偽証との向き合い方、修正主義の受け止め方――ホロコーストと比較して

従軍慰安婦に関する「吉田証言」の真偽が早くから疑われながらも、朝日新聞がその検証とこれに基づいた記事の撤回を怠ってきたとして批判の矢面に立たされている。過去の朝日の報道により日本の国益が損なわれたと保守勢力は非難し、首相が朝日新聞に対して、偽証であった事実を国際的に周知させるように求める事態にまでなっている。

 

確かに、ジャーナリズムの本分である批判的検証を怠ってきたという点で朝日は批判されるべきだが、本来これは特定の個人による「偽証」の問題である。かつて従軍慰安婦制度というものが存在し、これが極度の人権侵害にあたるという事実には変わりはない。それにもかかわらず、慰安婦そのものが虚構であるような論調が幅を利かせ始めているのが現状だ。こうした国内の動きを韓国や中国、オランダなどの直接の関係諸国のみならず、欧米諸国も、「河野談話」見直しへの動きとして警戒を示している。

 

日本国内の議論に対して欧米の視線が厳しいのは、これが負の歴史における偽証に対する社会の向き合い方と、修正主義の問題と関わるためだ。そこで、本稿では偽証と修正主義について、ホロコーストの過去との取り組みと比較しながら考えたい。なお、本稿においては、偽証罪に該当する行為に限定せず、何らかの動機により、意図的に事実と反することを証言することを広く偽証とする。

 

 

加害者・傍観者・犠牲者の偽証

 

第二次世界大戦後、ドイツを中心とした欧米諸国がナチズムやホロコーストなど負の歴史と向き合う中で、偽証は避けて通れない問題であった。

 

第一に確認すべきは、偽証を行う者は、刑事罰の対象となる加害者集団から出ることが圧倒的に多いという事実である。犯罪の隠蔽、処罰の回避など、直接的な動機が存在するためである。実際、ナチ犯罪者が過去を偽り、偽名で戦後を生きた例は枚挙にいとまがない。アイヒマンがその典型的な例であろうし、良き隣人とされていた人が何十年もの後に素性を明かされ、裁判で終身刑が宣告されるといったニュースが時折紙面をにぎわしてきた。

 

他方、法的な意味で責任を問われない者、つまり犯罪の場に居合わせながら傍観した者なども、事実を語らない、認めないことが多かった。自らの社会的地位を守るため、家族や地域の良好な人間関係を維持するためなどの理由が考えられる。これはさまざまなレベルで発生するため数値化できるようなものではないが、沈黙する祖父・父親世代に反発したのが60年代末のドイツの学生運動であったと言える。

 

犠牲者の側が偽証を行う例も存在する。その背景には、主に金銭的な動機がある。迫害への補償においては、多くはないが、必ず一定の割合で偽証に基づく補償金詐取が発生してきた。これはある意味では当然と言える。保険金詐欺という犯罪がどの社会にもあるように、特定の条件を満たした場合に金銭給付のなされる制度においては、詐欺は必ずおこると最初から想定して制度をつくる必要がある。

 

他方、加害者集団の犯した犯罪の規模や性格を思うと、多少の詐欺などたいしたことではないと考える犠牲者もいる。彼らは詐欺を個人の小さな復讐として捉え、犯罪意識も低い。こうした例は補償措置が始まった当初から見られてきた。ただし虚偽申請はたいてい請求を審査する場ではじかれるため、ほとんど表面化することはない。しかし中には大規模な詐欺事件もあり、これが耳目を集めることとなる。

 

例えばユダヤ人の補償申請の窓口として長い歴史を持つNGO、「ユダヤ人対独物的損害請求会議(Claims Conference)」の職員が何人かで大量の虚偽申請を行い、何と5,700万ドル(約60億円)も横領した事実が近年発覚した。職員らは、本来受給権のない人びとに声をかけ、生年月日を偽ったり、医師の鑑定書を偽造したりして補償を申請し、給付が認められた折には見返りを得ていたのである。この件は2013年に有罪が確定している。

 

