうふざけた教義がまかり通り、自称神という存在のために、対立が生まれ、争いが生まれ、不当に利益をすする輩がでてくる。地下鉄にサリンをまくとかその最たる例だろう。そういう神も世の中にはおるんやろと許容してしまう八百万の神の欠点はここにある。


イスラムはそういう存在、そしてその可能性すら徹底的に排除している。神の存在を騙るヤツらはもっとも重罪なのである。


さらにイスラム教の画期的なのが、アッラーの下に置いてすべてが平等であるというコンセプトである。


イスラム教には、神主や僧正やら教皇やらそういう宗教上の上下を示すポジションが存在しないし、厳禁である。

キリスト教や仏教はというと、世界史や日本史を振り返っても、教皇やら大僧正やら宗教のトップが政治の意思決定、争いの種になることは多々あった。


偶像崇拝、神が宿った何やら、絵やら、像やら、教会やら寺やら施設やら・・・

そういう拝む対象が産まれると、上下関係や身分が生まれ、利権が生まれ、意見の行き違いが生まれ、それを巡って争いが生まれる。

一応イスラム教にもモスクという祈りの場があるけれど、中にあるのはメッカの方向が描いてあるだけ。世界どこでも共通だ。祈りの言葉もアラビア語で統一されている。


これは例えば仏教では同じ仏教圏でも日本やアジアでは、まったく慣習が違って拝む事すらできないと正反対である。

日本のモスクだろうが、アラビアだろうが、どこでも好きなモスクにログインしてアクセスできるという意味でイスラム教はクラウド化されている。


言葉が通じなかろうが人種が違おうが、豊かだろうが貧しいだろうが、何だろうが、全部一緒。お前は俺たちと祈り方や習慣が違う!身分が違う!などと争いすら起きない。超画期的。



もちろんイスラム教が他宗教の利益主義的な要素と無縁かと言うとそうでもなく、ザカートというマストで守らないといけない義務がある。

喜んで捨てると書いて、喜捨という。名前だけ見るとヤバそうだが、上にあげた通り、そもそも教祖も施設もないので払う先は自分の自由だ。


これは身分や貧富に関係なく全員が貧しい人、社会のためにお金を恵んであげようという主旨の決まり事である。収入の2.5%が基準とされている。月収30万円なら、7500円くらい。決して50万の壷なんかと違って法外なものではない。。寄付みたいな感じだ。なのでたくさん払う分にはなお良しとされる。それが宗教の名目の元で、義務・推奨化されているイメージである。ただ義務といっても誰かがチェックしているわけでもなく、結局は自分と神との関係の中で決まるので、自分が社会にどう貢献したいかというさじ加減で決めるのだ。


僕は率直に、とても素晴らしいなって思った。



日本にもボランディアのように社会に貢献するという文化はあるが、残念ながら金となると話は別の話だ。


過去にユニセフの募金についてブログをかいたことがあったが、ブログ寄せられた炎上的な意見に残念な気持ちになった。


日本ユニセフをネットで叩いて溜飲をさげる貧乏人たち - 拝徳


日本人なんて経済的に非常に恵まれた国であるにもかかわらず、ユニセフ募金への送出額でいうと他の先進国に劣って、たかだが一人当たり年間牛丼いっぱいにもみたない3百円くらいしか出してない。にもかかわらず、珍しく募金の格好なネタのような事例がでてくれば、ここぞとばかりに俺の金が少しでも有効に使わないのはけしからんとして、長い間に本で世界の貧困問題に取り持っていた団体に手数料が高いだの中抜きだのイチャモンをつけてあげくの果てには、そこの団体に募金しようとする人までをも嘲笑し、妨害しようとする実にあさましくみじめな光景だった。

そして、そのくせ日本で生活に困窮し生活保護を受ける人がいようものなら、その生活を見て、

生活保護は甘え。俺なんて、もっと少ない金で生活できる、生活保護のくせに贅沢な生活をするな自己責任だろとと猛烈に批判的な罵声を浴びせる。ましてやそれが日本人でないのだとしたら、もう鬼のクビをとったかのように、あざけり、ののしり、民族的な優劣を持ち出して、嘲笑する。自分たちがもっと豊かになって、助けてあげようなどとという発想はなく、ただ下の人間をあざけり、安全な立場から見下して嘲笑するだけ。


本当に醜い光景だ。



この「自己責任」というのは、現代日本の病巣の一種だと思う。

前のブログにも書いたことがあったけれど、日本はこの自己責任論で片付ける人の割合が世界の中でも異常に高い国だったりする。

例えば「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project という世界各国で行われたアンケートの中で、「自力で生活できない人を助けてあげる必要はない」という回答項目について「助けてあげる必要はない」と答えた人の割合は日本が38%で、世界中でブッチギリ断トツだ。自己責任が問われるイメージが強いアメリカですら28%で その他のイギリスでもフランスでもドイツでも、中国でもインドでもブラジルでも同様で、どこも8%~10%くらいである。

つまるところ10人のうち約4人は、「はぁ?貧困?つか言うて自己責任だろ。俺だって苦しいんだから。苦労するのは当たり前。いちいち俺らにたかるなよ。生活できないならできないで周りに迷惑かけないうちにさっさと死んで解決しろよ(笑)。」