こうした事例はかなり例外的だが、一般に犠牲者による偽証や詐欺は、加害者によるそれより重大な問題と見なされる傾向にある。それは加害者集団が犠牲者集団に何らかの「非」を求め、自らの犯罪の相対化、罪悪感の軽減を試みるためと思われる。

 

これはまた、犠牲者をめぐる位置づけの変化とも関係しているだろう。というのも、人道に反する重大な犯罪に関与した社会は道徳的権威を失う。加害者集団に付与された否定的な価値ゆえに、犠牲者集団は相対的に価値的な上位者となる。この過程で、本来犠牲者の集まりであること以外にはさしたる特性のない集団に、高次のモラルが期待されるようになる。

 

あんなに苦しい思いをしたのだから、犠牲者が嘘をついたり、金のために詐欺をしたりするなどありえないというダブルスタンダードが生まれてくる。迫害の犠牲になった事実により、ある集団が道徳的高みに到達するわけではないにもかかわらず、犠牲者集団に過度な威厳や道徳が要求されてしまうのである。イスラエルのパレスチナ政策に関し、「ホロコーストであのような経験をしたユダヤ人が、なぜ」という言い方がされるのが良い例だ。

 

 

なりすましの偽証

 

加害者・犠牲者に加え、直接的には加害者でも犠牲者でもない第三者が偽証することもある。今問題になっている吉田証言がこれにあたると思われる。関係のない人が偽証する動機はさまざまであるが、金銭的理由、個人の人間関係などの他にも、その時代の価値観や支配的イデオロギーも影響するだろう。吉田清治氏が慰安婦狩りをねつ造したように、ホロコースト体験を創作し、自伝と偽って出版するケースは1960年代から散見される。ただし、いかなる実体験記であろうとも、文字に記された時点でそれらはすべて「作品」である。その意味でルポタージュと自伝、小説の境界は重複することを忘れてはならない。

 

過去に問題になった例は多いが、近年のものを挙げると、ホロコーストの「チャイルド・サバイバー」として、幼少期に体験した強制収容所の記憶を記したとする自伝『断片』を1995年に発表し、複数の文学賞を受賞したビンヤミン・ヴィルコミルスキの事件がある。

 

ヴィルコミルスキは、リガのゲットーで生まれ、ホロコーストで家族をすべて失ったが、自分だけポーランドの二つの強制収容所を生き残り、戦後スイス人家庭に養子として迎えられたと主張した。1990年代半ばといえば、ちょうど「忘れられた犠牲者」である子供の生存者に注目が集まり始めていた時期である。ヴィルコミルスキはアメリカで「60ミニッツ」などのテレビ番組にも登場し、強制収容所で一緒だったとされる女性との「再会」まで果たして視聴者の涙を誘ったが、実際にはユダヤ人でさえなく、未婚の母による非嫡出子として戦時期をスイスで育ったことをジャーナリストにより暴露された。

 

ヴィルコミルスキの事件のすぐ後に、年端のゆかぬ少女がナチから逃れてひとり森に潜伏し、時には狼の中で暮らしながら両親を探し回るという自伝、『ミーシャ:ホロコーストと白い狼』がベストセラーになるが、これも創作であったことが判明した。著者のベルギー人、ミーシャ・レヴィ・デフォンスカの両親は、ドイツ占領下のベルギーでパルチザンとして抵抗運動に関わったものの、ナチにより逮捕され密告者となり、最終的に収容所で死亡している。孤児となり、対独協力者の子供として白眼視された経験が、カトリックであるデフォンスカにユダヤ人チャイルド・サバイバーとしての過去を創作させたと言われている。

 

本を売るという実利的な目的からだけでは、こうした「なりすまし」を理解することはできない。そこには欧米社会においてホロコースト生存者が身にまとう象徴性だけでなく、記憶の氾濫する社会の病理も映し出されている。犠牲者に付与されたより高き価値の場に身を置こうとする願望や、自身を何かの犠牲者であると考えずにはいられない現代社会の風潮が透けて見える。その意味では、吉田氏の偽証においても当時の社会が好んで耳を傾けたものが反映されているはずであり、ここにおいてマスコミの役割は小さくなかったと思われる。

 



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vol.158 特集:いいモノ食いたい!?

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