と暗に思っている国がこの国なのだ。


その結果、自ら命を絶つ人間が3万人。統計上は現れない実質的な自殺が18万人とも言われていて、世界の中でも最も多い数値になる。


これが正しい社会のあり方なんだろうか。と思う。



そして、日本では悲しいことにこういう貧困層向けのビジネスというのが最もビジネス的に成功し利益をあげることができる。

ギャンブル、酒、サラ金、風俗…過去も現在も日本の納税者ランキングに名を載せる起業家はそれらの事業を起こした人ばっかりだ。


世界のどこを探したって、駅前の一等地にカジノさながらのパチンコという賭博場がある国なんてない。

そしてテレビでは綺麗なお姉さんが笑顔でお金を借りよう!と高金利のサラ金を勧め倒し、ソシャゲーのCMがひっきりなしにテレビに流れ射幸心を煽って国民が必死になってガチャを回して、膨大な金を巻き上げる。


街の至ところには昼夜問わずあちこちに24時間アルコールを提供する店が溢れ帰り、店員たちは身を粉にして死ぬまで働く。


街のあちこちには風俗や卑猥なビデオや雑誌が溢れかえり、年増も行かない女性が金のために追い込まれたかはしらないが喜んで、性を売り物にする。18歳やそこらの女の子が、である。


もちろん、法的に決まりごとはある。賭け事は禁止。お酒は20歳から。お金が借りれるのはいくらまで、女性が性風俗で働けるのは何歳から。

だがそれは、ここから先は提供者に一定の罰を与えるというだけであって、消費者がしてはいけないという抑止するものではない。


いかにして自分を抑制するかは「自己責任」の名のもとに、各自に委ねられる。


もう一度聞こう。


これが、21世紀の日本にとって、健全な社会なんだろうか。


街のあちこちにあるギャンブルで中毒になって、借金まみれになって、家庭を崩壊させ、人生を崩壊させる人がいる。ソシャゲーで、ガチャを回して何の資産価値もないものに何十万もの大金をかけてしまう人がいる。


お酒を飲んでアルコールで思考がマヒして、暴力をふるってしまったり、ついクルマを運転してしまって取り返しのつかない過ちをおかしてしまう人がいる。

テレビCMで綺麗なお姉さんが笑顔で、お金を借りよう!とささやきかけ、甘い誘いにのってしまい、気がついたら一生返す事のできない高金利の借金から抜け出せなくなってしまい、奴隷のような人生を送る人がいる。




残念なことに経済合理性で考えたらこれらは禁止する理由がまったくない。


自己責任という大義名分の下に頭や意思の弱い人間からは徹底的にしぼりきってやった方が経済的には大変素晴らしい数字をあげることができる。


「あん? お前の人生なんて知るかよ。自己責任だろ。踏み外したんなら社会に迷惑をかける前に黙って死ねよ。」



それがこの国の悲しい構図だ。


イスラム教では、これらは神の名の下に固く固く禁じられている。


ギャンブルも、酒も、高金利の金貸しも、配偶者以外との性交渉も全てが神の名のもとに禁止されている。

酒を飲んだら確かに楽しい、良い気分になる。淫らな気持ちになる。

ギャンブルで、ほんの一瞬で何ヶ月も働いて得るような大金が稼げたら時間を忘れるくらいに気分が高揚する。

労せず前借りで気軽にまとまったお金を借りられたら、できなかった楽しい思いができる。

風俗やらAVで都合良く性を消費したらとても気もちいい。


それらには充分に金を払うだけの合理性がある。ウィンウィンの関係でしかない。

大多数の人間はそうだろう。我慢する理由がない。

それが儲かるとわかればそれを生業にして利益を貪るものがいる。仕事が生まれ、それでまた養う家族が産まれる。

だがその一方で、自己責任の名の元に崩壊する誰かの人生があることは否定できない。
一度始まってしまったものを停めることはできない。


だとしたら、そもそもその存在すら認めず、禁止してしまった方が、社会としては良いのではないだろうか。

ただそれは、お客様は神様という資本主義という神では停める事ができない。

神という人間の欲望を超越した存在があるからこそとめられるのではないだろうか。

神の名の元に、喜捨のように社会のために進んで富の再配分を行う制度が必要なのではないだろうか。


悲しいことに、今の日本にはとめてくれるものがないのだ。


これから日本は間違いなく破綻へ向かう。

消費税は間もなく10%。

税金が安くなることは決して無い。少子高齢化社会の到来で社会保障制度がいまより良くなることは絶対にない。国民に3人に1人は老人。国家財政は火の車。

雇用制度も不安定。年金は支給年齢は75歳。65歳までは納付が必要。

だが、60も何も、ありとあらゆる業界で今のこの移り変わりが激しい世の中で果たして君は、40歳を超えて今の仕事を維持することができるのだろうか?


君の仕事そのものが40を超えてもあるのだろうか? 体力的にも精神的にも衰えを覚え始めた君に妥当な対価を払うにあたる価値が生じるのだろうか?

毎日満員電車に揺られて、必死になって牛丼をよそって、昼夜逆転で客の無茶ぶりに耐え仕事に打ち込んで、終電までサイコパスみたいな上司の下でいびられ、派遣やら下請けやらで何の成長性もない環境で、糞みたいなコードのシステムのおもりをして。

一度レールから外れた非正規の8割は結婚すらもできず、国民の6人に1人が貧困にあえぎ、9割の富を60歳以上の老人が独占して、それらは社会に還元されることもなく懐に眠ったまま。


教えてくれ。この先の君の人生や社会が豊かになることはあるんだろうか?

様々な不安を、経済的な豊かさや可能性がかろうじて支えとなってくれる時代はもう間もなく終わる。

じわじわと気がつかない間にあなたの周りには暗雲が立ちこめていく。

そのときにあなたと支えとなってくれるのはなんだろうか? 社会を正しく導くのはなんだろうか。

自己責任の名のもとに崩壊した下で、貧困に喘ぐ家庭や子供たちはこれから何を救いに生きたらいいんだ。


僕は、日本の貧困層を救ってくれるのはイスラームしかないって確信した。



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